2025年9月23日火曜日

I was born

 昨日は思い切って外出しました。ずっと家に引きこもりがちだった者にも(散歩を除いては)、秋風が、誘い水になりました。昔、「若者よ、書を捨て、町に出よう」と確か寺山修司だったかな、言ったという記憶があります。久しく親交のあった関西の友人が、関東へ引っ越して来て、いつでも会えると思っていたのに、10月には再び関西に戻ると風の便りに聞き、出かけました。

 その序でに妻も同道して、浦和の孫の家を訪問、午後は妻はそのまま次女の家にとどまり、私は友人と会いにバス・電車を乗り継いでスタコラ、スタコラと川越まで行って来ました。前日、1〜2時間のお交わりと約束した時は1時間が精一杯だと思っていたところ、話が弾んで二人とも時の経つのを忘れ、あっと言う間に2時間が経ち、妻のことが気がかりなので、渋々私は話を切り上げざるを得ず、再び浦和に戻り、そして春日部の家に二人して帰って来ました。

 友人は五年間関東に過ごしていましたが、私は彼が関東、しかも埼玉県内に来たとき非常に嬉しくなり、地続きの県内なのでいつでも会えると思っていたので、再び関西に帰ると聞いた時は泡を食ってしまいました。しかも、この間コロナ禍もあり、あっと言う間に、5年が過ぎてしまったのです。昨日の再会は、もちろん二人の間では時空の隔たりはなく、お互いに直ぐ胸襟を開いて話し合うことができました。いい秋のプレゼントをいただいた思いです。お土産に吉野弘の「I was born」「いのちは」「動詞・ぶつかる」などたくさんのお手製の作品をいただいて帰ってきました。

 「I was born」はもう一人の友人が今度京都で個展(※)を開くが、そのDMに共通する思想だと思いました。個展を開く友人は

「70年あまり自分の足で歩いてきたと思っていたけれど Be Carried いつも運んでもらっていた。生まれたときも I was born 受け身であった。 
”あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。”(イザヤ書46章4節)

と書きました。
※谷口幸三郎展 えをかくせいかつ Be Carried- 2025.10.3~15 CAFE GALLERY フクウチ 京都市東山区新門前通り大和大路東入切り通し上る西之町211番地2電話 075ー757ー7828

 私は昨日会った友人に、個展を開く友人のDMを紹介していました(もっとも、その友人も既にそのDMはもらっていたのですが・・・)。吉野弘はその「I was born」の作品の中で、彼のお父さんが、友人から蜉蝣(かげろう)の短い命とそれにもかかわらず、卵を抱える蜉蝣の雌の話を聞いて「そんなことがあってから間もなくのことだったんだよお母さんがお前を産み落としてすぐに死なれたのは。」と書いていました。

 産み落とす母の境涯も去ることながら、産み落とされたこどものその後も如何なる苦しみ悩みが訪れることでしょうか。しかし吉野弘は「I was born」と題したのです。そこには人知を越えた神様の愛があったのではないでしょうか。

 冒頭の写真は孫の家に並んでいた靴の数々でした。一人娘として小さい今からいかに愛されているかがわかると言うものです。一人っ子の私も82年前にこのような両親の愛を受けていたのだと思わざるを得ませんでした。顧みれば、主なるイエス・キリストは父なる神のひとり子でした。にもかかわらず、次のみことばどおり、私たちを愛するために敢えて私たちの罪の身代わりに十字架にかかられたのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネ3章16節)

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