2025年7月18日金曜日

今時の世相を憂う

こぞの夏 蝉の抜け殻 早や見つく※
 「全学連は国際共産主義の手先である」1960(昭和35)年当時、高校生の私が耳にした当時の岸首相の言であった(と思う)。それに対して、私はまわらぬ舌で語るが如く、ペンパルとして紹介されていたカナダの日系二世の方に、「決してそうではない。みんな祖国に戦争の惨禍を二度と味わわせたくないから、反対しているのだ」と言う旨の英文を認めて送った。その返事はいただけなかったが、それが当時の高校生の一般的な風潮でなかったかと懐かしく思い出す。なぜそのような認識を持ったか、振り返ってみると、何と言っても新聞の力ではなかったかと思う。そんなに新聞をくわしく読んだ覚えはないが、少なくとも新聞が社会の公器としてその役割を十分果たしていた時であったと思う。

 ところが、あれから65年、世の中はすっかり変わった。第一、高校生にも選挙権が与えられた。その若者たちは、新聞でなくSNSがその情報源だと聞く。そのような中で、根拠のない(と思われる)排外主義が大手をふって世の中を席巻していると聞く。いつの時代も高校生の純真な心はそんなに変わらない(と思いたい)。今、踏みとどまって、何が正しいのか考えてほしい。遅まきながら、私の購読している東京新聞も多方面からその現象にメスを入れて報道している。外国人受容の方策について、日本人同士の様々な差別(感情)を放置したままで一足飛びに、議論がなされても決してためにならない。

 参議院選挙の結果、どのような政治世界が待っているか予断を許さないが、たとえどのような結果が出ようとも、一人一人の議員の方々が、政治家として歩む使命をまっとうして現実的で意味のある国会討論が活発になされ、政策が決定されることを期待したい。

※いつの間にか、蝉の声が樹木の梢の茂みから静かに聞こえて来る季節になった。蝉は地中からはみ出て、木々を登り、抜け殻を残し、巣立って行ったのだろう。栄枯盛衰、人の一生をモノの見事に体現させてくれる通過点の姿である。もはや我も抜け殻を残すのみ。一方、白粉花の可憐な次の姿もある。

河岸に 白粉花の 紅映ゆる

ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。(旧約聖書 申命記24:21)

2025年7月16日水曜日

モンシロチョウに寄せて

風そよぎ モンシロチョウ 舞い飛べり
「自由空間」という言葉がある。一匹のモンシロチョウが笹の葉や紫詰草やクローバーなど密生する空間を、自由自在に飛びまわっていた。その姿をキャッチすべくiphoneを片手に追いかけた。ところが、彼の描く航路には中々追いつけない。その航跡を描けるなら描いてみたい。せめてその羽を広げた優雅な肢体を撮りたいと思うのだが、これが中々どうして果たせない。

 辛うじて、笹の葉につかまって一休みする姿を撮ることができた。写真で見ると、笹の葉にしっかりと2本の足(?)を伸ばし、つかまっている(側面で見ているだけだが、反対側にも他の足があり、しっかりと伸ばしているのだろう。そうしないとバランスが崩れる)。全部横向きだから仔細はわからない。しかし、これまた口から出ているのか、頭の先にあるのか、2本の鋭角とも言うべきものが見える。あたり一面、圧倒的な緑が支配する中で、黒い触覚のようなものが見える。このような表現しかできない、昆虫をまったく知らない私の戯言(ざれごと)だ。

 モンシロチョウではないが、小学校一年か二年の時、学芸会で、「ミツバチ」の役柄を与えられて、舞台の上で、女の子たちが演ずる花の間を、次々と飛んでまわったことを思い出した。何かセリフを言ったはずだが、そのセリフはとんと覚えていない。幕の袖の下の向こう側の観客席では多くの父兄の方々が見ておられた。その学芸会が終わると、決まって評が下されていた。中には口さがない評もあり、それを母から聞くのも嫌だったが、母が丹精込めてつくってくれた羽をバタバタひらめかせながら、飛んで行った時、それまでの緊張から解放された気分を味わったことも確かだった。

 モンシロチョウに限らず、今やさまざまな蝶が目まぐるしく飛びまわっている。もちろん花の蜜を求めてだろう。暑さ一点張りのこの季節、彼らにとってはさぞや無限とも言える草花の間を今日も飛びまわることだろう。どんなセリフを口走っているのだろうか。そう言えば、ここ4、5日の間だが、静かな蝉の声が樹木の間から、集団の声となって聞こえ始めている。なぜか、静かな蝉の声に私は安堵の思いを覚える。生きとし生けるものの盛んな季節へと確実に世界は進んでいると思うからだ。

