2013年4月28日日曜日

記念日の哲学

薔薇(アルバ・セミプレナ)が一斉に咲き揃った。花のいのちは短かし。
去る4月26日は結婚記念日であった。そのことに気づいたのは家内の方で、夕方に近かった。「今日は何の日か、知っている?」と問うてきた。そう言われて気づかないほどこちらも鈍感ではない。しかし、そこはすっとぼけて「何の日?」としらけるようなことを言う。家内も心得たもので、「結婚記念日には薔薇の花をプレゼントする人もいるのに」と言う。もう三、四年前ころか、前の家の老主人が、薔薇の花を記念の数ほどプレゼントすると聞いた。とっくに金婚式を過ぎているお方だから、50本以上になるが、本当なのだろうか、耳を疑いたくなる。10年を一本にしても五本になるが、当方としてみれば、一本だってする意志が無いのに。

しかし、これではまずいと思い、「卵焼きを作ろうか」と言ってみる。それとも、どこかへ食べに行こうかと話を持ちかける。いやいや、そんな贅沢はしておられないと、かみさんは宣(のたま)う。結局、一緒に台所に立つことにした。まずは皿洗いから。久しぶりの感がする。それでも、かみさんは機嫌が良い。分に過ぎた女房だ。メニューは家内の頭の中にある。タマネギの皮をむき出した。当方は横で、家内の指導を受けつつ包丁を一本手に取り、切りにかかる。次はジャガイモだった。そのうちタマネギを炒めてくれと言われる。「ハイ、ハイ」と、おとなしくその言に従う。ニンニクが刻まれ、かき混ぜる鍋に横合いから放り込まれる。次には人参。さらには何と言う名前か分からない野菜も刻まれ放り込まれる。最後は豚肉だった。

今晩のメニューは言わずと知れたカレーライスだ。煮加減の指導を受けながらも最終的には師範の手ほどきよろしく、二三十分もするかしないうちに夕食の用意ができた。 娘はまだ仕事から帰って来ない。二人で祈って食事する。43年間、こうして例外無く私が声に出して祈り、家内は私の心に合わせているが、最後には二人してアーメンと仲良く唱和するのだ。短いときがほとんどだが、たまに長いときもある。今晩のカレーライスはことさら美味しかった。普段より具は少ないが、私も台所に立つことができたからである。

43年前のこの日のことをともに思い出す。新婚旅行は名古屋で一泊し、翌日は上高地に出かけ、さらに美ヶ原など二泊三日だったように記憶する。出掛けにカメラを持参するのを忘れたので、負け惜しみで、心のカメラにキャッチしてあるから印象は鮮烈なんだと当時はうそぶいていたが、当方の心は、もはや、ぼろぼろでガタが来ていて、記憶しているところが断片的になっている。二日目に旅先でけんかをしたことを思い出すが、けんかの中味は双方で一致しない。一事が万事、このようであり、時の経過とともに記憶は当てにならない。ただ信州が二人の憧れの地であり、今日から連休にかけてその信州へ出かけようとしているのも不思議な巡り合わせだ。

やや時間あって、家内が、ところで、さっきの祈りの時、結婚記念日の感謝したっけと、真顔で問う。そう言えば、全然しなかったなと、互いに顔を見合わせる。三年前、子どもたちのお祝いでスコットランド、ドイツに出かけた。その時、ドイツではキリスト集会の方と一緒だったが、先週火曜日の葬儀をなさったご夫妻とはその時ご一緒だった。召されたのはご主人の方だった。奥様が葬儀の前、そのことを思い出し、「あなたがたは結婚して40年で、私たちは50年だったのよね」と言われた。そのことを家内にも話していたので、お互いにもう少し自覚があっても良かったが、つい忙しさにかまけて、双方とも、26日になっても結婚記念日であることをすっかり忘れていたのだ。まあー、お互いに、似た者夫婦であることは間違いない。でも、これからは、この日を大切にしたいと思う。
 
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。(エペソ5・31〜32)

一方、今日28日は1952年に、沖縄の方々の犠牲のもとに日本の主権が回復した日である(歴史年表を見ると、安倍首相の祖父岸信介氏は、この日、公職追放解除を受けたことが分かる)。 沖縄に米軍基地が存在する限り、主権は回復したとは言えない。しかし、国家意志は過去61年間、この日を祝わなかったが、今年から祝おうということだ。そこには何らかの強烈な国家意志があるはずだ。中国、韓国、北朝鮮、ロシアと周辺諸国と未だに戦後処理が終わっていない。主権の回復と言う限りアジア各国、ましてや沖縄の問題を放置したままで祝うのは何らかの政治意図があるのであろう。そしてにわかに浮上しつつある改憲への下ごしらえの動向と無関係ではないだろう。

43年間、結婚記念日を放置してきた私は来年からはその日を忘れないようにしようとしている。政府は、今年から主権回復の日としてこの日を記念日として国民に覚えさせようとしている。難しい外交関係を抱えながら、国民に愛国の心を植えつけたいのであろうが、やや唐突で性急すぎる思いがしてならない。私たちは、地上にある限り、罪の支配を受け、様々な矛盾する現実に直面せざるを得ない。永遠のいのちのことばである聖書に励まされ、個人としても、国民としてもまことの平和を求める者でありたい。

正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。(箴言14・34)

2013年4月27日土曜日

限られた人生、何を残すか(下)

K氏の棺の前に飾られた花々
かつて、20数年前、私の家に一人の日系アメリカ人の若い女性が短期間ではあったが、夏の期間ホームステイしたことがあった。彼女はキリスト者として教会で英語を教えるため来日したのだが、私はこの一人の女性を派遣してきた国、また家はどんなところなのか、できればその国、そのご家庭に行って直接教えを受けたいとさえ思い、大変感銘を受けたことがある。なぜなら、彼女の日常の所作、精魂込めて夜遅くまで教材の準備をしている姿、小事に忠実な姿、いつも笑顔を絶やさず、フレンドリーに接する彼女に驚嘆したからである。

今回、召された方の葬儀をどのようにしようか、ご遺族と話し合う機会があった。ところが、お母様も、上のお姉様家族も、下のお妹様家族も、またそのご子息の奥様も、隣の部屋に控えておられ、すべてはこのご子息一人にゆだねておられた。もちろん長女であるお姉様も必要に応じて顔を出され、意見を言われた。相談役となった私たちは(実は私ともうひとりの方がその相談に応じたのであったが)話し終えて辞去する時、帰りの車中、どちらからともなく、ご家庭に凛(りん)とした秩序があることを話題にした。すでに、お父様の亡骸は私たちが葬儀社の方を交えて話し合っているまさしくその傍に横たえられていたのだが・・・。この秩序こそ、召されたお父様がご家族に残された尊い遺産だと思ったのだ。

葬儀が終わり、火葬を待つ間、しばらく休憩室にいる時、長女の方が弟であるご子息に「今日の挨拶良かったよ」と話された。すかさず、「おねえちゃん、ありがとう。おねえちゃんのおかげだよ、おねえちゃんが良くしてくれたから」と答えが帰っていた。私はこの姉弟のさりげない会話を小耳に挟み、ますます、このご家庭を支配している主なる神さまのうるわしい秩序を見た思いがして、目が潤んだ。家族とは困難、喜び、楽しみ、悲しみを共にし、歩む共同体だ。そんな家の建設は家長の責任にゆだねられている。ここにも召された方と内助の功としてお支えになってきた奥様の祈りを主がお聞きになり祝福しておられるのだと思った。

「限られた人生、何を残すか 」と大上段に構えて自らに問うてみたが、結局出てきた答えは、自らが主なる神さまに従順であれば、自ずと答えは出てくるのだと思った。そしてむしろ、私たちには何も残すものは無い。また必要もない。それよりも、「限られた人生、何を受け継ぐべきか」と問い自身を変えた方が良いということに思い至った。葬儀に出席したすべての人に少なからざる感動を与えたに違いない、ご子息のご遺族を代表してなされたご挨拶の冒頭部分と終わりの部分を以下簡単に紹介したい。

「本日は私どもの想像を越える本当に大ぜいの方に、お足下の悪い中、ご参列いただき心から感謝申し上げます。私ども、私、信仰が無い、と言うことを申しました。キリスト教式、キリスト教じゃないとベックさん(さきほど)言いましたね、イエス様を信じる者のあるべき葬式はどうやったらいいのか、全く想像もつかないのですけれど、・・・こんな立派なお葬式をあげていただいて、本当に父は喜んでいると思うのです。」

