2024年9月30日月曜日

主にあって愛する友の召天(下)


 今月も、今日で終わりです。苦しめられた長い夏の期間もやっと終わり、これが本来の秋の季節なのかと思いながらも、今度は今度でまた寒い冬に向かうのかと新たな警戒心で身構えている愚かな私です。結局、9月の投稿は近来になくわずか六通に留まりました。原因は、この9月の異常な暑さと、その中で鈍行列車による二度の故郷への往復、叔母の法事参加、友の召天などがあり、様々なことを考えさせられ、日常茶飯事の出来事を筆にするのがおっくうになったことにあります(一方で、世間を見ると、正月地震に遭い、再び度重なる豪雨の災害の中で「神も仏もない」と慨嘆された方の声の哀れさに胸が締め付けられます)。

 さて、今日の写真は8年前の2016年の2月26日(金)に撮影したものです。この時、私はALSを発症し、闘病されている山崎裕介さんをお見舞いし、お交わりするために、何回か私の友人をお誘いしては、お訪ねしておりましたが、そのうちの一枚に当たります。その時お連れした方が、今回召された方であり、にこやかに微笑んでおられる右側の佐久間邦雄兄です。

 私はこの写真の存在はもちろん覚えていました。ただ、今回佐久間さんの在りし日を記念するためのパネル作成の際に、この写真はご家族もご存知ないので、果たして採用されるだろうかと思いながら、作成の労を買って出られた方々に、恐る恐る提供したものでした。ところがこの写真は堂々とパネルに収められていました。その後、佐久間さんの奥様にお聞きしますと、この写真はご存知ないどころか、「主人が最も大切にしていた写真で、いつも飾っていたものですよ」と言われました。

 一方、私は別の用件で、「メフィボシェテ」という聖書中の気になる人物について過去にこのブログに何回か投稿した作品があるので確かめてみたいという思いに駆り立てられ、検索したところ、数編の記事の中に2016年2月28日(日)「満ち足りて」という題名で投稿している記事があることに気がつきました。そのカット写真には忘れもしない懐かしい紅梅が写っており、私の下手な俳句もどきも添えてありました。しかもそれには※がついており、事細かにその事情が述べてあったのです。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/02/blog-post_28.html

 当時、ALSを患っておられた山崎裕介さんが、町田の地から、新たな療養のため埼玉県の三郷の某施設に入所されたので、春日部在住の私は2015年の3月を手始めとしてほぼ1年数ヶ月の間何人かの友人を誘っては足繁く山崎さんを訪問していました。武蔵野線の三郷駅から、タクシーで行ったり、バスで行ったり、徒歩で行ったりしていましたが、1年後の2016年の2月26日に佐久間さんと一緒に行った時は、彼の健脚に信頼して徒歩で行ったのはよかったのですが、すっかり熟知しているはずの道先案内人である私が道を間違えてしまいました。三つ年上になる先輩の佐久間さんに余分な労を煩わせて、申し訳なく思ったことを思い出します。

 しかし、訪れた山崎裕介さんとの間でいただいたお交わりは恐らく佐久間さんにとっても忘れられないものだったのではないでしょうか。山崎さんの病室には確か「私たちの国籍は天にあります」と美しい字体で書かれた書が額に納められて飾られているだけでなく、町田集会の方々の集合写真が飾ってありました。見舞客である私は訪れるたびにALSの病魔に冒されて身体の自由を失っている山崎さんの言に励まされる一方でした。その日のことは上述のブログ記事に書いてある通りです。

 その後、山崎さんは2017年10月に召されました。そして7年後の2024年9月18日に佐久間さんが召されたのです。恐らく山崎さんは初対面の佐久間さんのことは十分ご存知ないまま召されたのではないかと思います。ましてや、その後今から2年半前、食道癌に端を発し、喉の切開に踏み切られ、発語できず意思の疎通を奪われ、孤独のうちにも奥様、お嬢様に励まされ、主にある友の祈りに支えられ、天に召されていかれた日々の労苦と主に守られなさった祝福は知る由もなかったでしょう(「召天の集い」の翌々日、奥様に2016年2月28日のブログ記事をお読みしてあげたら、主人の病床にある毎日もこの山崎さんと同じような性質のものであったと述懐されていました。)。しかし、今やお二人は居を天の御国に移して主イエス様とともにたくさんの先に召された友とともに交わっておられるのではないでしょうか。

 佐久間さんの「召天の集い」が25日の午前中に終わり、午後の火葬の間の待ち時間の間に私は佐久間さんの妹さんやその甥御さんたちと親しい御交わりをいただきました。その時、妹さんの話っぷりが、邦雄兄とよく似ておられ、改めて兄妹間の愛情の深さを覚えさせられました。その時、日野から足を運ばれた今63歳になる甥御さんは「おじさんには可愛がってもらった、何しろ私は5歳でしたからね」と新潟・新発田時代の佐久間さんの人となりを懐かしんで涙ぐんでおられました。お聞きするところによりますと、兄の故郷である新潟でのイエス様をご紹介する集いには、ご親族が何度か足を運ばれたそうです。ご家族、親族にはこれに限らず、尽きせぬ思い出がたくさんあることでしょう。

 また、この他、ここでは記せなかったご近所の方や、職場の方とも親しい交わりを持たれたことでしょう。一時期仕事のためタイに赴任され、現地の方との会話も不自由の中にもその生活が守られ、無事帰国し余生を過ごされました。今回の稀に見る闘病の生活も、ご家族の献身的な看病やお医者様など医療に従事される方の愛に支えられました(※)。その根底には、佐久間邦雄兄に不治の病に立ち向かう勇気を与えられた主イエス様の愛があったのではないでしょうか。多くの主にある兄弟姉妹の祈りに支えられた佐久間邦雄兄が天の御国に凱旋されたことを、主にある友として感謝をもってここにご報告せていただきます。とともに残されたご遺族のために、引き続きお祈りをよろしくお願いします。

※作家の大崎善生さんは佐久間邦雄兄とほぼ同時期に発病され、一足早く8月に亡くなられました。大崎さんは藤井聡太さんの王位就任に対して祝辞挨拶を奥様の代読でされました。その文章が東京新聞の昨年末に掲載されました。私はこの記事を読みながら佐久間邦雄兄の闘病、またご家族のご苦労が如何ばかりであるかを思うておりました。参考までにそのサイトを以下に示します。https://www.tokyo-np.co.jp/article/288793/1 この挨拶中で語られた「Mastery for service」という関西学院の建学精神は、まさにキリストに端を発するものだと確信しております。

そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。(旧約聖書 イザヤ書35章8〜10節)

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分をお与えになりました。これが時至ってなされた証(イエス様の十字架上での死と三日後の復活・よみがえり)なのです。(新約聖書 1テモテ2章4、6節)

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