秋空に 福音告げる 十字架 |
1990年9月から2010年ごろまでおよそ二十年間ほど、この幼稚園の体育館施設をお借りして礼拝を持たせていただいた。私たちは、ひとりひとり十字架にかかられ三日のちによみがえられたイエス様を信じて罪からの救いにあずかり、聖書にしるされている神のみことばを中心に、牧師制度に頼ることなく、信徒同士の自由な交わりを標榜している群れであった。
ところが、難問があった。集まる建物・場所を自前で持っていなかったからだ。思い余って、群れのご婦人たちのうち有志の方が、この園舎を見て、蛮勇を奮って場所を貸していただけないかと相談にあがられた。園の責任者の方は牧師であったが、別の街で牧師として働いておられたこともあって「あなたがたがこの施設を利用して、私の代わりに日曜日に神のことば・みことばを広めてくださることは大変ありがたい。どうぞお使いください」と言われた。
その方は、私たちの群れの責任を負っておられるベック宣教師の書かれた『実を結ぶ命』を読まれたのだったであろうか、また直接ベック宣教師とお話しなさった結果であったであろうか、私に「ベックさんは現代のパウロのようだ」とまで、言われた。こうして、私たちは、主のあわれみによって、お借りした施設をとおして、20年の間「キリストのからだ」としての教会を形成させていただくことができた。
その後、園の経営のご都合で園舎をあとにし、以後十余年毎週集まる場所を求めてのジプシー生活を余儀なくされている。その間、集まる私たちも高齢者が多くなり、病気にかかる方が身近におられ、またここ四年はコロナ禍のもと集まることそのことが不可能になってしまった。その後遺症は今も続いている。
昨日、私たちと違って、ビルの一室を借りて定常的に集会を持っておられる市川集会をお訪ねして、メッセージを語らせていただく機会を得たが、その一つの主題は創世記14章とさせていただき、今から四千年前の信仰者の姿を追った。今日に置き換えるなら、まさに中近東の戦争であった。その中に「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた」(旧約聖書 創世記14章13節)とあった。ヘブル人ということばの初出であり、どんな戦いであったかはわからないが、一昨日(10/7)、イスラエルとハマスとの間に戦闘が起こり、世界に新たな緊張が始まっている。
このように、私たちの集会の課題、また世界の課題は多いが、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(新約聖書 ヘブル人への手紙13章8節)のみことばを心に銘記し、十字架のイエス様を仰ぎ、歩みたいと思わされている。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(新約聖書 1コリント1章18節)
0 件のコメント:
コメントを投稿