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(旧約聖書 イザヤ11:6〜9)

2025年7月14日月曜日

ハンゲショウの花

妻発す ハンゲショウと 口ずさむ 2025.6.29
 面白い草花の名前である。まわり一面、葦が生い茂っている一角に、この草花が白く点々と広がっていた。ダメ元と思い、思わず、何の花?と妻に問うたら、「ハンゲショウ」という草花名が即座に帰って来た。記憶のままならぬ妻が時折、本人も無意識のうちに発する名辞の一つだった。その名前の由来は「半化粧」にあると教えてくれた。嬉しくなり、我が口の端にも思わず「ハンゲショウ」と上せてみた。

 今も咲いている。ある時、そのあたりを再度見てみたら、その折には気づかなかった、木標が立てかけてあり、はっきり「ハンゲショウ」と墨字で記されていた。その時、思い出した。そうだ、この湿地の植生をくわしく観察しながら、その生態を明らかにしていた職場の同僚がいた、と。彼は生物の先生であった。五十年前のことである。その頃から彼はすでに生態系の変化に注意しながら観察を続けていたのであろう。

 昨今の温暖化のもたらす気候の変動、果ては住宅地まで山から降りてくる熊の出没が連日のように報道される現在、古利根川の川縁がいつまでも健在でいてくれと願わずにいられない。そう言えば、昨日の写真には載せなかったが、下の二枚も今夏覚えたカルガモの姿の一つである。

目を凝らし 鴨の車列 見る幸よ 2025.7.7
 六、七羽の鴨がまるで貨物列車の連結車両よろしく、あるいはボートに群がる人々の姿のように、川中を全速力で駆け抜けて行った。残念ながら土手からは大分離れているのでその詳細はうかがうことはできなかったが、この一団を見ることができたのは幸いであった。

相見互う カルガモ二羽 何語らう 2025.6.24
 実はこの水田にはもう一羽がいた。画面右奥にその姿が映っている。その一羽はさぞ寂しかろうと同情する。以後、この水田には二羽の鴨が時折姿を見せる。昨日のカルガモの姿は二羽のうち、その水田から画面手前の側溝に上がっていた二羽のうちの一羽を辛うじてとらえたものだが、姿からして画面左側のカルガモだと思われる。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(新約聖書 ローマ8:22〜25)

2025年7月13日日曜日

運のいい「チェーン錠」

二年越しのカルガモ君 2025.7.7(※)
 このところ、ブログからすっかり遠ざかってしまった。この間、何も思わなかった訳ではない。ただブログ作成は所詮己が存在の誇示に過ぎないのではないかと思うと、嫌になった。「世の動き」を見ていると、あれやこれや言いたくなるが、それも億劫でしょうがなくなってしまっていた。

 そんな私が筆を取ったのは、他でもない、「運のいい」チェーン錠に再び出会うことになったからである。6月11日に「妻の失くした『チェーン』に寄せて」という題で投稿したばかりだが、またしても、妻がチェーン錠を失くした。どこでどうなったか覚えがないと言う(これも短期記憶ができない彼女にとってはやむを得ないことなのだが)。前回とほぼ同じシチュエーションだった。礼拝を終えて二人で自転車で帰って来たが、玄関についても中々家の中に入って来ない。どうしたのかと思ったら「チェーン(錠)」がないと悄(しょ)げているのだ。

 またかと思いながら、やむを得ず、今回は私一人で帰り道をたどりながら探した。元々、帰り道は私の用事に妻までも付き合わせた負い目も私にはあった。しかもインクカートリッジを求めて、文房具店二軒(駅の東口のペンヤというお店と地下道を潜り抜けての駅西口の光文堂というディスカウントストア)を訪ねたが、どちらの店も日曜日ゆえに開いていず、結局足を棒に振るばかりで、ついていないことこの上もなかった。その上での「チェーン(錠)」紛失である。

 チェーン錠は図書館の駐車場で外して、家まで乗って来たのだから、その間のどこかにあるはずだ。妻は前回もそうだったが、「誰かが外して、それだから無いのではないか」と言う。もとより、そんなはずはない。どこでどうなったかわからないのだから、どうせ見つからないだろう。その場合は100円ショップで買い求めてやろうと、覚悟を決め、暑い盛りではあったが、図書館まで戻り駐車したあたりを念入りに探したが、果たして、「チェーン(錠)」はなかった。やはり無理だわいという思いに支配されていた。

