昨日は石牟礼道子氏のことばを紹介しながら民数記21章に触れた。ところが、同氏の代表作『苦海浄土』を読んでいたら今朝次の箇所にさしかかった。(石牟礼道子全集不知火第二巻168頁)
杢よい。おまやこの世に母(かか)さんちゅうもんを持たんとぞ。かか女の写真な神棚にあげたろが。あそこば拝め。あの石ば拝め。
拝めば神さまとひとつ人じゃけん、お前と一緒にいつもおらす。杢よい、爺やんば、かんにんしてくれい。
五体のかなわぬ体にちなって生まれてきたおまいば残して、爺やんな、まだまだわれひとり、極楽にゆく気はせんとじゃ。爺やんな生きとる今も、あの世に行たてからも、迷われてならん。
杢よい、おまや耳と魂は人一倍にほげとる人間に生まれてきたくせ、なんでひとくちもわが胸のうちを、爺やんに語ることがでけんかい。
あねさん、わしゃこの杢めが、魂の深か子とおもうばかりに、この世に通らんムリもグチもこの子にむけて打ちこぼしていうが、五体のかなわぬ毎日しとって、かか女の恋しゅうなかこたあるめえが、こいつめは、じじとばばの、心のうちを見わけて、かか女のことは気ぶりにも、出さんとでござす。
しかし杢よい、おまや母女に頼る気の出れば、この先はまあだ地獄ぞ。
作者(石牟礼道子)が水俣市八ノ窪の江津野杢太郎少年(9歳ー昭和30年11月生)の家を訪ね、杢太郎少年のお爺さんと話をするくだりの最後に出て来る場面である。原田正純氏がこの全集の月報に寄せた文によると医者として自らが書き留めたカルテとこの石牟礼氏の叙述を比較して次のように言っている。「薄っぺらな一枚の診断書用紙でその人間の苦悩を表現できるものではない。私は地域や家庭の中でどのような生活障害があるか具体的に診断書に記載するように努力したつもりだった。しかし、石牟礼さんの記述には到底及ばなかった。」
この第四章「天の魚」と題する章で、天草から水俣に出てきた顛末が、70歳に達する爺さんの語りを通して明らかにされる。光ある生活を求めたにもかかわらず、一家から一人息子、孫を水俣病にとられ、嫁は去り、もはや漁に出ることもままならず、ジリ貧に終わるだけでなく、どのように彼らを介護して行けばよいのか途方に暮れる日々が描かれる。
しかし、そこに「暗さ」よりも、そうして生きなければならない人間存在に上から光が当てられ、つつがなく人生を送っているかに見える者までも照射してやまない「大いなる光」を見る思いがした。
そして、紹介した石牟礼氏の叙述に私は胸中で又しても民数記21章を思わざるを得なかった。(もちろん、「拝め」と爺さまが指し示しているのは『偶像』であり、主なる神様が指し示している『青銅の蛇』とは異なることは百も承知しているが)今日はその箇所を引用されたイエス様のことばを紹介しておきたい。
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子〈イエスのこと〉です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3・13〜15)
2017年6月12日月曜日
お願いですから、聞く耳を持ってください
考えるところがあって今『評伝 石牟礼道子 (渚に立つひと)』(米本浩二著 新潮社)を読んでいる。その中で余りにも今の政権に代表される日本社会の風潮の源流を見るような思いがするので、忘れないうちに記すことにする。太字部分が引用者の共鳴する所である。(以下は同書222頁〜223頁より抜粋引用)
—あの、今の時代をどう思いますか。
「日本列島は今、コンクリート堤になっとるでしょう。コンクリート列島。海へ行くと、コンクリートの土手に息が詰まる。都会では小学校の運動場までコンクリートです。これは日本人の気質を変えますよ。海の音が聞こえんもん。渚がなくなったですもんね。海の呼吸が陸にあがるところ。陸の呼吸が海に行くところ。渚は行き来する生命で結ばれている。海の潮を吸うて生きとる植物もいるのに。コンクリートでは呼吸ができない。
渚の音が、聞こえんもん、渚にはいっぱい生き物がいるのに、特殊な植物は海の潮ばすうて生きとるですもんで。アコウの木はそう。葭(よしず)も。自伝に『葭の渚』とつけたのもそういう意味です。それで渚ば復活せんばと思っている。それがすんだら道行き。『曾根崎心中』の名文句は覚えていますもん。道行き文学について書こうと思います。古典は読んどらんけん。この際、読もうち思います」
