2016年11月30日水曜日

口は心を表わす

「お絵かき」 絵 西村茂樹

心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。(箴言22:11)
 
 誰が「私は自分の心をきよめた。私はきよめられた(箴言20:9)。」と言うことができようか。こんな状態では王との交わりに誰も絶望しなければならないであろう。しかし、王なる方ご自身との交わりを約束する、王のすばらしいへりくだりは、そのやさしく目論まれている状態においてさらにより低く屈んでいて下さるのだ。心の中の絶対的なきよさに対してでなく、おそらくそのきよさを悲しいほど求めて慕っている人に対して「王がその友となる」というやさしい言葉がやって来る。

 しかし、この愛のいくらかの証拠はあるにちがいない。それは「くちびるのやさしさ」に見出される。「心に満ちていることを口が話すのです(マタイ12:34)。」ここにおいて、再び私たちは自らの主張を引っ込め、自らに問う。なぜなら、私たちのことばは常に「やさしさが」伴っておらず、そして、多くの不親切で怠惰な言葉の記憶がそれを封ずるように上って来るからだ。その時、王はどのようにして私たちの友となり得るのだろうか。

 別の言葉が私たちを助けるためにやって来る。「あなたのくちびるからは優しさが流れ出る(詩篇45:2)。」それは、人が決して話すことが出来なかったように、やさしいことばのうちにあふれでた優しさ、完全に聖く美しい言葉だ。私たちは私たちの王を見上げ、私たちが失敗した状態をご自身で実現なさったことをほめあげる。すなわち、これが私たちのために、私たちに向かって、私たちの上に、労された義の部分である。なぜなら、私たちは王を信じているからだ。だから、王自身のくちびるの優しさのゆえに、王が私たちの友となる。

王にみことばをとおしてあなたに話してもらうように
王の声がはっきり聞かれるように見つめ
王に上るすべてのことを話してもらうために
そしてあらゆる驚きをもたらす王のところに直ちに行く
ちょうど聞き留まるために
そこはあなたが王の声を聞き逃すことができないところ
これがすべてだ
そして今日もかくして
交わりつつ あなたは喜ぶ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-30-the-mouth-betrays-the-heart/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97499です。

※Godhold Beck(100)
 この絵を京橋コパンダールで拝見したのは9月10日であった。数点あったが、そのうち二点を撮影した。一点はすでに9月14日「誰が私たちに刃向かうことができようか」で紹介してある。ハヴァガルの今日の黙想を訳するうちになぜかこの絵が思い浮かんだ。無心とも言える少年の一心不乱な姿である。またそこに着目した画家の心を私たちは知ることができる。人の心に灯をともされるイエス様の愛に浸りたい。今日は早やベック兄が召されて100日経った。引き続いて昨日からの聞き書きを掲載する。

『聖霊の人格と働き』[2]
  今日はちょっとだけ、この聖霊の人格について、また聖霊のはたらきについて、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。なぜなら、それは非常に大切なことであるからです。すなわち、私たちが聖霊に対してどのような態度を取るかということが大切な問題であるからです。我々の人生が永遠の滅びに終わるか、それとも永遠ののちに終わるかということになります。

 前に話したことがあるのですけど、サルトルと言うフランスの哲学者がいたのです。彼は単なる哲学者であるだけでなく、無神論者だったんですし、神に対する信仰を駄目にしようと、一生懸命働いた人だったんですね。もちろん、本当の意味で無神論者はあり得ないことなんです。無神論者はみな神の存在を認めています。全然疑いません。けども、神の前に頭を下げたくないから「いない、いない」と言うんですね。いなければ、別に、「いない」と言わなくても良い。(笑い)

 この哲学者であるサルトルは色んな本を書いたのですけども、次のように告白したのです。「私の人生はもうどうすることもできないものになった。」と彼は告白したのです。すなわち、彼は望みのない、平安のない、喜びのない人間になったんです。人によってもちろん大切にされ、尊敬されたのです。けれども、彼は本当に私の人生はもうどうすることもできないものになったと告白するようになったのですね。彼はその理由をはっきり言っていたんです。面白い表現なんです。日本人だったら決してそのような表現を使わないと思うんですね。

 彼は何と書いたかと言いますと、「私は地下室で聖霊をつかまえ、それを追い出した」私は結局霊のはたらきを妨げようと思った、何があっても心を開こうとしたくなかった。結果は目的のない人生になってしまったんです。彼はもちろん福音を聞いたんです。間違いなく聖霊のはたらきを感じたのです。けど、それに対して意識的に心を頑にしてしまったのです。そのことによって彼はもっとも憐れむべき人間に成り下がってしまったのです。彼が私の人生はもう駄目になってしまったと告白せざるを得なくなったのです。彼は神を否定する書物をたくさん作ったり配ったりしたんですね。自分で印刷会社を作ったんです。その中で、もう夜昼こういうとんでもない本を作ったんですね。彼は死んでからあの印刷会社で作られたのは「聖書」だけになっちゃったのです。神の導きは本当に面白い。

  ヘミングウェイというアメリカ人だったと思うんですが、作家だったんですね。彼の書いたものを見ると、ちょっと似ているものではないかと思うんですね。彼は何と書いたかと言いますと「我が人生は暗黒の道です。この道はいったいどこに続いていくのか、全くわからん。皆目分からん。我が道は終りなく暗黒の道です。どこにも行かない道です。」彼の最後は自殺だったんです。
 
 聖霊がどうして注がれたのでありましょうか。与えられたのでありましょうか。我々の人生が目的のないものにならないためです。暗黒の道にならないように、聖霊が遣わされたのだと聖書ははっきり言っておるのです。サルトルは私は聖霊をつかまえ追い出してしまったと言っているのです。結局、聖霊のはたらきに対して彼は心を開こうとしなかったのです。 

引用者註:サルトルと言っても今の若い世代には知られていないかもしれない。ベック兄がここで「聖霊云々」と言っておられるのは、『言葉』の中にサルトルが述べているものだ。サルトル全集人文書院版29巻173頁参照。)

2016年11月29日火曜日

限りない恵み

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し(マタイ25:15) 
私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。(エペソ4:7)

 賜物と恵みとどちらが偉大ですか。賜物は 「おのおのその能力に応じて」与えられています。すなわち、神様は私たちが用いることができると知っておられるのとちょうど同じものを与えられました。そして主がご存知のものを私たちは主のために最善に用いることができます。

 「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」その最良の恵みの量りを得、用いて、あなたは恵みなしに世にあるもっともすばらしい知性よりももっと神様のために用いることができます。なぜなら、主のみことばの明瞭な光のうちにもっとも効果的に見えるものはどちらですか。つまりキリスト無しには「何もすることができない(そのことばを観察し信じなさい)ヨハネ15:5」 最善で最も完璧な生まれながらの能力か、それとも、かつて他の人にとってそうであったと同じようにあなたにとって自由な私たちの権威ある神様と聖霊の力の恵みかです。

 もし、あなたがあなたの限られた賜物を使用する責任があるなら、尋ねるために持たせられ、すでにキリストにあるあなたのものとされ、かつ限界がない恵みと力を使用する上においても同様の責任がないでしょうか。 

 神様の偉大な働きの分野にあっては
すべての働きが同じではない
主の聖なる御名を愛するそれぞれに主は奉仕をお持ちだ
そしてあらゆる甘美な響きの秘密が知られているあなたは
立ち上がりなさい
なぜなら主はあなたをあなた自身の使節に召しておられるから
その使命を実現するのに正しく
主の恵みはあなたを強くすることができ
あなたの責任に歌の職務を与えられた方

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-29-unlimited-grace/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97498です。今日の訳は誤訳があると思います。本文で直接お確かめください。また読者の方からの正しい訳を是非教えていただきたいと思います。

※Godhold Beck(99)
 ベック兄には随分とたくさんのメッセージがそれぞれ録音されて残されている。しかも、それは今日ネットで自由に聞くことができる。聖書に忠実であったベック兄のメッセージはそれを繙く者にみことばによる励ましを与える。今日から必要あって『聖霊の人格と働き』を聞き書きしたので少しずつ転記してみる。

『聖霊の人格と働き』[1]
「今言われたように、今日は洗礼式であり、それだけでなく五旬節でもありますね。日本でそんなに大切にされていませんが、外国へ行くと非常に大切にされている日なんです。今日はアイドリンゲンという小さな村で若者だけで少なくとも7000人、8000人くらい集まるようになるのです。みんな一緒に聖書を読んだり、学んだり交わったりするのです。毎回多くの人々はイエス様を信ずるようになり、救われ、また今からイエス様のためにだけ生きたいと決心する人々は多いのです。

 五旬節は神の霊が、聖霊がこの地上に注がれたことを記念する日です。もちろん五旬節は歴史的な事実であり、一回限りの出来事だったのです。今のS兄弟のお読みになりました箇所[ヨハネ7:37〜39]を見ると、「聖霊はまだ与えられていなかった、イエス様がまだ栄光をお受けにならなかったからである」と書き記されています。イエス様はもちろん今栄光を受けているのであり、そして注がれた御霊の唯一の目的とは信者を満たすよりも、イエス様のご栄光を明らかにすることです。イエス様御自身が中心になることこそが聖霊の切なる願いであります。イエス様の復活の後50日目に起こったできごとだったのです。もちろん旧約聖書の中で預言されたことです。

 イエス様はすべての人のために完全な救いを成就してくださいましたが、けど、この救いは我々一人一人の体験とならなければいけない。そして、このことはただ聖霊によってのみ実現されます。多くの人々は聖霊について考えると、やっぱり何かの力ではないかと、考えています。決してそうではありません。聖霊は力を及ぼすものよりも、人格者です。父なる神、また御子なる神・イエス様と全く同じような人格であります。もちろん、人間的な言葉でもって説明しようと思っても出来ません。まことの神を理解できる人間はもちろん一人もいない。我々の考えられる神、想像される神は自分の思想になります。偶像です。まことの神を私たちは皆信じていますけど、ほんとの意味で理解することが出来ません。したがって、いわゆる三位一体という奥義を理性でもってつかもうと思っても決して決してできないからです。

 別々にしようと思えば、次のように言えるかも知れません。すなわち父なる神は、我々一人一人のために永遠の昔、救いの計画をお立てになったと言うことです。イエス様は二千年前にこの救いの計画を実現された、と言うことです。そして、この成し遂げられた救いとは、聖霊の働きによって我々人間一人一人のものとなる、と言うことです。自分のものにならなければもちろん役に立たない、でしょう。ですから、比較することができませんけど、クリスマスよりも復活よりも、召天よりも大切なのは五旬節ではないかと考えられます。永遠なる救いを自分のものにならなければ、役に立たないのです。単なる教えに過ぎないからです。」

引用者註:いよいよクリスマスのシーズンに入った。それに対して五旬節は例年5、6月のある週の日曜日がこれに当てられていて、今の季節には不似合いの話題ではあるが、五旬節はクリスマスよりも大切だとベック兄が言われている理由をこの際考えるのも必要かもしれない。) 

2016年11月28日月曜日

燃やされた心

ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、会いました。」(ヨハネ1:45) 