「イエス様のもとに帰ったお祝い、喜びの集いなんだ、ということを言うようですね。なので、用意したお花も、両脇三つあるお花は白い、いかにも葬式らしい、これは贈っていただいた三つの花かご。 真ん中へんにあるのが非常に華やかなお葬式らしくない結婚式用の花(笑い)を用意している、そういうお祝いの花なんです。ですから、これは悲しみの雨じゃなくて、・・・喜びの雨が降っているんだな、という気がいたします。」

「父は○○看護士と天国で会いましょうと言ったんですけど、父の望みは、ここに一堂に会していただきました全員の方と同じ天国で再会したいと思っている、ということなんだろうと思います。それが父の望みでもあり、またこの葬儀の目的であるということが色々の方の祈り、ベックさんのメッセージを聞いて思いました。82歳の高齢でしたからね、葬式でこんなに集まっていただけるとは、本当に想像以上です。これも本当に父は多くの方に祈られ、そして多くの方の愛に支えられ生きてきたことがわかって確信しました。本当に感謝します。本日は本当にどうもありがとうございました。」

かくして葬儀は終わった。紙上でこのご挨拶をお読みになる皆様はどのようなことを感じられるだろうか。それこそ、冒頭述べた、かつての私の経験のように、このような挨拶を述べることのできた人が属する家庭とはどんな家庭か、外国人だったらどんな国の人なんだろうときっと思うに違いない。オズワルド・スミスは「The country I love best(私のいちばん好きな国)」と題して天国のことを語っている。

以上が、私があなたにお話しようとしてきた国です。あなたは行きたいと思いませんか。あなたはほかにこのような天国に匹敵するものを知っていますか。なぜ天国への旅の準備を今すぐ始めないのですか。それは困難なことではありません。あなたの心を、天国の主であられるイエス・キリストに向かって開きなさい。そして、イエス・キリストに、あなたの心の中に来て、あなたを救ってくださるようにお願いしなさい。そうすれば、あなたも私と同じように天国を愛する者となるのです。そして近いうちにこの人生の旅路が終わった時、あなたはこのすばらしい国へ行き、いつまでもいつまでもそこに住むのです。(同書9〜10頁)

K氏は82歳という限られた人生の中で、祝福された葬儀を通して、私たち後進の者に天国を指し示しながら、一足先に天に上られたのだ。かくして、お父様の天国行きは、ご子息をはじめとして遺されたご遺族に受け継がれるだけでなく、集われた方々全員への天国の招きの言葉となった。これぞK氏が求めてやまなかった子への愛の成就、主がなしてくださった大きなみわざだと言えないだろうか。

主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(詩篇2・7〜8)

2013年4月26日金曜日

限られた人生、何を残すか(上)

葬儀会場となった「悠久の丘」から新緑を眺める
「限られた人生、何を残すか」という題に思い至ったのは言うまでもなく、その宇都宮の方の召天をとおして考えたことであった。もとより「限られた人生」とは、自分のまわりで次々に知っている方々が亡くなって行かれる時、どんなに鈍感な人間でも心の奥底では感じざるを得ない、次は自分の番だという漠然とした不安・恐怖をともなう言辞ではないだろうか。しかし、自分は知らないが、生けるまことの神さまご自身がはっきりとしたご計画をもって、わが人生の終わりの時を定められていると知れば、心は自ずと平安に満たされ、限りある人生をどのように生きれば良いか、人は前向きに日々の生き方を選びとることができるのではないだろうか。

宇都宮の召された方は私よりほぼ一回り上の世代で、私とは10数年間、親交のあった方であった。もともと若い頃、肋膜をやられたということであったが、昨年腹部に動脈瘤ができても動揺せず、淡々としておられた。ところがその方はさらに8月には肺がんが見つかり入院されることになった。死を覚悟し、治療の道を選ばず10月以降は緩和ケアーを選択された。最後の月日は病から来る痛みとの闘いであった。こうなると家族の介護が絶対必要である。幸い三人のお子様家族は総力を結集して介護に当たられた。そのような介護の真っただ中、多くの主にある兄弟姉妹が足繁くお見舞いされたと聞いている。私もベックさんたちと一緒にほぼ一月前にお見舞いさせていただいた。

その時は、ベッドを起こしてまで精一杯応えてくださり、なお、みことば(=イエス様)に対する恐れと愛を切々と語られた。日によって、幻覚症状が出たりするのであろうが、私たちのお見舞いした、ちょうどその時は、そのような症状は出ず、元気で喜ばれたお交わりのひとときとなった。最後に皆で心を合わせお祈りしお別れした。しかし、その後、日ましに病は進行し、この日曜日の夕方に息を引き取られた。家族全員の見守る中だったと聞く。

最近の高齢化社会から言うと、82歳というその年齢は少し早いと言えなくもないが、主の最善のときであったことが十分うかがえた。なぜなら、お亡くなりになったその夜、ご子息から、その二週間前にお父さんと二人きりで過ごした、あとにも先にも無い親子水入らずの貴重なひとときのお話をお聞きしたからである。その中心は気がかりであった我が息子の心的状態を父親として最後にどうしても確認して置きたかったということのようであった。つまりご子息が神への不信仰と人への不信という心のわだかまりから解放されているか、いや、解放されて主イエス様を信じて欲しいと言うのが、そのお父上の最大の願いであった。

その時、ご子息はほぼ同時に自らも罹患した筋肉腫の病の中で、死の恐怖を前にして自分を主に明け渡す幸いを経験しておられた。決してご子息の前では弱音を見せない父親として、その方は、自らの癌に嘆くこと以上に、ご子息の癌発病を悲しみ、人知れず涙を流しておられたのでなかろうか。ご子息はご子息で、お父さんをふくめ身内の者にこの時期、癌発病を打ち明けていいものか悩まれた。それは主なるお方がお二人に期せずして同時に働かれたとしか言えないできごとであった。その総決算ともいうべき時が、病状の進行するせん妄状態の日々の中で一瞬訪れたお父さんの意識がハッキリ回復したその日、その時であった。父子は互いに自由に真情を吐露し赦し合うことができた喜びで涙を流されたという。地上での語らいの最後の時であった。

そしてその方は、その話の中でご子息に、自分の葬儀はおまえの自由にしなさいと言われたと言うことであった。その時、ご子息は長年小さい時から背負わされてきた父の期待感からやっと解放されて重荷がいっぺんに降りたのですと述懐された。葬儀をお前の自由にやりなさいと言われたその方はご子息のために詳細な自分史を一冊のノートにしるし渡されていた。私もその一部を見せていただいたが、一読して豊富なその方の人生のすべては一つとして主によって覚えられていない出来事は無いと言う気がした。第三者にはわからないかもしれないが、親子にして初めて分かる、しかも一本の「信仰 」というはっきりした筋金をご子息に託された、残された、そんな思いがした。

その葬儀が水曜日に行なわれた。当日は生憎小雨の降る一日であった。雨が降ると人の気分は滅入る。お葬式になれば格別だ。しかし、ご子息は最後のご挨拶の中で、みなさん、この雨は悲しみの涙でありません。喜びの涙です。人は死んで終わりではありません。必ず天国で再会できるのです、という意味のことを話された。これまで何回かの葬儀に臨席させていただいたが、司会者が終わりの締めくくりにそのような発言をする例は知っているが、ご遺族を代表する挨拶として聞くのは久しぶりのような気がした。

ご子息の口を通して、計らずも、主イエス様の福音は死を越えるもの、復活を喜ぶものとして語られた。まさに普通の葬儀とは異なるご子息の手作りの葬儀となった感があった。多くの日本の同胞が読経の続く中、分けも分からぬまま、ただ闇雲に空(くう)に向かって死を悲しみ、故人を偲ぶしかないのとは全く異なったものだった。はっきりとした意志をもって後事を一切お子さん方に託すことができたお父さんは限られた人生の中で「主イエス様に対する信仰」を残して召された。

ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。・・・ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。(創世記49・1〜2、33)

2013年4月25日木曜日

限られた時間

雨上がり 聖句看板 朝日受け
昨日は小雨の中、10時38分発の電車に乗るため道を急いだ。最寄りの駅は自宅からほぼ10数分で歩いて行ける距離のところにある。この日はちょうど拙宅で家庭集会が10時半から開かれる日にあたり、当然ホスト役として自宅におり、皆様をお迎えするのが段取りなのだが、この日ばかりは宇都宮で親しい方の葬儀が午後二時からあり、そちらに出席する方を選んだので、家庭集会は急遽別の親しい方におゆだねして出かけることにしたのだった。

家は10時25分過ぎに出たのであろうか。駅まで13分の行程であった。ぎりぎりであった。晴天なら自転車で飛ばし、楽勝であったが、雨が降り、その上、風もあった。傘を差しての歩行はなかなか思うように捗らなかった。腕時計を何度も見ながら、途中小走りに何度か走らざるを得なかった。これでは38分に間に合わない。だから必死であった。