 ところが、何と図書館から次の訪問先であるペンヤさん(あいにく休みのお店だったが)に向かったところ、お店の前の道路の真ん中に堂々と「チェーン(錠)」が「寝っ転がって」いた。まさか、こんな風にして見つかるとは我ながら不思議な思いがした。もはやわざわざ線路を踏み越えて西口の100円ショップまで行かなくっていいし、その上、最近開店したばかりのCOOPのお店が近くにあるので買い物も出来るしで、途端に心が軽く、陽気になった。その時、二度も持ち主に落とされてしまった「チェーン(錠)」が、またしても私に見つけられたことを思わずにはいられなかった。

 ああ、これぞ「運のいい」チェーン錠そのものだなあーと思い至った(持ち主の妻の不注意により落とされたのだが)。先ごろの鶴保氏の無責任な発言「運のいいことに能登地震があった」は、あまりにも当を得ていず、瞬間彼が何を言おうとしたのか理解できなかったが、こういう失くなったチェーン錠に二度まで出会えた私の経験こそ「運のいい」と言うのだと思い、改めて鶴保氏の失言の重さを噛みしめざるを得なかった。それにしても政治家がいつの間に、こんなふうに劣化してしまったのか悲しい。他者の痛みに対する想像力がまったく欠けている政治家があまりにも多いのではないだろうか。

 もっとも、主なる神様は、たとえその時は自分にとっては運が悪く思えても、そうとは限らないともおっしゃっている。運・不運に関する人間の価値観を越えた、主なる神様の深い愛(人のわがままな罪を赦すために、その身代わりとしてご自身を十字架に架け、父なる神様の命に従って、罰せられたイエス様の愛)が存在するからである。その愛を鶴保氏自身にも知っていただきたい思いがする。今回の彼の心ならぬ言葉であっても、同氏が「悔い改め」の心さえお持ちになるなら、新しく生きられる、それこそ「運のいい」希望の道は用意されていると思うからである。

 さて、件のチェーン錠は、夜のお惣菜の買い物をしてから帰ったので、都合一時間は経ったであろうか、家に帰るや、びっくりさせてやろうと思い、お惣菜の買い物袋の下に密かに忍ばせていたが、今や妻はチェーン錠のことはすっかり忘れていた。やむを得ず、件のチェーン錠の発見の委細を説明せざるを得なかった。妻は「奇跡だね」と喜んだ。二度までも路上に置き去りにされたチェーン錠ではあったが、路上で取り上げる際に感じた、「運のいい」チエーン錠だなという思いは、今度こそこちらの不注意で失くしませんようにという思いに変えられた。妻の同伴者である夫としても今後は十分注意していきたいものだ。

※今年も散歩のたびにカルガモ君の動向に注意しているが、昨年の今頃は水田を利用して子育てをしている様をゆっくり観察したが、今年は水田に三羽のカルガモを時たま見かけただけで、このように水田から上がって側溝を歩いているカルガモ二羽を身近に見るのは久しぶりなので撮影したが、こちらの行動に危険を感じたのであろう、一羽はあらぬ方向に直ぐ飛んでいってしまい、見失ってしまった。一時、橋の下が子育ての場所かと思ったが、そうでもなさそうだ。

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ーー主の御告げ。ーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55:6〜9)

2025年6月21日土曜日

ピーター・マーシャルの祈り

風そよぐ 薄野(すすきの)に蜘蛛 棲家あり(※1)
 ピーター・マーシャルという人物が昔いた。アメリカ上院付きの牧師である。以下は 『A Man Called Peter』(ピーターという男)という題名で妻キャサリンが夫ピーターの1949年のトルーマン大統領就任式でお祈りした状況・場面をその本の中で叙述しているものである。(同書11〜12頁より訳出※2)

 その朝は寒々として冷たかった。湿っぽい肌を突き刺す風がポトマック川の鋼のような灰色の川面を波立たせていた。ペンシルバニア通りの広い立ち入り禁止の一帯は紙やがらくたのようなものが風で吹き飛ばされ、その風が連邦議会のドームに吹きつけ「ヒューヒュー」と唸っていた。