 イエス様がピリポを見つけられた時、ピリポは自分がイエス様を見つけたことを知っていました。だから、私たちが主を見つけたことを知って、次になすことは誰かを探して、「来て、そして、見なさい。・・・私たちは主を見つけました。 私たちはイエス様に会ったのです!(ヨハネ1:46)」と言うことです。

 もし、あなたが抑え難い願い、あなたが主を見つけお会いせねばならないという、まさしく心の願いを知ってさえいたら、何度も私たちが「来て、そして、見なさい。」と言う、あらゆる根気強さ、あらゆる主張を大目に見ることでしょう。サマリヤの女性は自分の水がめを置いて同様のメッセージを携えて町へ出かけました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです(ヨハネ4:29)」そして、イエス様から「あなたと話しているこのわたしがそれです(ヨハネ4:26)。」と言われた私たちは、もしそう言われなければ出かけることはできませんし、あるいは少しもできないのです。

「来なさい」
なぜ 救い主の血は 注がれたのか
聞いたことのない人々よ

彼らに メッセージのことばを
運べ
死者からよみがえるという

彼らに イエス様は 
「すべての人のために死なれた」と 伝えよ
彼らに イエス様の愛の呼びかけを 伝えよ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-28-hearts-aflame/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97497です。本文の最後の文章can not do otherwise or lessの文意が取れなかった。読者諸氏のご指導を賜わりたい。

※Godhold Beck(98)
[4]
 「それでは、私たちにとって、祈りとはいかなるものでしょうか。
 祈りは必要だから義務として祈る、と言うのか、あるいは、祈りは私たちにとって特権であり、喜びとなっているということなのでしょうか。真の祈りとは、イエス様とのチームワーク、連携プレーと言えるのではないでしょうか。

 ハンドルを握るドライバーは主イエス様であり、私たちは、ただ単に助手席に座って主のなさることを見せていただくだけなのです。このように、私たちにはイエス様がお一人で何をなさるかを傍で見ることのできる恵みが与えられています。この主イエス様とのチームワークを知らない信者は、敗北に陥ったり、暗闇から光に移れずにいることが、しばしばあるに違いありません。主イエス様にとって、人の救いはもっとも重要なことであります。

 「主の御手が短すぎて救えない」(イザヤ書59章1節)のではありません。イザヤの時代には、本物の祈り人はいませんでした。このイエス様とのチームワークを知っている信者は稀であったと言えるのかもしれません。

 イザヤ64章7節にありますように、イザヤは「 あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」と嘆いています。そして、主イエス様はマタイ21章22節で次のように言っておられます。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と。

 このような約束が与えられているにもかかわらず、イエス様とのチームワークを知っている人、またそれを願う信者も中々いないのが現状ではないでしょうか。イエス様とのチームワークの前提条件は、信仰であります。

 サタンは私たち信者の目を曇らせ、惑わして、主とのチームワークを持てないように試みて来ます。イエス様とのチームワークよりももっと大切なものがあるはずだと、巧みに嘘をつき、囁きかけて来ます。人間同士の繋がりを通しての方が、はるかに多くのことをなし得るのでは?と囁くのです。イエス様と私たちのチームワークが、何としても実現できなくなるように働きかけて来るのです。私たちが聖書を読んだり学んだりすることは許しても、十字架上ですでに勝利された主イエス様とのチームワークを望むことを、徹底的に妨げるのです。

 マラキ書3章10節に
「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 イエス様とのチームワークなくしては、実を結ぶことはあり得ません。主は、私たちの祈りに豊かに答えたいと切に願っておられます。イエス様にとっては、父なる神とのチームワークがもっとも重要なことでした。イエス様は、ご自分では何もできないが、父なる神にはすべてがおできになることを良くご存知でした。ですから、いつも父なる神に向かって祈っておられたのです。また、父の御心だけがなるように願っておられたので、そのことだけをいつも祈っておられました。だからこそ、父なる神とのチームワークが、最も重要だったのです。

 私たちも主との交わりを大事にし、主に用いられるよう祈りつつ、主イエス様とのチームワークをますます大切にしていきたいものだと、切に願っています。 終わり」

引用者註:ベック兄はサッカーが好きだと聞いたことがある。その好きな理由の一つにこのチームワークを見ておられたのかもしれない。先日もソフトボールでチームワークを乱す人の話を聞いた。本来の人間の性質はそのようなものである。しかし、主イエス様の救いを受け入れる時、人は初めて低くされ、人間同士の間の真のチームワークに導かれ、主とのチームワーク・祈りは始まるのでないか。)

2016年11月27日日曜日

王なる方のみことばの権威

王のことばには権威がある。(伝道8:4)

 その時、質問は「どこに。(ヨブ15:23)」と発せられる。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせよう(コロサイ3:16)」、そうすれば、あなたかたのうちで力となる。今や「その力あるみことばによって万物を保っておられ(ヘブル1:3)」冠を受けられたお方が「みことばを、わたしが彼らに与えた(ヨハネ17:8)」とおっしゃった。

 そしてこの偉大な贈り物を、「人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして(1テサロニケ2:13)」受け入れた人々は、そのことばが彼らのうちにも効果的に働いているから、そこに権威があることを知っている。彼らはそのいのちを与える御力を知っている。なぜなら彼らは「みことばは私を生かします(詩篇119:50)」と言うことができるからだ。さらにいのちを支えてくださる御力についても。なぜなら彼らは「神の口から出る一つ一つのことばによって(マタイ4:4、申命記8:3)」生きるからである。

 彼らは「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました(詩篇119:11)。」ということができる。なぜなら、王のことばが心のうちにたくわえられるのに比例して罪に逆らう「権威がある(伝道8:4)」からである。ですから、この絶対的な力の手段をもっと用いよう。そうすれば、さらにいのちと聖なる意志が私たちのものとなろう。

 古のカペナウムにおいて「そのことばに権威があった(ルカ4:32)」そしてその権威は今日でも同じ力をもって働いている。主のことばは失敗することがない。 「むなしく、帰っては来ず」必ず、「成功させる(イザヤ55:11)」。それゆえ、私たちの「ことばが地に落とされ(1サムエル3:19)」た時は、ことばが神様のことばでなかったことを証明している。

 そのように私たちが求めているものは、主の権威が単に私たちの言葉に附随するのでなく、私たちが自分自身のことを全然話さないで、ただ端的に王様である主の言葉だけを話すことだ。その時、その中に権威があり、そして権威が伴うのだ。神様がご自身の矢を弦に置かれる時、当てずっぽうに引かれた弓であっても、私たち自身を驚かす方法で命中する。

我は みことばの上に 休らう
いとも強く いとも確かなゆえに
かくして 慰安の満たしは
いとも甘美にして いとも純粋な 祝福
みことばは 救いの海図 信仰の広い礎 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-27-the-power-of-the-kings-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97496です。本文の最後の訳は少し疑問を感ずるが、私が小学校6年の時、模型飛行機大会で滞空時間でトップになった経験がある。その時、私は未だに不完全で不器用な愛機がどうして並みいる強敵を前にいつまでも降りて来なかったか不思議に思う。ひょっとすると「当てずっぽう云々」はそのような場合にも適用できるかもしれないと思い、そのままにした。

※Godhold Beck(97)
[3]
 「昨晩ミヘルスベルクで証しの一時が与えられましたが、ある姉妹は32年間ご主人の救いのために祈り続けた、という証しをされました。

 彼女は名古屋に住んでおられたのですが、ご主人がもう自分では字が読めない状況になった時、私に連絡を下さいました。私がお勧めしたのは『実を結ぶ命』を毎日一章ずつ読み聞かせて下さい、とお伝えしました。そして一章ずつ読み進めて、『葬儀』についての箇所に来た時、そのご主人は心を開いて受け入れたということでした。『死ぬ前には、イエス様ありがとう、と必ず言って下さいね』とその姉妹は伝えておられたようですが、もうほとんどしゃべれない中で、ご主人が亡くなる前におっしゃったのが『ありがとう』という一言でした。

 私たちにとっては、この事実は主の恵みの勝利を現わすものとなりました。私たちのまわりには、まだ救われていないたくさんの家族、親族、友人、知人がいるのではないでしょうか。

 彼らが救われるまで私たちは祈り続ける必要があるのです。

 彼らの『救い』が、私たちにとって一体どのくらい重要な祈りの課題となっているでしょうか。私たちは、みことばによって主イエス様が全知全能であられることを知らされています。私たちの心の中のすべてのことは主に知られていて、主の前に隠し通せるものは何一つありません。

 この主イエス様は、いつでも、どこにでもおられます。今日もなお、私たちの真中におられます。そして何一つ不可能はありません。

 しかし、この方が驚かれたことには、イザヤ書59章16節にあるように、『主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。』ということです。

 イザヤの時代には、まだイエス様は生まれておられませんでしたし、祈りを教えて下さる聖霊も、まだ私たちに注がれてはいませんでした。しかし、2600年前と比べて今日の状況はいかなるものでしょうか。ある姉妹が『あなたは一日に何回祈りますか』と尋ねられた時、『一日に三回、そしてその間のすべての時間祈ります。』と答えたそうです。つまり、彼女はいつでも祈っていたのですね。

 詩篇の作者は『私は祈りそのものです』と宣言しています。祈りの必要性や祈りの力を唱えるだけではなく、祈りなくしては何一つなし得ないということを訴えています。

引用者註: ベック兄は最後の方で『私は祈りそのものです』と言っておられるが、邦訳の聖書にはない。しかしドイツ語の聖書には詩篇109:4にIch aber bin[stets im]Gebet. とあり、欽定訳ではI give myself unto prayer. とあるのでそのことを言っておられるのだろう。ちなみに日本語聖書は『私は祈るばかりです』とある。)

2016年11月26日土曜日

神様の御心の力


私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方(エペソ1:11)
彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。(ダニエル4:35)

 神様のみこころの無窮な不思議さを考えなさい。天の軍勢は数世代にわたり、賜わったベールがはがされた様と壮大な発展ぶりを見張ってきました。そしてなおも待ち受け、じっとみつめ、そして驚異の念に覆われています。
 
 創造と摂理は神様の御力のささやきでしかないが、贖いは音楽であり、賛美は主の神殿を満たす反響である。ささやきと音楽は、そう、そして「その力ある雷(ヨブ26:14)」は全部あなたのためにある。「みこころのままに、愛をもって(エペソ1:5)とあるのは何のためか。おお、計画され、準備され、購入され、所持される何と壮大な祝福のリストが、そこから全部、私たちに流れ込んでいることか。

 祝福以外の何物もなく、特権以外の何物もなく、私たちはそれらを決して思い描くこともなく、それらが明らかにされる時でさえ、私たちは「心の鈍い(ルカ24:25)」者である。今なお、私たちを「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに(1ペテロ1:8)」満たす以外の何物でもない。

 この御心について常に私たちの側から全面的に考えよ。それは、もし私たちがおまかせさえするなら、私たちのためにまた私たちの内にあって私たちとともに常に働く御心についてである。この御心について常にそして大いなる方法と完全な愛の同義として考えよ。御心について永遠の救いから折々の導きと供給の詳細にまで私たちのためにすべてを引き受けるものとして考えよ。

