2013年12月18日水曜日

永遠者を尋ねて

京都市美術館 2013.11.29 by N.Y
「永遠者について尋ねる人が幸福なのではない、永遠者尋ねる人が幸福なのである。」

世界の創造・救い・完成、これら三つの問題はさながら三つの際立った崇高な象形文字であるかのように、人類の精神史のなかに示されている。かつてどの民族も、これらの問題の前を不注意に素通りしたことがない。それどころか、あらゆる時代の最も偉大な人々が、これらの問題を解こうと努力して来た。

しかし解答は多種多様であり、矛盾したものでもあり、しばしば全く不可解なものでもあった。あとからあとからと、思想体系が考え出され、あとからあとからと、宇宙創成論は現われた。一人の人の思想や論説が倒れ去った廃墟の上に、他の人が自分の思想構造を建設する。そして今日でも人間はまだ、その精神の全精力を挙げて、解答を得るために苦闘している。

しかも、解答はすでに、あったのである。神御自身がそれを明確に与えられたのである。神の永遠の思いは決して、地上のすべての事柄の成り行きとかけ離れて流れていく単なる「観念」ではなく、創造的な行為であって、それは同時にすべての歴史のうちに直接結合し、歴史にしっかりと深く織り込まれており、すべての歴史の「なかに、と共に、下に」よく現われている。「あらゆる時代の歴史は人類の歴史である、そして人類の進歩は—神の歴史である。」

しかし神の与えたもう解答は、彼自身である。彼の御子のペルソナにおける彼御自身の存在である。永遠の「主」として、御子は、全宇宙におけるすべての神の啓示の中心であり、太陽である。

万物は神に由来する。ここに過去の原始すなわち、世界創造の本質が顕われている(コロサイ1・16、ヨハネ伝1・3)。

万物は神によって完成される。これが現在の問題、すなわち世界の救いの過程を、説明する(ロマ書11・36)。

万物は神に帰ろうとしている。ここにすべての未来の目標、すなわち世界の完成の本質的性格が、顕われている(コリント前書15・28)。

このように、キリストにおいて啓示された主なる神は、あらゆる時代の磐であり、あらゆる存在の人格的な、生ける第一の基礎である。

しかし、永遠の言は語られた言を通して啓示され、語られた言は書かれた言となり、書かれた言は聖書となった。かくて、聖書は世界の出来事を解く鍵であり、人類の書であり、歴史の唯一の書である。

それゆえに、すべてはこの書を理解することに懸かっている。聖書なしでは、全く光のない地下牢のなかで手探りで廻っているのにすぎない。しかし聖書の光の臨む人には太陽が、天とその栄光の輝きをともなって臨むのである。その人の歩む途には光明が射し、その人の生活は光となり、時は変貌して、神のものが勝ち、こうしてその人は「今が永遠である」というあの偉大な言葉をますます理解するようになる。

(『世界の救いの黎明』エーリッヒ・ザウアー著聖書図書刊行会1955年刊行、序より引用。ペテロは言っている。「私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」2ペテロ1・19。一方ソロモンは「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」伝道3・11と言った。ザウアーの最後の数節を読みながら、このふたつの聖書のみことばを想起した。)

0 件のコメント:

コメントを投稿