9 洗礼志願者イエス
イエスは直ちにヨハネに近づき、洗礼志願者として己をささげられるに至ってここに始めて一大発見が行われました。峻厳なこの預言者はその儀式を行なうにあたり。志願者の悔い改めは真摯なりや、また確かに新たな生涯に入る志あるやを、自ら満足するまで試験を課したので、イエスの出現されるにあたっても、等しく峻厳な試問を施したに違いありません。しかもその試問が深く進まないうちに、彼は驚愕措く能わざることとなったのです。もしそれわずか十二歳にしてなおかつエルサレムの『ミドラシュの家』にあってラビをして『知恵と答えに』(新約聖書 ルカの福音書2章47節)驚かされたとせよ、今十八カ年を神との交通、聖書に関する瞑想に費やされたこの時、洗礼者驚かされしむるに至ったことは怪しむに足りません。
他のことはしばらく置くとしても、ただ一事がヨハネの驚嘆を引き起こしたのであります。すなわち洗礼志願者がこの預言者の訓戒警告に接するや、みな悔恨の情に慄き、へりくだって罪を告白しないものはいませんでした。しかるにイエスは罪悪も恐怖も一点もこれを示さないのであります。一方、このような態度は洗礼を施すことができない無感覚の人物によく見られる態度であります。
しかし、イエスはその清楚な風采、神の平安に輝く顔容を仰いでは、霊魂は自ずから畏怖恭敬の誠にへりくだり、いやしくもその在世中にこれを仰いだ者が何人も感じたように、自らの憐れむべき姿を知覚するに至ったのであります。ちょうどあの楼上の客室でペテロが『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか』(新約聖書 ヨハネの福音書12章6節)と拒んだように、ヨハネもまた『私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか』(新約聖書 マタイの福音書3章14節)とこれを辞退しました。
10 罪人とともに数えられる
この神聖な人物が、悔恨せる群衆と伍しつつ罪を洗う意義を有する儀式に連なられるのはまことに奇怪至極なことであります。しかしヨハネに対するその答弁をもって事情は明らかになります。曰く『今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふわわしいのです』(新約聖書 マタイの福音書3章15節)と。イエスは『女から生まれた者、律法の下にある者』と(新約聖書 ガラテヤ書4章4節)なられました。そして『人の子の一人であるがゆえに服従を学ばれる』(参照 新約聖書 ヘブル書5章8節)必要がありました。
まだ幼弱のころに、肉の汚れを除き去る意義の割礼を受け、成人に達せられるや、年々神殿に税を収められ、自ら神殿を己が家と称し、神の子にその必要がないことを宣言しながらもなお税を拒まれませんでした(新約聖書 マタイ17章24節〜27節、マタイ5章19節)。すなわちイエスの降臨は律法を廃止するためではなく、律法を成就するためであって、その神聖な生活によって吼々これを充実することに努められたのです。
イエスは私達を神の子とさせるため、すなわち律法の下にある者を贖うために律法の下に生まれられたのであります(新約聖書 ガラテヤ4章4節5節)。聖クリソストムのことばを借りて言えば、イエスはさながら『我れ律法を全うせんがために割礼を受けたように、恩寵を批准せんがためにバプテスマを受く。我れもし一を全うして一を省かば、我が人となるに欠けるところあり、後にパウロが『キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです』(新約聖書 ローマ人への手紙10章4節)と記せる如く我れはすべてのことを全うする』と仰せられたものであります。
11 イエス、ヨハネに発見される
このようにヨハネはイエスが何人かは深くは知らなかったけれども、しかし、たちまちにしてこれメシヤ以外の人物とは考えられない所以を発見しました。彼は聖書によってメシヤの現われ給う時、どういう特徴をもってこれを認められるかを学んでいました(旧約聖書 イザヤ11章2節、61章1節)。かつその上に神の霊の上り降りするのを見るべきはずであったが、今現にその象徴に接しました。
神はその黙示を与えられるにあたり、恩寵裕(ゆた)かにも、人間に交通する手段として、自己を人間の地位に引きおろし、誤る場合もありやすいけれども、なお人間の知恵に相当の方法を取られます。博士たちには救い主の降誕を星によって伝えられました。ヨハネはユダヤ人であるがゆえにユダヤ人に対する方法を取られました。
思うにユダヤ人の想像によれば、創世記第一章に『神の霊は水の上を動いていた』(旧約聖書 創世記1章2節)との記事を、ラビは『雛の上に翔ぶ鳩のように』と言ったほどで、神の霊は鳩の形をもってたとえるべきとしました。なお後年のユダヤ人の心に今一つの思想がありました。すなわち年久しく預言者の声を聞かないために、人心その寂寞に耐えることができず、昔の詩人が主の御声を雷としてあらわしたのを思い起こして、雷をもって危機に際し天より来る神の御声と称し、これをバス・コルすなわち『天の御声の娘』と思いなすに至りました。
12 鳩と御声
ヨハネもまた時代の子としてこの思想を離れることは出来ませんでした。ゆえに神はメシヤの黙示を与えられるにあたって、この思想を利用されたのです。すなわち、バプテスマを受けてのち、イエスの河岸に佇んで祈られる時『天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』(新約聖書 ルカの福音書3章21節、ヨハネの福音書11章27節、20章21節)とあります。
救い主に対するユダヤ人の称号は『神の子』と言うのであって、先のみことばは直ちにイエスがメシヤであることを表わす特別の保証でありました。この幻とその御声とは、ただイエスとヨハネ以外には分かりませんでした(新約聖書 マタイの福音書3章16節、マルコの福音書1章10節、ヨハネの福音書1章32節34節)。主の復活後もまたこれと同じで、その栄光に入られた体は肉眼では見ることができませんでした。ただ幻を見得る賜物を授けられたもののみが、これを認識したのです。
このようにイエスとヨハネとのみにはその霊性が明らかにされ、幻は目撃され、また御声が聞こえたけれども一般の群衆はさらにこれを見ることができませんでした。これは当然のことでありました。この黙示は二人にのみ授けられたものであって、イエスに対しては、その時期のまさに到来したことを示し、ヨハネに対してはメシヤを認識させるためのものでありました。
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