デーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇』は、全編がほんとうに良く考えられた論考だと思います。そうは言っても、それは私一人の単なる思い込みに過ぎないかもしれません。それで、今回から、「解題」という形で私自身がどこに感心しているかをお示ししてみたいと思います。
「メシヤの誘惑」は、明らかにマタイの福音書、ルカの福音書、マルコの福音書を前提に描かれています。もちろん、お読みいただいてわかりますように、これらだけでなく、ヨハネの福音書やその他の聖書全巻が視野に入っていることは当然ですし、それがこの書物の特徴です。全聖書から主イエスさまがお受けなさった誘惑について述べようとしているからです。
ところで、マタイの福音書では、その「誘惑」は『石』『神殿の頂』『高い山』 の順に、ルカの福音書では『石』『高い山』『神殿の頂』とマタイとは2番目と3番目が入れ替わっています。マルコの福音書には誘惑に遭われたことだけが明記されていて、その内容は書かれていませんが、的確に「誘惑」を述べています。
その流儀でデーヴィッド・スミスの表現を見ると最初に『世俗(の王者)』次に『見せ物(奇蹟)』最後が『自己』となっています。上の三者に当てはめるなら、『世俗』は『高い山』、『見せ物』は『神殿の頂(から飛び降りること)』、『自己』は『石(をパンにすること)』に該当することがわかります。
マタイ 石 神殿の頂 高い山
ルカ 石 高い山 神殿の頂
スミス 世俗 見せ物 自己
そして、「世俗のメシヤ像」が実に詳細に描かれています。そのポイントは「この世のすべての国々とその栄華を見せて」(マタイの福音書4章8節)と端的に指摘され、それが高い山から眺望できる全世界であることが、エリコからエルサレムへの坂道の描写を利用して、具体的に描かれています。そしてそのメシヤ像はローマ帝国の羈絆からイスラエルを政治的に解放する王者というイメージが上げられます。しかし、イエスは王者にあらず、全人類の罪を贖うために十字架にかかられなければならないことが強調されています。ことばとしては「高尚悠遠の救い」と言われていますが・・・
次に、宗教者としてのサンヒドリン(ユダヤ教最高議会)との同盟の誘いがあったことが描かれています。この辺はまさに福音書に見え隠れする叙述であり、デーヴィッド・スミスはカトリック教会を念頭にでしょうか、次のように述べていました。「後年にいたってキリストの敵手はカイザルの帝位に座したではありませんか。しかもそのメシヤの王国は似ても似つかぬものでありました」と述べ、イザヤ書61章1〜2節、ルカの福音書4章17〜19節を引用し、これがイエスさまの職分であったと述べています。しかもその職分が制限されていたと述べ、その戦場は「イスラエルの狭隘な国内」であったと強調しています。
この辺のイエスさまの葛藤が「イエスはこの天職の制限に対して伝道期間絶えず憂悶し、救いを渇望し、切実なる要求を持っていながらもなお滅び行く、国外大世界の人類を偲び痛み悲しまれたことは明らかであると言っても差し支えはないでしょう。その自らを虚しくして人と成られた間に、その恩寵を制し、心の赴くところを限られることは耐えることのできなかったほどの難事であったでありましょう。愛心を制限せられることは、その栄光を覆われ給うことに優る苦痛でありました。」と描かれていることに改めて目が開かされました。
一方、2番目の「見せ物のメシヤ像」の誘惑の項では、「奇蹟」をめぐってのイエスさまの行動が描かれ、「その伝道の間に、ただ不思議を行なう人物と認められることを身震いしつつ厭われ、奇蹟を行なわれるごとに盗みでもなすかのように忍びやかに行なわれるのでありました。」と書かれていたので、さまざまな奇蹟が行なわれたあと、よく「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。」(マタイの福音書8章4節)ということが書いてあることが日頃読んでいて、なぜそう言われるのかわからなかったが、初めてああそういうことだったのかと思わされました。
3番目の「自己のメシヤ像」という表現はわかりにくいことばでいまだに完全にわかったとは言えませんが、それは石をパンにせよと言う悪魔の誘惑に対して、その力を持っているお方があえてそうなさらなかった理由、あくまでも自己否定をされ、私たちと同じレベルにまで降りての主のご意志だったことを深く教えられました。
そして、最後にこのような誘惑を受けるために荒野に退かれたイエスさまと、やはり同じように救われてすぐにアラビヤに退いたパウロの行動が比較されている項目、8「イエスの純潔」で「悔恨の涙にあらず、贖償の誓いにあらず、ただ誘導を求められる祈祷、天の父のみこころの外は何の律法も認められない不動の覚悟、天の父の栄光の外何をも求められない未来にだけ面を向けられました。このようにこの世を贖う事業に聖別されたメシヤの生涯には、一抹の汚れだに留められなかったのであります。」とあり、「過去」の悔い改めを必要としたパウロに対し、ただ「未来」にだけ目を向けておられました神の子イエスとの違いが言及されているのです。
一点、個人的にはっとされたことばは『凶暴』ということばです。荒野の誘惑を説明する最初のところでデーヴィッド・スミスは荒野には『凶暴』があったと明記し、ルカの福音書10章30節「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた」をその例示としてあげています。そしてこの「メシヤの誘惑」の最後のほうで、パウロがアラビヤに退いた際の回想にこの『凶暴』ということばを再び用いています。それはパウロが信仰に導かれる以前、イエス並びに聖徒に対する『凶暴』の張本人であったことが含意されているのです。そして、イエスこそ悪魔の『凶暴』、『誘惑』に打ち勝たれたまことの神の子であったことをデーヴィッド・スミスは訴えているのです。
デーヴィッド・スミスのもうひとつの大作は『聖パウロの生涯とその書簡』です。この書物も日高善一さんが訳しており、やはり国会図書館のデジタルライブラリーに保存されていますが、イエスさまの生涯とパウロの生涯を併せ読むことができるしあわせは何物にも変え難いと私は思っています。100年前の日本語表現ならではの名文の連続(これでも随分今風に置き換えて直しつつあらわしておりますが、そのため日高さんの名文の香りは失われている部分があります)で読みにくい面もあるかと思いますが、これに懲りず今後もお読みいただければ幸いです。
そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。(新約聖書 マルコの福音書1章12〜13節)
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