古利根や 先人の労 ありてこそ |
そうして、いつもの川縁に近づいたら、何やら数名の人たちが「川守稲荷大明神」のお社に集まって、どなたかの話を聞いているようでした。史跡探訪の好季節となり、先陣を走られての、この日3月1日だったのでしょうね。写真は川の堤、土手から堤外地に位置するお社を撮影したもので、二本の大木に囲まれた猫の額のような小面積のところです。左側に覗いているのはスーパー「ベルク」の屋上駐車場につながる道路です。
一つの川が、魚、鳥、人間はじめ生きとし生けるもののあらゆる生活の糧、心の糧となっていることに今更ながら驚かされます。確かに、今日、交通の大動脈は電車(道)であり、車(道)であり、舟運は行われなくなりましたが、川を眺めているとなぜか心が癒されます。小林一茶は「古利根や 鴨の鳴く夜の 酒の味」と詠んだそうです。恐らく一茶以前に川は決壊し、どうしようもなく人々はいのちを投げ捨ててまでもして、川を治めたのでしょう。このことは人知では計り知れないことであり、こうして「川守稲荷大明神」となり、今日もその社が祀られていることだと想像します。
今から二千年前、パウロはギリシヤのアテネ地方に行ったおり、次のように言って、神様とはどんなお方かを明らかにし、その上で人のいのちの大切さに言及しました。耳を傾けるべきことばではないでしょうか。
私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みにはなりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神はすべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(新約聖書 使徒の働き17章23節〜25節)
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