第三章 メシヤとしての召命
『主にバプテスマを授けつつ
彼はバプテスマを受けぬ。
その受洗のうちに主は万民を洗う能力を受け給えり、
水は洗われて浄まりぬ、
かくて恩寵溢るる受洗のためにと
人に供せられたり』
Henr Pist
1 ヨルダン対岸のベタニヤにおけるバプテスマのヨハネ
幕をあげれば十八ヵ年は早くも経過して、緊張した舞台が現出するのであります。すなわち一大預言者が出現しました。そしてエルサレム、ユダヤ全州を始め、ヨルダン流域の国から熱心な群衆が、彼の活動の舞台であるベタニヤへ、かのヨシュアの指揮の下でイスラエル人が約束の地へと渡渉したあたりを逆に渡渉して、雪崩のように押し寄せたのであります。この預言者こそザカリヤと称する老祭司の一子で、ユダヤ山間のいずこか、密かに隠れてその事業を計画したヨハネでありました。三十余年の昔、イエスの降誕に先立つ六ヶ月、ザカリヤの妻エリサベツは、長く子がなかった所へ、一子を設けたので、夫と共に喜びつつ、これを主の御用にと聖別しました(新約聖書 ルカの福音書1章36節)。元来エリサベツはマリヤとは親戚に当たったけれども、両家は北と南、国の端と端とに住んでいたので、ヨハネとイエスとは全く他人と等しく未見のままに育てられました。
イエスがナザレの作業所で労働に従事される頃、この聖なるナザレ人ヨハネもまた八世紀の昔、この地方に、羊飼いと桑の木の栽培を業とした祖先アモスのように、ユダヤの荒野でイエスに劣らぬ名もない生活を送っていました。ヨハネはアモスと等しく一生懸命に従事する傍ら、衰え果てたイスラエルの前途を憂いこの国民に対する神の思し召しを案じつつ、二六時中ただ黙想に耽っていたのであります。死海の彼方desolate(やせ地)の地方にはエッセネ派の人々が住んでおり、隠遁して、労働、慈善、黙想、祈祷、断食などを日課としていたのであります。かの有名な歴史家ヨセフスがその熱烈な青年時代、パナスと称する遁世者に従って峻厳な規律の下に三年間を荒野に送ったように、ヨハネもまたこのエッセネの徒と交わりを結んだのは疑うべくもありません。しかしどの宗派にも属してはおりませんでした。彼自らが教師として弟子の一団を組織していました。
2 その召命
古えの預言者に見られるように、その三十歳に達するに及んで『神のみことばヨハネに臨む』です。さながら炎炎として焔がその骨々に押さえつけられているかのように、彼は胸中に燃えている思想を訴えないではおられなくなりました。『獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう』(旧約聖書 アモス書3章8節)。彼の説教の名高い噂はたちまちに好奇心に富む群衆を集めるに至りました。そして日ならずしてヨルダン対岸のベタニヤは有力な霊的覚醒の舞台と化しました。その昔イスラエル民族が、約束の地に踏み込んだ、その同じ地点が、今この日、最後の日の天国へ、門戸の開かれる場所となったのは、まことに珍しい配合と言わねばなりません。
3 その権威の秘密
この説教者に権威のあった秘密はどこに潜んでいたのでしょうか。これには様々な理由がありました。
(1) 一個の預言者
彼は一個の預言者でありました。而してこの国には年久しく預言者の声が絶えた場合でありました。そのいわゆる『善き友』の最後の人はマラキであって、その死後四百年の星霜は流れたけれども、神の御旨は黙々としてさらに降らなかったのであります(旧約聖書 1サムエル記3章1節)。
かつて古にその例を見たように『そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった』。そして人々はマカビイ時代の詩人のように悲しみに沈み、『もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。』(旧約聖書 詩篇74篇9節)と嘆きました。預言者の後継者と言うべきはただ過去のみを崇拝するラビたちであって、生ける神よりの生けることばは露だにも伝えられず、律法の注釈と長老の伝説を口授するのに日も足らない有様でした。しかるに今遂に預言者の声は、人々の霊魂に共鳴を喚起しなければ止むことのない確信の響と権威の音律をもって伝えられたのであります。
(2) 人心の準備
国民は霊的覚醒に対する準備がすでに熟しておりました。国民の悲境はメシヤに対する希望を復興させ、その希望が日ならずして充実するに至らんとすることを期待しておりました。故にヨハネが確固不抜の信念と燃えるような熱心とをもって天国、すなわちメシヤの王国が近いと宣言するに及んで、躊躇なく信任を得たのは怪しむに足りません。ただそれだけでなく、古来の約束に準ずるならば、救い主の降誕にあたって、あらかじめモーセのような預言者が先ず起こり、その報告をなすであろうと思われました(旧約聖書 申命記18章15節)。
しかるにこの時に及んでもさらに何のしるしもなく、新たな預言者が現われる様子も見えない所から、古の預言者の一人がよみがえり来たって、メシヤ王国の先駆となるであろうとの思想が生まれました。あるものはエレミヤが甦るだろうと言い、一般にはエリヤ来るべしと期待されていました。ヨハネが『エリヤの霊と力』をもってユダヤの野に現われ、彼と等しい衣服をまとい、彼と等しく荒野においてわずかに得られる単純なものをもって生活し、自分に勝る力ある人が出現することを説いたので、このような思想がこれと結びついたのは当然であります(新約聖書 ルカの福音書1章17節、旧約聖書 2列王記1章8節、1列王記17章2節〜7節)。
0 件のコメント:
コメントを投稿