2019年6月12日水曜日

お登紀さん(続々)二つの脱出劇

ミルトスの 白き花びら たおやかに

あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇56:8)

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)

 以前、このブログで加藤登紀子がよく泣く人だと書いた。そうして、これは私の書き過ぎではないかと思っていた。しかし、それからも私の期待(?)を裏切らず、彼女の涙の記事をいくつか見た。しかし、今夕の涙はこの時、その彼女の涙が値千金の涙でなかったのかと思わされた。今夕は「あなたに捧げる歌」の52回目で、題して「離婚からの脱出」であった。少し長いが、彼女の文章を拝借する。

 離婚という扉に手を置いて、疼(うず)くように愛(いと)しさが溢(あふ)れる日々。獄中結婚から八年、ゼロから自分の手で自分の暮らしを作りたいという彼の決意が、どれほど大切なものか痛いほどわかる。これまでなんとか私がやりくりしてきた今の暮らしは「俺のものではない」と吐き捨てた彼。ならばお互いを解放するしかない。
 答えは見えていた。
 が、なんとか粘った数ヶ月。やっと春が近づいたある日、「会社の若いのが結婚するんで、仲人をたのまれた。引き受けてもいいか?」と、彼が言った。
 「えっ? ということは、離婚は、なしなのね?」
 また、なんの説明もなかったが、重い鎖が外れた、ということらしい。
 嬉(うれ)しかった。もちろん私は、大賛成。
 その結婚式で、彼はこんな事を言った。「今日の花嫁さんは綺麗(きれい)ですね。僕は女房に、こういう結婚式をさせてやれてない、申し訳ないなと思いますね。」隣にいて、涙をこらえるのが大変だった私。変則的に始まった二人の結婚が、こうして少しずつ熟していくのだと、深く受け止めた。
 鴨川での新しい生活を一人で始めた彼の表情は、日に日に明るくなった。やっぱり、太陽いっぱいの自然力は有難(ありがた)い!

 まさに藤本敏夫・加藤登紀子夫妻の離婚からの脱出の一断面の記録である。時は1980年であった。

 私たちにも1981年ちょっとした「脱出劇」の時があった。それは長いトンネルのような重苦しい日々からの脱出であった。四人の幼い子供を抱え、この時、家内はお腹には五人目のこどもをみごもっていた。その春、父は突然認知症を患い、継母を連れて三間しかない私たちの狭い家に転がり込んできた。否が応でも、角突き合わせて共に過ごさざるを得なくなった。

 その時家長として、また一人息子として、かけがえのない父親を面倒見ようと必死だった私に対して、家内は「朝早くから聖書を読み祈っている主人に心も合わせず、かえって逃げ出したくて、子供たちと私だけで別居がしたいと言い張りました」とその当時を振り返って、ある体験記に書いたことがある。そんな危機状態の中で「脱出」が始まった。それはこの日、6月12日に、家内のお腹にいた赤ちゃんが誕生したのだ。それはまさに上から来るプレゼントだった。

 すべての労苦を一瞬にして忘れさせる赤子の誕生は、あれから38年が経ち、年ごとにいつの間にか、その感動が薄れて行ってしまっていた。しかし、その娘に離島に住む上の姉が今朝、誕生祝いをラインで書いて寄越した。それを見て、家内が「おじいさんが来てくれたんだよね。庭の額紫陽花を持ってね、(お産婆さんのところにまでね)」と懐かしそうに語った。するとパリにいる次男が「あれっ、おじいさんが召されたのは、あとだったのだ!」と感想を書き込んだ。一瞬にして私たち夫婦はあの日を走馬灯のように思い出すことができた。そして、ああ、これこそ主なる神様が私たちに上からくださる最大のプレゼント、上からしか来ない脱出のご褒美だと思い至った。

 願わくは、加藤登紀子さんがこのご褒美を望まれるようにと願わずにはいられない。と同時に昨年嫁いで今は私たちの親元から離れた娘に誕生日おめでとうと言いたい。ご主人を大切にね!

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