 私たちはかつて砕かれず、曲げられさえしなかったが、主の栄光と完全な意志でもって曲げられた私たちの小さく、弱い、盲目の意志を諦めることを即座に躊躇して、完全な恥や自己嫌悪に陥らなかったでしょうか。

神様の御心に祝福あれ
もっとも栄光あり、恵みの泉そのものであり
そこにはあらゆる良いものがあふれる
心が絶対にたどることができる
その頂点が愛であり、忠実が根底にある宮だ

神様の御心に祝福あれ
その輝きが世を明け染める
キリストの旗が勇敢にも折り畳まれない心の上に
真珠で飾られた若者の露をともなう、子どものような柔和な心の上に
 

※Godhold Beck(96)
[2]
 「ドイツに来ると『日本ではなぜ救われる人が大勢いるのですか。』という質問をたびたび受けます。その理由を一言で言うと『日本の兄弟姉妹たちが、一本の綱を皆で一緒に引いているからです。』というのがその答えではないでしょうか。

 私が一人の宣教師としてなし得ることは、ほんとうに微々たるものだからです。それに組織に属していないことが幸いだった、と思っています。もしも私が組織に属する一宣教師として働いていたら、十年も持たず、とっくの昔に帰国していたのではないかと思わされています。

 アイドリンゲンからいただいた手紙にも書いてありましたが、大規模な喜びの集いを開く時に幸いしたのは、多くの協力者が与えられていたことだそうです。このように人間同士の協力、チームワークがいかに大切であるかを、私たちは体験的に学びます。だとすれば、主イエス様と私たちとのチームワークは、人間同士のそれをはるかに上回る大切なものではないでしょうか。

 すべてがおできになる全能の神であられる主が、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、その祈りに答えようといつも臨んでおられます。これこそが主と私たちとのチームワークなのではないでしょうか。

 ルカ18章1節には次のようにあります。『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。』

 その通りです。主は私たちが失望せずにいつでも祈ることを望んでおられます。今日もなお、この「絶えず祈る」ことが、私たちにとって最も大切なことではないでしょうか。今、私たちは終わりの時代に近づいています。イエス様が再び来られる時が、ますます身近に迫っています。ですから、いつでも失望せずに祈り、その祈りに答えて下さるイエス様とのチームワークを大切にしようではありませんか。

 ある祈り会の時、80歳のご高齢の兄弟が立ち上がって、このようにおっしゃいました。それは60年以上も前に、その方の母親が召される前に語った言葉だそうですが、『うちではあなただけが信仰を持っているのですから、兄弟全員が救われるまで祈り続けて下さい。』と。そしてそれから一人ずつ救われて行き、最後まで残っていた弟さんが、ついにイエス様を受け入れました、という喜びの知らせを語ってくださいました。」

引用者註:11年前ベック兄は大ぜいの人が救われる理由を語っておられる。ところが今日それほど人々は救いに導かれていない。だとすると、一本の綱が皆で一緒に引かれなくなっているのかなと思わされた。)

2016年11月25日金曜日

喜びの満たし

日本人による賛美 ドイツ・アイドリンゲン 2010.10

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。(ローマ15:2〜3)

 もし、人々が信じているだけなら、自己を喜ばせることは、必ず最後には失敗となります。私たちの良き羊飼いである主は、私たちが自らを喜ばせることからは、決してつかみ得ない、主を喜ぶ喜びが現実であること、またその満たしを経験させてくださるのです。

愛の方言は たとえ言葉は一つしかなくとも たくさんあります
人生の貴重な学びの時が流れる間 
できるだけ多くのことをどんなことでも学びなさい
沈黙は どんな隠された悲しみもそこにはないという
確かなしるしでは ありません
決して語られない悲しみは 耐えるのにもっとも重い重荷です
その心は めったに孤独とはなり得ないでしょう
もし 自己忘却という より孤独な静寂を求め
心が 愛というより空しい杯が 満ちることだけを 求めるなら

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-25-fullness-of-pleasure/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97494です。短いだけに「しめた」と思ったが、訳出はむつかしく、今ひとつ「しっくり」と来ない。みことばが簡潔だけに、それで十分だと思うが・・・

※Godhold Beck(95)
 ベック兄にとって1980年にお嬢様リンデさんが20歳で召されたことは大きな意味を持っていたが、昨日の一人の方の証言によると、その時のベック兄の態度を通して、全く想像できなかった人生への生きる道、主イエス様を信ずる道を見出したということであった。

 2016年、そのベック兄が召された。今度は私たち残された者がどういう態度を取るかが問われているのかもしれない。再びベック兄の自らの病気を告白された2005年5月29日にドイツ・アイドリンゲンでドイツ人に向かって語られたものの邦訳を連載したい。
[1]
 今回ドイツに来て、多くの兄弟姉妹方から私の病気について尋ねられました。実は約一年前に、私は白血病という癌にかかっており、この病は治すことができないと医師から宣告されたのです。

 しかし、その後の化学療法のおかげで、今では薬が必要なくなり、二ヵ月に一度の診察だけで済むようになりました。私はこの病気から癒されることを一度も祈ったことがありません。それは私にとって何が最善なのか自分では分からないからです。すべてのことを主に委ねて歩めるというのは、何という特権でしょうか。

 とにかく、一つのことだけは、はっきりしています。私が病気になったことは、本当に良かった、ということです。というのは、兄弟姉妹の皆さんが、それまでにもまして、多くのことに積極的にかかわってくださるようになったからです。このように協力してくださる日本の兄弟姉妹たちが大勢与えられていることは、まさしく主からのプレゼントです。このことは私たちのこの上もない喜びであり、心から主に礼拝する根拠となっています。

 日本の兄弟姉妹たちとともにこのドイツの喜びの集いに参加するようになって以来、今回で12年目に入りました。これまでに4000人以上の方が参加されました。特に今回は日本からだけでなく、オーストリア、フランス、ロシア、インドなどからも参加して下さっています。このドイツ喜びの集いでは、毎回必ず何人かの方々が信仰に導かれています。また集われた多くの方々が、生き生きとした希望をもって帰っておられます。この集いの目的は、交わりを通してお互いに親しくなるためでもあります。

 ところで、今朝読んでいた文章の中に、次のようなとても大切なことが書かれていました。それは「キリスト者は決してソリストではない。」ということです。自分ひとりではなくて、ともに主のみことばを聞き、ともに主を賛美し、ともに主に奉仕することこそが、大切なのではないでしょうか。ともに交わることも、とても大事です。 )

2016年11月24日木曜日

イエス様の御人格そのものが私たちのものとされる

11月にしては珍しい雪、小降りになったところで

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。」は大切です。しかし、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」はもっと大切です。加えられたことば「わたしの平安」とは測り知れない贈り物の驚異を語っています。単に「神との平安(ローマ5:1)」だけではないのです。キリストの十字架の血潮によって神との平安をいただき、私たちがキリストを通して持つ信仰によって義と認められます。

 しかし、私たちはこのようにして和解にあずかり、憎しみと隔たりであった存在に終止符が打たれて後、イエス様はご自身の宝物から私たちのために贈り物を与えられます。そして、これはまさしくご自身のものであるという特別な素晴らしい価値あるものです。私たちは、与え主自身の持ち物であった贈り物をどのようにその価値を推し量ることができるでしょうか。

 私たちはその贈り物がどんなに親しい交わりの特別なしるしだと感じているでしょうか。他の人々に対して、私たちは自分が作ったり、購入したものをあげます。私たちが自分の特別な楽しみや使っているものを与えるのは、大変親しい人に対してするだけです。だから、イエス様は作られた平安や購入された平安だけでなく、ご自身の平安そのものにあずからせてくださるのです。神的な、永遠の、理解を超えた平安を、それはご自身の心の中に神様として備わっていて、人としてのイエス様のいのちを通して驚くべき平安をもって輝いているのです。だから、それが「人のすべての考えにまさる神の平安」であっても、不思議ではありません。

あなたの支配は完璧で平安です
私の平安でなくあなたの平安です
終わることのない流れ
なぜならその泉はあなたの心ですから
おお 知られざる深み!
あなたは あなた自身のものから 与えて下さいます
あなたから 注ぎ出て 私を 満たして下さいます
「いくさの声(出エジプト32:17)」は過ぎ去りました
神の平安は王座にあり
まがうことのない支配とともに統治されます
 
 昨日、家庭集会で証して下さった方の奥様には2013年4月24日に同じように35分ほどで証していただいている。奥様が先に信仰を持たれたのだが、その奥様が自らの信仰の覚醒となったことがら、ターニングポイントとなったことを次のように言っておられる。今日のハヴァガルの学びとまたベック兄のことが触れられていたので聞き書きを載せさせていただく。

 「1980年の、私は、9月か10月ごろに導かれるようになったんですけど、ちょうど1980年の8月、ベック兄の娘さんのリンデさんが召天されて間もなかった時期だったんですけど、20歳で癌の病を信仰によって受けとめ、苦しい中にも、また希望と平安に満たされて、闘病生活を送られた話や、天国へ召されていったことを話して下さいました。

 私が今まで聞いたことのない話で、やはり出会ったことのない人たちだと思いました。目を輝かせて喜びに満ちた表情で話されたのは、ほんとうに印象的でした。一人でも吉祥寺キリスト集会に集うようになっていきました。ここは私が少し心配していた宗教団体ではないと、すぐにわかりました。むしろ、私の求めているものがここにあると思わされたのです。何か心のふるさとに帰ったような、気持ちが安らぐ思いでした。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』ヨハネ14:27]『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』[ヨハネ7:37〜38]『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』[黙示3:20] 

 ベック兄は食事をするというところを、イエス様と交わりを持つようになると言われたのをメッセージで聞いたことがありますが、イエス様に心のとびらを開いて、主をお迎えした日から空しく孤独だった心の空洞は、イエス様のご愛で完全に満たされ、生きていく重荷から解放され、喜びの日々に変えられていきました。・・・[初めから11分過ぎの話])

2016年11月23日水曜日

徐々にか、それとも断固としてか

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)

 「(キリストを信ずることは)非常にきびしいテストだ!」とあなたは言うでしょう。私はそれを手助けできません。私はただ神様がおっしゃることをそのまま伝えるだけです。私はそれを置き換えることもできないし、変えることもできません。もしあなたの人生において古いものが過ぎ去らないで、新しく造られ「新生」しないなら、心といのちと愛と目的において全く異なり「キリストのうちに」はいないのです。

 そして、もしあなたがキリストのうちにいないなら、あなたはキリストの外にいるのです。つまり安全の唯一の場所の外側にいることになります。「箱舟に入りなさい」 破壊者の手段の一つはあなたを欺いて、どんな断固たる決断も必要でないと思わせることです。破壊者は「徐々に」ということばが大層好きです。あなたはもっと熱心になるべきです。けれど徐々にでいいのですよ。あなたは救いを見つけるべきです。徐々に。あなたは心を神様の方に向きを変えるべきです。徐々に、と。

