2018年12月15日土曜日

山中氏を尋ねて(完)

鞍手の家の軒先のツバメ※
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1・3)

 山中氏の存在は、こうして、1961、2年の月刊「いのちのことば」誌の座談会での発言や執筆なさった記事によってうかがい知ることができた。最後にもう一冊の記事について触れたい。それは1961年の4月号の『「詳訳ヨハネによる福音書」の産室』という題名で山中氏が一頁にわたって書かれている記事である。

 もうかれこれ40年ほど経っているであろうか、私は『詳訳聖書 新約』(1976年8刷版)を購入したきり、書架の片隅に眠らしておいた。けれども今年になって、一、二回のぞいてみたような気がする。この四十年間もおそらく忘れてしまっているだけで、そのようにして時々私が頁を繰る書物だったのかもしれない。新約聖書はもともとギリシア語で書かれている。それを日本語に翻訳するのには様々な困難がある。1960年代には文語訳、口語訳の聖書があるのみで、その他は個人訳に限られていた。そのような中で1962年に詳訳新約聖書刊行会の手により『詳訳聖書 新約』が出版されている。

 その詳訳聖書の一つヨハネによる福音書が、いかにして生まれたのか、産みの苦しみと喜びとを、その誕生の”産室”に出入りした一人として山中氏が証言しておられるのである。内容はやや専門的すぎて一般にはなじまないように思ったので国会図書館のデジタルライブラリーから書き写すのをやめた。むしろ私としては、そのような聖書の翻訳事業に山中氏が携わっていたことが驚きであった。ちなみに1970年に新改訳聖書が出版されている。私事だが、私は1970年に主イエス様を信じ、同時に結婚の恵みにもあずかった。それはともかく、この『詳訳聖書』は『新改訳聖書』への橋渡しの役割を果たしているのでないかと思った。(あくまでも推測だから、間違いかもしれない、その辺の事情をご存知の方がこのブログを読んでくださり教えて下されば幸いである。)ただ以下に私がそのように考える根拠を書き連ねたい。ヨハネの福音書1章3節〜4節はそれぞれ次のように訳されている。

文語訳 萬の物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに生命あり、この生命は人の光なりき

口語訳 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

詳訳  すべてのものはによって〈を通して〉つくられた〈存在するに至った〉。存在しているもので、によらないでつくられたものは何一つない。彼にいのちがあった。そのいのちは人のであった。

新改訳 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 定評ある文語訳も、イエス様を「これ」と訳している。口語訳も似ている。ところが「詳訳」は一歩踏み込んで「これ」でなく、「彼」とした。ここまで来れば一瀉千里、新改訳は「この方」と訳したのである。このような聖書翻訳事業は一人の手によっては不可能だし、何年もかけて多くの主にあるキリスト者が祈りをとおし喧々諤々の議論をして、邦訳聖書は私たちの手に渡っているのだ。あだやおろそかにしてはならない。

 京都の由緒ある神社の跡取りとして生まれたであろう山中氏がどのようにしてイエス・キリストの福音を受け入れたのかはわからない。しかし、今日私たちの手にする聖書の言葉の中には私たちが知らないだけで、たくさんの翻訳者の労苦が積み重ねられていることを忘れてはなるまい。そしてその一人にこの山中氏も加えられるのでないだろうか。すでに戦前、定評あるスコフィールドの「聖書研究」の本が1928年(昭和3年)、1937年(昭和12年)と相次いで美濃ミッション編集部訳の名前で名古屋の少数気鋭の一出版社である一粒社から出版されているが、これこそ山中氏の若き日の研鑽の跡ではなかろうかと思う。この間、彼は30代そこそこの歳であったが、美濃ミッションの聖書学校の校長であり、またミッションを代表する一人としてよく神社参拝拒否を主イエス様に対する忠誠と信教の自由の証として戦った人であるからである。山中氏を尋ねての旅はまだまだ尽きないが、一先ず今日で終わりとしなければならない。

(※昨日いただいたクリスマスカードにこの写真と以下の文章が添えてあった。「今年は鞍手の家の軒先で、かわいい4羽のツバメが生まれました。ひながかえると親鳥だけではなく、仲間のツバメたちがかわるがわる餌を運んできます。ひなたちは大きな口を開けて待っています。(略)ひなの巣立ちの日、玄関前の電線に、20羽ぐらいの仲間のツバメたちが、勢ぞろいして、巣立ちを見守っていたそうです。(略)」)

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