4 その説教の特質
しかしたとえこのような特殊な後援の事実がなくても、ヨハネの説教は深刻な印象を与えたのでありました。これにより人心に反応ーー罪悪と審判、悔い改めと赦免ーーを起こさなければ止まないものがありました。ちょうどあのジョルジ・ホイットフィールドがキングスウッドの石炭坑夫の心を砕き、彼らの両眼から涙が流れて『その黒い頬に白い二筋の溝ができた』ほどで、二万の群衆はその周囲に集まり、その群衆の間から『数千のもの、たちまち確実に衷心から悔い改める深い決心を与えられる』に至らしめたその力と等しいものが彼の説教にもこもっていました。
5 確定したその要求
ヨハネの伝えるところはただ特別の教えであったのみでなく、彼は確定した要求を提供しました。その伝えるところは『天国は近づけり』と言うのであって、その要求は『悔い改めよ』と言うにありました。そしてその要求は寸刻の猶予さえ許さない峻烈を極めておりました。
長懼(ちょうく)すべき『復讐者』、仮借することない『改革者』である救い主は近づいて、今まさにこの世に現れんとしています。その手には箕(み)があり、収穫場の隅々までこれを潔め、麦は集めて倉に収められるけれども、糠(ぬか)は消えない火に投げ入れて焼かれるはずであります。その斧はすでに樹の根に据えられ、善い果実を結ばないものは折って炉に投げ入れられます。ユダヤ人の期待に背かなければ、メシヤは威風凛々(りんりん)たる国君として臨御され、異邦人には厳酷にしてイスラエルには恩寵を裕に垂れ給うはずであります。しかし、ヨハネは審判に独り異邦人に加えられるのみならず、イスラエルの罪あるものにも及ぶべきことを布告しました。聴衆の良心もまたこの預言者のことばに共鳴したのであります。
彼らは『私たちはどうすればよいのでしょう』と叫びました。彼は『悔い改めよ』と答えました。ラビの諺にも『イスラエルにしてもし一日の間に悔い改めなければ、同時に贖い主現われるであろう』とありました。しかるに悔い改めを促す教訓が、剴切にもメシヤの先駆者の唇より叫ばれたのであります。ヨハネの事業は単に悔い改めを促すのみに止まりませんでした。悔恨したものには必ずバプテスマの儀式を受けるように要求したので、ついに『洗礼者』なる称号を受けるに至りました。
この要求はこれに当たる価値のない者には脅迫、深刻なる信念を持つ者には呵責を加える途であります。かつこの儀式は二重の意義を表わす象徴であった、悔恨により内心を潔め、また一層高遠なる意義をふくむメシヤの洗礼を象(かたど)るものであります。『私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを篤値うちもありません。その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります』(新約聖書 ルカの福音書3章16節)とヨハネは言いました。
洗礼志願者に対するヨハネの試問は甚だ適切で、また実際的でありました。彼は各人の罪悪を指摘し、これを拭い去れと迫りました。志願者が富豪ならば(新約聖書 マタイ19章21節、マルコ10章21節)、青年の司に対する主のみことば(新約聖書 ルカの福音書18章22節)を偲ぶべきことばをもって、財産を貧者に施すべしと命じ、税吏ならば、定めの税金額をよく守り、決して過重の付加をしないように命じ、兵卒ならば、略奪や、虚偽の拘引や、謀反を企てるなと命じました。
6 パリサイ、サドカイの徒も来る
この洗礼者の説教がいかに力があったかは、ただに単純素朴な民衆のみならず、教育あり、地位ある人々もおびただしくベタニヤに集い来ったのを見ても明らかです。『パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見た(とき)』(新約聖書 マタイの福音書2章7節)。信仰を誇りとするパリサイ人と権勢に恃むサドカイ人とが、平素の激烈な軋轢を忘れ、一団となり、いわゆる愚夫愚婦の群衆に混じって集まって来たのは、まことに驚くべき現象であります。
後年彼らがイエスに対抗するために協同したのは、その共同の敵に当たろうとして平生の恨みを忘れたのであったが、この場合には 彼らは事実一致融和して訪ねて来たのであります。敏捷怜悧なエルサレムの宗教の幹部員はヨルダン河畔に行われる光景を観察し、この運動を彼らの保護の下に置くことを利益と認め、後年イエスの場合にも試みたように、群衆を利用して自分たちの志を達しようと企てました。
すなわちこれらのパリサイ、サドカイの両宗徒は、ヨハネの事業を探り、報告をなすためにサンヒドリンの代表者として遣わされたのです。しかし彼らはこの説教者と相対するに及び、その心に浸む雄弁を聞き、我知らずこれに捕えられることを覚えました。その訪れ来った動機は様々であったけれども知らず知らず、この預言者に親しみ、ついに自ら悔い改めて洗礼を受けるに至りました(新約聖書 ヨハネの福音書5章35節)。
ヨハネがメシヤを証明した一カ年有余の後、ヨハネに対する彼らの批評を思い起こしてこれを引用し、イエスはヨハネを『彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです』と仰られました。
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