 あなたは神様が決してこのことばをそんなふうにはどんなことにも用いられなかったことを考えましたか。そのことばもその意味も救いに言及する全聖書にはどこにもありません。あなたは箱舟に徐々に近づいていって、徐々に入る決心をしたいのかも知れません。しかし、もしあなたが箱舟に第一歩、すなわち外側から内側への第一歩を踏み込まない限り、戸が閉められた時、あなたの最後はどうなるというのでしょうか。

主にあって完成しなさい 
私たちの栄光のかしらである神様
死者からよみがえられたイエスとともに
そして主の権能ある御霊によって導かれる

おお 幸いなる主 これは 私のためですか
ですから 私の全生涯を これから
あなたに 向かってささげる 
ただ一つの賛美の歌と
ならしめてください 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-23-gradually-or-decisively/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97492です。

※Godhold Beck(93)
 今日は勤労感謝の祝日だったが、家庭集会を開かせていただいた。関東地区ではこの日三ヵ所で家庭集会が開かれたが、その内の一つであった。いつもより若干来られる人は多かった。昨日に比べ寒い中、北国では雪の便りが聞かれると言うのに、遠方から皆さんそれぞれ参加してくださったのには頭が下がった。

 メッセンジャーは地元の方、のっけから自身の古本猟書の話から始まった。書名は『ハツォール 聖書の語る巨大な城塞都市の再発見』。この高価な本をわずか100円で買ったということであった。しかし、その本は旧約聖書ヨシュア記11章「ハツォール」の存在を明らかにした聖書考古学の産であった。霊感された聖書記述を、おとぎ話とか神話ととらえたり、聖書批評学を旨とする神学に対して、「神のことばなる聖書」の真実とはいかなるものかがみことばを通して明らかにされた。ベック兄の著書『実を結ぶいのち』から『「宗教」と「啓示」のちがい』についての言及もなされた。引用聖句・結びの聖句はいずれも1コリント1:18〜24であった。

 一方今日は証しもあった。神楽坂からわざわざ来ていただいた。この方は鹿児島出身だが、ご自身がイエス様を信じた時のこと、職場で鬱状態になったことそこから脱出できたこと、そして7月に郷里のお父上が召された前後の様子を、それぞれくわしく話してくださった。

 信じた時のことは今日のハヴァガルの例証どおりであった。この方は言われた。「初めに、神が天と地を創造した。」結局、その神を自分は無条件に信じたということであった。まさしく「漸進的(gradually)」にでなく「断固として(decisively)」であった。

 その方に鬱で会社を休職しなければならないという大変な試練が襲った。しかし、それは「試練とともに、脱出の道も備えてくださる」[1コリント10:13]神様のご愛があったことだと喜んで証言された。

 最後に父上の召される話と仏式で行われた葬儀でどのようにキリスト者として行動されたか正直なお証しをお聞きできて感謝だった。

 今日のその証し者の方の話の中で一ヵ所だけベックさんが登場していた。宮崎県のえびの高原での喜びの集いに参加した時に、両親が「車で送ってくれた時に、ベックさんが車に近づいてですね、窓越しなんですが、挨拶をしてくださったことがありました。」

 こうして、この日もベック兄を通して与えられた聖書の学びや一人一人に示された愛のある交わりの一端を知ることができた。) 

2016年11月22日火曜日

御国を継いでいますか

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。(マタイ25:34)

 「疲れた者、重荷を持っている者は皆、わたしのところに来なさい、」という呼びかけはもはやなくなることでしょう。なぜなら、イエス様におあずけした疲れや重荷はもう永遠に終わりとなっているからであります。「さあ、祝福された人たち」があるのみであります。その時、最初に「祝福された」が問題であるのでなく、その立場はもうすでに「主によって祝福された」のは「あなたがた」であるという特権です。

 イエス様のところに来る者は、誰でもその栄光ある立場を持ち、あらゆる多様な特権を持っているのです。もし、あなたが初めて今日来させられたに過ぎなくとも、「あなたは今、主に祝福されています(創世記26:29)。」

 あなたがたは、あなたがたを愛し、ご自身の血において罪から洗ってくださったイエス様によって、神様に対して王であり、祭司とされています。キリスト・イエスにある信仰によって、あなたがたは神様の子どもです。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。(私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは)神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります(ローマ8:17)。」イエス様はあなたに主のご栄光の冠を継がさせてくださいます。イエス様は場所や都だけでなく、あなたがたのために王国を備えられたのです

その時とはいったいどんな時でしょうか 
目が見たことのない 耳が聞いたことのない 時でしょう!
あなたがたも堂々とした戦いが止むまで待ちなさい
そして イエス・キリストをとおして いのちの冠を勝ち取りなさい
その時 あなたがたは みことばのご栄光を知るでしょう
その時 星々が永遠に 永久に輝きます
王ご自身の微笑みの下で  終わることのない最高の喜びが 
あなたのものとなるのです

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-22-inherit-the-kingdom/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97491です。

※Godhold Beck(92)
 以前(59)でご紹介した畏友ベック兄について詠んだ残りの短歌を
 紹介しよう。

 ゴーヤ棚片付けをりしその夕べ師召されたりの報(しら)せを受けぬ

 優渥(ゆうあく)にして確信の力もて御言葉を説きし師のみ
 耳朶(じだ)を離れず

 御霊なる光湛(たた)へし面差しにIMAGO(イマーゴ)DEI(デイ)の
 尊厳を見き
   ※IMAGO DEI: 「神の御姿」のラテン語  

 吾に向かひ使徒的信仰語られしフランクフルト空港の夕べ忘れ

 夢のごとき信の世界に伴ひし師は御国へと召され給ひき

   今生(こんじょう)に古(いに)し代(よ)の信仰現(げむ)ぜむと
 師は不断に祈り学びまた説き給ひけり

      ※古し代の信仰:初代教会の使徒的信仰  ) 

2016年11月21日月曜日

砕かれることの幸い

咲き揃う 皇帝ダリア うそ寒に※

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。(詩篇94:12)

 恐らく、私たちはこのことを全部経験し、主に探っていただき、語ってもらい、それから赦され、聖められるという、砕かれることの幸いを知っていることでしょう。それでもなお正しくないことがあるのです。私たちは、不安、不鮮明さ、ぼやっとした不安しかないということをほとんど知りません。私たちは「ほんとうに特別なことを知っていないのです」。しかし、満たされない不満足なことがあります。私たちの救い主のところにもう一度来て、主に、主のみこころに従わないで、私たちがなしたこと、今なしていることについて語っていただくように懇願する以外に何もありません。

 もし、私たちが主に単に自分たちが期待していることだけでなく、主が考えておられることを話していただく目的を真剣に持とうとしなかったり、あるいは私たちが不愉快なささやきの第一声を秘密にして、「おお、それはそのことと何の関係もあり得ない」とか「私はいずれにしても全く正しいのだ」と言うなら、主のところに来ることは無用でありましょう。(そうでなく)私たちは「主よ、続けてください」とほんとうに言わねばなりません。おそらく主はその時、主がシモンになさったように、私たちが主に対して、数人の貧しい軽蔑された人々が自己をささげて真に主を愛して、仕えたようには、仕えていないことを明らかにされることでしょう。

おお 決して私たちの愛する癒し主である主の
厳密な探索に尻込みしないでください
その御手は私たちが身を預ければ預けるほどますます優しくなることでしょう
主が私たち自身の忠実な友でいらっしゃるという証拠は
ますます快くあることでしょう
この方だけが完全にいやすことのできるために傷つかれているのです 

それは しばしば そうではありません
私たちだけがある部分を学ぶこと 
そして 主が試される期間は示すことができるのです
それは まったく「心から」のものでなかった、と
その時 主は 主の賢い寛大な優しさのうちに
その訓練は 再び 与えられるのです 
同一の場所に 今もなお 置かれている 特徴を 伴って 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-21-humbling-blessedness/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97490です。今日の箇所は、恐らくヨハネ21章で示されたペテロ[シモン]に「あなたはわたしを愛しますか」と三度にわたって聞かれた主の愛が根底にあると思う。詩の部分は何と言っても後半の部分が訳しにくかった。どなたかに教えていただきたい。

※Godhold Beck(91)
 写真の花は駐車場の端にあり、行き交う人が見とれていたので、近くに行って撮影した。ほんとうは青空をバックに撮りたかった。

 さて、今日も昨日の続きだが、起工式は工事の安全を願うために行われる。しかし、見方を変えれば、ほんとうに人が救いを体験していなければ、これほど安全からほど遠い状況はない。いのちの安全を得ていない人に福音を語るのは工事の安全を願う以前に絶対に必要だというのがベックさんの考え方であったのでないか。そこにはやはり御霊がくださる豊かな想像力がしからしめるところがあるように思う。そのメッセージの末尾で次のようにベック兄は語っている。再び聞き書きを載せることにする。

「イエス様は『わたしを信じる者は、だれもやみの中にとどまることがない。』ということです。大切なことは、ここに記されていることが、何かある物を信ずる、ある宗教に入るのではなくて、『わたしを信じる者は、』とイエス様は言われました。つまり、信仰の内容が大切です。

 その信仰の内容とは、すでに成就されたイエス・キリストのあがないの御業です。イエス・キリストは、我々の罪滅ぼしのために犠牲になり、救いの御業をなしてくだだいました。

 ただ、人間一人の力では、決して暗闇から脱出することはできなかったでしょう。ただ、人間だけの力によっては、決して良心の呵責からの解放は実現しなかったでしょう。そして、また、ただ、人間だけの力によっては、決して、まことの満たされた人生を知ることができなかったでしょう。

 これこそ、イエス・キリストが永遠の昔から持っていた栄光を捨てて、この地上に来てくださるため大いなる犠牲を払ってくださったことの理由であります。

 そして、また、罪を知らないお方として、我々のために罪そのものとなってくださるという大変な犠牲を払ってくださったことの理由です。私たちこそ、本来ならば、聖なる神のさばきを受けるべき者でした。けど、イエス様は、我々の身代わりとなって、その神のさばきを、いわゆる天罰をご自身の上に受けてくださり、そのことを通して、贖いの道を開いてくださったのです。

 イエス様を信ずる信仰とは、とりもなおさず光に来ること、すなわち、イエス様のみもとに来ることを意味します。そして、光であるイエス様のみもとに来る者は、必ず受け入れられ、その債務は赦されるようになるに違いない。」[39分ごろから42分まで] ) 

2016年11月20日日曜日

宝物と隣り合わせにある貧困

神の愛 語らいて夕 迫るとも 心晴れやか 黄色続けり※ 

私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。(2列王紀7:9)
 
 まさしく最後の人々、彼らは良い知らせを必要としているように思われた。そして彼らに伝えるように託されているこれまた最後の人々であるように思われる人もいた。おお、しかし、その姿はどれほど真実なことか。王様自身の家にあってこれらの癩病人が持って来た良い知らせを必要としていた人がどんなに多くいることかということだ。

