2023年10月20日金曜日

愛ありてこそ(上)

鶏頭の 堂々たるは 愛のゆえ
 10日ほど前、古利根川を散歩中にこの鶏頭を目にした。そのあたりには草花が少なく、えらくしっかりと立っている姿に思わず敬意を表したくなって、しゃがんでカメラに収めた。すると、通りすがりの方が、うしろの方から「その花は主人が水やりを続けているのよ」と声をかけて来られた。ふっと見上げると、何とその方はいつも一緒に礼拝をしている方ではないか。

 一人生えとばかり思っていたが、そうか、そんな愛の支えがあっての鶏頭だったのか、と思わされた。一方、そのお世話をなさった方が、身近な人だったとは驚いた。途端にその鶏頭は二重に親しい草花となった。

 そう言えば、かつては現役時代、電車の中で毎日見かける方は、声を掛け合うわけではないが、私にとっては結構「仲間」だった。今や、それは散歩道で行き交う人たちに変わっている。何らかの形で定年退職した人々が健康のために歩いているのだろう。たまたま声をかけて来た方は知人であったが、そうでない方が圧倒的に多い。二度とお会いしない散歩道かもしれない。行き交う人の健康と幸せを祈る者でありたい。「袖擦り合うのも多生の縁」と言うではないか。

 かと思えば、このようなこともあった。バス車内でのことである。1994年10月、初めてドイツに一週間余の予定で、みなさん(200名)と共に聖書を中心とする「喜びの集い」に出かけたことがある。その旅行は空路東京からミュンヘンを目指すものだった。飛行も無事に終わり、いよいよ西南ドイツの現地(ミヘルスブルク)へと高速バスに乗り、アウトバーンを中継都市になるシュツットガルトを目指して走った。ノンストップだった。

 ところが、途中で私はにわかに便意を催した。私があまりにも苦しそうなので一緒に行った家内も大変心配した。ところが、どうしてか知らないが、私の座席の前方にいた方が、そのことを知られたのであろう、バケツに新聞紙のようなものを用意して、動くバス内で私の座席に近づいて来て「兄弟! この中にしなさい」「私がかこってあげるから」「匂いも大丈夫だから」と言ってくださった。

 そのあまりにもとんでもないアドバイスを聞くや、度肝を抜かれた私は途端に便意を感じなくなり、無事シュツットガルトまでの長時間のバス乗車に耐えることができた。思わず命拾いした思いだった。30年余り前のことを思い出したのは、他でもない、最近『嬉遊曲鳴りやまず』(中丸美繪著新潮社1996年刊行)という斎藤秀雄の生涯を描いた作品を読んでいたら、次のようなことが書いてあったことによる。

 斎藤が練習に打ち込んでいるときには、たった一言ですら言葉を差しはさめない雰囲気があった。小用を申し出ることができなかったために、練習場でお漏らしをしてしまった、後には日本を代表するヴァイオリニストになる小学生もいた。その時、指揮の飯守泰次郎がワイシャツを貸した。それは大人用のシャツだから裾は膝まできていた。(同書267頁)

 文中の飯守泰次郎さんは今年の8月15日に召されたが、斎藤秀雄(先生)の最後のお弟子さんと言ってもいい方だったが、音楽を愛しいのちをささげた斎藤秀雄の鬼気迫る「子供のための音楽教室」中のエピソードに違いない。私はこの話を知って、兄弟とは良く似る者だなあーと思わされた。それと言うのも、先ほどの、便意を催し七転八倒していた私を助けてくださった方は、その泰次郎さんのお兄さんの飯守恪太郎さんであったからである。

 困っている人を助けるためには何でもやるという気概、そこに類(たぐい)稀なるユーモアの世界が同時に用意されているのを、お二人の態度から教えられる。

 今日、国際紛争はウクライナ地方に、イスラエル・パレスチナ地方にと頻発し、全世界が固唾を飲んで見守るばかりである。弱者に多大なる犠牲を強いている戦争を、誰も止められない。窮地に陥って、互いに角突き合わせているばかりである。

 鶏頭は一人で立っていたのではない。水を注ぐ人がいたのだ。その水ももともと天から与えられたものである。私にとって堂々と見えた鶏頭も、主なる神の愛のしからしめる鶏頭であった。万物を統べ治めておられる主なる神の前に頭を下げる者が集えば争いはないはずだ。

島々よ。わたしの前で静まれ。(旧約聖書 イザヤ書41章1節)
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(新約聖書 ローマ人への手紙14章4節)
立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(新約聖書 1コリント10章12節)

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