—水俣病の現在をどうみますか。
「水俣病の場合はまず棄却という言葉で分類しようとしますね。認定基準を決めて、認定の基準というのは、いかに棄却するかということが柱になってますね。国も県も。そして乱暴な言葉を使っている。言葉に対して鈍感。あえて使うのかな。あえて使うんでしょうね。棄却する。一軒の家から願い出ている人が一人いるとしますね、私はあんまりたくさんまわっていないけど、ほんの少数の家しか回っていないけども、行ってみると、家族全員、水俣病にかかっとんなさるですよ。家族中でぜんぶ。ただその人の性格とか食生活とか生活習慣が先にあるんじゃなくて、水俣病になっている体が先にあるもんで、病の出方が違うんですよね、ひとりひとり。
魚を長く食べ続けたと訴えても、それを証明する魚屋さんの領収書とかもってくるようにという。そんなものあるわけない。認定する側の人だって魚屋さんから領収書もらってないでしょう。そういうひどいことを平気で押し付けてくる。証明するものって、本人の自覚だけですよね。それをちゃんと聞く耳がない。最初から聞くまいとして防衛してますね。自分のことを一言も語れない。生きている間、もう70年になるのに、自分のことを語れないんですよ、患者たちは。
普通の人生にとっても、たとえば私もパーキンソン病でいま具合が悪いけど、さまざま遠慮してお医者さまにも病状の実態をくわしく語れないんですよ。生きている間、生まれてこのかた自分のことをひとことも人に語れないのがいかにつらいか。なってみればわかるですよね。それで切ないですよ。一軒の家から何人も願い出るとみっともないとか、世間さまに恥ずかしいとか、ただでさえも気の弱い人が語れないですよね、人と語り合ってもことごとく食い違うですよね。そういう一人の人間の一生を考えただけでもつらいですよね。それが何百人も何千人もいるわけでしょう。個人の単位で考えてもそうだけど、村の単位で考えても。村がありますね。摂取量が違うと思うんです。村によって。そして山の中にも出ているはずです。鹿児島の山中に行商にいきよる、魚の。行商に行った人が山の中の人に領収書なんか渡すはずがなかでしょう・・・。
この希有な人、石牟礼道子と著者との2015年時点での対話の記録のようである。遅まきながら『苦海浄土』を読み始めた。しかし、なぜか私には民数記の次のくだりが思い出されたので記しておく。救済のすべてはここにしかないと思うからである。
彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。(民数記21・4〜9)
石牟礼は聞く耳のない日本社会いや人間社会の誠意のなさを難渋している。それにはぐうの音も出ない。それにくらべて私は聖書をとおして知ることの出来る、主のみわざを思わざるを得なかった。すなわち荒野を旅するイスラエル人のつぶやきに対して、主が示されたこの愛の場面である。青銅の蛇は人のすべての罪をご自分のものとされたイエス様を指し示す型であった。上げられた蛇はどこからでも仰ぎ見ることができる。そしてそこに罪と汚れの死から私たちをいのちへと引き出してくださるイエス様の十字架の愛を見る。その愛こそ人のすべての悩み苦悩を聞く耳だと思うたからである。それにしても石牟礼文学の良質さは群を抜いていると思う。
—あの、今の時代をどう思いますか。
「日本列島は今、コンクリート堤になっとるでしょう。コンクリート列島。海へ行くと、コンクリートの土手に息が詰まる。都会では小学校の運動場までコンクリートです。これは日本人の気質を変えますよ。海の音が聞こえんもん。渚がなくなったですもんね。海の呼吸が陸にあがるところ。陸の呼吸が海に行くところ。渚は行き来する生命で結ばれている。海の潮を吸うて生きとる植物もいるのに。コンクリートでは呼吸ができない。
渚の音が、聞こえんもん、渚にはいっぱい生き物がいるのに、特殊な植物は海の潮ばすうて生きとるですもんで。アコウの木はそう。葭(よしず)も。自伝に『葭の渚』とつけたのもそういう意味です。それで渚ば復活せんばと思っている。それがすんだら道行き。『曾根崎心中』の名文句は覚えていますもん。道行き文学について書こうと思います。古典は読んどらんけん。この際、読もうち思います」
—水俣病の現在をどうみますか。
