2025年9月18日木曜日

秋ぢゃ!秋ぢゃ!と歌ふなり

 やっと秋が来そうだ。秋と言うと、人知れず口ずさむ歌がある。それはこんな歌詞だ。

  秋の日暮れに
  蓑虫ゆらり
  ぶらりぶらぶらしていても
  なぜか心は侘びしくて
  赤い夕日に願うても
  やっぱりこの世は風まかせ

 うろ覚えだし、自信がない。今流行りのAIでも明らかに引っ張り出してこないのだから、多分どこか歌詞が違っているのだろう。大学一、二年グリークラブに入っていたのでその頃教えてもらった歌に違いない。読者の方でどなたかご存知の方がおられたら教えていただきたいものだ。

 その代わりと言っては何だが、当時盛んに練習させられた「月光とピエロ」(堀口大學作詩 清水脩作曲)を昨日は男声四部合唱でたっぷり聴かせてもらった。その折の、と言っても六十年ほど前のこの9月10月の何とも言えない寂しさを思い出した。

 一方、週末帰省して結婚前に妻と互いに交わし、段ボール箱に仕舞込んでいた手紙を宅急便で送り、こちらで今朝これまた六十年ぶりに紐解いてみた。ほとんど封印していた書簡だが、1965年から1970年結婚するまでの五年間にわたる往復書簡である。双方とも福音を受け入れていない時の往復書簡から、もちろん、結婚前の妻が1967年に福音を受け入れ、私に勧めるが私は頑強に拒んでいた往復書簡が中心だ。たとえばこんな調子だ。

 やはり残念ながら信仰できそうにない。今日は吉本隆明『マチウ書試論ーー反逆の論理』を読んだ。これはマタイ伝について書いた評論である。大学時代から四、五回は読んでいるものである。そこにこういうことが書いてある。「すべて信仰によることは悪ではあるまいかとさえ考える。それは人間の思考をでなく、思考の意味を奪うからである」君がどんなに信仰の正当性を強調しようとも、僕には信仰というものは自己愛に過ぎないのじゃないかという懐疑がある。君にとって信仰が大事であるのは認める。それは科学、真理をも包む絶対的な真理であると君はよく言う。しかし僕はあくまでも科学者ーー論理の立場に立ちたいと考える。僕は絶対に聖書は熱心に君と一緒に読める。しかし信仰は別だ。どうかそのような僕を愛してくれないか。愛が魂の問題であることは同感なのだ。そしてそれが祈りになることも知っているのだ。僕は僕なりに謙虚に君を愛してゆける自信をもっている。こういう自信を持つことさえ神への冒瀆だと君は思うのだろうが、そこに僕は自己の責任を回避した人間の卑怯さを自戒するのだ(後略)(1969年1月22日)

 結局、このような私に対して主なる神様は私に上よりの愛の鉄槌を下された。以下はその記録の一つである。

 現在、その私は妻と聖書の輪読を日夜行なっている。もちろん、信仰があっての輪読である。全く、苦にならない。それどころか、日々聖書から多くの励ましをいただいている。妻が病を得ていて、先のことを考えると絶望することもある。しかし、主なる神様が妻を私を天の御国に受け入れてくださると確信でき、すべてを主におゆだねできる幸いを日毎に味わわせていただいている。

 例年にない暑い夏に閉口していたが、秋の到来とともに沈思熟考の日々としたい。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書 エペソ2章8〜9節)

1 件のコメント:

  1. 素晴らしい瞬間が撮れましたね。(文章はパスしますが)写真に拍手!

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