家探し 自転車道 木瓜(ぼけ)の花 |
昨日は 、午後、退職者の友の会の方々に会報を届けるために13軒の家々を探し探し、自転車歩行をした。都合、二、三時間かかった計算だ。面識もなく、名前と住所をたよりに配り歩くノルマであった。東西南北散在している家々である。
それでもかれこれ10年ほどやらせていただいた会報配りだ。今期最後でお役御免となりたいところである。次の方にバトンタッチしようにもその方がまだ見つかっていない。歩いて配るのもいいが、通算すると大変な距離になる。
狭い路地あり、行き止まりあり、また市の地名表示はほとんど行き届いていない。市長や市会議員こそ、このようなどぶ板をこそ歩いて欲しいものだ。様々な法規制のある中で、人々の住環境ができあがり、街づくりが形成される。
昨日もその前の日に見た『雪のたから』英語版の映画「Treasures of the Snow」の続きをYouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=VsAxSHSc5vgで視聴したが、映画のストーリー案内に次の語句があった。
A touching tale of forgiveness and reconciliation, filmed in the breathtaking Swiss Alps.
Lucien, a lonely, frightened boy of 13, finds himself an outcast from his family and friends, especially the very hostile neighbor Annette. Lucien becomes friends with an old woodcarver and begins to have hope, but learns that a price has to be paid for forgiveness.
「赦しと和解の感動的な物語が息を飲むばかりのスイス・アルプスで映像化された。孤独でいつもびくびくしている十三歳の少年であるルシエンは、家族からも友人たちからも見放され、特にもっとも親密である隣家のアンネットからも見放された。ルシエンは一人の木彫り者である老人と友となり、希望を抱き始める。しかし、赦されるためには代価が支払われなければならないことを学び始めるのだ。」ざっとこんな案内だと思う。
そう言えば、昨日の礼拝の後のメッセージの題名は「贖いの代価」であった。人間の罪を帳消しにするためにいかにイエスさまの十字架上での犠牲の死が必要であったか、その犠牲がいかに比べられるものがない犠牲であったか、「旧約(古い約束)から新約(新しい約束)への展開」が語られていた。
二、三時間探しに探して疲れ果てていた私、ほぼ終わりに近づいていた私に、この何気ない行きずりに見かけた木瓜(ぼけ)の花は私の労苦を労(ねぎら)うかのよう、ちなみに木瓜の花言葉は「先導者」であった。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(新約聖書 マルコの福音書10章45節)
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