川は狭くとも、路地を流れ行く故郷の川 |
家の二筋向こうの通りに盆栽に熱心な方がおられた。年の頃は70代半ばというところだろうか。毎日、判を押したように、家の前に、数鉢の盆栽を置いては、その手入れに余念がなかった。ある時、側に近寄り、語るともなく話したこともあった。奥様が他界されたのであろうか。家の内は男所帯らしく潤いもなく暗いのが印象的であった。それに比べて盆栽の並べられた空間は、その方の生き甲斐と感じられた。たとえ曇り空であろうとも、その方にとって外に出ての盆栽いじりは気が晴れる唯一の慰安となっていたのではなかろうか。
そうしょっちゅう通る路地ではないが、そこを通る時は、盆栽やその方の姿を見ると何となくほっとしたものである。時には同じ盆栽好きの方と話し込む姿を見たこともある。ところが久しぶりにその家の前を通ったら、盆栽はなく、当主の姿は見当たらず、家は雨戸が閉まったままであった。そんなはずはないと、その盆栽のあったはずの家を捜すためにもう一度引き返してみたが、案の定その方の家にまちがいはなかった。その上、不動産業者の売り広告が家の前に貼ってあることに気づいた。病気なのだろうか、それとも急死なのだろうか、余りにも突然のことでわからない。もともとどのような方であったかわからない、いつも一人だったので、身寄りのない方だったかもしれない。
今日、また久しぶりにその方の家を通ったら、家の前には二三台の産廃業者のトラックが並んでいて家の解体作業の真っ最中であった。その時、みことばを思い出した。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。(2コリント5・1〜2)
このように地上の持ち物はものの見事に解体されるのだ。何も残らないのだ。それにくらべて神の下さる建物があるのだ。ああ、この喜びをその方にお伝えしなかった、と思わされた。それと同時に先月故郷の家の修理に手を加えたことを思い出した。どんなにすぐれた建物も永久に保たれ得ない。だとすれば、生きている間に「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために」(ヨハネ6・26)働くことこそ肝要だとより一層思わされた。
主イエス様だけが死を滅ばされたお方だ。この方の素晴らしさを主を知らない方に知っていただきたい。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2・14〜15)
主イエス様は死なれた。しかしそれは死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放するためであった、その証拠に主はよみがえられた。これほど確かな福音があろうか。
福音を伝えなかった私の怠慢を主は諭しておられる。今日のブッシュ氏の霊想にタイミングよく次のみことばが載せられていた。
夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。(箴言10・5)
内容は省略するが次の祈りが書いてあった。以下に書き記す。
主よ! 死に臨んであるいはご再臨の時に恥じなければならないとすれば、それは恐ろしいことです。我らを覚まし、永遠のいのちに要するものを刈り入れさせてください。
アーメン
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