主なる神から離れることは「永遠の滅亡」という刑罰を課せられることです。すなわち、罪を犯した魂は必ず死ぬと、エゼキエル書18章4節に書いてあります。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」この刑罰は背負われなければならない。これは、われわれの人間的正義感にも言えることです。どろぼうが自分の罪を告白したらそれで十分でしょうか。もし、彼が後悔したら、それで良いのでしょうか。いいえ、彼は刑罰を受けなければなりません。刑罰を済ませてはじめて彼は自由の身となります。裁判官の同情、裁判官の愛または理解が彼を救うのではない。刑罰を済ませることのみが彼を救うのです。主なる神の義は死の判決の執行なしには罪を赦すことができません。罪人は死ななければならない(のです)。
しかし、主なる神の愛は罪人が死ぬことを欲せず、神の愛は罪人を救いたいのです。ところが、主なる神の義と主なる神の愛はどんなにしてお互いにひとつになることができるのでしょうか。主なる神の愛は世界が始まる前、すなわち人間に罪が入り込む前にその答えを見出しました。すなわちイエス様が父なる神の答えです。父なる神ご自身はひとり子である神であるイエス様に刑罰を背負わせたのです。それは罪人たちが自由の身になり、生きるためです。これは救いの驚くべき秘密です。パウロはこの事実についてロマ書8章に書いたのです。よく知られている箇所です。ロマ書8章の32節ですね。277頁です。8章32節
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
罪のない主イエス様は人類のための代表者です。父なる神はイエス様の上にこの世の罪を受け(させ)ました。考えられない重荷だったでしょう。ひとりの人間の債務はいかにその者を押さえつけることでしょう。一つの町、たとえば東京の人間の罪の債務は何と恐ろしく重いことでしょう。また、ひとつの民族および全人類の罪の債務も同様です。世界のこの債務の中には、強盗の罪、神を見失っている人々の強迫(観念)、落ちぶれてしまった人間の不従順などがあります。
聖なる主なる神の御子はすべてをご自身の上に背負われました。生まれたすべての人間はイエス様の死の原因です。すなわちイエス様は数百万の人のために死を背負われたのです。イエス様はすべての人のためにお亡くなりになりました。イエス様の上にはわれわれの罪も置かれています。イエス様は人間が多分少しも知らないで過ごすすべての罪を自分の重荷として担ってくださいました。預言者イザヤはすばらしいことばを使って
、イエス様における主なる神の愛の奇跡を描写しています。有名な53章ですね。イザヤ書の53章の4節、5節。お読みいたします。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、
神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
とあります。私たちは、きよい(そして)聖なるイエス様が人類の罪を背負い、神を退けた刑罰をお受けになったということを、少ししか予感することができません。イエス様が次のことばを十字架で叫ばれたときがイエス様のもっとも苦しいときでしたでしょう。すなわち、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨
てになったのですか」と叫ばれたときです。これはイエス様が父なる神から見捨てられることを恐れ、おののいた瞬間でした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架の質問は罪人だけが答えることができます。なぜなら、罪人は、自分の刑罰をイエス様がわれわれのために背負われたということを知っているからです。いのちの君であるイエス様は確かに十字架で死なれました。死の確かなしるしは、すなわち、もし血が流されるとき、いのちはなくなるというところにのみあります。ですから、イエス様の血潮は流されねばならなかったのです。旧約聖書の一ヵ所読みます。レビ記の17章、
185頁になります。185頁。レビ記17章の11節。
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
与えられたいのちのしるしは十字架ではなく、血潮です。ですから、私たちは十字架によってではなく、イエス様の血によって罪の赦しを得たのです。血潮は執行された死刑のしるしであり、執行された裁判のしるしです。ですから、主なる神のみことばは非常にはっきりと、次のように言っています。血を流し出すことがなければ罪の赦しはない。ヘブル書9章22節。旧約聖書から引用されている箇所ですが、考えられないほど大切です。
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。
初代教会の人々は喜んで証し、告白しました。ヨハネ第一の手紙1章7節
御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
イエス様の血潮の中にはどんな力があるでしょうか。この血潮は地上と天において今まで罪が全然なかったかのように、その罪をぬぐいさることのできるただひとつの力です。この血潮は主なる神でさえ見ることができないほどきれいに罪をぬぐいさる驚くべき力を持っています。主イエスは罪の大きな債務のために、その支払いとしてご自身の血を与えられました。ですから、イエス様だけが次のように言うことができたのです。
あなたの罪は赦された!
