2023年3月14日火曜日

大江健三郎氏が亡くなる

輪舞する こぶしの花よ 友情
 日一日と春の動きはスピードアップ。桜はまだつぼみが硬いが・・・。その中にあって、一際目立ったのがこのこぶしの花だった。こぶしの花言葉は「友情」とか「歓迎」だそうだ。なるほどと合点がいく。

 大江健三郎氏が亡くなった。彼の作品はむつかしく、初期の『死者の奢り』を読んだくらいで、とてもこのブログで取り上げるのも気が引けるし、大江さんに対して申し訳ない。けれども彼の語り口は、ことばを紡ぐようで快かった。その彼の発言がもう聞けないと思うのはやはり悲しい。光さんを抱え、その見る世界は、決して神の国から遠くはなかった、と思う。

 けれども、そのような彼が主イエスさまを受け入れられなかったとすれば、彼の類い稀な知性が邪魔をしたとしか思えない。もちろん事実はどうであったかはわからない。ただ、この機会に、最近私が読んでいて日々考えさせられている『オネシモ物語』の著者パトリシア・M・セントジョンのことばを引いてみたい(同書72頁より)。

 ピレモンは戸口のところに座って赤んぼうをだいている女に声をかけた。
「天幕作りのパウロ先生の家はどこですか。」
 その女は、まるで聞き慣れた質問を受けるようにうなずくと、ちょうどま向かいの明かりのついた家を指さした。その家の戸口は低く、ピレモンは入るときに腰をかがめなければならなかった。(中略)
 中に入ると、そこの光景にびっくりした。(中略)そこにはパウロが座っていた。あの尊敬すべきパウロ、新しい宗教の光栄ある教師、その名が全アジヤに知られたタルソ出身のユダヤ人パウロがいたのである。しかも彼は足を土間にのばして座り、たて型の機織りで黒いやぎの毛を織っていた。そばの腰かけの上には、彼が書き終えたらしい巻物の手紙がおいてあった。そのまわりには友人たちが足を組んで座り、機織りの音が、キー、カタン、カタンと音を立てる中で熱心に話をしていた。彼らの顔は、ランプの光に照らされて、青白くおごそかであった。新しく来た客に注意をはらう人はいなかった。

 「わたしははっきりしたことばでこのように語って来ました。」

 パウロは巻物の方に手をふりかざして、そばに座っている四人のコリント人に向かってこう話し出した。コリント人たちは教養のある学者らしい人たちで、この機織り小屋とまったくつりあいがとれないように見えた。

 「兄弟たち、あなたがたの召しことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。これは神の御前でだれもほこらせないためです。わたしはこのことのために心をそそぎ出して来ました。アカイコとステパナ、キリストにあってわたしの子どもであるあなたがたは、もどって行って人々にこう教えなさい。悔い改めと信仰ときよさと愛によらなければ、知恵や知識によって神のことや神の深さについて知ることはできません。人々に党派争いをやめさせ、自分たちのうちにある罪を捨てて、一つの土台だけを基にするように命じなさい。」

 大江健三郎氏の小説『死者の奢り』だけしか、読んでいず、その内容の酷薄さに辟易しながらも作者の並々ならぬ力量に驚かされた記憶はあるが、その後それ以上彼の作品を追うことをしなかった私に前述のように「彼の類い稀な知性が邪魔をしたとしか思えない」と言う権利はもともとないが、一方で、パトリシア・M・セントジョンの創作の中で語られているこのパウロの言にどうしても注目せざるを得ないのだ。

 こぶしの花はその花言葉が「友情」であるとあったが、パウロはこの天幕作りの中で友人に取り囲まれながら、そのたいせつな真理、神を知る、神を愛するにはどのような条件が必要か、そしてその神さまを信ずる信仰を通して互いのうちに真の友情が確立することについて語っていたのではないだろうか。大江氏が作品を通して追求された真実もまた当然この真理をめぐってのものではなかったのでないかと思う。

知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。(新約聖書 1コリント8章1節)
文字は殺し、御霊は生かす。(新約聖書 2コリント3章6節)

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