2016年12月27日火曜日

ささげることに関して

桐見上げ 妻と歩めり 冬空を

あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。(申命記16:17)

 私たちが「全部」と言っているだけで、もし私たちが過去に「いくらか」と言ったに過ぎず、きわめて限定的に言ったのなら、実際にはより不十分である危険性がつねにあります。神様はこのことを十分お知りになるので、それに反して多くの部分にわけて用意されるのです。たとえば、私たちの時が神様にとって「すべて」であっても、神様は厳格に神様にとって特別な一日を分離されるのです。

 神様より良く知っていると思い、毎日が日曜日だと告白する人々は、自分たちが書かれていることにまさりそれほどまでに自らを賢いとすることによって、どんな誘惑を思う存分開いているかほとんど知らないのです。

 神様は最善をご存知で、そのことはあらゆる誠実な心にとって全く十分であるはずであります。そのように、お金に関して、たとえ私たちが主の処理に全部をおまかせし、主のために直接的にせよ間接的にせよ使うことを喜んでいても、主に直接お仕えするために収入や収益の決まった部分を取りのけておくことは、大きな助けであり、予防措置であり、さらには主のご命令の精神に対して単純な従順の根拠であると私は確信します。

わたしは あなたに わたしのいのちを与えました
わたしの尊い血を流したのは あなたが贖われ 
死からよみがえるためです
わたしは あなたのために わたしのいのちを与えました
あなたは わたしのために 何をささげましたか
 
I gave My life for thee, My precious blood I shed, from
That thou might'st ransomed be, and quickened from the dead.
I gave My life for thee; what hest thou given for Me?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-27-on-giving/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97526です。一年間ハヴァガルを訳し続けてここまで辿り着きましたが、今日の箇所は特に感慨深いものがあります。なぜなら詩の英文を読むうちに彼女の若い時の作品だと、私は思い至ったからです。まさしくそうでした。手許の大野野百合著『賛美歌・聖歌ものがたり』を見ますと21歳の時だということが分かります。しかも散文の文章部分を読むと、いかに彼女が実際的に主に身をささげる意味を把握して信仰生活を送っていたかがわかるというものです。このようなハヴァガルを苦しみながらも一年間訳し続けられたことを感謝したい思いです。ベック兄が数年前にこの邦訳書[最初の100日分、ただし詩は訳されていない]をご婦人方になぜプレゼントされたかがわかるような気がします。

※Godhold Beck(127)

『聖書とは何か』第四部[3]

 神の霊による霊感とは、まず神の語られたこと、それから人間をとおして受け取られたことだけではなく、みことばの伝播もそうなのです。したがって、みことばの伝播もまた神のみこころと導きによるものです。

 主なる神はご自身の啓示、すなわちみことばを全人類に伝えるために書物という手段を選びました。文字による継承、すなわち受け継がれることは、口によるものより確かであり、すなわち広がることの出来る領域に、空間的に制限されません。そしてまた時間的にも制限されず、いつの時代にも通用します。

 主なる神が、歴史上アブラハムを通して救いのご計画を実行し始めたとき、文字は既に発明されていました。モーセはエジプトのあらゆる知恵の中で教育されましたので、その中には当然文字もふくまれていました。使徒行伝7章22節に
モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。

と、書いてあります。神ご自身がお書きになりましたし、出エジプト記31章18節に
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

と、書いてありますし、32章の16節に
板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

と、書いてあります。また、モーセは神のことばを書き記すように命令されたのであります。出エジプト記17章14節に
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。

と、ありますし、24章の4節に
それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。

と、書いていますし、34章の27節に
主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

と、あります。 また民数記33章の2節に
モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。

と、あります。また申命記28章58節に
もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。

と、あります。サムエルも書いたと聖書は言っています。サムエル上10章25節に、
サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。

と、あります。エレミヤという預言者は、みことばを書くように要求されています。36章の2節
「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。

と、ありますし、6節
だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。

と、ありますし、17節
彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」

と、書いてあります。 23節
エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。

と、ありますし、28節
「あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

と、書いてあります。 また51章の60節
エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。

と、あります。ダニエルも「書き留めた」と聖書は言っています。ダニエル7章1節に
バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。

と、あります。

引用者註:ベック兄はここで、「でんぱ」と言っておられます。「でんぱ」と言えば、普通の日本人は「電波」しか想像しないでしょう。しかし「伝播」です。こんなむつかしい日本語の用法を駆使されるとは何とも頭が下がります。そしてこの「でんぱ」こそ神様が私たち罪人にご自身を伝えようとなさる意味を集約していることばはありません。)  

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