 ワシントンの至るところで期待感がみなぎっていた。大通りに沿って何週間もかけて積み上げられてきた材木のかたまりはついに屋根付きの観覧席へとしつらえられていった。街角という街角にはネービーブルーの制服に身を固めた特別区の警官が彩りを添えていた。灰色の街灯には小さなアメリカ国旗やトルーマン(大統領)とバークレー(副大統領)の写真が飾られた。赤、白、青の旗が至る所にあった。数時間もすれば合衆国大統領を祝って4万人の行進者や40以上の山車が7マイルの長さで縦列をつくることになろう。この日は1949年1月20日、大統領就任式の日だった。

 両翼を広げた重厚な連邦議会の建物の前で、私は12万人の他の人たちとともににわか仕立てにつくられたベンチに座って、前の貴賓席に場を占めている政府高官を眺めていた。ラジオ、テレビ、映写技師たちは新しく造られたひな壇で器具を調整したりテストしたりするのに上がったり降りたりして大わらわであった。昼の12時に全米の耳目はこの瞬間に吸い寄せられることであろう。

 私はプラム色の革掛け椅子や緑色のカーペットの敷かれた通路を備える旧上院会議場で、ピーター・マーシャルがその瞬間祈ることを知っていた。彼は多くの新聞記者に「上院の良心」と呼ばれていた。彼の簡潔で真摯な地についた祈りは上院議員たちに次第に深い影響を与えつつあった。しかし祈りは親密なものであり、決して人が手軽に話すようなものではなかった。私は何度か見てきたようにその場面を描くことが出来る。ピーターが祈ると、人々は突然静まり返り、うやうやしく頭を垂れた。

「父なる神様、私たちはあなたを信頼しています。また、この国はあなたのお導きとお恵みにより誕生させられました。どうか合衆国の上院議員を歴史上のこの重要な時に祝福し、その義務を真摯に遂行するのに必要なすべてのものをお与えください。

 私たちは今日特に私たちの大統領のためにお祈りします。そしてまたこの議会を主宰する大統領のためにお祈りします。彼らがその務めを果たすために、精神的肉体的緊張に耐え得る健康をお与えください。またしなければならない決定に対する正しい判断力をお与えください。また彼ら自身の力を超える叡智とこの困難な時期の問題に対する明確な理解力をお与えください。

 私たちはあなた様に心からへりくだり信頼できますことを感謝いたします。どうか彼らが恵みの御座に絶えず行くことが出来ますように。私たちも彼らに対するあなた様の愛あるご配慮とあなた様のお導きの御手におゆだね出来ますように。

 私たちの主イエス・キリストの御名を通して、アーメン。」

※1 日々大変な暑さである。この暑さの中で生きとし生けるもの様々な工夫をして生き延びている。土手を歩くと彼方此方にミミズの屍が見える。この暑さで地中から出ざるを得ず、出たは出たで熱にやられての結果であろうか、哀れでならない。一方、伸び放題の葦やススキが繁茂している。オオヨシキリはその豊かな自然環境の中で「ギヨッ ギヨッ」と囀るに遑ない。そしてそのススキには蜘蛛がご覧のようなシェルターにこもっては餌を狙っている。写真では一つしか示さなかったが、もちろんたくさんの蜘蛛のシェルターがある。よくも彼らはこうして「家」を作るものだと感心せざるを得ない。

※2 2008年当時、この本を読んで痛く感動した覚えがある。原本はアメリカで戦後間もなくベストセラーになった本である。典型的なアメリカンドリームの体現者がイギリス・スコットランドから移民としてやってきたピーター・マーシャルその人の人生であった。その人生を妻であるキャサリンが描いた「夫の肖像」とも言うべき本である。幸い、邦訳がある。村岡花子さんの訳である。当時私はこの本が手に入らないのでやむを得ず英書を購入して読んだ。ところが今回探して見たら、今や国会図書館デジタルライブラリーで自由に引き出せ、プリントアウトして読むことが出来ることがわかった。だから村岡さんの名訳を拝借してもいいのだが、私訳を載せた。村岡さんはピーターの祈りの言葉を載せておられない。不必要だと思われたからである。しかし、どっこい、その祈りこそ今私が必要としている祈りの一つであるので敢えて載せてみた。ついでに言えば、村岡さんはこの一連の叙述(20項目)の冒頭に必ず載っている聖句(下のイザヤ書の聖句)をやはり省略している。それらの祈りや聖句の省略が村岡さんにとって、その後どう言う意味・経過を辿ったかはその翻訳書の後書きで少し書いておられる。一読の価値があると思った。機会があれば紹介したい。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html

まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。(旧約聖書 イザヤ55章12〜13節)

2025年6月19日木曜日

帰心矢の如し(下)

(急行する鴨二羽の動きは、私にただならぬ思いを抱かせて、橋の上を走らせた。そして了解した。二羽の鴨は橋の下の人目に触れぬ場所で子鴨を育てているらしかった。昨年の今頃はたっぷりと、水田の中で子育てをする鴨家族を観察させていただいたが、今年は橋の下か?という思いだった。それにしても、二羽の鴨の急行ぶりの先に家族があったとは・・・。この曖昧ではっきりしない画像からは想像していただけないかもしれないが。) 

 さて、昨日の続きだが、結論を言えば、朝京都駅での待ち合わせに失敗した二人だったが、不思議なことに午後に会うことができたのだ。その間の事情を示す手紙が残っていた。それに語らせよう。

「ドストエフスキー覚書森有正著筑摩書房読んでいました。再び感激しました。そこには魂の問題が美しく描写されているのに感動しました。邂逅!出会いの問題。とくにそのなかの「コーリャ・クラソートキン」はぼくのこれまでの苛立ちを訣別させるべく頭を緩やかに打ちました。啓示!ぼくは一層神の問題に近づいていくのを覚えます。そしてぼくは再び、君が京都駅で幾分憮然とした、自失した状態で階段を降りてきたときに感じた霊感に深い存在感を確認しました。実はあのとき朝から苛立っていた精神が諦めの境地から、かえって透明になり完全にある心的状態に支配されていたので、君の姿を物欲しそうに探すのでなく、ーーそういうときはえてして心の中は空虚なものなのですーー、心の奥底で信頼したときーーこれも変な表現ですが、こうしか表現できませんし、事実ぼくの行動は二枚の葉書を投函することに清々しい悦びを感じていたときなのですからね、ーー君が視界に入ってきたのです」

 今の京都駅(※1)は4代目、1997年に開設したようだが、1968年当時の駅舎は3代目にあたり、当時列車の時間待ちには2階にあった「観光デパート」をよく利用した。この時も私は散々労を尽くしたが、彼女と会えず、やはり失望感を抱いてだったと思うが、観光デパートの階段を上るところだった。ところが何とその彼女が上から降りて来たのだ。
 その後、彼女の帰る時間も切迫していて、もはや一刻の猶予も許されぬ中、京都駅から東海道線で草津駅(滋賀県)まで移動し、柘植(三重県)行きの電車に乗り換える合間の時間を駅構内で過ごす短時間の「デート」となった。淡い草色をした草津駅の壁面をバックに私は彼女の横顔をじっと見つめているだけで、十分だった。

 今回端なくも、二人の友人が待ち合わせに失敗したことをきっかけに57年前のこのことを思い出した(※2)。1964年から1968年のこの時まで不思議と私の彼女に対する片思いは細々ながらも維持され、京都駅での「邂逅」がなかったら、どうなっていただろうとも思う。友人の待ち合わせの失敗の原因は片方の方の朝寝坊であった。私たちの場合は、彼女が途中で友人に会い、その人と交わっていたために約束の時間に来れなかったことにあった。携帯電話がある今ではとても考えられないことだが、互いに連絡しようがなかった。私には彼女のその行為は許せなかったが、それこそ「無償」「無償」と自分に言い聞かせていた。

 しかもそれから1969年の3月12日の「交通事故」(※3)に至るまでの一年間、さらに1970年3月の受洗、4月の同じ京都での結婚に至るまでの一年間。都合二年間、栃木県の足利と滋賀県の甲賀と相離れた遠距離恋愛ゆえに毎日のように交わさざるを得なかった二人の手紙のやり取りを通しての苦闘があった。そのはしりともいうべき、京都駅から草津駅へ移動しての「邂逅」のひとときのことを指しているのだろうか、その頃の手紙の中で次のように記している。

 今度君と会って一番印象深い、あとあとまで残る君のセリフ「ほんでもやっぱりいづれは吉田さんは神さんのことがわかってくれはると思うわ」を大切にしようと思う。さようなら、ではまた。