一方では、朝から出かけて来るまでの行動を思い、一つとして無駄なことはなかったことに思い至る。久しぶりに来られたAさんと玄関でご挨拶もできたし、何よりも遠くから来てくださったメッセンジャーのKさん、また証をしてくださるGさんやそのご友人として初めて来られたUさんとも挨拶を交わせた。その上、司会を急遽お願いしたKさん、掃除、録音、台所のご奉仕をしてくださる方、実に様々な方と出掛けのごく限られた時間の中で、ご挨拶できたのだった。中には事情をご存じないため、私の喪服姿を半分いぶかしげにご覧になる方もいらっしゃった。

このようなことを思いながら、一秒一秒と時が経過して行く、「限りある人生」そのものを思わされた。このところ親しい方々の葬儀に何度か出させていただく。前日の火曜日にも吉祥寺の葬儀に出させていただいたばかりであった。私も70歳、そろそろいつ召されてもおかしくない年齢だ。そして人生とはどんなに長いように思えても、あっと言う間に過ぎ去って行くのがつねだ。駅までの決められた時間を我が身は急いでいるが、自分は知らないだけで、やはり主なる神さまが決められた召される時間に向かって、自分は進んでいるのだと、その10分そこらの間の歩行の時考えさせられたのであった。

もちろん、目下は乗れるか、乗り遅れるかの瀬戸際をかけての必死の歩行を続けていた。駅近くに来た時にはあの特徴あるジュラルミン色の地下鉄車両が下り線ホームに入って来るのが視野に入る。ああ、だめだ。乗り遅れだ。でも田舎と違って電車は一時間に何本も上り下りしている。とにかく急げるだけ急いでみようと駅に到着し、切符を買うのももどかしく二番ホームに向かうべく地下道を急いだ。この時、すでに時遅し、10時38分だった。構内アナウンスが流れた。「・・・のため、電車が遅れまして、まことに申し訳ありません・・・」38分発の電車も遅れていた。やっと間に合った。主イエス様の恩情にちがいない。

ゴールがいつかわからず、人は日々生きている。しかし、たまにはこんな視点も大事ではないか、「限られた人生、何を残すか」。明日はそのことを考えてみたい。

私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。(詩篇139・15〜18)

(次回の家庭集会は5月8日午後2時からです。) 

2013年4月19日金曜日

光に照らされることの大切さ(私たちの場合)(下)

光浴び モッコウ咲く 春暖
光に照らされることこそが大切です。光に照らされることとは何でしょうか。意識してイエス様を受け入れることです。ヨハネ伝1章12節に

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

とあります。一つの人格、すなわちイエス様を受け入れることが大切です。だから、聖書ははっきりと言っています。すなわち、どうか福音を信じ、イエス様のために、どうかあなたの心の扉を開き、イエス様を心に受け取ってください。イエス様は今、はいることを待っておられます。はいることを心から願っています。黙示録の中ですばらしい箇所があります。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示3・20)

食事をすることとは、一緒に食べることよりも、親しく交わりを持つことです。私たちはイエス様が扉をたたいているのを聞いても、扉を開けないままでいるのか。言うまでもなく、イエス様は強制しません。他の言葉で言いますと、鍵はただ内側に、人間の側にある、ということをたえず考えるべきです。人間がその扉を開かなければならない。扉を開いた瞬間、イエス様ははいってこられます。「わたしははいりたい」と主は願っています。どうでしょう。イエス様を受け入れるのでしょうか。この恵みの提供を受け取らないという(のでは)いつか後悔(すること)でしょう。遅く(なってしまう)かもしれない。

大切なのは光に照らされることです。どうしてでしょうか。光に照らされることとは「新しく生まれ変わる」ことを意味するからです。それから、「救い」を自分のものにすることです。また三番目ですが、光に照らされることとは「主に立ち返る」ことを意味します。テサロニ ケ第一1・9次のような言葉が書き記されています。363頁ですね。

私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

云々とあります。光に照らされる、照らされた人は、生けるまことの神様を礼拝することだけが本当の礼拝であり、他の礼拝全部が偶像礼拝であると知っているのです。私たちはいったいどうしてイエス様を信ずるようになったのでしょうか。わかったから、理解したから、勉強したからでしょうか。決してそうではない。前に読みました箇所、もう一回読みます。ガラテヤ1章

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

16節

異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、

云々とあります。二ヵ所で「啓示」ということばが出てきます。主なる神が御子イエス様を私たちのうちに啓示してくださることは、それが問題です。これこそがわれわれの生活の根本であるべきです。使徒行伝の14章にまた書いています。

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(使徒14・15)

云々とあります。光に照らされることが大切です。どうして、今話したように、光に照らされることとは、先ず第1番目、「新しく生まれ変わる」ことである、2番目、「救い」を自分のものにすることである。3番目、「主に立ち返る」ことを意味しているからです。そして、4番目、「悔い改める」ことを意味するからです。ルカ伝の15章、次のように書かれています。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ15・7)

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15・10)

悔い改めることは考えらないほどたいせつです。救われる条件です。悔い改めることとは、悔い改めとは、罪を認め、告白し、捨て、憎み、抑制することです。自分の罪を認めることとは、主から与えられる大きな贈り物です。誠実な告白をするということは、もっともっと大きな贈り物です。けれども、その罪人が自分の罪を憎み、捨てるならば、そしてもとどおりに抑制するならば、それは主なる神の目的を達したことになります。悔い改めることは百八十度転換することです。光に照らされた人は罪を犯したくないと思っています。もちろん日々罪の試みと力を感じます。また自分の弱さを知っています。光に照らされた人は、自分の力で自分を救うことは絶対にできないと悟った人々です。 光に照らされた人は自分で自分を救う努力が無駄であることを教えられた人です。

もう一つ、光に照らされることとは何でしょうか。「赦し」が提供されている、ということです。これもすばらしいことではないでしょうか。主を信じ、救われた人々は次のように言うことができたのです。エペソ書1章7節

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

ローマ書の中で似ている箇所があります。3章24節

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

とあります。私たちはイエス様の働きによって、イエス様の流された血によって義とされました。ですから、私たちはイエス様の働きによってのみ、義とされるのです。 私たち自身の行ないや手柄によっては決して救われ得ない。義と認められない。われわれの義とされる根拠はただ一つ。それは何でしょうか。それはイエス様のシミのない義、すなわち汚れたところのない正しさ、私たちが当然受けるべき刑罰をイエス様が支払ってくださったこと。ここに私たちが義とされる根拠があります。

私たちは、免れがたいただ一つの選択を迫られています。私たちは、自分の罪を欲しいか、それとも十字架にかかったイエス様を欲しいかのどちらかです。私たちは罪過の赦しを受けたと言えるでしょうか。その咎が赦され、その罪が消される者は幸いであると、3000年前にダビデという王様は告白して証したのであります。光に照らされることとは考えられない(ほど)大切です。なぜならば、それによって新しく生まれるし、「救い」を自分のものにすることができるし、「主に立ち返る」ことも体験的に自分のものとすることができるし、「悔い改める」ことこそがすばらしい贈り物、そのものです。

イエス様のところに行く人は何を経験しますか。イエス様は決して捨てない、喜んで受け入れ(てくださ)るということです。

註:かっこ書きにしたところは、いずれも語られたことばではわからないので、推測して補ったものである

2013年4月18日木曜日

光に照らされることの大切さ(ニコデモの場合)(中)

ボリッジ
光のない世界はどんなでしょうか。考えることができませんが、喜びのない世界であることは確かでしょう。光は主なる神から出る。いのちの力です。光は「いのち」であり、闇は「死」です。

神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

何と、簡単なことでしょう。何という神のみわざでありましょうか。パウロも書いたのです。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(2コリント4・6)

私たちはすでにこれを経験したのでしょうか。主なる神はわれわれの生活に、またわれわれの渇きのうちにすでに語りかけたのでしょうか。「光あれ!」人間の生活にも回復の奇跡が行なわれます。それは十字架への道です。もし神の霊がわれわれの心の奥底(に住まわれるなら)、その時からわれわれの心の目は開け、罪人であることを悟り、イエス様なしには永遠に滅びることを知ります。いくら顔が汚く、汚れていても、夜では見ることができません。そんなとき、灯りがついたら汚さに驚いてしまいます。上からの神の示しがないかぎり、光に照らされることがないかぎり、誰も自分の心の汚さを認めることはできない。私たちの不幸な暗い心のうちに、「光あれ!」と言う主の御声がかかったときに、私たちは新しく造り変えられます。もし、主なる神が今日われわれの暗い心に「光あれ!」と言われれば、われわれの心に光が射し込みます。

