2018年12月19日水曜日

神の限りない恵み(上)

すべての人を救う神の恵みが現われた(テトス2・11)

 よく命を二足三文にあつかうことがあります。エジプト人たちの間では、どれいたちはハエのように死んでいきました。ピラミッドに積み上げるための巨大な石を、十万というどれいたちがむちを持つ監督のもとに働かせられました。そして何千もの命が、疲労と暑さと酷使のために死にましたが、だれも気にかける者さえいませんでした。

 わたしたちの主なる神は、けっして人の命を、こんなふうに軽々とお考えにはなりません。神の目には、ひとりびとりがたいせつなものであり、一つ一つの魂は尊いものなのです。人間が罪を犯して、神の聖なるみこころに逆らうことがあっても、それでもなお神は、恵みと愛とを、忍耐つよくお示しになるのです。たとえ神が人間のあやまちを正すために、きびしくなさることがあっても、悔い改める余地を残しておかれます。アダムとエバとを楽園から追放するとき、彼らを助け出す救い主をお約束になりましたし、ノアの時代にさえも、百二十年という恵みの歳をこの世にお与えになっています。神が人間のする悪いことを、じっと忍耐づよくこらえてくださるのは、一つ一つの魂をたいせつにお考えになり、いつくしみ深い神がすべての人間を悔い改めに導きたいと願っておられるからです。このように救いに導く神の恵みは、すべての人に現われたのです。

 神の恵みは、すべての人に与えられます。この世に生まれて来た人には、ひとりとして例外なく、この恵みは与えられるものです。楽園から落ちたアダムにも、ウリヤを殺してその妻を取るという二重の罪を犯したダビデにも、自分のことばかり考え、どん欲で人のものをかすめ取ったザアカイにも、また主を否定したペテロにも、悪いことをして報いを受けて死にかけていた盗人にも、神の恵みは与えられるのです。

 神のこの限りない恵みは、失われた者たちにも与えられています。神はその恵みから、ひとりものけ者にはなさいません。神の愛は、弟アベルを殺したカインを救おうとしましたし、長子の特権を売ってしまったエサウを助けようと、心をくだかれました。また幾度も神に従わなかったサウル王を救うことを拒まれませんでした。「主はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3・9)。このように、神の愛は限りないのです。

 神の恵みが救いをもたらすのです。この救いは、イエス・キリストによってわたしたちにもたらされました。神はイエスを通して愛を表わされたのです。神は、わたしたちがひとりでも滅びるのを望まれませんでした。それで、み子をこの世におくだしになり、わたしたちの犯した罪の報いをみ子イエスがわたしたちにかわってつぐない、神の法の前に立つようにおはかりになったのです。みどり子のときから死にいたるまで、イエスは思いと、行ないと、ことばにおいて、父なる神のみこころに従われました。主はわたしたちの罪に傷つき、わたしたちのあやまちがゆるされるようにと、血を流して、神の求められるさばきをわたしたちにかわってお受けになったのです。そしてこのつぐないは、主なる神を満足させることができました。なぜならば、神はイエスを死から天に引き上げられたからです。イエスの死と復活によって、わたしたちの救いは確かなものとされたのです。

 この救いは、すべての人々にのべ伝えられるべき福音を通してもたらされます。救いをもたらす神のこの恵みは、またゆるしと永遠の命とを与えます。このことを、はじめにかかげた聖句が強調しているのです。

(『いこいのみぎわ』A・ドーフラー著松尾紀子訳92〜94頁より引用。前回の記事で監察医の方のご本を紹介したが、今日のこの文章をとおして「監察医制度」は主の例外なき愛にその原点を求めるべきでないかと思った。)

0 件のコメント:

コメントを投稿