2024年9月21日土曜日

主にあって愛する友の召天(上)


 今日は愛する友の誕生日でした。しかし、三日前の18日(水)、友は天に召されました。84歳を迎える直前でした。この写真の風景は、その友が元気な時、いや病を得てもその旺盛な精神力で半年前までは歩き続けたであろう古利根川べりの土手付近の光景です。

 友は持病の糖尿病や高血圧対策もあって、以前から一日一万歩もの距離を物ともせずに、古利根川沿いを歩きに歩き続けておられました。その友の話を聞いて、私もそれに比べると小距離でしたが、古利根川散策を実行するようになりました。言ってみれば、私にとって、古利根川散策の生みの親と言っていい方です。召された日の翌日、その友のことを思いながら妻と散策し、しばし友の元気なおりの姿を偲びました。

 友が、食道がんを患い、手術したのはほぼ2年半ほど前でした。病の進行とともに喉を切開し、それ以来、お話は一切できず、私たちとの交わりも筆談を通してするしかありませんでした。時折、お訪ねする折も、友は健気にもホワイトボードを持ち出し、文字を書き、私たちはその字を追うという手間のかかるものでしたが、しかし貴重なお交わりのひとときとなりました。

 さて、友は私たちより一足先に天国に召されて行ったのです。その日の午後、奥様から、「主人が何も食べなくなった。息を引き取るのが真近に迫っている。兄をはじめ親族がいるが、なにぶんそれぞれ遠方で高齢で病を得ている。来ていただけませんか」と電話がありました。前日に彦根で叔母の法事を終えて帰ってきたばかりでした。まったくこれは無駄のない主のご計画だと思わされました。一週間ほど前に病院にお見舞いに行った時も不思議と面会が許され、事態が深刻なことを理解していましたので、帰省中に召されることがあってはならぬという焦燥感を抱いていたからです。

 16日(月)私は叔母の法事に彦根で参加していました。同じ頃、友は、春日部の病院を出て、在宅看護を受けるべく自宅に戻られました。看護師さんの話によると、体は衰弱し切っていたが、お顔は晴々となさっていたそうです。しかし、家に戻って、まだ一、二日も経たないうちに、このように、臨終の時が迫ってきたのです。友は、急を聞いて駆けつけた私たちに笑顔で応じてくださいました。もちろん体はお痩せになり、頬がげっそりと落ちて、一目で闘病の激しさが窺われました。

 その間、奥様と私たち夫婦で、聖書のみことばを朗読したり、讃美したり、お祈りしながら時が経って行きました。友は、その私たちと声を合わせるかのように、しきりと口を動かしておられました(奥様のその後のお話によると、実際は呼吸を整える必要があってのものだったようですが)。静かなひとときが続きました。そのうちに奥さんはベッドに横たわり、身動きのできないご主人の耳元に口を寄せ、しきりと語り続けておられました。何分かするうちに、ご主人が反応を示されなくなる時が来ました。付き添っておられた看護師さんが、急いで瞳孔を確認され、聴診器で確認されると、もはや息をしておられない状態でした。友の霊はこの時、静かに天の御国へと移されて行ったのです。

 それからずいぶん時間が経ってから、お医者さんが来てくださり、死亡確認をしてくださいました。私たちは静かに、目の前でその後の処置をしてくださる看護師さんたちにおゆだねしながら、さらに時を過ごさせていただきました。その間であったでしょうか、室内に掲示しておられる何点かの絵があることに気づきました。そのうちの一点にジョルジュ・ルオーの『郊外のキリスト』という作品がありました(※)。

 私には、私たちがすべてを主イエス様におゆだねしているその姿に、ふさわしい絵と映りました。私は奥さんに箴言6章22節をプレゼントし、今後の歩みもふくめ、主のお約束を一緒に聖書をとおして確認させていただきました。別の病を得て入院中の一人娘のお嬢さんも、この時お父さんのために祈っておられたと思いますが、一方、春日部キリスト集会ではこの間、別会場で並行して集会が持たれており、その席で、友の8年前、2016年6月21日になさった証を聞いて、友のために祈って下さっていたそうです。それを終えて、馳せ参じて下さった方に最後、感謝のお祈りをしていただきました。その冒頭でピリピ3章21〜22節のみことばがその方の口をついて出てきました。私はそのみことばを耳にしながら、これこそ今の友に最もふさわしいみことばだなーと思わされました。

私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(新約聖書 ピリピ3章20〜21節)

 今まで臨終の席に立ち合わせていただいたのは、当然ですが、ほんの少しです。高校3年の卒業直後の1961年の母の死の時、1994年の6月の継母の召天の時とわずか二回です。(1981年に毛呂山の病院に入院中の父が亡くなった時は、ちょうど私は春日部の教会で礼拝をささげていたので、その死を知りませんでした。何も知らず、いつもの調子で電車を乗り継いで、父の大好物の品々をあつらえて、やっとたどり着いた先に、待ち構えていたのは変わり果てた父の姿でした・・・・)

 私は1970年に主イエス様を信じました。それよりも10年前の1961年に病院で息を引き取った母の死は救い主イエス様を知らず、信じていなかったので、悲しみ以外の何物も感ぜられませんでした。ところが1981年の父の突然の死は臨終にこそ立ち会えませんでしたが、敬愛する主にある兄姉の祈りに支えられ、父の死を主からの祝福と受け止めることができました(ローマ8章28節)。そして、1994年の、主を信ずるように変えられた継母の召天は家族にとり、最大の出来事でありましたが、その召天を真心から主に感謝するひとときとなりました。

 それに比べ、今回の友の召天のひとときは、静かなうちにも、死から生へ、死からの復活が何か見えるような思いにさせられました。そして、主が罪と死に苦しまざるを得ない私たちに、その愛がどんなに、私たちの分を超えた愛か、罪人を天国に導いてくださる出来事であるかをしみじみと味わせてくださる時であったように思います。もちろんご家族にとって愛するご主人、またお父さんを地上で失くす喪失感は増しこそすれ、その悲しみは尽きないと思います。しかし、主なる神様はきっと残されたご遺族を豊かに導いてくださると確信する者であります。・

※私が友人の家で見たものは、奥様が1988年に読売新聞に載ったものを見つけ、切り抜き貼り出して額に納めておかれたものでした。したがって白黒版でした。それにもかかわらす、上記のいきさつで惹かれてしまったのです。ルオーについてまったく何も知らない私にとり、下記のブログは、ルオーの作品の原色版であり、その解説を読み、大変な慰めを受けました。どういうどなたのブログかわからないのですが、以下にそのサイトを載せておきます。http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-320.html

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