イエス様は約束してくださいました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

いのちの光とは、イエス様ご自身を持つことです。イエス様は光を与えるお方であるだけでなく、光そのものです。私たちはすでにいのちの光を持っているでしょうか。もしもイエス様に従わなければ、その光を持つことができません。選ぶことが必要です。私たちはイエス様の光を持っているのでしょうか。あるいは自分の闇を持っているのでしょうか。意味はイエス様を光として受け入れるか拒むかのどちらかです。

光あれ、すると光があった

と経験する人は本当に幸いです。光に照らされることとはいったい何でしょうか。まず言えることは光に照らされることは、新しく生まれ変わることです。イエス様は当時言われました。

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(ヨハネ3・5)

結局、新しく生まれ変わらなければ、まことの救いを経験することができない。すなわち、宗教を持つことは大切ではない。主の光に照らされることこそが大切です。当時のよく聖書を勉強して主なる神を恐れて、けれども、本当の満足を知らなかった男がイエス様のところに行きました。ニコデモという男です。ユダヤ人の指導者でした。非常な立派な尊敬された人格者でした。イエス様でさえも彼に何と言ったかと言いますと「あなたはイスラエルの教師である」と言われました。彼もほかの聖書学者たちと同じように、毎日祈るために宮に上りました。また、彼は確かに週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげました。しかし、彼は神の国を見ることができなかったのです。なぜなら、彼はまだ神の光に照らされなかったからです。彼ははじめからイエス様を「先生」として理解していました。しかし、彼はあとで光に照らされて、「主」を信じたに違いない。ヨハネ伝7章の中で次のように書かれています。

彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」(ヨハネ7・50〜51)

と彼は言ったのです。残念でした。(他のパリサイ人は)聞く耳がなかったのです。それからもう一回、ヨハネ伝19章39節で次のように彼について書いたのです。

前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。(ヨハネ19・39〜40)

と、あります。このニコデモは光に照らされたから、結局信ずるようになった。新しく生まれ変わった男になりました。光に照らされることこそが考えられないほど大切です。なぜならば、光に照らされることとは、まことの救いを経験することを意味しているからです。エペソによる人々にパウロは書いたのです。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2・8)

贈り物です。すばらしいプレゼントです。多くの人は、働きによって、行ないによって、勉強することによって、がんばることによって、救われると思い込んでしまったのです。「救い」を、働いて自分のものにしたいと思っています。しかし、神の光に照らされた人は、まことの救いは、完全にただで、価なしで得られること(だと知っています)。イエス様の与えられた救いは、お金なしに、値段なしに受け取ることができます。もし私たちがイエス様のところに行くなら、そして私たちがイエス様が十字架で完成された働きにまかせるならば、そしてまた、私たちがこの瞬間イエス様に頼るなら間違いなく救われます。

2013年4月17日水曜日

光に照らされることの大切さ(パウロの場合)(上)

咲き始めのクレマチス
引用聖句 使徒26・1〜20(新改訳聖書二版258頁)

今読んでくださったところは使徒パウロの回心についての箇所じゃないでしょうか。人生について一番大切なことは何でしょうか。パウロの経験したことです。パウロは上からの光によって照らされました。結果として、もうお手上げになりましたし、助けを求めましたし、それから、よろしく導いて下さい、という態度を取るようになりました。上からの光に照らされた人々は変わります。結局、新しく造り変えられるようになります。それから安心して前向きの生活を送ることができるようになります。今読みました26章13節〜15節の中で

その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

この最後の文章は、彼にとって何を意味しているか想像ができない(ほど重大であった)。彼の考え、経験したショックとはちょっと想像できない。その時の彼はイエス様を迫害するつもりはなかった。このイエスは大嘘つきだったし、詐欺師だったし、十字架につけられたのは当然だ。ですから、死んじゃったのは良かった(と考えていた)。ある意味で彼が理解できなかったのは、相変わらず殺されてしまったイエス様を信ずる人がいたのです。自分に与えられた使命はキリストに対する思い出を消すことでした。だから、イエス様を信ずる者を命がけで迫害しました。何人の人が刑務所に入れられようになったのか、殺されたのか、わかりません。結局彼の思ったのは十字架で殺されたイエスはもうおしまい。

けれども彼は聴いたのですね。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』考えられないことでした。彼は結局相変わらずイエス様を信ずる人々の大迫害者でした。けれども、光に照らされて天からの声を聴いてショックを受けました。

『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』

そして 答えは「わたしは、イエスである。』ということでした。パウロはこれだけ(は)予想しなかったでしょう。イエスという者はまだ生きているのか?十字架の上で死んでしまったのではないのか?このイエスに対する思い出を殺すために、私はエルサレムだけでなく、イスラエルの国だけでなく、外国まで行っているじゃない(でしょう)か。イエスは生きている。彼の経験したショックとは、もうちょっと考えられない大きなものでした。

けれども、彼は光に照らされた瞬間からイエス様によってとらえられてしまいました。閉じ込められた、監禁されてしまったのです。それから、イエス様のために生きたい、イエス様を紹介したい気持ちで一杯になりました。すなわち、上からの光に照らされたことによって、自分自身の本当の心の立場を、状態を見ただけでなく、イエス様の価値、イエス様の偉大さをも知るようになったのです。あとで彼は説明しました。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・12)

われわれも同じように言うことができなければ、ちょっと大変です。「私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けた」と。結局、私の心の眼は開かれたから、もうとらえられてしまったということです。あとで彼はもちろん当時のネロという皇帝を拝もうとしなかったから、刑務所に入れられるようになりました。(私は)刑務所に入ったことがないけれど、いいところではないと思う。いやー、大変だったと思う。棒で殴られたり、食べ物も食べ物と言えないものであったでしょうし、けれども、刑務所の中で彼は手紙を書いたのです。彼は刑務所に入ってから急に暇人(ひまじん)になったのです。手紙を書く暇があった。普通だったら、そんな暇がなかった。だから、そのために刑務所に入ったのではないか。刑務所の中で彼は書いたのです。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3・8〜9)

結局、イエス様とは彼にとってすべてのすべてでした。キリストを得ることによって彼は結局富む者となりました。イエス様によってとらえられたパウロの使命はいったい何なのでしょうか。もちろん、考え方・目的は全部変わったんです。次のようなことを聖書は言っています。

わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26・17〜18)

と、あります。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。(1ヨハネ1・5)

と、あります。主なる神は、ご自身を「光の父」と呼んでおられます。神に与えられる名前は一杯です。たとえば、「望みの神」。いい名前ですね。「望みの神」が生きておられるかぎり大丈夫。あきらめる必要はない、落ち込まなくても良い。「望みの神」が必要なものを必ず与えられます。この主とは「光の父」とも呼ばれています。

悪魔の罪の結果は荒廃と闇夜でした。神は見よ光(と言われ)ました。だから地は闇夜となったのです。けれど神のことばによって光ができたと聖書は言っています。創世記の一番初めの箇所ですが、創世記1章 2節と3節を見ると次のように書かれています。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

神にとって簡単です。ひとことば言ってできた。詩篇の作者も同じことを告白したのです。

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。(詩篇33・9)

(4月11日、都内の集まりで語られたベックさんの話が収録されたCDの聞き書きであるが、三回に分けて掲載する)

2013年4月14日日曜日

キリストを仰ぎ見て歩む喜び

※笠ヶ岳   2013.4.8
 わたしたちは、偽善的な「おとなしさ」を捨てて、聖いわざのために、積極的に働かなければならない。わたしたちは、キリスト信者の生活が、「競技」「競争」(第一コリント9・24)、「信仰の競技場」での「試合」であるという考え方を、たえずもつように心がけなければならない(ピリピ3・14、ヘブル12・14)。「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません」(第一コリント9・26)。

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20・24、第二テモテ4・7)。「そうすれば、私は、自分の走ったことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(ピリピ2・16※一部口語訳採用)と聖書の記者も言っている。

「賞品」は、優勝者の手に入るのを待っている(第一コリント9・24)。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3・14)。

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(第一コリント9・24)と、パウロは勧めている。

しかし、キリストを仰ぎ見る者だけが、勝利を得るのだ。キリストもまた、闘士であった。かれは、まず先駆者となり、勝利者となられた。それゆえ、かれは、わたしたちの模範、力の源、また賞品の授与者となられたのである。

今、わたしたちに必要なのは、贖罪主の人格をあらたに見、十字架を思い、その道に従い、信仰生活の実践に努め、わたしたちの上に豊かに注がれる神のめぐみを、感謝して受けることである。わたしたちは、神の霊の力によって、全く捕えられ、その力によって満たされ、わたしたちの召された目標にまで、神の力によって、走りぬかなければならない。

