奥に見えるのが雨天用のビニール覆い、苦心の作 |
あちらこちらで柿の木がたわわに実を稔らせている。外国からやってきた人がその光景を見て、「どうして日本人は柿の実を採(盗)らないの、さすが公徳心の発達している国だ」と言ったとか言わないとかの話をどこかで聞いた気がする。柿の木に近づくと、「とるな」と紙札がぶらさげられていたりする。10月、郷里に帰り、柿の木を楽しみに帰ったところ、実はほんのわずかばかりだった。来年は紙札をぶらさげねばなるまいと今考えている。
けれども、今そこかしこで見かける柿は無事であろう。それもそのはず、そのほとんどが渋柿であるからだ。ひょっとして、外人さんもその辺の事情を知らなかったのかも知れない。それはそうと家内はここ二三日の間にものの見事に吊るし柿を作った。何しろ家内の実家には柿の木が何本もあり、その上、種類も多種類にまたがっているという。その点、郷里を同じくするとは言え、私の実家の柿は、富有柿一本である。これでは家内と私とでは勝負にならない。序の口と横綱のちがいだ。もちろん家内の家が横綱である。そんな柿に造詣の深い家内は待ってましたとばかり、造作に取りかかった。写真はその労作の一端である。
これから三四週間が勝負だと言っている。雨にさらさないのがその条件だからだ。その防止法もご近所の吊るし柿の様子を観察して、見よう見まねで考えてビニールをかぶせるためと言い、工夫をしている。工作人間の家内と思索人間の私ではこれまた勝負にならない。互いに環境、育ちが違う者同士が一つになる。結婚とは考えてみると摩訶不思議なものだ。最近家内がそんな私の無知を指摘する殺し文句は「それでも『物理志望』なんだから」と冷やかし半分に言う。とにかく縦のものを横にしたり、逆に横のものを縦にしたり、物を造作するには様々な臨機応変の工夫が必要なのだが、私がそれができないくせに「物理」とか言ってきたからだ。
家内にしてみれば、物の理がつかめなくってどうして「物理志望」と言えるのかという素朴な疑問である。これには私もグーの音が出ない。早々に降参するばかりである。だから吊るし柿を物の見事に、購入から製品仕上げに至るまで一切やる家内に頭が上がらない。そして出来たは出来たで「あんたが食べて喜ぶのを見たい」と宣う。このような犠牲の精神はひとえに家内のうちにおられるイエス様のみわざだと思わざるを得ない。今朝のスポルジョンの『朝ごと』には次の聖句が掲げられていた。
"The trees of the Lord are full of sap." Psalm 104:16
主の木々は樹液で満ち満ちている、と訳せた。しかもその本文には、その樹液こそキリスト者生活を支える、イエス様のいのちそのものであると記されていた。主なる神様が与えて下さった柿の木、そこに実る柿の実を人は様々な方法で味わい楽しむ。主が与えて下さるものを地上の人間は味わわせていただいているに過ぎない。主イエス様は工作人間、思索人間、その他もろもろの属性を備えられたまことの人であり、神である。主への感謝こそ、平和の道を知る唯一の秘訣である。家庭においても、国家においても・・・
主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
野のすべての獣に飲ませられます。
野ろばも渇きをいやします。
そのかたわらには空の鳥が住み、
枝の間でさえずっています。
主はその高殿から山々に水を注ぎ、
地はあなたのみわざの実によって
満ち足りています。
主の栄光が、とこしえにありますように。
主がそのみわざを喜ばれますように。
(詩篇104・10〜12、31)