 というのは、彼らは大層餓えてはいたが、豊かさの近くにあり、貧しくはあったが、宝が手の届く範囲にあって、主が彼らのために敵を追い散らした時、彼らを取り囲むことができると考えていた。しばしば、それは、霊的な癩病人 、意識的なのけ者、飢餓に襲われ、持てるものが少ないたましいを指すのではないか。彼らはもっとも完全な救いを求めて最も大胆な歩みを取り、王の家のお気に入りの人々や歳を取った人々が知っているものにはるかにまさる、解放と豊かさおよび富を見出す人々だ。

 私たちが彼らに王様の家について話すことを嫌がるだけで、時々良い知らせを隠すのは、敵の策略の一つかも知れない。小さな子どもたちとか貧しい人々やあからさまに「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません(ルカ19:14)。」と言い、決して臣下である仲間に一言も発しない人々に対してさえ、イエス様について、また祝福された発見をためらわず話すことできる人がどれだけいることだろうか。その発見とは、聖霊が彼らに主の救いを完全にさせるということ、主の力の確かさ 主のみことばという宝物 そして主の愛の満足、さらに主の約束の遠大な成就、そして主があ与えになる真の実際的な解放と自由と勝利、それに主の御名にある信仰をとおして流れる力といやしである。
 
諸国の民に主が治めておられると告げよ
異邦人に鎖を引き裂くように命令して告げよ
嘆き悲しんでいる人々にイエス様は生きておられると告げよ
悩める人々に主が与えてくださる平安がどんなものか告げよ
罪人に主が救うために来られたと告げよ
死せる者に主は墓に勝利せられたと告げよ

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-20-poor-within-reach-of-treasures/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97489です。ちょっと詩の前の、後半の部分は切れ目のない長文で、訳がちがっているかもしれません。原文をお確かめの上、読者の方の適切なご教示をお願いします。

※Godhold Beck(90)
 今日の写真は、久しぶりに訪れた友の居を辞したときの風景である。何の変哲もない田舎の晩秋の景色に過ぎない。しかし主なる神様はそこに無限の黄金色という光の祝福をくださった。

 さて昨日お約束した起工式のメッセージであるが、題名は『光なるイエス様』であった。これはまた端的なイエス・キリストのご紹介であった。起工式には設計者、建設会社の方々がそれぞれ数名出席されてのものだった。工事の安全を願うのは当然であろう。しかし、ベック兄は罪と滅びからの救い主イエス様について直截に語られている。

 一部引用してみよう。

「イエス様は『わたしは光として世に来ました。』と言われました。光である救い主が来られた。イエス様は宗教家としてではなく、光としてこの地上に来てくださいました。それだからこそ望みがあります。どういう状況に置かれても、諦める必要はない。イエス様は光として、望みの神とも呼ばれたからです 。

 イエス様が光として来られたから、暗闇や罪の苦しみや孤独から脱出する道が存在します。イエス様は光として我々の中の暗闇を照らしてくださり、わがままを明らかにしてくださいます。

 けれど、それだけではない。イエス様は明るみに出されたあやまち、わがまま、砕かれた心で言い表わした罪を赦し、忘れてくださいます。人間は決して(忘れることは)できない。問題になると、人間は許そうと思えばできる。けれど、後で同じ問題になると、またじゃないかと思い出すんです。主なる神は、思い出さない。だから、聖書の中で何回も、考えられない素晴らしいことばがあります。『わたしはあなたの罪を二度と思い出さない。』すごい、素晴らしい事実です。

 あらゆる人間が、必要とする最も大切なことは、唯一のまことの光、すなわち、生けるまことの神である主イエス様とのいのちの結びつきです。けれど、このことは、ただ、自分のあやまち、わがままが赦された時にだけ可能となります。そして、罪、すなわち、人間のわがまま、また、あやまちが主の光の中で、光であるイエス様の前に告白される時にだけ赦されるのです。(同33分過ぎから)」

 ここにもベック兄が前日述べられたことが、さらにすべての人にわかるように語られていることに気づく。すなわち暗闇そのものである私たちと光である主なるイエス様とはどのようにして結びつくことができるかを敷衍して語っておられるからである。もちろんこれは罪の告白と悔い改めではあるが・・・考えてみるとハヴァガルがいみじくも描いた四人の癩病人の姿を借りて、私たちに福音を証することの意義を語ったように、ベック兄は起工式と言えども、いや起工式だからこそ、福音を直截に語られたのである。このメッセージも是非聞いていただきたい珠玉のメッセージの一つであると思う。上辺はその一部であることを諒とせられたい。) 

2016年11月19日土曜日

Beyond Our Ken but Not Our Spirit

そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。(1歴代誌29:5)

 あなたはこの言い回しが盛り込むことができることを全部理解していない、それゆえにこの言い回しを明らかにする資格がありません。それゆえ、この言い回しにびっくりしたり、考えたりしないでください。あなたか私かどちらかが理解しているよりも、恐らくそれは、はるかに多くのことを包含していることでしょう。しかし、私たちはどちらにしてもその精神に参入できません。その詳細は私たちの観察が続けられる限りにおいて明らかになるでしょう。キリストは意志において心からなる献身を求めておられ、行動においてそれが含まれていることを教えて下さるでしょう。このことは完全な献身はある意味で瞬間の行動であり、別の意味では生涯続けられる働きだという逆説を明らかにします。

主の側に立つのは誰ですか 王にお仕えするのは誰ですか
他のいのちを携える 王の助け人とは誰ですか
誰が世の側に立つことから自由でいられるでしょうか
誰が敵に向き合うのでしょう
主の側に立つのは誰ですか
主のために誰が出かけていきますか
あなたの恵みの招きによって あなたの天与のやさしさによって
私たちは主の側に立つのです 救い主様 私たちはあなたのものです 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-19-beyond-our-ken-but-not-our-spirit/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97488です。

※Godhold Beck(89)
 日ごとにベック兄が召された重味が増している。昨日も申し上げたが、2010年の元旦のメッセージは迫真に迫るものであった。その同じ月の1月10日のメッセージはこれまた厳しいメッセージである。今晩聞き直してみた。題名は『キリストに対する真実と貞潔を失うことあっては』であり、2コリント11:2〜4、ガラテヤ1:6〜10であった。

 その翌日が新会堂の起工式であった。そこではまたどのようなメッセージがなされたのだろうか。それは明日見ることにするが、これらについては私の当時のブログは一切触れていない。ベック兄が「競争」「旅人・寄留者」「たたかい」「勝利者」「主の同労者」という聖書のことばに従いながら、いかに主を愛し抜くか、私たちに熱心に語っておられたのに、こちらは馬耳東風であった。

「主が、強制することを好まず、自発的に主に従いたいと言う兄弟姉妹を求めておられるということです。主は主の軍勢の勇者となることを誰にも強制なさいませんけど、ただ単に救われるだけではなく、主の器とされることは大きな特権です。2テモテ2:3〜4・・・・初代教会の特徴とはどうして彼らが用いられたか、と言いますと、その秘訣とは2コリント5:9に書いてあるでしょう。『肉体の中にあろうと離れていようと私たちの念願とするところは主に喜ばれることです。』主の存在を認めることじゃない、ただ主を信ずることだけではない、主に喜ばれることです(同32分前後)」

「集会全体の使命は暗闇を照らすことです。まことの光はイエス様御自身です。けど、イエス様はご自分の光を、ご自分のからだなる教会を通して、すなわち主イエス様を信じ受け入れた兄弟姉妹一人一人をとおしてこの世に与えようとしておられます。救われた一人一人をご自分の器として用いようと望んでおられます。私たちの内からは、まあ、当然ですけど暗闇しか出てきません。けど、イエス様の内からは光しか出てこないのです。イエス様が我々をお用いになる程度にしたがって主の光が我々の内から出て来るのです。イエス様がわれわれを救われたのはわれわれをお用いになるためであり、われわれの内からご自身の光を与えられるためです。これこそが今年の私たちの使命・課題であります。けど、イエス様に対する個人的な愛がなければいかなる熱心も奉仕も何の役にも立ちません(同38分過ぎ)」

 「 」書きの部分はいずれもベック兄の44分 余りのメッセージの聞き書きである。今日のハヴァガルの黙想はわかりにくいが、恐らくこのベック兄の一言葉「イエス様に対する個人的な愛」などにきわめて近接している考えでないかと思う。)

2016年11月18日金曜日

先ず第一に

このしもべは、自分の犯した罪を認めましたから、ご覧のとおり、きょう、ヨセフのすべての家に先立って、王さまを迎えに下ってまいりました。(2サムエル19:20)

 そうです。私は罪を犯しました。私は自分が罪を犯したことを認めます。私がそのことを多く感ずるのか少なく感ずるのかは事実に影響ありません。私はそのことを知っています。すると次は何でしょうか。「ご覧のとおり、きょう、・・・先立って、王さまを迎えに下ってまいりました。」

 まさしく、私は自らが罪を犯したことを知っているからこそ、イエス様のところにまいります。イエス様は罪人を招くために来られ、罪人を救うために来られました。それゆえ、主は私を招き、救うために来られました。「これが私の願いです(2サムエル23:5)」私は自らが罪を犯したことを知っているからこそ、私は「先ず第一に」まいることができますし、そうしなければなりません。何千人という人がやって来ます、しかしその心は自らの苦しさを覚えているのです。

 そのように、他の人を待たないで、整えて来るのでなく、先ず第一に赦されることを強く求めて、私はまいります。イエス様のところに来るのに人が変わることを待つ必要はありません。「先ず第一に」私が罪を犯したのは「私の主である王」に反抗するものだからです。私は主の召使でした。それゆえに私ははるかに大きな罪を犯したのです。

 先ず第一に、私は大層赦されねばなりませんでしたが、すでに赦されているので、私はそれだけたくさん愛しますし、愛さねばなりません。つまり、悲しんでいる一人の罪人でさえ、近づくことを求め、遠くにいては平安を得ることはできません。「ですから」、また「今日私はまいりました」私は明日まで待つことをあえてせず、また待つことができませんでした。今宵まで待つ必要は全然ありません。(今すぐにまいりなさい!)