さらにこまかくいえば、苦しみや悲しみの試練にも耐え、思い煩いを棄て、すべての霊的倦怠を克服し、つねにあかしをたてる心構えと、積極的な伝道精神とをもたなければならない。兄弟愛と聖化、祈祷と神のことばの黙想が、わたしたちの日々の生活の特徴とならなければならない。これらのことができるようになって、はじめて、天国の栄光を目指して、着実な歩みをなすことができる。

これが、この本を書いた目的であり、また特に「ヘブル人への手紙」第12章の説いていることであるといってもよい。過去に語られた神のことばは、いまも、わたしたちの励まし、また戒めとなる。昔のことは、現在の神を信じる者に必要な、信仰復興への呼びかけとなる。

岐阜県立斐太高校の桜    2013.4.8
実は、この真理の中に、わたしたちと神との親しい交わりの秘訣が隠されている。大切なことは、十字架につけられ、死から甦られたキリストを親しく知り、今、自分が神の救いにあずかっているという確信をもち、贖われた者が天国でもつようになる身分を再確認し、キリストにある聖霊の豊かな祝福を喜び、感謝の心をもって仕えることである。

またそのほか、わたしたちは、自分の不完全さを率直に認めることを忘れてはならない。わたしたちは、「実践的聖化」を追い求める責任があることを、自覚していなければならない。有効な伝道のあかしをするためには、犠牲を惜しまない心構えと、この世のあらゆる試練に、着実に耐えてゆくことが必要なのである。祈りと神のことばをとおして神と交わり、全き献身、清新な信仰 、目標を目指す絶えざる努力、責任の自覚、聖なる熱情、キリストの栄光ある再臨のあることを喜び、それを待ち望む心をもたなければならない。

これらのことはみな、救いの泉であるキリストによって、はじめて実行できるのである。「あなたはわたしから実を得るのだ」(ホセア14・8)。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13・8)。人間の現実の経験の中に、現実に働かれる神のみが、わたしたちを助けることができる。だから、かれの人格にほんとうに、触れることができるという信仰と、かれが臨在されるということを期待する信仰をもたなければならない。かれはいつも(ピリピ4・5)、また、いたるところで、わたしたちとともにおられる。彼の臨在こそわたしたちの救いなのである。自分のささやかな経験をふりかえって考えてみても、キリストは、どのようなときにも、変わらざる助け手であることを知っている。この常に臨在される、生けるキリストこそ、どのような境遇にあっても、喜んで、助けることのできるおかたなのである。

(『信仰の栄冠をめざして』エーリッヒ・ザウアー著 長谷川真訳 序言より引用。こうして総頁266頁に達するこの本の叙述は始まる。それほど大部な本でもない。かと言って小著では決してなく、良書中の良書であることはまちがいない。だから、追々紹介していきたい、※笠ヶ岳の山頂目指して一歩一歩登るがごとく。) 

2013年4月13日土曜日

神の民は、目覚めなければならない。

高山・平湯から眺望する笠ヶ岳(?)2013.4.8
神の民は、神の招きの言葉を、聞いた人たちである。ただ、神の言葉を聞くことによってのみ、神の民になることができる。「信仰は聞くことから始ま」るからである(ローマ10・17)

この神の招きによって、神を信じる群れに、不思議な神の働きが始まった。その神によって贖(あがな)われた者については、わたしたちには、十分に考えたり、語ったりすることさえも、よくできない。かれらは、救われ、和解され、解放され祝福された者(コロサイ1・13〜14、エペソ1・3)、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(コロサイ3・12)、神のめぐみの器、力ある父なる神の子、王の子、天国の民なのだ。

まだ多くの不完全さや、弱さがかれらの中にあったとしても、神に属する者たちのうちには、神の聖霊が働いていることを、わたしたちは信じている。またわたしたちは、キリストに従う者のうちに、キリストの姿を見ることができる。実にキリストご自身を、わたしたちの兄弟たちのうちに見ることができる。お互いのうちに見出されるキリストによって、わたしたちは心の底から喜びをもつことができる。「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります」(詩篇16・3)。

このほかに、まだ大切なことがある。それは、神に属する者が、新しく目覚めることなのである。近年世界に起こった重大事件のうちに、神の激しい警告があった。それにもかかわらず、真に大きく、永く、広く感化を及ぼすような信仰の復興は、ヨーロッパのどの国にも起こらなかった。このことは、非常に悲しむべき事実である。

神の霊は、たしかに部分的な働きを、多くの町や地方で行なった。大衆には、福音が力強く伝えられた。キリスト信者は励まされ、信者でなかった人も、多数新しい信仰に導かれ、喜ばしい救いと感謝の歌が、教会に、天幕に、集会場に、家庭に響き渡った。これらの町や地方でなされためぐみの働きについては、わたしたちはどんなに神に感謝してもしきれない。

けれども、信者の中には、まだ世俗的な心が非常に強い。余りにも多くの、この世に対する執着と心づかいや、狭い利己的な考えや、自分の小さな群れの者だけをかばおうとする排他的な党派心をもったり、以前に意味を失ってしまったような、しかも、聖書の中にも、たしかな裏づけをもたない古い形式的なものを固執したり、あまり重要でないことを、強調し過ぎたり、また反対に、大切なことのほんとうの価値を、無視したりすることがよくある。

わたしたちは、真剣に、次のように、自問してみる必要がある。わたしたちの耳は、戦場のとどろき、爆撃機のひびき、石垣や壁が崩れ落ちて家屋が破壊される音、数百万の老若男女の死んでゆく呻き声で、すっかりつんぼになり、神の声が聞えなくなったのであろうか。

疑いもなく、そのようなところには、罪の力が働いている。それは、神の力でなく、神から離れて、この世で働く悪魔の力(詩篇2・1〜3)である。しかし、この破滅のとどろきの中にも、神は、悪魔の力を、背後から圧倒し、最後には、強い力をもって、かれらを完全に支配し(エレミヤ51・20、イザヤ45・1〜7参照)、「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」(詩篇46・8)と語られる。

それでは、どのようにして、神は、これから続けて語られるのであろうか。世界の指導国家は打ち砕かれ、町々は廃墟と化し、古い、かけがいのない貴重な美術品の多くは破壊され、何百万の人が殺されたのだ。神の審きにより、神を離れた罪人たちは、悲惨な結果を自ら招いた。

このような、悪魔に動かされている人類の歴史の渦巻きの真只中にあっても、神の民は、神の声を、はっきりと聞き分けるべきであった。力に満ちたあかし、熱心な伝道、犠牲的精神、聖化を求める心、兄弟愛の実践、永遠に生きる者であるクリスチャンの行ないとその実、それらのものを、この世の人に示すことが、どれほど必要であったかわからない。

しかし全般的に見るとき、現実は、それとは全くかけはなれて、それらのものは、ほとんど見られなかった。

わたしたちキリスト信者が、ほんとうに目覚めないで、どうして信仰のない者が、目覚めることができよう。わたしたち自身が「燃え」ないで、どうして「火」が燃えあがろう。わたしたち自身が、ほんとうに、「生命(いのち)」によって満たされないで、どうして、生命(いのち)のあるものが生まれよう。

神の民は、どうしても、目覚めなければならない。わたしたちは、生命(いのち)を与える上よりの力を、新たに、身につけなければならない。生きておられるキリストが、わたしたちのうちのたましいのうちに実在し、わたしたちのすべてのものを、捕えなければならない。

(『信仰の完成をめざして』エーリッヒ・ザウアー著長谷川真訳序言より引用。この本は第二次世界大戦終了後1952年ドイツ語で書かれたものである。日本での出版が1958年であり、比較的翻訳は早かったが、どの程度この良書が普及したのだろうか、心もとない。高度成長期前夜の日本人はキリスト者もふくめて見向きもしなかったように思える。この前の家庭集会のとき、一人の方はベックさんのメッセージを聞いて、心が燃やされたと言われた。それは霊の覚醒を指すことばだ。2013年の私たちが半世紀以上のこの一人のドイツ人の訴えの背後にある神の声に耳を傾けることは決して無駄ではない。明日は後半を掲載する。)

2013年4月12日金曜日

十字架につけられた救い主イエス(下)

主なる神から離れることは「永遠の滅亡」という刑罰を課せられることです。すなわち、罪を犯した魂は必ず死ぬと、エゼキエル書18章4節に書いてあります。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」この刑罰は背負われなければならない。これは、われわれの人間的正義感にも言えることです。どろぼうが自分の罪を告白したらそれで十分でしょうか。もし、彼が後悔したら、それで良いのでしょうか。いいえ、彼は刑罰を受けなければなりません。刑罰を済ませてはじめて彼は自由の身となります。裁判官の同情、裁判官の愛または理解が彼を救うのではない。刑罰を済ませることのみが彼を救うのです。主なる神の義は死の判決の執行なしには罪を赦すことができません。罪人は死ななければならない(のです)。

