新川と 小名木川とは 川続き |
このような川縁を歩いて俳句を詠まれるとその記事には書いてあった。その上、川中に生育する生き物が、それぞれ漢字で表現されていた。鳰(かいつぶり)、鷺(さぎ)、鰡(ぼら)であった。当方もそれにあやかろうと、午前、川縁を歩いてみた。俳人とは程遠い私だが、ほんものの俳人である知人(27年前同じ職場であった)とばったり出会った。学生時代、加藤楸邨の身近におられ、それ以来句作に励んでこられた方である。
先の「小名木川」の解説記事の中に、芭蕉に「秋に添うて 行かばや末は 小松川」という句があることを知った。川沿いにひたすら歩くのも一興なのだと痛感した。
ところで、昨日の夕刊には「江戸情緒 満開 江戸川区の新川千本桜」と写真入りで美しい桜並木が紹介されていた。私が撮影した上掲の「新川」は中央区を流れる新川であり、季節は初夏の6月である。川といえば「古利根川」と相場が決まっていた私にとり、朝初めて知った「小名木川」「新川」はこうして随分身近になった。しかし、それぞれの川は、大河利根川の一支流であり、それは家康が関東を治めるために、苦心惨憺の結果生まれた川替えの歴史、物流の歴史を今に伝えているのだ。
聖書に馴染みのある川といえばヨルダン川である。考えてみると、古利根川とちがい、一度も見たことがない。しかし、川の極めつけはさしあたって次のみことばでないだろうか。保津川下りの痛ましい惨事を見るにつけ、川侮るべからずと改めて思わされたが、一方、川は恵みの最たるものでもあるに違いない。
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(新約聖書 黙示録22章1節2節)
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