ベッケー(?)というドイツの花 |
本の中味は太郎氏の姉君にあたる利根子さんが、英文で記したアメリカの友への手紙を主軸に、利根子さんの生涯を跡づけた構成になっている。日本人である利根子さんがなぜ英語で自己を語らざるを得なかったのかその事情や、ほとんど昭和時代そのものと重なる利根子さんの生き様は、昭和日本が甘受せざるを得なかった戦争に、個人がどのように立ち向かって行ったかの貴重な記録の様相を呈している。
そして、平成の御代に長寿国日本が経験する高齢化社会をそのまま反映するかのように突然の利根子さんの脳梗塞でその友人への手紙の仮想スタイルを取った自己吟味の記録は誰にも知られず、そのまま葬り去られる性質のものであった。しかし幸い、近親者である太郎氏によりその記録が見つけられた。高名なジャーナリストである同氏の手により、英文の手紙はものの見事に復刻された。しかも日本語で。
利根子さんは、父君の勤務の関係で1934年(昭和9年)、六歳かそこらで渡米することになる。それから1941年(昭和16年)の太平洋戦争の直前、日米関係の悪化を懸念する空気の中で、第二の母国アメリカを引き揚げざるを得なくなる。まったく学制の異なる帰国後の日本での学生生活、そこにはまた様々な難題が待ち構えていたはずである。思春期にある彼女にとってそれは大きな苦しみ悩みであったに違いない。しかしそんな個人の思惑も何のその、彼女はそれから、その英語力を買われて戦時中はラジオ放送をとおして敵国アメリカへの宣伝放送に動員され、敗戦後は敗戦後で今度はB・C級戦犯の通訳として用いられることになる。
利根子さんはアメリカで育ったゆえに英語を使わざるを得なかった。最初は大変な苦労であったが、7年余りの滞米期間は彼女にとって、自己を表現する方法はもはや日本語よりも英語の方がふさわしいというほどまでにすっかりその英語は定着していた。ところが、事もあろうにそのアメリカと日本が戦うことになったのである。これほど身を裂かざるを得ない苦悩はなかったのでないか。
私が一人の勝手気侭なる読者として一番考えさせられたのは、東京大空襲に会い、利根子さんが高熱に悩まされ、やっと回復する中で記している1945年の3月のディア グロリア宛の手紙の文面であった。彼女はそこで天国について、また神さまについて大いに語るのである。しかし、そこには彼女が滞米生活で一片の福音にも触れていなかったとしか言いようがない、何とも言えない不可思議さと同時に、私にとっては悲しみとしか言えない記事があった。
ある意味で、この有能な利根子さんが東京大空襲という自己の生存を二重に脅かしたであろう、その断末魔のできごとの中で一生懸命に思索しておられるのに、この結論は何なのかと思わされ、ショックを受けたのだ。でもその後何度もその文章を読むうちに、違う感想を持つように変えられて来た。その文面を紹介しよう。
私は日本人だけど、ただの紙切れが家を火事から護ってくれるなんて信じられないわ。でも人間がだんだん賢くなってそういうことが信じられなくなったとき、今度は見えないものを神様にしたのね。なにしろ目に見えないのだから、神様の力は想像するしかないのよ。神様が水の上を歩いたり、世界中に洪水をおこしたりなんて想像するの。それが神様なのね。(中略)私が神様をほんとうに信じたら、私はとんでもない臆病者だと思うわ。何かに、しかも目に見えない何かに頼るなんて! ピアってとても現実的な女の子が、こう言ったことがあるの。「神様って、あなたの心のことよ」。そのことをずーっと考えていたの。彼女が言ったのは、人の中で何が正しいか、間違っているか判断するものよね。言い換えると良心ね。それは神様かもしれない。そんな神様なら他にもたくさんあるわ。だからその中から私たちの道徳にとっていちばん大事なものを神様と呼ぶこともあるわ。でもそんなのは多くはないわ。ほとんどはいんちきで吐き気のするような目に見えない神様なのよ! ほんものはもっと力があるわ。そのうちに私の神様について書くわね。(同書159〜160頁より引用)
私は目に見えない神様を信じている。水の上を歩かれたイエス様を信じている。そういう論法で行くと私と利根子さんとは全く違うとしか言わざるを得ない。しかし利根子さんが「ほんものはもっと力があるわ。」と語っていることである。にせものでないほんものの神様に利根子さんは出会いたがっていることがよくわかった。違う感想を持つようになったと言ったのはそのことである。「そのうちに私の神様について書くわね。」とは何たる彼女の心の希求であろうか。
二千年前、パウロは次のように語った。
私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。(ピリピ4・19〜20)
神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。(2コリント2・14〜16)
ああ、願わくは我をして、主よ、未だあなたを知ることなく切に主を求める人々に適切に福音を語り伝えさしめよ 。