私はあなたのところに罪を携えまいります
私の数え切れない罪を
すべての罪はあなたの一度開かれた泉で
聖められるのです
私はそれらの罪を携えまいります 救い主様
あなたのところに すべてを携えて
罪の荷物は私にとって余りにも重いのです 

※Godhold Beck(88)
 2010年の元旦での西軽井沢国際福音センターでのベック兄のメッセージは 「死んでもいい」というタイトルだった。その時、ベック兄は自身の体の病をはじめ、内外に多くの難問を抱えておられた。そのことを知っている私たちは声を振り絞って語られる、いつにない長時間のメッセージに固唾をのんでお聞きした覚えがある。

 死んでもいいとは、エステル記の4:16の「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」というセリフによる。彼女はユダヤ人であったが、外国に住み、不思議な運命で王妃に召し入れられた。ある日、王は側近の進言を受け入れ、ユダヤ人皆殺しの命令を発する。王宮深く身を沈めているエステルに累は及ばないのだろうか。いやそれよりも前に、国内にいる同国人の運命は風前の灯火だ。ために、王妃は王に直接お目通りを願って、その命令を撤回すべく働きかけを決断する場面で発せられたことばである。

 先頃、私の古いブログ『泉あるところⅠ』を見ていたら、2009年の3月24日の火曜日の学び 「死んでもいい」が三回に分け、私の要約でまとめられている記事を見つけた。自分で作成しブログにまでしておきながら、すっかり忘れていた。その末尾に「結局これらの人々(モーセ、ルツ、ダニエルの三人の友、ダニエル、エステル、バプテスマのヨハネ、パウロ)はみな自分の命を失う備えを持っていた。それは命を粗末にすることを意味せず、失われた者が救われるため、信ずる者が新しく造り変えられて霊的に成長するために生きたのだ。私たちも主のご栄光だけが大切という態度を毎日取ることができたらどんなに幸せであろうか。」と記されてあった。

 考えてみると、ベック兄は必要あって、2010年の元旦の冒頭にこのメッセージを再発掘され採用されたのである。収録されたものと自身のその8ヵ月前のブログ記事を比較してみて分かったことだが、それは決して8ヵ月前のメッセージの繰り返しだけではなかった。より深化されたベック兄の憂いの情が切々と語られていた。それはまさしく昨日ご紹介したアレクサンダーの長編詩の延長線上にある心情である。もう一度、あの原点に返りたいと日々思わされている今日この頃である。)

2016年11月17日木曜日

私たちに及ぶ無限者の愛

ある日のsnowdrop

主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。(詩篇147:4〜5)
主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。(詩篇147:3) 

 主は、焼却されねばならないけれども、家ではなく、主の子どもたちの学校として完全に合うようにと、世界の上に、なぜ、そのような測り知れない神経を使い果たされたのでしょうか。主のみわざの無限性は、もっとも力に満ちた知性が、全生涯かかっても余りにも短か過ぎて、主のみわざのいくつかの小さな領域の少数の秘密さえ、洞察できないとわかっているものです。

 もし、私たちが神様の御恩寵に向きを変えるなら、人自身のいのちだけをとりあげるので全く十分です。そのいのちを微視的巨視的に見て、小さな複合体が主が意図されている真のモザイクに整えられ、形つくり、ふさわしくなっている、その詳細にして豊富な知恵の宝に驚きます。

 私たちの人生の多くの小さいことがらは同じ主の心を啓示しています。それは良く知られている、きわめて美しい実例によると、snowdrop(ユキノハナ)の繊細な中心点や球質量と引力をともなう花冠の垂れ下がりようのうちに見られる完璧な釣り合いを整えています。

 もし、非常に才能のある友人が、その考えや、私たちを教えたり、私たちのために計画を立てたりして精神力をちょっとだけしか使わないのなら、私たちはどのように思うでしょうか。(それにくらべて)私たちは、主が私たちや私たちの創造、保持、贖いに使い果たされた無限の考えや英知に感謝したことがあったでしょうか。

私たちは見る そこに
上に向けた主の考え 平和の思いを
もっともやさしい愛に 屈(かが)むところに

それは依然として 私たちの必要が増えるにまして 増していく
決して変わることなく 決して失敗したり ためらったり 忘れたりしない

おお 憐れみ深き  神様
おお 高貴な恵みは 尽きない
おお 深きところ 高きところの やさしさの極み
神様のもっとも貴重な もっとも驚くべき もっとも不思議な○○
私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。(詩篇40:17)

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-17-infinite-mind-thinking-on-us/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97486です。○○の部分は英文の誤植で不明な箇所です。写真は数年前に線路脇で撮影したsnowdropです。この可憐な小さな花を見そなわしながら書き進めていったハヴァガルの主への感謝の思いを読みとりたい。

※Godhold Beck(87)
[8:この項の最終]
 さて、次にご紹介するのは、よく知られているH.E.アレクサンダーの詩です。今のときの大切さ、今、私たちが何をなすべきかを、強く促しています。詩の内容に該当する聖句は、エレミヤ書8章20節「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」です。なお、詩の中の「私たち」は信者のことではなく、イエス様の救いを伝えられなかった人々、福音を宣べ伝えられなかった人々のことを表わしています。

恵みときは終わりに近づいている。
広い世界に、いまや静かに、終わりの日が近づいている。
遠い砂漠の底から、不安な叫びが聞こえてくる。
私たち(イエス様を知らない人々)の真っ暗な夜には、決して光がさし込まない。
私たちを照らす神の恵みがなければ、
私たちは苦しみと闇の中、暗い道を行かねばならない。
永遠に、永遠に。

あなたがた主を信じる者は歌い、喜びに満ちて、「自分は神の子である」と言う。しかし私たちは、死のいけにえとなり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。

あなたがたはなぜ、立ち止まっていて、夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。あなたがたはなぜ、主がそのひとり子を遣わして、
私たちを愛してくれていることを教えないのか。

あなたがたのおかげで、私たちはそれを知らずに、希望もなく滅びいく。
私たちは死ぬために生まれたのであり、
死は、永遠から永遠にいたる我々の運命なのだろうか。

私たちには星が輝かない。約束の光も照らされない。
遠くの方にさばきの雷が聞こえる。

なぜ、なぜ、あなたがたは急がないのか。
神が「行って、全世界に、十字架の勝利者を宣べ伝 えよ」と言っているのに。

あなたがたは、私たちのあわれな心のための「喜ばしい知らせ」を持っている。
傷を癒す薬を、苦痛を永遠に癒す薬を持っている。
それなのに、なぜ、そんなに長く、沈黙しているのか。

早く、主を信じるあなたがたの、
信仰の岩に至る道を、信仰の言葉を、私たちにも聞かせてほしい。
神があなたがたに与える慰めを、私たちにも与えてほしい。
私たちの涙をぬぐってほしい。

私たちが、永遠のいのちを持たず、死んでいくのは、あなた方のせいだ。
どうか私たちをも祝福に導いてくれ。私たちは罪に悩み、夜は近づいている。
私たちは、自分のたましいを、悪魔の力に与えなければならないのか。
永遠に。永遠に。
近くの国から、遠くの国々から、何千万という人々が、主を求めて叫んでいる。


   主よ。私たち主を信じる者に、新しい恵みをお与えください。
   私たちの罪をお赦しください。
   あなたのためにのみ、私たちをお用いになり、
   私たちを使者としてお遣わしください。
   あなたを待ち焦がれているたましいの所へ、
   十字架の言葉を運ぶ者としてください。
   彼らが永遠に、永遠に、滅びることがないように!

引用者註:この詩は事あるごとにベック兄が読まれた詩である。主を信ずる者の罪は、「無関心」であり、「妥協」であり、「順応」であったことに思いを馳せ、再度我が胸中にその奈辺いかにありやを訊ね、それゆえに悔い改めたい。)

2016年11月16日水曜日

罪の告白なしに聖くせられることはない

イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。(ヨシュア7:19) 
あなたがたは、なぜ、主の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。(2歴代誌24:20)

 私たちは告白し赦されるまで、隠しているものをおろそかにしてはいけません。さあ、この意に満たない過去の経験、なかんずくその歩みの毒の泉となった信仰の欠如を携えて、私たちまでも、あれこれの罪から、聖めてくださるキリストの尊い血潮のところに、出ましょう。

 そして、おお、私たちの鈍い愚かさで主をこの狡猾な不信仰によって悲しませたけれども、厳しく私たちを非難せず、忍耐強くやさしくしてくださったゆえに、さらに主をもっと愛しましょう。そうすれば、主の恵みによって私たちは新しい体験の領域、かつての以前よりももっと完全に主のために守られている生活に入ることができるでしょう。なぜなら、私たちは主をもっと単純に率直に信頼して、その生活を維持できるからです。

おお 私を 今 聖めてください 
私の主よ 私は黙っていられないのです
夕闇が迫り 静かな時間が迫っています
私は 罪を犯してしまいました 遅れないで 今
私は あなたのお約束と 全面的な力を 求めています

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-16-no-cleansing-without-confession/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97485です。

※Godhold Beck(86)
[7]
 ドイツの雑誌で、「祈り」が少なくなってきていることに警鐘を鳴らす、興味深い文章を見つけました。今の時代、教会、集会を問わず、多くの場合に当てはまるのではないかと思い、痛烈で風刺的な文章ですが、あえてご紹介します。その底に流れる著者の危機感をご洞察ください。

 故「祈り会」氏の死亡通知
 「祈り会」氏はかねて長期療養中のところ逝去されました。「祈り会」氏は数十年前、リバイバル(信仰復興)の時代に生まれ、いきいきした証しや賛美があふれる中で大きく成長されました。特に長年、教会で重要な役目を果たされましたが、ここ数年は、膝の硬化症で(祈りのために)ひざまずくことが少なくなり、衰弱しておられました。
 「祈り会」氏の妻の「学び会」夫人は、数年前、同じ病気で衰弱し死亡しておられます。主治医はこの世との親交を重視する某学派の巨頭でしたが、病気の治療のため、「組織」注射法や、「お茶飲み会」刺激法を考案、改善を図るべく他の新療法も次々と試みましたが、結果は見るべきものもなく、空席の目立つ教会に騒々しい音楽がこだまするだけで、何ら病状は改善されませんでした。
 「テレビ熱」も、患者のいのちを奪う要因です。死後解剖の結果、多くの患者は娯楽番組の見すぎで心の栄養失調状態にあることが判明しました。「テレビ熱」はまた、悔い改めや祈りを著しく減少させ、神への恐れ、真の信仰を欠如させたので、死は不可避でした。また、兄弟姉妹の愛のない環境が死期を早めたことも否定できません。それを反映して生前に残された遺言は、冷たい事務的な内容でした。なお、参加者が極端に減少しているので、教会の水曜日の「祈り会」は、以後、中止いたします。ただし、若者の「福音劇団」が上映する日は、祈り会ではないので教会を開けます!

