2013年12月7日土曜日

備えあれば憂いなし(下)

イエス様の「再臨」の日のカーテンの後ろにわれわれの信仰の現われがあります。イエス様はわれわれに見えるようになるのです。私たちはイエス様はすべてのもののすべてであるという目標を持っています。

イエス様のこの「再臨」の日は、われわれの生活におけるもっとも大きなたいせつな日です。ですから、私たちの生活にとって、この日が力強い原動力となるべきです。イエス様の「再臨」はわれわれに道を示してくれます。この目標の偉大さが考えられないほど重要なのであります。私たちがあらゆる認識を信仰の中にはっきりと自分のものとすれば、その認識がわれわれの生活に意味を持ち、役に立ちます。すなわちイエス様の将来、私たちのイエスと会う日(が)、信仰によって自分のものとならなければならない。「再臨」の日が自分にとって事実とならなければなりません。そして、この事実がわれわれの日ごとの生活に役割を演ずるのです。もしもイエス様と会うことに向かって急ぎたいならば、私たちはイエス様のものとならなければならない。なぜなら、イエスに属する者だけがその日に空で主と会うようになるからです。

パウロはロマ書の中で、8章9節

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

ですから、キリスト教に入ることによって、ある教会の会員によって救われるのではない。キリストの御霊を持たない者はキリストのものではない。結局、聖霊の宿になることがまことの救いそのものである。パウロは書いたのであります。同じく5章5節

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

「私たちに与えられた聖霊 」これこそもっともたいせつなのではないでしょうか。コリント第一の手紙の12章、主な内容とは結局、教会とは人間の造ったものではなく、イエス様のからだのものです。イエス様はかしらであり、このかしらとつながっている者は本当の教会です、12章の13節。

私たちはみな、・・・一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

と、あります。イエス様の「再臨」は、イエス様の死と復活と五旬節と実に密接なつながりがあります。私たちがこれらすべての救いのための事実を自分のものとすれば、私たちは「再臨」の日に燃えることのない金や銀となって耐え通すことができます。イエス様の十字架においてイエス様とともに変えられた者がイエス様に属するのです。私たちはイエス様に、われわれ自身より、われわれの持てるものすべてを、われわれの罪、悩み、病、困難などすべてをささげるのです。するとイエス様はそれらすべてを受け取り、われわれの罪の結果を担ってくださるのです。すなわち、その現われは十字架の死です。けども私たちがイエス様を、主のいのちを、そしてイエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち、罪の赦し、イエス様の義、また主のいのちを受け取るのです。いのちのやりとり、それは完全にお互いに与え合うことです。イエス様はわれわれの罪の罰を十字架で担い、イエス様のよみがえりのゆえに、主のいのちはわれわれのうちによみがえっているのです。これが信ずる者の一番たいせつな経験です。すなわち、イエス様がわれわれの救い主となり、私たちがイエス様のからだの肢体となるのです。

イエス様は信ずる者すべてに与える聖霊によってわれわれのうちに生きておられます。私たちはこの最初の経験を体験的に知っているでしょうか。イエス様の「再臨」の日を考えると、もっともたいせつな、そして個人的な質問がそこにあります。すなわち、私はほんとうに永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちはイエス様をわれわれの救い主としてほんとうの意味で経験しているのでしょうか。

もし誰かが、ある若い娘さんに「あなたは結納を済ませましたか」と尋ねれば、その娘さんは「ハイ」または「イイエ 」と答えることができます。けど彼女があなたに「そんなことがどうしてわかりましょうか」と答えたら、あなたは何かおかしいと思うのではないかと思います。これと同じように主のものであるかどうか、または今日からイエス様のものになりたいなのかどうか、人々は本当にはっきりと確かに知ることができます。この決定をする者がイエス様に属し、その時からイエス様とともに歩むのであり、その人のいのちは全く新しい内容、すなわちイエス様は私たちのいのちであるということを知るのです。もし私たちがこの最初の経験をしたのなら、イエス様はわれわれに新しい歩みのために、奉仕するために必要な力を必ず与えてくださいます。

イエス様は五旬節の時、弟子たちに与えられた力、また装備をわれわれにも与えたいのです。聖書は簡単に言っています、「一同は聖霊に満たされた」(使徒2・4)と。この装備なしには私たちはその「再臨」の日に主の前に耐えることが出来るような生活をすることがもちろんできません。聖霊の力なしにはだれも聖霊による生活を送ることはできない。 すなわちイエス様の光に耐えたいと思う者は聖霊に満たされなければなりません。

私たちが自分の生活に聖霊がつく貢献をいかに十分持っているか※、また私たちが聖霊は主であるとどれだけ良く知っているか否かはわれわれの意志の決定にかかっています。もし私たちが聖霊にわれわれのすべてをささげるならば、聖霊はすべてを受け取り、私たちを完全に満たします。もし私たちが本当に主イエス様のものであるならば、聖霊は私たちのうちに宿っているはずです。その私たちのうちに住まれる聖霊の第一の働きの結果は、聖霊が私たちをイエス様とのより深い交わりに導くということです。

聖霊はわれわれを祈りに追いやります。聖霊は私たちに主の前にあって正しい道を指し示すのです。聖霊はただ一つの願い、すなわち、私たちがより良く、より深くイエス様を知るという要求を持っています。聖霊に満たされている人々は、平安を好む人々であり、祈りの人です。聖霊は信者をイエス様の姿に立ち帰らせるという大きな使命を成し遂げるために(働いてくださいますが、私たちにとって)主の前に過ごす時間が何と必要なことでありましょうか。ヨハネは簡単に当時の信ずる者を励ましたのです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(1ヨハネ3・3)

もう一ヵ所読んで終わります。コロサイ書3章の3節と4節、360頁です。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3・3〜4、1〜2)

イエス様は近い。来られます。 このことばこそ初代教会にとって考えられないほどたいせつでした。「イエス様はすぐ来る」このことばは口から口へ語り伝えられ、そしてこのことばは当時の証し人たちに迫害の最中において絶えず力を与え、喜んで死の旅路につかせたのでした。彼らは欺かれたのでしょうか。それとも彼らは空しく待っていたのでしょうか。イエス様が「わたしは再び来る、しかしその時と場合は父が定めておられる」と語られましたから(そんなことはありません)。と言うのも、このことばは生き生きとした信仰の本質をなすものであり、イエス様の「再臨」の事実が目の前に生き生きと認められるのです。すなわち多分今日かも知れない。「再臨」を待ち望むことこそが考えられないたいせつなのではないでしょうか。思い煩い、心配、恐怖、孤独から解放されるからです。その時は近い、と主は呼びかけておられます。イエス様はすぐ来られるという事実を信じましょう。

(※この箇所は何度聞いてもそのようにしか聞こえないが、日本語としてはわかりにくい表現になっている。前後関係から類推するに「私たちが聖霊に支配されるために自分をどれだけ明け渡しているか」という意味でないかと推察する。次回の家庭集会は来年の1月15日午後2時からです。)

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