しかし、主なる神の愛は罪人が死ぬことを欲せず、神の愛は罪人を救いたいのです。ところが、主なる神の義と主なる神の愛はどんなにしてお互いにひとつになることができるのでしょうか。主なる神の愛は世界が始まる前、すなわち人間に罪が入り込む前にその答えを見出しました。すなわちイエス様が父なる神の答えです。父なる神ご自身はひとり子である神であるイエス様に刑罰を背負わせたのです。それは罪人たちが自由の身になり、生きるためです。これは救いの驚くべき秘密です。パウロはこの事実についてロマ書8章に書いたのです。よく知られている箇所です。ロマ書8章の32節ですね。277頁です。8章32節

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 

罪のない主イエス様は人類のための代表者です。父なる神はイエス様の上にこの世の罪を受け(させ)ました。考えられない重荷だったでしょう。ひとりの人間の債務はいかにその者を押さえつけることでしょう。一つの町、たとえば東京の人間の罪の債務は何と恐ろしく重いことでしょう。また、ひとつの民族および全人類の罪の債務も同様です。世界のこの債務の中には、強盗の罪、神を見失っている人々の強迫(観念)、落ちぶれてしまった人間の不従順などがあります。

聖なる主なる神の御子はすべてをご自身の上に背負われました。生まれたすべての人間はイエス様の死の原因です。すなわちイエス様は数百万の人のために死を背負われたのです。イエス様はすべての人のためにお亡くなりになりました。イエス様の上にはわれわれの罪も置かれています。イエス様は人間が多分少しも知らないで過ごすすべての罪を自分の重荷として担ってくださいました。預言者イザヤはすばらしいことばを使ってイエス様における主なる神の愛の奇跡を描写しています。有名な53章ですね。イザヤ書の53章の4節、5節。お読みいたします。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、 神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

とあります。私たちは、きよい(そして)聖なるイエス様が人類の罪を背負い、神を退けた刑罰をお受けになったということを、少ししか予感することができません。イエス様が次のことばを十字架で叫ばれたときがイエス様のもっとも苦しいときでしたでしょう。すなわち、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨 てになったのですか」と叫ばれたときです。これはイエス様が父なる神から見捨てられることを恐れ、おののいた瞬間でした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架の質問は罪人だけが答えることができます。なぜなら、罪人は、自分の刑罰をイエス様がわれわれのために背負われたということを知っているからです。いのちの君であるイエス様は確かに十字架で死なれました。死の確かなしるしは、すなわち、もし血が流されるとき、いのちはなくなるというところにのみあります。ですから、イエス様の血潮は流されねばならなかったのです。旧約聖書の一ヵ所読みます。レビ記の17章、 185頁になります。185頁。レビ記17章の11節。

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

与えられたいのちのしるしは十字架ではなく、血潮です。ですから、私たちは十字架によってではなく、イエス様の血によって罪の赦しを得たのです。血潮は執行された死刑のしるしであり、執行された裁判のしるしです。ですから、主なる神のみことばは非常にはっきりと、次のように言っています。血を流し出すことがなければ罪の赦しはない。ヘブル書9章22節。旧約聖書から引用されている箇所ですが、考えられないほど大切です。 

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。

 初代教会の人々は喜んで証し、告白しました。ヨハネ第一の手紙1章7節

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イエス様の血潮の中にはどんな力があるでしょうか。この血潮は地上と天において今まで罪が全然なかったかのように、その罪をぬぐいさることのできるただひとつの力です。この血潮は主なる神でさえ見ることができないほどきれいに罪をぬぐいさる驚くべき力を持っています。主イエスは罪の大きな債務のために、その支払いとしてご自身の血を与えられました。ですから、イエス様だけが次のように言うことができたのです。

あなたの罪は赦された!

と言うことができたのです。債務を支払った者だけが罪から解き放たれるのです。イエス様の血はすべての罪をおおうことができるのです。私たちがいかに深く罪の中に落ち込んだとしても、またその傷がいかに爛れても、いかにその罪が醜くても、私たちはイエス様の血によって癒され、まったく新しい人間になることができるのです。だから、イザヤは次のように言ったのです。イザヤ書1章18節

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

とあります。同じく43章、イザヤ書43章25節

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

44章22節

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」 

イエス様はご自身の血を流されました。ですから、主の恵みは罪の赦しをわれわれに与えているのです。マタイ伝26章28節。イエス様は次のように言われました。

これは、罪の赦しを得させるようにと多くの人のために流す、わたしの契約の血である。

と言われました。わたしの血。それはあなたのために流された。あなたは主イエスにどう答えたらいいのでしょうか。イエス様は私たちの罪を背負われました。イエス様の血は私たちのために流されたのです。私たちは今までにそのことを主に心から感謝したことがあるのでしょうかイエス様はすべてを成し遂げられました。イエス様の贈り物は条件付きではない。私たちはその贈り物を受けとる、というただ一つのことができるだけです。

受け取りなさい。信じなさい。

けど、ある人は言うでしょう。私は初めに私の全生活を整えねばならないのではないでしょうか。また、初めにすべてを再び良くしなくちゃならないのではないでしょうか。もしも私たちがこのようなことできるなら、私たちは救い主を必要としない。罪の赦しはただなんです。条件は一つもない。けども、主なる神より罪の赦しを得た者、そして主なる神と会う聖なるときを体験した者、また恐ろしい重荷から解き放たれたということを経験した人は他の人にそれを告白しないではいられなくなり、自分の生活を整えざるを得なくなり、犯した罪を償おうとするのです。しかし、これらすべては罪の赦しの「条件」ではない、「結果」です。

私たちはみな罪の赦しの確信を持っているのでしょうか。もし、そうでないなら、今イエス様の前に静まったら、イエス様は今日、今すぐ、罪の赦しをお与えになるにちがいない。そして、イエス様に 「主よ、あなたは私のためにも死んでくださる、私の罪をお赦しくださったことを感謝します」と言うべきです。われわれの罪をおおうものとしてのイエス様の血を私たちが受け取るのを妨げているのは何でしょうか。私はイエス様の血潮を理解することができないでしょうか。私たちはイエス様の血を理解することは必要ではない、生きている主のことばを信ずることだけが必要です。イエス様の血は罪をあがなうことができます。この事実がイエス様のことばを保証しています。それで十分です。たくさんの事柄を私たちは理解していない。それでも私たちはそれを信じま す。たとえば「電気」とは何でしょうか。「いのち」とは何でしょうか。理解することができません。

多くの人は、最初感じ経験して、それから信じてもいいと言います。もしそうしたら、われわれの感情の上に立った信仰は海の波のように揺れ動いて静まらないでしょう。もし船を動かないようにするためには錨(いかり)を甲板の上に投げ上げたのではなく、上げたとしてももちろん駄目です。錨を船の外の岩の底に投げねばならない。その岩の底は、しかしながら、われわれの感情ではないし、経験でもないし、気持ちでもないし、神のみことばです。あるいは、私たちはこの結果を恐れるのでしょうか。もしも私たちが主の手から罪の赦しを受け取るならば、私たちは主に義務を持つことになります。そして他の人々は何を言うのでしょうか、 私たちがもしもイエス様に従って行くなら私たちの生活はみな変わるに違いない。それを不安に思うのでしょうか。

しかし、もし私たちが恵みを逃がしたならば、われわれの死のとき一体だれが私たちを助けることができるのでしょうか。私たちは今あざけり、あなどられることを恐れているその人々のうちの誰が私たちの罪の債務を支払ってくれるのでしょうか。もし私たちが罪の不安に苦しめられているとき、そのような人々がわれわれにそれはお前のせいだとしか言えないのではないでしょうか。私たちが今人々を恐れ、そのためにそのあとで永遠に後悔しなければならないのは、それは全くおかしい、馬鹿げたことです。あるいは、私たちが意識してよく考えた上で、いや私はそう思わない、私はひとりで生きている、自分はイエス様の血を別に必要(とし)ない、と言うならばそれは身の毛のよだつような答えです。

もし、そうすれば、私たちはいつか燃えるような目を持ち、その腹立ちは恐ろしい、また地獄に滅ぼす力を持っておられるまことの神の前に立つでしょう。私たちはそのとき、自分の債務を自分自身でどのようにして支払うと言うのでしょうか。イエス様の救い以外にまことの救いはない。イエス様の血を受け取らなかった者は、 永遠に滅ぼされます。十字架につけられたイエス様による救いを知っていながらそれを認めない人は、将来がない、滅ぼされます。救いの道はただひとつです。 イエス様は次のように言われました。

