昨日は今年3回目の家庭集会※ |
ところがお産のあと家内の世話に義母がかけつけてくれた。その時、私の内に、家内が何気なく義母と話しているのに、私が二人からはじかれていると思い込み、言い知れぬ嫉妬心がムラムラと湧いて来た。それは自然人としての幼すぎる私の感情であった。私はうろたえるばかりであり、その思いを押さえることができなかった。これから何日もこの義母がいるのはありがた迷惑とばかり、二人から離れたくなり家を出てしまった。くわしいことは覚えていないが、その行動で困ったのは何の責任もない家内と義母であった。私は自己の内側に起こっている感情を正直に言うこともできず、ごまかして何もなかったかのように家に戻り、何とか聖人君子として表面を装ったように思う。
どうしてこんな他愛もない私事を書く気になったかと言うと、昨日の
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7・12)」
という、みことばの実践に関わる隣人を真に愛することの失敗の一例になるのではないかと思ったからである。O.ハレスビーはそのみことばが実践できない人間の本来の性質を6段階にわけて考察しているが、このことを実際に実行しようとしてみても不可能なことを経験するだろうと順を追って述べる。そして、その後半で次のように語る。
「第五に、あなたは利己主義のただ中で、あなたはどれほど不誠実であるかを経験なさるでしょう。あなたは利己的ではないのだと人々に信じさせたいとせつに望むのです。人々があなたを誤解して、あなたは自己犠牲の行為をしているのだと考えるとき、・・・あなたは喜ぶのです。あなたが利己的な悪い行為をして、それを人々が知るようになったとき、あなたはなんとかしてあなたの行為を見上げたものに見せようとしたり、あるいは、そのことを利己的な理由でしたのではなくて善意をもってしたのだとか、風向きが悪くなると、あなたがそれを愚かさあるいは思慮のなさの中でやったのだと、人々を信じさせようとしてその言いわけをしていることを知るのです。あなたが利己的であったことを認めることは、あなたが愚かであったことを認めるよりもあなたにはもっとつらいのです。
第六に、あなたはご自分に対して誠実でないことを体験なさるでしょう。あなたが今気づきはじめなさることはまた、事実よりももっとりっぱな光の中で、ご自分の行為をご自分に説明してきかせようとしていらっしゃるということです。ご自分の悩んでいる良心を平静にするために、たくさんの技巧や細工を用いなさるのです。 (中略)
これらの簡単な、しかも根本的な道徳的経験をおもちになるならば、「あなたがたも、悪い者ではあっても」(ルカ11・13)ということばで、慎重に私どもの特徴をえがき出しておられるとき、イエスのおっしゃることは正しいんだということを、あなたはご自分で悟られることになるのです」(『私はなぜキリスト者であるか』21〜22頁)
主イエス様は、どんな人に対してもそのまま「わたしのところに来なさい 」(マタイ11・28)と手を差し伸べておられる。私が42年前のことを急に思い出したのは、それまで家内の世話を献身的にしていたように見えたとしても、たった一遍の自分の思い(嫉妬)を主イエス様のところに持っていかず、家を出て、ごまかし闇に葬りそのままにしたことである。葬り去るのではなく、そんなことはそもそも人間にはできない(現にこうして私はO.ハレスビーの書物を通して鮮明に昔の罪を思い出しているからである)ことを悟り、正直にイエス様の御前に出て罪を悔い改めることであったと思う。まことに
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(旧約聖書 エレミヤ17・9〜10)
人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7・21)
(※昨日の家庭集会〈引用聖句2テモテ4・6〜8題名栄光の冠を受けるには〉にも主イエス様を求めて遠方から来られた方がおられた。そして喜んで帰られた。主イエス様はうたがう者を信仰を持つ者へと変えてくださる方である。次回は3月13日(水)14:00からである。)