2013年12月25日水曜日

言が肉体となられた

言は肉体となられた。(ヨハネ1・14)※

キリストは、清浄、純潔なきよい誕生をされました。一方、わたしたちの誕生は、不純で、罪にみち、のろわれたものです。わたしたちは、キリストのきよい降誕によってのみ助けられます。しかし、キリストの降誕は、ケーキのように、分割して与えられることもできませんし、また、そういうことができたとしても、そのまま助けとはなりません。しかし、みことばがのべ伝えられるところでは、それは、どこでも、すべての人にむけて差し出されています。そして、これをしっかりと受けいれ、信じた人は、自分自身の罪にみちた誕生によって苦しむことがありません。

これが、みじめなアダムの誕生から、わたしたちがきよめられる方法であり、またこのゆえに、キリストは人となって生まれることをよしとされたのでした。それは、わたしたちがキリストにあって再び生まれるためです。「み旨により、彼は、真理のことばによりわたしたちを生んでくださった。それは、わたしたちが再生し、新しいものとなるためである」※。このようにして、キリストはわたしたちからわたしたちの誕生を取り去り、それをご自分の誕生の中に沈みこませ、そのかわりにご自分の誕生をわたしたちに与えてくださいました。それによって、わたしたちが新しくきよいものとされ、あたかもキリストの誕生がわたしたち自身のものであるかのようになるためです。ですから、すべてのキリスト者は、自分もマリヤから生まれたかのように、このキリストの誕生を喜び、栄光を帰さなければなりません。

これこそ、天使の語った大きな喜びです。これこそ、神の慰めであり、すばらしいめぐみです。もし信じるならば、この宝を喜び、マリヤが母となり、キリストが兄弟となり、神が父となるのです。そこで、この誕生があなた自身のものになり、キリストと交換したことを、おぼえましょう。信じるならば、あなたの誕生は捨て去られ、主の誕生を着ているのです。こうして、あなたは、たしかに、処女マリヤのひざにすわり、彼女の愛する子とされているのです。

(『ルターによる日々のみことば』鍋谷堯爾編訳12月25日から引用。の新改訳聖書の表現は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」である。※はヤコブ1・18のルター訳であろう。さて、赤子の誕生は無条件に普通、人は「おめでとう」と言って祝う。ところが、ルターは、その誕生がのろわれたものである、と言う。なぜだろうか、それは確かに肉体の誕生は喜ばしいが、人は神を認めない罪人として生まれたままであるなら霊的には死んでいるからである。しかし、そのような人間を見るに忍びない神様は2000数年前に処女マリヤの胎をとおして御子イエスを生まれさせ、私たち人間の救いの道を開いてくださった。こうして神の御子の誕生を信ずる者が罪と死から解放され、永遠に生きる新しいいのちにあずかれる道が開かれたのだ。将来は罪の結果である「死」しかなかった人類に、新しく永遠に神のいのちに生きる道が備えられた。だから「クリスマスおめでとう!」とキリスト者は心から言うことができる。Merry Christmas!)

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