 もし当時携帯電話があったら、私たちの間の信頼関係の葛藤は表面化しなかったであろう。今回二人の方が経験された行き違いは、お二人の間の主イエス様への信頼が友人関係を打ち壊すものとはならなかったと想像する。もはや「無償」とは、私たちの単なる道徳律ではなく、とりも直さず、私たち罪人に対する主イエス様の十字架上での贖いの愛をお知りになっていると思うからだ。そのお二人の間の素晴らしい愛こそ、別の機会に稿を改めて、詳しく触れてみたいと思う。

 最後に、昨日、今日と掲載させていただいた写真を通して急行する鴨二羽の姿を追ったのだが、「帰心矢の如し」とは鴨に備わっている主がくださる家族愛の発露に違いないと思う。一方私も最近、やっと主の身許に立ち返った我が身を思う時、「矢の如し」とは主なる神様が私たちに示される愛のすべてだと思わざるを得ない。

※1 私の京都駅との出会いは2代目に遡る。火事で消失する以前の駅舎であった。1950年が火災の年、私が小学校一年の時のようだが、消失間もない駅舎を微かに覚えている。
※2 このことは今回初めて書いたと思っていたが、過去にすでに書いていたようだ。
   https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/11/blog-post_30.html
※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(旧約聖書 イザヤ書55章6節7節)

2025年6月18日水曜日

帰心矢の如し(上)

 この日曜日、友人の二人の方が仙台に行く計画を立てられた。元々この話は一人の方が「父の日」に父親に感謝のプレゼントをしたいこともあって、前から行きたいと思っていた仙台行きを決行されたのだ。ところが残念なことに出発駅の大宮駅での待合場所、待合時間にその方が現れなかった。その方に付き合われた方は携帯電話を持っておられたが、肝心のその方は普段から携帯電話を所持しておられない。為す術がなかった。

 その旨、付き合われた方からの連絡で委細を知った私たちは祈らされた。結局一日の終わりとも言うべき夕方に、その方がたまたま朝寝坊し遅れたので、付き合ってくださる方に家から電話をしようとされたが、様々なことを考えて電話できなかったが、自分は一人で仙台に行き無事にお父さんにお土産も買って帰って来たことがわかり、ホッとした。

 それにしても、付き合われた方の思いはどうだったのだろうか、と思ってしまう。「無償」という言葉がある。その方は、自身の犠牲を顧みず、現れない友のために様々なことに気を紛らわせ、心配されたのでないかと思う。昔、学生時代『対話』という題名で日記(ノート)を作ったことがある。次に作ったノートは『無償』にした。それは何が何でも見返りを求めないで行動しようと思ったためである。

 実はこの日曜日の出来事を通して思い出したことがあった。1968年の3月5日のことである。京都駅で一人の女性と待ち合わせていた。ところが、時間が来ても一向に現れなかったのだ。何しろその二日前に、栃木県の足利から夜行を使って故郷彦根に帰ってきた。目的は彼女と会うためであった。どういう手違いか、その後何時間待とうが本人と会うことができない。

 結局丸半日棒に振った。やむを得ず、岡崎の美術館に行って、青木繁、黒田清輝、浅井忠などの作品を見て回った。今なら携帯ですぐ連絡が取れるが、彼女と会うのは諦めざるを得なかった。その腹いせもあってか、彼女の勤務先・兼宿泊先(滋賀県甲賀町)に京都駅前の喫茶店で二通のハガキを書き、投函した。この機会にと思い、彼女(今は妻)の所持していた書翰を探してみたら、二通ともあった。そのうちの最初の一通は下記のものだ。

「今日は本当に申し訳なかった。と言っても会えなかったのだから何を言ってみても恨めしい。誰が悪いのやら、僕が悪いのか、君が悪いのか、いろいろ努力してみたんだ。今駅前のシャトウーという喫茶店で書いています。頭は支離滅裂で、なんとも口惜しい。それでも岡崎の美術館で明治美術展を一時間ばかり見ていただろうか。あとはもう駄目さ。駅へ一目散。もっとも確実な改札所をねらったのだが。あと5時57分発の柘植(つげ)行きがあるのみだ。なんとしても会って帰らなきゃ、帰って来た甲斐がないというもの。」

(今日の写真は、二羽の鴨が橋の欄干から見えたのを遠くからキャッチしたものです。二羽の鴨は脇目も振らず一目散に画面の左方向へ急いでいるのです。思わず「帰心矢の如し」だなと思いました。その到着点は明日掲載します)

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(旧約聖書 伝道者3章1節)