わたしは道であり、だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことができない

多くの人々は、知らないか、欲しくないかのどちらかです。けども、聖書を読むと私たちは本当のことを知ることができます。だから天(国)と地獄はわれわれがイエス様、十字架につけられた主イエス様に与える答えを息を殺して待ち望んでいるでしょう。二つの答え方があります。私は今までと同じように自分勝手な道を行きたい、私の救いを私は救いを欲しくない。何とかして自分の力でやりたいから。これはもちろん大変な課題です。滅びへの道です。あるいは、「イエス様、私は駄目です、あわれな敗北者です。けどあなたは私のような者のために死なれたことを感謝します。あなたの血によって私の罪も赦されたことを感謝します。あなたを自分の救い主として受け入れます。」この態度を取る者は、もちろん決して後悔しません。

(次回の家庭集会は4月24日10時半からです。)

2013年4月11日木曜日

十字架につけられた救い主イエス(上)

昨日の家庭集会も多くの方が各地から集われた。久しぶりの方や初めて来られた方もおられ、中には18年ぶりと言う方もおられた。昨日のベックさんのメッセージを実況録音よろしく、聞き書きの形で以下に掲載する。引用聖句はそれぞれ1コリント1・23〜24、ガラテヤ6・14 であった。メッセージの前に藤井奈生子さんが日々の歌124番「十字架にかかりていのちに代えて」を賛美された。それを受けた形でメッセージは語られた

今の歌の内容も「十字架」でした。マタイ伝1・21

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださるお方です。

主イエスとは罪から救うお方です。そしてコリント第一の手紙2章2節に

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

とパウロは証したのであります。

聖書の中心とはもちろん人間が何を信ずべきか、やるべきかよりも、創造主はイエス様を通して何をしてくださったかということです。すなわち聖書の中心とは十字架にかけられた主イエス様です。

今日私たちが周囲を見ると人類には何か正常でないことが恐ろしい予感とともに感ぜられるのではないでしょうか。すなわち国々のなやみが私たちにそれをはっきり物語っているから(です)。たとえば、解決のできない経済問題、訴訟問題、精神病院、刑務所、家庭における困難な問題が、それです。それは正常ではありません。私たちが個々の人に会うときこれと同じことを知ります。すなわち個々の人々も正常ではない、ということです。情欲、憎しみ、腹立ち、不純、吝嗇(りんしょく)、うそ、利己心、これらのものが人間を醜くしています。しかし、正常でないのは他の人々だけなのでしょうか。

まず、自分がよく考えるとき、心の中に自分も正常でないということに気づくのではないでしょうか。そして自分はこの正常でないことを他の人々に隠したいのであり、自分にも隠したいのです。ですから、ひとりでいることができず、静かに話すこともせず、テレビやラジオ、つきあい、それから気晴らしを好むのです。けども、黙ることのない声が絶えず響いてきて、それは正常でない、と私たち(の心)を打ちます。何が正常でないのでしょうか。われわれの生活と全人類の調子っぱずれは何のためなのでしょうか。それには隠すことができない事実ですけど、たくさんの説明が確かになされています。すなわち経済恐慌のせいか文化や技術のせいだ、人のせいだなどと色々あります。

この世に示される色々な解決をもってしては私たちには少しも解決にならない。私たちに権威をもって何が正常でないかを言うことのできるのは、言うまでもなく天と地を創造された万物の造り主だけです。主なる神は世界と人間を造られたので、主のみが何が正常でないかを知っておられます。主なる神はわれわれにはっきりと明確に言っています。箴言の14章34節。一(ひと)文章だけですけども、

正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。

と言っておられます。今日の世界は主なる神が計画された世界ではない。今日の人間は主なる神がご計画になった状態ではありません。主なる神が天と地を造られたとき、主の欺かれない判断は天と地を見て非常に良い、とされたのでした。すなわち、すべてがもちろん完全だったし、正常でした。今日は何とその反対のことでしょう。 主のことばは今日の人間に対する判断とは、ロマ書3章12節に

善を行なう人はいない、ひとりもいない。

と言っておられます。旧約聖書の中でも内容的に全く同じことば書いていますけど、非常に分かりやすく、イザヤ書1章5、6節

頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

私たちは心からそれは正しい、本当のことだと認めなければなりません。今、私たちが人類を見ると、誰かがすばらしい完成された絵にインクをぶちまけ、すべてが駄目になったように思われるのであり、また、素晴らしい交響曲の真っただ中にすべてをこわし滅茶苦茶にするひどい音を入れるかのように、その状態に思われるのです。完成された主のものであって、この世はどうして今日の悩みと苦しみと罪の世界になっちゃったのでしょうか。誰のせいなのでしょうか。この質問に対して主なる神のことばである聖書のみ、正しく明確な答えを与えています。ロマ書の中でよく知られている箇所ですが5章の12節です。272頁 、ローマ人の5章12節を見ると次のように書かれています。

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、—それというのも全人類が罪を犯したからです。

とあります。第一の人、すなわちアダムは、主なる神を捨て、悪魔に手を差し伸べたのです。アダムは主から離れ、悪魔の味方をしたのです。この悪魔は人をしっかりと押さえて離さず人に権力を持っているのです。悪魔は人間に要求する権利を持っています。なぜなら、人間は勝手にこの要求権を悪魔に与えたのであるからです。そして、すべての人間は今や生まれつき主なる神から離れ、悪魔の魔力のうちに住んでいるのです。神とのいのちのつながりは完全に断ち切られました。潜水夫がかついでいる酸素吸入服の連結管が切られれば、潜水夫は呼吸することができなくなり、と同じように人間の精神もまた主なる神とのつながりが切られると呼吸することができなくなるのです。ですから、非常に多くのことがもはや正常ではなくなっています。人間はもはや主なる神を知らず、人間はもはや主なる神のみこころを行なわず、人間はもはや主なる神との交わりを持っていません。これがすべてのことを明らかにしています。

人々は計画や仕事や決定をみな自分で行ない、気ままに行動し、もはや主なる神に尋ねることをしません。しかし、人間は一つの呼吸すら主なる神なしには行なうことができない主なる神なしに生活するということは個々の人間、家庭、および国々の最も恐ろしい罪です。もし主なる神が実際に生きておられる永遠なる神であり、私たち造られたすべての上にある主であるならば、そして、その御手のうちから私たちが逃れ得ないものであるなら、将来はどうなるのでしょうか。すべての人間は、偉大なる創造主である神があるということをほんとうに生まれつき知っています。その神は石に住んでいると思う人もいるし、木に住んでいると思う人もいます。また神はいないと言う人もいます。けど、無神論者の「憎しみ」が神があるという最も強い証明となっています。なぜなら、何もないものを憎む必要はない、何もないものに反対する必要はないからです。イザヤ書44章の6節に次のように書かれています。

万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。

この神は天と地の造り主であります。このただ一つの神に対して、私たち人間は債務を持っています。そのことも人間は知っています。もしもこの神聖なる生きておられる全能なる神に私たちが敵対するならもうおしまいです。滅ぼされます。パウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。6章23節

罪から来る報酬は死です。

神はただひとりです。しかし非常に多くの偶像があります。たとえばこの国は800万の偶像がある国として世界に知られています。私たちはイザヤに書かれたものに似ていないで しょうか。ちょっと読みます。44章1098頁になります。44章の12節から

鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造 り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。

何と多くの者は木の端くれの前にひれふすのではないでしょうか。われわれのよりどころは一体何なのでしょうか。(「下」に続く)

2013年4月5日金曜日

胸いっぱい、神を「経験」する喜び

何たるつぼみ、全地球に何と数多くの新生命が芽生えていることよ、神を怖れよ!
つぎに神は、おののいている魂をとって神のひざにのせ、神の永遠のみうでで彼をいだき、痛んでうれいている魂にささやきたもうのです。「あなたは今、私の子どもです。恐れることはない。かつては恐れおののく理由をもったのだが、今はないのです。あなたは罪に死んだのです。そして私は、生命において、死において、またさばきにおいてあなたを助けるために生きているのです。私の恵みは、あなたにとって十分です。それ以外何もいらないのです。私はあなたの友また保護者です」と。

驚いている罪人は、このことをすぐには、つかまえることも、理解することもできません。罪人は、神のひざの中にすわって涙を流して泣くのです。時々、この人はほのかな光を見ますが、たいがいは、この人の目にとって何もかもくらやみです。しかしながら、アサフに真であったと同じように次のことは彼にとっても真であります、「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」(詩篇73・26)。どのようなことが来ようとも、真剣な祈りと告白の中で、この人は神にすがるのです。