と言うことができたのです。債務を支払った者だけが罪から解き放たれるのです。イエス様の血はすべての罪をおおうことができるのです。私たちがいかに深く罪の中に落ち込んだとしても、またその傷がいかに爛れても、いかにその罪が醜くても、私たちはイエス様の血によって癒され、まったく新しい人間になることができるのです。だから、イザヤは次のように言ったのです。イザヤ書1章18節
「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
とあります。同じく43章、イザヤ書43章25節
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
44章22節
わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」
イエス様はご自身の血を流されました。ですから、主の恵みは罪の赦しをわれわれに与えているのです。マタイ伝26章28節。イエス様は次のように言われました。
これは、罪の赦しを得させるようにと多くの人のために流す、わたしの契約の血である。
と言われました。わたしの血。それはあなたのために流された。あなたは主イエスにどう答えたらいいのでしょうか。イエス様は私たちの罪を背負われました。イエス様の血は私たちのために流されたのです。私たちは今までにそのことを主に心から感謝したことがあるのでしょうか
。イエス様はすべてを成し遂げられました。イエス様の贈り物は条件付きではない。私たちはその贈り物を受けとる、というただ一つのことができるだけです。
受け取りなさい。信じなさい。
けど、ある人は言うでしょう。私は初めに私の全生活を整えねばならないのではないでしょうか。また、初めにすべてを再び良くしなくちゃならないのではないでしょうか。もしも私たちがこのようなことできるなら、私たちは救い主を必要としない。罪の赦しは
ただなんです。条件は一つもない。けども、主なる神より罪の赦しを得た者、そして主なる神と会う聖なるときを体験した者、また恐ろしい重荷から解き放たれたということを経験した人は他の人にそれを告白しないではいられなくなり、自分の生活を整えざるを得なくなり、犯した罪を償おうとするのです。しかし、これらすべては罪の赦しの「条件」ではない、「結果」です。
私たちはみな罪の赦しの確信を持っているのでしょうか。もし、そうでないなら、今イエス様の前に静まったら、イエス様は今日、今すぐ、罪の赦しをお与えになるにちがいない。そして、イエス様に
「主よ、あなたは私のためにも死んでくださる、私の罪をお赦しくださったことを感謝します」と言うべきです。われわれの罪をおおうものとしてのイエス様の血を私たちが受け取るのを妨げているのは何でしょうか。私はイエス様の血潮を理解することができないでしょうか。私たちはイエス様の血を理解することは必要ではない、生きている主のことばを信ずることだけが必要です。イエス様の血は罪をあがなうことができます。この事実がイエス様のことばを保証しています。それで十分です。たくさんの事柄を私たちは理解していない。それでも私たちはそれを信じま
す。たとえば「電気」とは何でしょうか。「いのち」とは何でしょうか。理解することができません。
多くの人は、最初感じ経験して、それから信じてもいいと言います。もしそうしたら、われわれの感情の上に立った信仰は海の波のように揺れ動いて静まらないでしょう。もし船を動かないようにするためには錨(いかり)を甲板の上に投げ上げたのではなく、上げたとしてももちろん駄目です。錨を船の外の岩の底に投げねばならない。その岩の底は、しかしながら、われわれの感情ではないし、経験でもないし、気持ちでもないし、神のみことばです。あるいは、私たちはこの結果を恐れるのでしょうか。もしも私たちが主の手から罪の赦しを受け取るならば、私たちは主に義務を持つことになります。そして他の人々は何を言うのでしょうか、
私たちがもしもイエス様に従って行くなら私たちの生活はみな変わるに違いない。それを不安に思うのでしょうか。
しかし、もし私たちが恵みを逃がしたならば、われわれの死のとき一体だれが私たちを助けることができるのでしょうか。私たちは今あざけり、あなどられることを恐れているその人々のうちの誰が私たちの罪の債務を支払ってくれるのでしょうか。もし私たちが罪の不安に苦しめられているとき、そのような人々がわれわれにそれはお前のせいだとしか言えないのではないでしょうか。私たちが今人々を恐れ、そのためにそのあとで永遠に後悔しなければならないのは、それは全くおかしい、馬鹿げたことです。あるいは、私たちが意識してよく考えた上で、いや私はそう思わない、私はひとりで生きている、自分はイエス様の血を別に必要(とし)ない、と言うならばそれは身の毛のよだつような答えです。
もし、そうすれば、私たちはいつか燃えるような目を持ち、その腹立ちは恐ろしい、また地獄に滅ぼす力を持っておられるまことの神の前に立つでしょう。私たちはそのとき、自分の債務を自分自身でどのようにして支払うと言うのでしょうか。イエス様の救い以外にまことの救いはない。イエス様の血を受け取らなかった者は、
永遠に滅ぼされます。十字架につけられたイエス様による救いを知っていながらそれを認めない人は、将来がない、滅ぼされます。救いの道はただひとつです。
イエス様は次のように言われました。
わたしは道であり、だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことができない
多くの人々は、知らないか、欲しくないかのどちらかです。けども、聖書を読むと私たちは本当のことを知ることができます。だから天(国)と地獄はわれわれがイエス様、十字架につけられた主イエス様に与える答えを息を殺して待ち望んでいるでしょう。二つの答え方があります。私は今までと同じように自分勝手な道を行きたい、私の救いを私は救いを欲しくない。何とかして自分の力でやりたいから。これはもちろん大変な課題です。滅びへの道です。あるいは、
「イエス様、私は駄目です、あわれな敗北者です。けどあなたは私のような者のために死なれたことを感謝します。あなたの血によって私の罪も赦されたことを感謝します。あなたを自分の救い主として受け入れます。」この態度を取る者は、もちろん決して後悔しません。
(次回の家庭集会は4月24日10時半からです。)