2012年8月15日水曜日

聖書は聡明によりません!

聖書という本は、言葉だけではありません、文字だけではありません、紙に印刷されただけのものではありません。聖書は一つの本ですが、その基本的性質から言うと、それは霊です。ですから、この本を読もうとする人は、霊を用いてでなければ触れるべきではありません。霊を用いてでなければ読むべきではありません。

わたしたちがここで言っている霊とは、再生(BORN AGAIN)した人が持っている霊です。わたしは便宜上それを「再生の霊」と呼びます。この霊はどの人もみな持っているというわけではありません。ですから聖書はどの人も読むことができるわけではありません。ただこの霊を持っている人だけが、聖書を読むことができるのです。この霊を持っていない人は読むことができません。この霊は神を礼拝するために用いるものであり、聖書を読むためのものです。人にこの霊がなければ、神を認識するすべがありません。また聖書を読むすべもありません。

あなたはあるいはクリスチャン・ホームに育ったかもしれません。あなたが再生(BORN AGAIN)する前を思い返すなら、聖書を多く読んだかもしれませんが、少しも意味がわからなかったことでしょう。聖書の中の歴史はみな知っています、物語もみな記憶しています。しかし少しもわかりませんでした。このようなことは少しも不思議ではありません。神の言葉は霊ですから、もし霊を用いるのでないなら、この本を読むすべがないのです。

それでは、人はどのような時に聖書がわかるようになるのでしょうか? 人は主を受け入れたその日から、聖書がわかるようになります。その日以来、聖書は彼にとって一冊の新しい本になります。その日以来、彼は理解し始めます。彼はこの一冊の書を大事な宝物とします。しばらくは、まだわからないことも多いでしょうが、しかし全体的に見てそれを喜んで読みます。毎日毎日読み、毎年毎年読みます。読まないと飢えを感じるようであり、損でもするかのようです。

人がこのように聖書を読み、そして神の言葉がわかるというのは、どうしてでしょうか? それはその人が再生(BORN AGAIN)したからです。それは「御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3・6)だからです。わたしたちは次の三つの聖句を一つにするといいでしょう。

「神は霊です・・・」(ヨハネ4・24)
「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり・・・」(ヨハネ6・63)
「御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3・6)

聖書の言葉は霊です。人が再生(BORN AGAIN)する時に得るいのちも霊です。ですから彼は霊の人です。読むのは霊の言葉です。聖書は霊の人の上ではじめて光を放ち始め、はじめて効用を開始します。人はどんなに聡明であり、どんなに多く読んだとしても、もし彼に再生がなかったとしたら、この一冊の本は彼の上では何が何やらよくわからないものです。再生された人は教養が非常に乏しくても、聖書を読む力は再生されていない大学教授も比べものになりません。

一人は再生の霊を持ち、一人は再生の霊を持っていないからです。聖書は聡明によりませんし、研究によりません。天賦の才能があれば理解できる、というものではありません。神の言葉は霊ですから、再生の霊の人だけが理解できるのです。聖書の根は霊に属するものです。聖書の本質は霊に属するものです。ですから再生の霊がないとしたら、その人はどうしてもこの本を理解しません。この書は彼には一冊の封じられた書となります。

(昨日に引き続き『聖書を読む道』から引用。この本の邦訳は1990年日本福音書房から刊行されている。なお、同書の英訳はサイトで自由に閲覧できる。引用にあたって一部表現を変えたところがある。)

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