御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2・10〜11)
「あなたがたに」というひとことは、わたしたちを喜びでいっぱいにします。このことばはだれに向けて語られているのでしょうか。木にですか、石にですか。いえ、これは人に向けられて語られているのです。ひとりにですか、ふたりにですか。いえ、すべての人に向けて語られているのです。では、わたしたちはこのことばをどのように理解すべきでしょうか。なおも神のめぐみを疑って、「ペテロやパウロならば、救い主のこられたことを喜ぶことができるだろう。しかし、わたしはできない。わたしはみじめな罪人で、これはあまりにもわたしのためにはもったいない宝である」と言うでしょうか。
兄弟たちよ。もし、あなたがキリストはわたしのものでないと言うならば、では、キリストはいったいだれのものですか。あひる、が鳥、牛などを救いにおいでになったのでしょうか。ここで、キリストがどのような姿か見なければなりません。もし他の被造物を救いにこられたのだったら、たしかに、その被造物のすがたをおとりになったにちがいありません。しかし今や、キリストは人の子となられたのです。
そして、あなたは、いったいなんですか。わたしはなにでしょう。わたしたちも人の子ではありませんか。たしかにそうです。では、人を除いてだれがこの幼な子を受け入れるでしょう。天使はキリストを必要としません。悪魔はキリストを嫌悪します。しかしわたしたちはキリストを必要とし、わたしたちのために、キリストは人となられたのです。こうして、ここで天使が、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と告げているように、わたしたちは心からの喜びをもって主を受けいれましょう。
(『ルターによる日々のみことば』鍋谷堯爾編訳12月24日より引用)
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