 こういう状態になってしまわないよう、私たちはしっかりと主に祈り求めていく必要があります。

引用者註: まことにこの死亡通知は厳しい。身につまされる。)

2016年11月15日火曜日

報われることばの数々

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。ヨナ2:10 ホフマン画※

エフタは自分が言ったことをみな、(ミツパで)主の前に告げた。(士師記11:11 )
主は(彼とともにおられ)、彼のことばを一つも地に落とされなかった。(1サムエル3:19)

 平均的なセンスや知性を持たない一人の農夫は「読書は総じて大層つまらなかった。けれども、私はやさしい人たちが、貧しい人々は笑い以上の良いものを求めているのだと思ってくれればいいのだがなあーと願っていました。」と述べたものです。結局のところ、神様と神のみわざとおことばについての、直接的で単刀直入で非妥協的なことば以外に本当に報われるものは何もありません。初めて、一人の貧しいアイルランド人が福音を聞いた時、「ありがとうございます。今日あなたは私たちの飢えをなくしてくださったんですね。」と言ったように、一人の人に言わしめるものは福音以外に他の何物もありませんでした。

 私たちの言葉はどうでしょうか。私たちが欲しようと、欲しまいと、言葉はすべて、ある意味で、主の前ですべてが発せられたものです。なぜなら、私の舌には一つの言葉もありませんが、見よ、あなたは、ああ、主はことごとく知っておられるからです。このことはどれほど厳粛なことと考えられているでしょうか。しかし、主の永遠にわたる臨在の光のうちを私たちが歩むように、私たちの言葉が主の前で意識的に発せられる時、それはどれほどすばらしいことでしょうか。私たちが歩くことができますように、保たれた足、保たれたくちびるとともに、信仰をもって「おお主よ、私の力、私の贖い主よ、私の心の想い、私の口から発することばがいつもあなた様から見て受け入れられますように」と祈りながら、話すことができますように。

そうです 私たちはイエス様のためにことばをいただいています
私たちにはあなたご自身の祝福の甘い言葉 
あなたのやさしい「わたしのところに来なさい」という
生き生きしたこだまが聞こえます

主よ そうなんです 私たちはあなたを愛しています
あなたの愛が明らかなことは 
あなたが今日あなたの祝福してくださった足に
あなたが開いてくださった唇の実があります 

私たちには多くの労苦が
多くの心打たれることが
多くの恐れが課せられるかも知れません
しかし あなたはご存知で 強めてくださいます
そのあなたの助けはいつも 身近にあります
私たちに不信仰の恥をなくし 
完全に従っていける恵みをお与えください
弱くともあなたの愛するお名前によって
真心からお証したいのです 
 
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-15-words-that-pay/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97484です。今日のハヴァガルの黙想はことばを大切にした心からなる彼女の願い・祈りのような気がする。詩の部分はまた読者からやさしい表現が投稿されるかもしれない!

※Godhold Beck(85)
[6]
 主の命令で、ヨナは「ニネベの人々が滅ぼされる」ことを、大声で叫びまわりました。それで何千人もの人々が悔い改め、主に立ち返ったので、主はニネベを滅ぼすことを思い直されました。それを見てヨナは怒りました。

「あなたが恵み深い神であられるのを、私は知っていました。だから最初に命じられたとき、私は反抗したのです。私が告げて回ったことをこんなふうに反故になさるのなら 、私のいのちなど取ってください。」そして彼がふてくされて町を見ていると、主は一本のとうごまの木を備え、彼に日陰を与えました。が、その木は枯れました。彼は再び怒りました。ヨナは不従順であり、また町の人々に対して愛の心がなく、無関心だったのです。

 しかし、主は最後にこう言われました。わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ4:11)

 いったい、ここでは何が問題なのでしょうか。主が何を与え、どのように助けてくださり、私をどこに置かれるのか、それを主からどのように受け取るのかが問題なのです。

 ある家族に、治療が不可能と言われている病気の子どもがいました。その子が30歳になったとき、集会の人々が集まってお祝いし、この病気の子のために主に感謝が捧げられました。招かれた人々はこのような体験をしたことがなかったので、たいへん驚きました。普通なら、病気の子は隠されるべきものであり、神に感謝されることなど、考えられないことだったのです。

 ある人は次のようなことを告白しました。飼い犬が病気になり、安楽死のための注射がされたとき、この忠実な犬は最期に飼い主をもう一度じっと見つめました。飼い主は庭に出て、この一匹のために泣きました。

 ヨナは人間に対して無関心でしたが、神様はそうではありません。ヘルマン・ベツルは次のようなことを言いました。「街を見てまわると、人々は破滅に向かっているにもかかわらず、有頂天になり、歓声をあげている。その姿に私の心は痛む」。

引用者註: 戦後の日本人の特徴として1991年の彦根の短大の講演でベック兄が「無関心」「順応」「妥協」をあげておられたと、かつて書いた。ヨナの無関心と主なる神の愛がいかに深いかをここで対照的に語っておられる。)

2016年11月14日月曜日

目的をもって忠誠を尽くすこと

(神の恵みを見て喜び、)みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:23)

 主にとどまることは、単に安全のために恐る恐るしがみつくことではありません。それは輝かしくも勇気ある決断であります。強いものであり、迷ったり裏切ったりする人の見方によって弱められるのでなく、何が起ころうとも、主が私たちの王であるから、私たちは主を愛するから、主の大義と王国は私たちにとって大変慕わしいものであるから、主の側に立つというものであります。私たちは他の関心から解放されることなしには、このようにとどまることはできないのです。しかし、これは何と大切なことでしょうか。 

 「ダビデに身をゆだね」「ダビデの王国のために強く彼を支えた」勇者たちのようにイエス様のために、気高くありましょう。。完全に「神様とともに」おられるのが私たちの主イエス様であるなら、私たちがより小さいことに狙いを定めることに十分な意味があるのでしょうか。それは結局もっとも容易で、もっとも安全な大義にすぎません。

 特別な友だちと「ダビデの勇士たち(1列王紀1:8)」は簒奪者アドニヤに組しなかっただけでなく、彼らは決して裏切るように誘惑されませんでした。「しかし、あなたのしもべのこの私(や祭司ツァドクやエホヤダの子ベナヤや、それに、あなたのしもべソロモン)は招きませんでした(1列王紀1:26)。」宿営を継ぐ者には非常に強力で危険な多くの誘惑があります。敵は護衛の一人に贈っても無駄だと知っています。私たちの父なる神様はイエス様により近づかせて、私たちを「誘惑に陥らないように(マタイ26:41)」導いてくださるのです。

キリスト者の標準を明らかにし
そして最後まで骨折りなさい
いのちの殉教者の冠を勝ち取った高貴な部隊
私たちの祖先は真理のために死ぬことができた
死ぬほどの発熱に立ち向かうことができた
それなのに私たちは標準を下げ
敵に身を任せるのですか  

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-14-cleaving-with-purpose/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97483です。

※Godhold Beck(84)
[5]
 「ワタシは誰でしょう」という宣教の印刷物に次のことが記されていて、私は今だにそれを覚えています。
 「ワタシは地上のどの軍勢よりも力強い。ワタシはどのような爆弾や大砲よりも大きな破壊力がある。ワタシはすべての戦争よりも多くの人間を殺す。ワタシは年々、多くの男女を片輪にしている。病気、長患い、そして死をもたらす。ワタシは子どもも老人も、家屋敷をも見逃さない。何も与えず、すべてを取り去る。あなたはワタシのことを十分に警戒すべきなのに、ワタシのことを忘れている。「ワタシ」とは、あなたの最大の敵、『無関心』である。」

 来て、ごらんなさい。主がいかなる救いを成し遂げられるのかを。
 日本における宣教活動について考えると、私たちは、単に主がなさったことの報告者に過ぎません。報告者は決して重要ではありませんが、「来て、ごらんなさい。主がいかなる救いを成し遂げられるのかを。」というみことばが成就するのを体験し得たことは幸せであり感謝です。

 自分が立てた貧しい計画で無駄なエネルギーを消耗することなく、ただ主が恵んでくださること、主のなさることを感嘆しながら見ているだけでいい者は、何と幸いなことでしょう。恵みの中で成長するということは、自分が衰え、主が盛んになり、ただ主がなさることをそばで見ていることに他なりません。

「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」(2歴代誌20:12)

 イスラエルの民は、優勢なアモン人の軍勢に怯えていました。どうすればよいのか。人間的に見れば、何もできません。しかし、自分自身の無力さを知り、それを認めた上で主に従おうとするなら、すべてのことが可能なお方、万能の主を体験することができます。自分の無力さを意識し、主を仰ぎ見る者は、何と幸いなことでしょう。これは「無関心」とは全く異なります。

引用者註: 私はこのベック兄の柔和な言い方が好きだ。「来てごらんなさい。」とありますが、これはまさしくあのサマリヤの女の叫びだと思います。「私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」日本人の救いのために奉仕なさった報告は全く何も持たないで来て帰りには主の恵みを一杯いただいたあのサマリヤの女の報告と同じだと言ったら、私の独りよがりでしょうか。それにしても上のハヴァガルの黙想もベック兄のメッセージも不思議なことに地下水脈の深いところで、すなわち「常に主にとどまることの幸いを訴えている点で」つながっている思いがします。これまた当方の勝手な思いかもしれませんね。追記 今晩12日のSpeak just a Wordに掲げられているハヴァガルの詩の素晴らしい訳をいただいた。是非お読みください。) 

2016年11月13日日曜日

おお、子羊である王

神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8) 
わたしのために、王を見つけた(1サムエル16:1)

 このようにキリストが王である源泉は主の愛の永遠の助言者である神ご自身にあります。それは神の壮大なお考えの一つです。キリストは父に向かって「あなたはわたしを世の始まる前から愛しておられた(ヨハネ17:24)」と言われました。その不思議な日付、すなわち時も始まっていないが、永遠の愛をもって神は「私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれました(エペソ1:4)

 世界が始まる前に、うそを知らない神様は、私たちのために主に対する永遠のいのちの約束をお与えになりました。そして私たちのために主とともに「 すべての点で整序された契約をし、それを確かなものとされました。」その契約の先行する条項は私たちの贖いのための子羊であるイエス様であり、私たちの統治者としてのイエス様でした。死せる者、生ける者の救い主でいらっしゃるイエス様でした。

 主は、主の王を見つけて、任命し、油を注がれました。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに(詩篇2:6)。」このようにして神様の心と私たちの心にとってイエス様の王権のうちに何とすばらしい会合の場所が見出されることでしょうか。主はご自身の堂々とした権威のうちに「わたしは、わたしの王を立てた。」とおっしゃるのです。そして私たちも低くされ、愛の忠誠をもって「あなたこそ私の王です」と言うのです。

私のおよびもつかない地にまで達した報告は真実だった
すべての主の英知と並外れた名声の報告
しかし私は来るまで信じなかった
王の手で起こされるまで塵に伏していたのだ
その半分も死せる人間のことばは決して語られなかった
私の王は私がかつて耳にしたすべての名声を凌駕していた 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-13-the-lamb-the-king/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97482です。

※Godhold Beck(83)
[4]
 主は言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 私たちは、主イエス様だけが真理であり、他には真理が存在しないということを、はっきりとこの世に向かって示さなければなりません。ともすると、聖書は、今の時代に向けた神の言葉として宣べ伝えられなくなっています。もはや真理は存在しないかのようです。

 二つの異なった意見があります。一つ目の意見は、「間違いのない聖書のみことばに耳を傾け、現代の思潮から離れるように」と警告します。二つ目の意見は、「聖書批判を許し、現代の思潮と仲良くしよう」というものです。

 しかし私たちは、この終りの時代において、次のことをゆるぎなく確信する者です。
「聖書のみ、イエス様のみ、恵みのみ、信仰のみ。」
「次の事実から離れることは不可能です。聖書の間違いのなさ。神である主イエス様。処女マリアからのイエス様の誕生。十字架上におけるイエス様による犠牲の贖い」。

 ところで、南アフリカではいったい何が起きているでしょうか。神に関係あることは憲法から除外されています。すべての宗教は同じ価値であるとされ、学校去行くの中で魔法や魔力の習慣が教えられます。堕胎が容認され、親が知ることなく12歳の少女が中絶することが許されています。

