2018年12月6日木曜日

純粋な信仰とは何か

私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした・・・しかし、・・・万が一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。(2コリント11・2、3)

 山中為三氏については、いつどこで生まれ、何歳で召されたか一切わからなかった。ネットで可能な限り調べたら、京都府の出身であること、また、彼が柏木の聖書学院で学び、外国語が堪能であり、翻訳書をふくむ二、三の著書があることまではわかった。詳細については現在調査中であり、次の機会に譲りたい。その代りに、彼が深く関わった「美濃ミッション事件」を通して知ることのできる、それぞれの信仰者の証を探ってみる。

 その筆頭は4名の子どもたちの一途な信仰である。学校行事として神社参拝に全員が赴いた時に、自らの信仰ゆえに(偶像崇拝はできないという)参拝に参加せず、早退を申し出た行為である。次に、学校から、あくまでも国民教育の一環であるから、キリスト者と言えども、参拝すべしと強要がなされた時に、それに抗議すべく、校長に面談に行った美濃ミッションの責任者セディ・リー・ワイドナー宣教師の行動である。

 これらはいずれも1929年9月のできごとであるが、その半年後の1930年3月にはこの行為を問題視する大垣市議会の様子を新聞が報じ、非難が美濃ミッションに集中する。その中には別の現職校長でありかつキリスト教会員である人物からの非難の声も新聞には載せられた。「自分たちは神社参拝をする。ワイドナー宣教師の信仰は狭量であり、クリスチャンとして迷惑千万である」という趣旨であった。

 その後、1933年の「伊勢神宮参拝拒否事件」が起こる。これも美濃ミッションに出席する人たちの子弟が関与する同様の事件であり、ますます美濃ミッションを主催するワイドナー宣教師は苦境に立たされる。美濃ミッションが反国家的であるとして、路傍伝道をする信者に対する殴打・投石、挙げ句の果てには集会所の焼き討ちにまで向かう恐れも生ずる不穏状態に陥った。さながら使徒23章のようであった。

 このような騒動の只中で信仰を守り通したのが、ワイドナー宣教師、山中為三氏をはじめとする当時の美濃ミッションに関わる人たちであった。ある時は集会で賛美歌を歌うことも禁止された時があったようだ。その時、ワイドナー宣教師は「来日以来賛美歌を禁止されたのは大正天皇崩御の時だけであった。今日はそれ以来の重苦しい暗い1日であった」と禁止させた警察に述べた所、警察はいたく恐縮し、それ以来禁止が解かれたそうである。類まれなるワイドナー宣教師の知恵である。

 その後、天皇崇拝は外国人であるワイドナーにはわからない、われわれは日本人クリスチャンだから、天皇を尊崇するあまり、イエス・キリストは第二順位になるのだと言わんばかりだったキリスト教指導者に対して「あなたのその天皇に対する熱情を、あなたのために命を与えてくださったイエス様に対して持ってください」と言ったそうである。それだけでなく、9月1日読売新聞が「美濃ミッション 聖書の”神”以外は一切排撃 危険な思想に対する警告」と全国版で報じた時、意気消沈している人たちを前にして、「みなさん、主を賛美しましょう。我らには日本全国にこのような広告を出すお金はありませんから!」と喜びと確信に満ちて言ったそうである。

 一方、このワイドナー宣教師の明確な態度表明について行けず、8名の主にある教役者が美濃ミッションを去って行ったが、ワイドナー宣教師は「葬式よりもつらい」気持ちで見送ったということである。『預言通覧』に「教会は神の『めぐみのすぐれて豊かならんことをあらわさんため』〈エペソ2・7〉の者にてあり、かつまた小羊の伴侶なるがゆえに、その配下に対する途は、正義をもって応報すること、能力をもって悪を圧倒することよりも、むしろ愛と情けとにおいて神の祝福を持ち運ぶことにあるべし」(『預言通覧』首藤著127頁)とあったがまさにワイドナー宣教師の心はそうであった。

 多くの宣教師が日本での宣教活動を続けるために時の政府・国家の方針(宮城遥拝、天皇崇拝)に膝を屈し、妥協して行った。また日本国内のキリスト教指導者たちも同じ態度を取った中で、ワイドナー宣教師、山中為三氏たちのとった態度はまさに冒頭の聖句の示すところに従ったまでである。山中為三氏が戦後、自由を得た中で小さなパンフ記事(多分彼の最後の作品ともいうべき)『クリスチャンの希望(キリストの再臨)』を書いたのもその彼の覚悟を遺したものでないかと密かに思う。

 さて、当のワイドナー宣教師は女性であった。そして1939年、脳内出血を患い米国への帰国を決意し、傷心のうちに日本を離れざるを得なかった。しかし、日本出港の翌日12月24日、太平洋上より天に召されたということである。

 そして、その後1942年3月26日、山中為三氏らは「治安維持法違反」で検束、留置、1943年9月より投獄され、1年半ほどの獄中生活を余儀なくされる。

(この項はいずれもhttp://www.cty-net.ne.jp/~mmi/pdf/minojiken/pdf_minojiken.pdf を参考にまとめました。)

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