2019年6月5日水曜日

再臨の主を待ち望む生活


あなたがたが・・・生けるまことの神に仕えるようになり、・・・イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めている(1テサロニケ1・9〜10)

 メフィボシェテには、不忠実なしもべがいました。この男は、自分自身の目的を達成するために、王に彼のことについて偽りを語りました。(第二サムエル記)第16章の最初の節は、ツィバの行動についての記録です。彼は、自分の主人の地所を自分のものとするために、ダビデに対する親切を偽り、メフィボシェテの性格をけなしています。彼はダビデをだまし、中傷するために、自分の主人の身体的な弱点を利用しています。何という姿でしょうか。

 しかし、真実が明るみに出されました。誤解されていた者は、完全に潔白が証明されました。ダビデが帰還し、すべての問題が解決し、アブシャロムが場面から消え去ると、ただちに「サウルの子メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、爪も切らず、ひげもそらず、着物を洗っていなかった。」(19・24)

 これが、この忠実なしもべについての御霊の証言です。ダビデが遠くへ行っていた間、メフィボシェテは嘆き悲しんでいました。これは、主がこの地上におられない間、現在、聖徒たちはどうあるべきかの真実な模範です。不在の主との交わりが、クリスチャンの性格に徹底した分離の色彩を与えます。問題は、クリスチャンが何をすべきか、すべきでないかではありません。主の帰りを待っているすべての者がとるべき真実な歩みとは、情愛のこもった人がとるはずのそれです。主イエスのご不在こそが、真実な行動の全き動機なのです。「もしあなたが、キリストとともによみがえらされたのなら、主にあるものを求めなさい。」(コロサイ3・1)霊的な人に尋ねてみてください。あなたは、楽しんでもよいものをどうして控えるのですかと。彼の答えはこれです。主イエスが不在ですから。これが最高の動機です。

 私たちは、私たちの生活を規制する、冷たい無意味な形式主義的規則を必要としません。しかし私たちは、キリストご自身への一層熱烈な愛を必要としています。また私たちは、キリストの早急の帰りを願う、一層生き生きとした願望を必要としています。私たちはメフィボシェテと同様に、すでに神の恵み、尊い恵みを経験しました。私たちは、堕落の深みから引き上げられ、神の民の王たちの中に置かれました。ですから、私たちは主を愛さないでいられるでしょうか。私たちは、主の御顔を見たいと願わないでいられるでしょうか。私たちは、絶えず主の御旨を求めることによって、自分の行動を規制すべきではないでしょうか。もっとメフィボシェテのようになりたいものです。

 しかし、私たちはみな、私たちの憎むべき肉にあまりにも簡単に従い過ぎです。この世のものーー富み、誉れ、娯楽、趣味、教育などーーを、制御せずに楽しむことに走りがちです。そして、私たちがこれらのことを、クリスチャンの名と特権を放棄せずともすることができると空想するから、余計に制御が必要なのです。何と空しい、憎むべきわがままではないでしょうか。わがままはキリストの再臨の日に恥をかきます。 

(『ダビデの生涯とその時代』C.H.マッキントシ著247頁〜249頁より引用。)

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