今年は「暑さ」にしてやられ、朝顔やひまわりのような季節を彩る草花にも何となく縁が薄かった気がする。九月になり、いつも今頃は緑の中に一点注目を引く赤い花が見られるはずだが、まだお目にかかっていない。その赤い花の名前は言わずと知れた「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」であるが、より身近な俗名を久しく妻も私も思い出せないで散歩のたびに互いに困っていたが、二、三日前、私は夢の中で、妻は私との会話の中で「彼岸花」であることを突然ほぼ同時に認識した。
短期記憶のできない妻との生活を通して、色んな不便を感じるが、人の体が頭脳をふくめていかに精巧に作られているかを思う。夢の中で「彼岸花」と認識するのも不思議だが、妻が突然会話の中でそれまで発することの出来なかった「彼岸花」という名称をごく自然に口の端にのぼせた不思議さである。妻の記憶領域にはたくさんのものが横たわっていて、その原野からある瞬間「ひがんばな」と言う一語が浮かび上がってきたと推測する。
妻は二十数年前、まだ父母が健在のおり、せっせと絵葉書を作成しては、みことばを添えて出していた。その絵がチリも積もるも山となる形で随分たくさんの花の絵の集成となった。上掲の絵はそのうちの一枚で「彼岸花」を描いたものである。素人の絵であり、スキャンしたもので申し訳ないが、雨の中、一日も早い彼岸花にお目にかかれることを期待しつつ載せてみた。
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、種のことばは、とこしえに変わることがない。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1章24〜25、23節)
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、種のことばは、とこしえに変わることがない。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(新約聖書 1ペテロ1章24〜25、23節)
こんにちは。カルガモ親子と彼岸花の投稿を読んで、心温まりました。
返信削除吉田さんの生活とは全くかけ離れた、夫も子もいない一人暮らしをしています。「それはお寂しいですね」と返ってくることが多いのですが、本人は割と今の暮らしを楽しんでいます。血は繋がらないでも心は繋がっている他人が、私の周りにはいっぱいいるし、やりたいことはまだまだあります。いろんな生き方があっていいのですよね。精一杯生きていきましょう。
コメントありがとうございました。「血はつながらないでも心は繋がっている」ということばになぜか心探られました。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」とおっしゃっておられますが、イエス様は心の貧しい者の心の繋ぎ手なのだと思わされました。
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