2024年9月26日木曜日

主にあって愛する友の召天(中)


 久方ぶりに、白鷺の群れを見つけました。依然としてセミの声がかすかに聞こえてきます。暑かった今年の夏はまだ決して終わらないよ、と言わんばかりに。けれどもこの白鷺を見ていると、やはり秋は訪れて来たのかな、と思わされております。

 昨日は敬愛する友の召天の集いが持たれました。ご親族の方、ご近所の方、かつての職場の方、キリスト集会の方それぞれが集まられました。集いの中で次々と登壇(?)される方が、友のありし日のわざを通して励まされてきた次第を語られました。私はそれを聞きながら、何と友は皆さんに愛されたお方であったのかと思わされました。

 私もそのうちの一人として話させていただきましたが、私にとって最大の思い出は静かに召されていった友を交えて祈り、賛美し、みことばを拝読したその時の雰囲気でした。そこには少なくとも「泣き叫び」はありませんでした。「涙」はあったと思いますし、これからじわじわとその「悲しみ」は遺族である奥様とお嬢さんに襲ってくることだと思いますが、一方で天の御国でいずれ再会できるのだという望みがあることを確信しております。

 私は臨終の場で様々なみことばを友に良かれと思って朗読しましたが、前回も書きましたが、どうしてピリピ3章20〜21節を読んで差し上げなかったのか、友が召された夕方家に帰ってから己が不明を自らに責めていました。ところが、その夕の輪読個所の、ルカの福音書8章を読み進めるうちに、主イエス様の絶大な力と愛を改めて知って大いに慰められたのです。

 それはこういう次第です。この8章にはいろんなことが書いていますが、最終場面に書かれている一つの出来事があります。会堂管理者ヤイロの一人娘が死に瀕(ひん)してる時、ヤイロはイエス・キリストに救い(癒し)を求めてやってきて、主の前にひざまずきます。主はこのヤイロの願いに直ちに答えられ、ヤイロの家にと急行されます。しかし、その途中に別の婦人の病の癒しの求めがあり、それに応えられていたため、娘の死が間近に迫っていて、いっときも早く行って欲しいというヤイロの願いがむなしくも邪魔されます。そのうちに、家の方から連絡が入り、娘さんは死んだ、もうイエス様に来てもらう必要がないと伝わります。

 その報に接し、恐らく顔色を失ったであろうヤイロに主イエス様ははっきりと「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と言われたのです。そしてイエス様とヤイロが家に直行すると、案の定、家には娘が亡くなっていたのです。その後がどのように書かれているのか、ルカの福音書の記事を丸写ししてみます。52節から55節にかけてのところです。

 人々はみな娘のために泣き悲しんでいた。しかしイエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。・・・

 私はこのくだりを読んで大変慰められたのです。それは死者は主のことばによって生き返らされるという信じられない奇蹟です。そして、主にあっては、人の神様に応答する「霊」(いのち)こそすべてであり、イエス様は霊に呼びかけられるという事実です。生きている時に、どうしてピリピ3章20〜21節を友に読んであげなかったかという私の悔いは無意味であると思ったからです。

 友が息をしている間に私も有名な詩篇23篇はもちろんのこと、イエス様のおことばであるヨハネの福音書14章1〜3節をはじめとして様々なみことばを読ませていただきました。ただ迂闊にも落としたのがピリピ3章20〜21節だったのですが、私は知らず知らず人間の目で判断した、生と死に分けてしまっていて、主にとっては「死んだのではない。眠っているのです。」というご自身の復活を通して死に勝利された方の「死」に対する見方から離れてしまっていたことが分かったからです。

 その上、主のことばは様々ですが、どれ一つとっても無駄な言葉はなく、それぞれが主に応答する時の人間の喜び・力となるということを思ったからです。確かに、友の体は、昨日すぐに火葬に付されお骨に変えられましたが、主を信ずる者にとって、それが終わりでなく、主イエス・キリストが再び来られ、霊の眠りの状態から目覚めさせてくださる時が来るのです。

 藤本正高さんはその著書(『藤本正高著作集第二巻』162頁より)の中で次のように言っておられます。「主イエスには、人の死は皆寝た姿に見えるのです。キリスト再臨のときに目覚めるまで、寝ているに過ぎません。このことがわからない時に私どもは泣くのです。ほんとの意味の死は、人間が神から離れることであって、霊が肉から離れることではありません。」

 友の場合、生きている時、主の御声を聞き、主に信頼していました。それが友の信仰生活でした。友は息を引き取りました。その時、友の霊は肉体を離れ、主イエス様の身元に行ったのです。もはや肉体という姿で友と会うことはできません。しかし、霊はまさに主が再び来られる時、主の呼び声で一挙にヤイロの娘のようによみがえるのです。ヤイロの娘のよみがえりは再臨の時、私たち主を信ずる者が経験することをあらかじめ示す一つの予表ではないでしょうか。それがどのようにしてかはわかりませんが、友が召された日、自分の自宅に帰って私が強く示されたことです。

 最後にそのことを語っている聖書のことばを写しておきます。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(新約聖書 1コリント15章51〜54節)

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