 日本には、今日、プロテスタントの教会が7961ヵ所あります。教会の会員が512111人(人口の約0.4 %)ですから、一教会あたりの会員は平均64人、そのうち日曜日の礼拝には約36人が参加するという計算になります。

 日本最大の教団に属する200の教会では牧師が不在で、10年後には500ヵ所の教会で牧師がいなくなると心配されています。後継者が育たないのです。このような事実は衝撃的であり、信者の覚醒をうながします。

引用者註:このメッセージはほぼ10年前に外国のドイツで語られたものだが、日本の現状は深刻だ。10年後の今日、事態は恐らくもっと深刻になっているかもしれない。そのことに無関心であってはならない。しかし、今出席しているベック兄を通して誕生した「集会」はまさしく「万人祭司」であり、一人一人が聖書の真理に堅く立ってゆるぎないことも事実だ。そして、ひたすらまだ主を知らない人々のために祈りをささげている。武器は伝道集会でも、様々なイベントでもない。「祈り」だ。今日も人数は少なくても一人の傍観者もいない主の集会に川越で参加できた。感謝である。)

2016年11月12日土曜日

Speak Just a Word(ちょっとみことばを語らせてください)


ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ6:10) 
美しき言葉をいだすなり。(創世記49:21 文語訳)

 サタンは謙遜を悪用して妨害することさえして、私たちを説得して、当然のように私たちが知っているよりも私たちの友が神様のことについてもっと知っており、私たちがイエス様のうちに発見したことを話すのは、私たち自身について語っているだけかもしれないと納得させます。しかし、おそらく私たちがたくさんの良き知らせや救いを宣べ伝えることを差し控えている間、その間ずっとその友人は飢え渇き、悩まされているでしょう。 

 私たちのもっとも輝いている者は、もっとも謙遜なキリスト者からイエス様についてもっとも単純なことばをいただき、もっとも感謝した日々をすごしたのではなかったでしょうか 。「主の名前を語り告げること」でさえ食べ物となり自由であった日々であったのです。

 キリスト者の家族の各員はその恵まれた立場のゆえに、そのような「良き知らせ」を何ら必要としないということは全然フォローにはなりません。誰も彼らに当たって見て助けることが必要だと思わないから、彼らはなおのこと必要なのです。それではいつなのでしょうか。つねに思い浮かぶことばですが、再び「今だ」と言って、そのことばは私たちを待っています。

やさしいことばの思い出が長い間とどまり 朽ちていく花の香りがやさしく送られ
突然の笑み 突然の涙が ちらりとあらわれ さらに暖かな手のぬくもり 歓呼の響き

「私は話すことは出来ない。だが、私は聞いたのだ」というその静寂
神ご自身のみことばから一節を生み出すにすぎない覚え書き
私たちがほとんど宣教とはみなさないそのような小さな事柄
与えた人たちはかすかな同情をあらわしたと思っている

けれども 心が高ぶっている時おお 誰が話すことができようか 良くするそのような小さな事柄の力を 

昔 聴いた 優しいことば
枯れ行く花の愛しい香り
思いがけぬ微笑みと 涙の 輝き
握られた手 励ましの声の ぬくもり
云えないけど 分かってるよと伝える沈黙
主のみことば だけが 書かれたメモ

すべて ご奉仕とは 言い難い小さきこと
特別に深い憐み・同情心も 伴わなかったかも
でも このような小さい事に 秘められた力
それは 疲弊し渇いた心を 潤してくれないと
だれが 言えるでしょう


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-12-speak-just-a-word/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97481です。青字の詩の部分は何ともおさまりのつかない文章になってしまいました。最後のフレーズThe power of such tiny things to make It wellはitが大文字でItです。wellは果たして「良い」でいいのでしょうか。それともここは「泉」と理解し「みことばを泉にするそのような小さな事柄の力」と訳すのがいいのでしょうか。 追記 読者より素晴らしい訳をいただいた。ブログ氏の愚劣な訳を小さくして併記して載せます。ご鑑賞ください。

※Godhold Beck(82)

[3]
 さて、若者の集いで語られた第二の引用は、次の文章です。

 「神様は、ご自身の目標を達成するために、私たちをも参加させられるのです。あらゆる国家、部族、民族、言語の人々が集まって主を礼拝します。」(シドニー・ウイトブーイ)

 私たちの使命は、イエス様を宣べ伝えることです。私たちの望みは、まだ救われていない人々がイエス様を知って救われることです。主への愛、そして失われている人々への愛ゆえに、私たちは「真理」の問題に関して、異説を聞き入れてはなりません。人々を地獄に行かせたくないからです。この世にある、いわゆる宗教というものは、人間を生ける神のもとにではなく滅びに導きます。ただひとり主イエス様だけが、ご自身が生ける神への唯一の道であると明言しておられます。

 今の時代はほんとうに深刻です。イエス様を信じる者は、協力しあうべきです。しかし、その協力とは、すべてを犠牲にし、すべてを妥協して協力しあうことでは決してありません。聖書の真理を犠牲にした誤った超教派的な動きは、解決策にはなりません。ただ主イエス様を信頼し、信じ切ることだけが問題を真の解決に導きます。
 たとえば、私たち主を信じる者は、次のような人々と交わることはあり得ません。
・聖書を絶対的なものと考えない人々
・マリヤや聖人、死者に向かって祈る人々
・聖書に基づいた相談でなく、心理学的なカウンセリングを求める人々
・この世的な方法で、教会を繁栄させようとする人々
・ローマ法皇を、すべてのキリスト者の代表として認める人々
・聖書の神とイスラム教のアラーを同等に位置付ける人々
・集会の規律を時代遅れとして、受け入れない人々
・罪や地獄について、もはや語らなくなった人々
・神はすべての宗教の中にいる、と言う人々
・人々の賛同を得られないので、神をもはや主とは呼ばない人々
(この項はフリーゲ氏によるドイツの教会の大会における発言)
・神は、父でもあり母でもあるので、もはや主とは呼ばない人々
・イスラム教徒とともに祈ろうとする人々
・洗礼を罪の赦しとして認識する人々

 今の世の中は、神を認めようとしない社会になっています。不信仰と愛の欠如が蔓延しています。ヨーロッパの国々の憲法において、もはや「神」の理念はなくなってしまいました。罪を罪と呼べず、異端を異端と呼べなくなると、宣教も福音伝道も不可能になります。過ちと罪があって初めて神様の真理、義とあわれみが宣べ伝えられるからです。

引用者註:イエス様を宣べ伝えることの素晴らしさをハヴァガルは今日のところで親族に伝えることの奮起を促すかのように語っていました。一方、ベック兄は20世紀からあらわれ、21世紀に支配的になっている、宣教の危機について語っておられます。このようなベック兄の考えはこの時に始まったものではありません。すでに1994年発行の『絶えず祈れ』の下巻の「はじめ」の11頁から27頁にかけて極めて根本的なことが語られています。) 

2016年11月11日金曜日

完全な平和のうちにある心

すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリント10:5)
 
 私たち自身のはかりごとよりももっと悩ませる暴君がどこかにいるでしょうか。行ないとことばを制御することは比較的小さなことのように見えます。しかし、これまで私たちは、実のところ、はかりごとをやめられないと考える傾向はなかったでしょうか。私たちがはかりごとを支配するのでなく、はかりごとが私たちを支配してきたのです。そして私たちは空しいはかりごとの多種多様な暴政から逃れ、さらに彷徨する考え方をより少なくするのが可能だと、期待することも、考えることすらしなかったのです。

 しかし、四六時中、ここにある、この絶望的な、どうすることもできない事柄に関する神のことばがあったでしょうか。そこにだけ私たちの信仰があったのですが。霊感せる御霊がここで使用しているのはまさに強い言葉遣いです。それは一般的な「はかりごと」ではなく、明確であり、例外を悩ませる余地のない「すべてのはかりごと」であります。

 夜昼なくなされるすべてのはかりごとが、イエス様によって、素晴らしい、心安らかで、完全なとりことされ主の聖なる愛する影響力、主の美しい申し分のない律法に、完全に「信仰による従順(使徒6:7)。」をいただくこととは何と栄光ある休息ではないでしょうか。

 私たちのたましいはそのような休息をあえて望んだり、夢を描いたりしたことはなかったでしょう。 それらの上にキリストのくびきを負う人々にとって、その約束にふくまれていると推量もしなかったことでしょう。そして、もし私たちが私たちのために神様の無限にやさしい目的のどの部分もなかったということを述べている一つのテキストを見つけることができたら、私たちは初めて「もちろんです。というわけは、あり得ないと論理づけられるからです。」と言うはずです。

汝はまだ知らない
わたしが汝自らの弱い胸の内に
汝をわたしの似姿に形造り
汝をわたしの安息にふさわしく
なせしことを
しかし
汝をわたしの愛する技倆に差し出せ
覆われし恵みの作品
日ごとにつねに進歩する 
辿るのは汝ではない 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/november-11-a-mind-at-perfect-peace/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97480です。またしても難解な箇所の連続です。読者による適切な訳を切に期待するところです。

※Godhold Beck(81)
[2]
 次の疑問を、自分に問いかけてみましょう。
 ・私はいつも、主のご支配の下にすべてを明け渡しているでしょうか?
 ・私はいつも、主の思い通りに動かされているでしょうか?

 主は、ご自身のご栄光で満たすことのできる器を求めておられます。私たち自身は一度死ぬ必要があります。死んで「自分で生きる」ことをやめ、「主無しで生きる」ことをやめるのです。そうすれば、主のご支配、開かれた天を体験できるでしょう。

 イエス様にとっては、父である神のみこころだけが決定的でした。サタンや家族、弟子たちから幾度も意見や提案を受けられましたが、その通りになさったことはありませんでした。ただ、父のみこころにかなうことだけが、イエス様の行動の決め手でした。

 聖霊は、私たちのすべての自主性、すべての思いを取り除かれたいのです。その上で、すべての責任を負いたいと思っておられます。

 私たちは自分自身の思いを否定することによって、主の満たしを体験できるのです。私たちは幸いにも、主に依存することが許されており、それによって主の満たしにあずかることができるのです。満たしは主の中にしかありません。心のうちにおられるイエス様は、とにかく、私たちとは違います。ですから、私たちは自分自身を否定することによってのみ満たしを体験できるのです。

 私たちにも良いと思われる考えがあるかもしれません。しかし、それが主のみこころであるか、私たちの思いであるかを、主に尋ねなければなりません。主とともに歩んでいるかどうかが大切なのです。主の霊が働いている中には、あふれるいのちがあり、主がどこのおられ、どのように働こうとされているのか、また、私たちに何を要求しておられるのかがわかります。何が起きようとも、主のもとにいつも身を避け、十字架の血潮の覆いに身をおくことが許されています。

 神様は、ご自身の目標を達成するために、私たちをも参加させられるのです。

引用者註: 「開かれた天」〈ヨハネ1:51〉は生まれながらの人間がついぞ経験できない世界です。ハヴァガルにしてもベック兄にしてもイエス様が一番近いお方であることがわかります。)