第4章 メシヤの誘惑
『救い主よ、我らに赦しを与え給え、
我らの弱さをことごとく知り給う。
汝は我らの先にこの世に在(いま)し、
世に住む仇の狡賢(ずるがしこ)さを知り給えば
汝荒野を過ぎさせ給いて
その荒涼惨憺(さんたん)たると
困憊(こんぱい)疲労とを知り給えば。』
James Edmeston
1 荒野への隠退
時節は到来しました。イエスはその平和な生活を捨てて、その天職に身をささげねばなりません。ナザレの隠れ家に年久しく瞑想に耽られましたが、時はめぐりその職責の容易でないことを切実に意識せられたのであります。ちょうどあのパウロが悔い改めるや『人に相談せず、アラビヤに出て』(新約聖書 ガラテヤ1章15節〜17節)行ったのと同じように、イエスはその思想を統一し、また神との交わりによって光明と力を受けるため、人を避けて隠れ給うこととなりました。
ヨルダンの西部にはやせ地で石だらけの不毛の荒野があります。ここは猛獣の棲家であって、またさらに猛獣よりも一層凶暴な山賊が出没し、エリコよりエルサレムに至る坂道は、彼らの凶暴の行為より『血の坂』との名を生じたほどでありました(新約聖書 マルコの福音書1章13節、ルカの福音書10章30節)。洗礼によってイエスのうちに内住し、またそれ以来『無限に』その上に注がれた聖霊は、この荒野へイエスを駆って赴かされました(新約聖書 ヨハネの福音書 3章34節)。こうして四十日の間イエスはその授けられた事業を熟考し、身辺に群がり来る困惑と苦戦奮闘し、その取られるべき道を明確にするために大変な努力をなされたのであります。
2 誘惑
高遠雄大な事業がイエスの眼前に横たわっています。如何なる方法をもってこれを完成すべきかを思い惑われるにあたって、天の父のみこころに服従せんと決心されつつもなお誘惑はこれを遮(さえぎ)り妨げるのでありました。
(1) 世俗のメシヤ(A worldly Messiahship)
イエスはこの荒涼たる原野において瞑想しつつさまよっておられる間に、いつしかエリコを俯瞰(ふかん)すべき高山の頂に歩みをとめて佇まれました。ヨセフスはこのあたりの光景を述べて『原野の只中に市街あり、そのかなたに痩土赤裸の山あり、蛇行起伏して尽きるところを知らず、されども不毛なるがゆえに人跡を見ず』と言っています。山上の眺望は如何にも爽快であって、想像は遠く限界のかなたにまでも馳せられるのであります。
イエスの足下には心地よき荒野に美わしい棕櫚(しゅろ)の都エリコが横たわっています。西方には神聖なる首都の白い外壁と、きらめく尖塔の頂が、澄み渡る大気に浮かべるように輝いています。まことにイスラエル全土の光景はイエスの双眸(そうぼう)のうちに収められ、右往左往の公道に眼を放たれば、エジプト、アラビヤ、ペルシア、ダマスコ、さては地中海沿岸諸港を経てギリシヤの諸島を始め、大帝国の大都城ローマに通ずる『この世のすべての国々とその栄華』のまぼろしは眼前に澎湃(ほうはい)として映じたのであります。
ユダヤ人の理想
これこそイエスの贖わんがために降られた世界であります。如何にしてこの事業を完全に成就して、億兆の人類を救済することができるかとは当然起こるべき疑問であります。その上、その国民の間に存在するメシヤに関する思想が、イエスの眼前に提供せられていることも当然でありました。イスラエル国民を暴政の下より救い、衰退しているダビデの王統を、古の盛運に勝る栄華に進むべき凱旋の君主として、メシヤは期待されておられたのです。
イエスにして真にこのメシヤならしめば、先ずその選民の熱烈な愛国心に訴えて、彼らが久しく期待している救い主であることを宣言し、彼らを叫合して、ローマの羈絆(きはん)を脱せしめられるのではないでしょうか。これは狂気に類する行動であります。しかしこの屈辱を重ねた時代に悲憤慷慨するユダヤ国民中にはこのような謀(はかりごと)を凝(こ)らすものも少なくありませんでした。前年ガリラヤのユダは叛逆の旗を翻して、その全国土を沸騰せしめたのであります。暴徒はたちまちに鎮定されたが、余炎はなお今も燻(くすぶ)り続け、一陣の風にも燎原を焼かんとして待っています。ゼロテの党と称する旗色鮮明な新党派はイエスラエルの間に起こりました。そうして機会あらば先の挫折を雪(そそ)ごうとして待っていました。
イエスが単にイスラエル国王を復興するがために来たメシヤであると宣言せられたのみでもなお幾千万の民衆はたちまちその麾下(きか)に蝟集(いしゅう)したでありましょう。これこそ当時期待せられたメシヤの遂行すべき職分であって、第二にしてさらに有力なユダ・マカビイとして自由の義旗を押し立てるも決して軽蔑されることではありませんでした。ガマラのユダは失敗しました。しかしイエスにはその命令のままに動くべき天の万軍が備えられているのでありました(新約聖書 マタイの福音書26章52節53節)
3 真のメシヤ
イエスがまさに獲得せんと思召される世界を見渡された時、このようなものがその眼前に展開したことでありましょう。けれどもイエスは決然他に眼を転ぜられました。すなわち、ローマの羈絆を脱するよりも、さらに高尚悠遠の救いを完成せんがためこの世に降臨せられた所以を意識せられたのであります。当時世に流布せるメシヤの思想は俗世の夢に過ぎないのであります。もしイエスにしてこの思想を抱かれんか、必ずや『この世のすべての国々とその栄華』を獲得せられたにちがいありません。
後年にいたってキリストの敵手はカイザルの帝位に座したではありませんか。しかもそのメシヤの王国は似ても似つかぬものでありました。『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年を告げ知らせるために』(旧約聖書 イザヤ書61章1節2節、新約聖書 ルカの福音書4章17節〜19節)これこそイエスの職分でありました。
イエスの召しを受け給うた行程は、服従、犠牲、徴賤の険路であります。そしてその局を結ぶものは玉座に非ずして十字架であります。しかもイエスは敢然としてこれに面前されたのであります。(The path whereunto He was called, was a lowly path of service and sacrifice; and , though at its end there stood not a Throne but a Cross, He set His face like a flint to walk therein.)
※ブログ子の感想 私はこのDavid Smith氏の著書を愛する者です。今回もこの邦訳本を転写するにあたって感慨措く能わざるものがあります。この原著を日高善一氏がほぼ100年前に翻訳され、今は絶版で誰も見向きもされないかもしれません。しかしこの邦訳が国会図書館にデジタルライブラリーとして保存されており、英文はThe Days of His Flesh で自由に読めるのです。一人でも多くの方がこの本をとおして、神の子イエス・キリストが、人として、世に来られ、いかに歩まれたかを理解し、イエス・キリストが提供してくださる救いを受け入れて下さることを切に望む者であります。)
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