そこで次のことが起こるのです。

上からの光が、魂のやみの中にさしこみます。この人は、天のかがやく光の中ですべてのことを見るのです。イエスはこの人の罪のために死にたまいました。この人は神の子です。救い主のほかには何もいりません。それはこの人の心が、喜びにはりさけたかのようです。罪人を救うすばらしい神に感謝をし、賛美と喜びの歌をうたいます。

今や、神を愛するようにこの人に告げてやる必要はありません。この人の魂は神に対して感謝にみちた愛でいっぱいです。霊的に言えば、ちょうど小さい子どもが、長い旅から母が帰った時、母の首をうでで抱きかかえるように神に近くからだをよせるのです。 (中略)

なぜでしょう。子どもは、母とともにいるように母から生まれているからです。神から生まれたものもみなそうなのです。神とともにいるように神のところへ生まれたのです。いつも神と語ることができなくても、神のいましたもうところにいる時幸福に感じるのです。ちょうど子どもとおなじです。おしゃべりやひとりごとが上手でも、子どもは、のべつまくなしに母親に話しかけていることはできません。

キリスト信仰のほんとうの中心と秘義は神経験です。人が、ただ神について考え、神を仮定し、神を求めて神に達しようとする間は、神に対する関係は、主として、理論的なまた実際的な問題の混乱でありましょう。しかしながら、人が神を経験するその瞬間から、このことはみな全体的に変えられるのです。パウロは、これを次のようなことばで言い表わしました、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5・17)

このことは問題の性質そのものにあるといってもよいでしょう。私どもは、神を経験し神の前で生活をいとなむように造られています。そして、神とは私どもが神を経験さえするならば、私どもの生活の中の他のいっさいは、適当に方向づけられるようなおかたなのです。というのは、私どもの心は正しくせられて、そのことが生活関係のすべてのことにおいて正しい態度をとるのに必要な条件を私どもに与えるからです。

神は私どもの心をとらえてこれをにぎりしめ、このようにして私どもを神に結びつけたもうようなおかたなのです。私どもは、自分にいっしょうけんめいになる代わりに神にいっしょうけんめいになるのであります。私どもに対する神の愛が、読んだり、聞いたり、話し合ったりしたようなものだけでなくて、私どもが経験したものとなるとき、それは、私自身の魂を満たし、魂に新しい内容を与えるのです。私どもはまた、罪に対して新しい関係にはいるのであります。

(『私はなぜキリスト者であるか』132〜136頁より抜粋引用。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」ヨブ42・5〜6

2013年4月4日木曜日

「新しい誕生」「第二の誕生」という奇跡

クリスマスローズ by Kazuko.Y
あなたは、神の奇跡によってのみキリスト者になることができるのです。イエスはこの奇跡を新しい誕生と呼びたまいます。これは神の生命であり聖なる、あの生命が超自然的に与えられることを意味するのです。罪におちいることによって人類が神との生命的な関係を失ったので、私どもは私どもの肉体の誕生で、あの生命を受けていなかったのです。

この超現世的なあるいは天的な生命は、御子を通して神によって今一度私どもの地上にもたらされました。今や福音を聞く者はみな、望みさえすればその生命にあずかることができるのです。しかしそうするには第二の誕生を経験しなければなりません。

その奇跡はこれなのです。神は内において私どもを新たに造りたもうのです。神は私どもの内に新しい心を造りたまいます。私どもはもう一度、神と神の意志を喜ぶのです。道徳的戒めは、もはや私どもが聞きたがらない、あるいは、精々いやいやながら服しようと思う良心の上に与えられる要求ではありません。それどころか、これらは生命の律法と歓喜、つまり私どもが内的な願いと喜びとをもって完全に行なおうとする律法となったのです。

私が話したいのはこの奇跡です。

もちろん、何びとも奇跡を理解することはできませんし、したがってそれを説明することができないことを知っています。また、これは私が考えていることではありません。しかし、神が私どもの心の中に新しい誕生の奇跡を行ないたもう時、私どもがもつ経験について簡単にお話したいのです。

罪人が神の前に立っているのをごらんなさい。その人は、自分の心の状態を見たので、神を愛せずまた罪をにくみもしないことを経験から知っているのです。この人はまた、自分を回心させようと懸命にやってみたのでした。それは、この人が自分の心を変えようとしたということです。というのは、もちろん回心は心の変化だからです。この人は、このことに成功しなかったのであります。

この人は、心の全精力をもって神を愛するようやってみました。しかし正直のところ、毎日そうしようとつとめても、聖書を読むことにつかれたことを認めなければならないのです。祈りがなければ何もかも失われることを知っていますから毎日祈るのですが、祈ろうとする願いをもたないことをまた認めざるをえないのです。

さらに、罪を愛していることをこの人は認めざるをえません。事実、自分自身に次のように言い聞かせるのです。「有害な結果をひきおこさないで罪を犯すことができさえすれば、私が愛さない罪が一つだってあるだろうか」と。

この人は、今や何をすべきかを知るのに途方にくれる点に達したのです。そこで絶望しながらも、非難の打ちどころもない正直さで、恐ろしい真実の全体を神に告げるのです、

「愛しまつる神よ、私が罪を愛すること、またこの罪深い愛を克服することができないことを、あなたはごらんになっておられます。また私があなたを愛さないことをごぞんじです。あなたが近くにいますとき私はおののきます。またあなたが遠くにいますとき、私はあなたに対して無関心です。私はこれを変えることができません。あなたがお助けくださらなければ、私は永遠に滅びます」

と。

そこで奇跡は起こるのです。

神は、この罪深いみじめな者をどろ沼から引き上げてご自身の血で白くなるまで洗ってくださるのです。聖書の豊かな生き生きとした比喩を使うことをお許しく ださい。神は天の書物を開いて、そこにしるしてあるすべての罪を一つ一つ消してくださいます。神は罪を海の深みへ捨て去って、それをもはや記憶なさいませ ん。そこで神は生命の書物を開いて、その罪人の名を他の神の子どもたち全部の中に入れたもうのです。

(『私はなぜキリスト者であるか』129〜131頁より引用。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」箴言28・13

2013年4月2日火曜日

ハイ、信じています

昨日、葬儀の帰り道で見かけた線路沿いの鈴蘭水仙(スノーフレーク)
洗礼を受けて一年と言うべきか、それとも結婚して11ヵ月経ったと言うべきか。その日は今日のような寒い日ではなく、陽春の日であったように記憶する。とある喫茶店で、一回り以上年上の年輩筋にあたる方と三時間余対座していた。その職場の先輩は海軍兵学校出身で大柄な体の持ち主であったが戦前は保田与重郎を信奉していたが、戦後はデカダンに陥りフランス文学を専攻し、モンテーニュだけを信ずるという姿勢を取っておられた方であった。私はこの方の人間性に惹かれるところがあったが、その先輩も何かと私を可愛がってくださった間柄であった。その方は大変な酒豪であった。

当時、私はイエス・キリストを信じたばかりであったから、この先輩にも何とかイエス・キリストを信じて欲しいと日頃から思っていた。俗っぽく言うなら、彼が信奉するモンテーニュの『判断停止』という考えはその当時私が受け入れていたキリスト信仰に対する大きな挑戦の意味をもっていたので、その先輩と一対一で話すのは信仰という点で言うと、危険と言えば危険であった。ところが「めくら蛇に怖じず」と言うべきか、私は敢えて先輩のウイスキーのお相手をしながらひとときを過ごした。

その先輩と何を話したか、今ではもうすっかり内容は忘れているが、その方が、私に向かって「○○○さんは(彼は私の名前を日頃から呼んでいてくれた)本当にイエスを信じているのか」と三度聞かれたことだけは今も明瞭に覚えている。それも三時間の間に一時間くらい間を置いては、同じ問いが繰り返されたのであった。最初の問いに対して、私は何の臆することもなく「ハイ、信じています」と答えたが、二度目、三度目と間を置いて、問われた時、「ハイ、信じています」と口の端に上りこそすれ、内心に少なからざる動揺が走っていることを意識せざるを得なかった。

結局、何らの効もなく、私たちは別れ、そのまま私も暗い夜道をバスと徒歩で3、40分かけて家にまで帰った。家では家内が心配して待っていた。いつになく帰りが遅かったからである。心配のあまり、身重の体でバス通りまで何度か往復したと言っていた。ところが明け方から家内に陣痛が始まった。もちろん双方初めての経験である。うろたえたのは私の方であった。予定日は4月18日であったのだが。これはてっきり昨夜の醜態に対する神様の天罰がくだったと思い、冷や汗をかかせられた。とにかく産院に駆けつけ、おろおろしながら廊下でひたすらその時を待った。数時間後に男子の初子が生まれた。42年前の4月2日、今日のことである。まことに目出度いことであり、主の祝福そのものであった。しかし、爾来、私は酒を断つべしと思い、今日に至っている。

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5・15〜21)