「水俣病の場合はまず棄却という言葉で分類しようとしますね。認定基準を決めて、認定の基準というのは、いかに棄却するかということが柱になってますね。国も県も。そして乱暴な言葉を使っている。言葉に対して鈍感。あえて使うのかな。あえて使うんでしょうね。棄却する。一軒の家から願い出ている人が一人いるとしますね、私はあんまりたくさんまわっていないけど、ほんの少数の家しか回っていないけども、行ってみると、家族全員、水俣病にかかっとんなさるですよ。家族中でぜんぶ。ただその人の性格とか食生活とか生活習慣が先にあるんじゃなくて、水俣病になっている体が先にあるもんで、病の出方が違うんですよね、ひとりひとり。
魚を長く食べ続けたと訴えても、それを証明する魚屋さんの領収書とかもってくるようにという。そんなものあるわけない。認定する側の人だって魚屋さんから領収書もらってないでしょう。そういうひどいことを平気で押し付けてくる。証明するものって、本人の自覚だけですよね。それをちゃんと聞く耳がない。最初から聞くまいとして防衛してますね。自分のことを一言も語れない。生きている間、もう70年になるのに、自分のことを語れないんですよ、患者たちは。
普通の人生にとっても、たとえば私もパーキンソン病でいま具合が悪いけど、さまざま遠慮してお医者さまにも病状の実態をくわしく語れないんですよ。生きている間、生まれてこのかた自分のことをひとことも人に語れないのがいかにつらいか。なってみればわかるですよね。それで切ないですよ。一軒の家から何人も願い出るとみっともないとか、世間さまに恥ずかしいとか、ただでさえも気の弱い人が語れないですよね、人と語り合ってもことごとく食い違うですよね。そういう一人の人間の一生を考えただけでもつらいですよね。それが何百人も何千人もいるわけでしょう。個人の単位で考えてもそうだけど、村の単位で考えても。村がありますね。摂取量が違うと思うんです。村によって。そして山の中にも出ているはずです。鹿児島の山中に行商にいきよる、魚の。行商に行った人が山の中の人に領収書なんか渡すはずがなかでしょう・・・。
この希有な人、石牟礼道子と著者との2015年時点での対話の記録のようである。遅まきながら『苦海浄土』を読み始めた。しかし、なぜか私には民数記の次のくだりが思い出されたので記しておく。救済のすべてはここにしかないと思うからである。
彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。(民数記21・4〜9)
石牟礼は聞く耳のない日本社会いや人間社会の誠意のなさを難渋している。それにはぐうの音も出ない。それにくらべて私は聖書をとおして知ることの出来る、主のみわざを思わざるを得なかった。すなわち荒野を旅するイスラエル人のつぶやきに対して、主が示されたこの愛の場面である。青銅の蛇は人のすべての罪をご自分のものとされたイエス様を指し示す型であった。上げられた蛇はどこからでも仰ぎ見ることができる。そしてそこに罪と汚れの死から私たちをいのちへと引き出してくださるイエス様の十字架の愛を見る。その愛こそ人のすべての悩み苦悩を聞く耳だと思うたからである。それにしても石牟礼文学の良質さは群を抜いていると思う。
2017年5月4日木曜日
神のことばはいのちのパンなり
大洗漁港 |
いのちのパンである、天よりの食物、すなわち、神のことばをふりむきもしない人は、自分の魂を、なんとむごく取り扱っていることよ。神は、慈愛にとみたもうおかたであるから、神御自身が、わたしたちのうちに、はいり来たりたもうために、目に見える手段を設けてくださっている。その手段をとおして、神は、わたしたちを呼び、集め、照らし導いてくださる。この手段を正しく用いることによって、わたしたちは、永遠の幸福にあずかるのである。
しかるに、今日は、なんとしたことであろう。まだ霊的に盲目な、世俗的な人々が、価の高い真珠を、足で踏みにじっている、ということだけでも嘆かわしいことであるのに、さらに悲しむべきことは、「神のすばらしいみことばや、きたるべき世の権威をその身に経験した」人々が、「落伍者」になっているではないか。
彼らは、この世や、肉にさまたげられて、神のことばの追求を投げ棄ててしまっている。何日も、何週間も、神のことばを考えることなしにすごして、魂は飢えるにまかせている。たとい、まれに、みことばを読んだり、聞いたりすることはあっても、その心や頭には、この世的な事が、雑然といっぱいつまっているので、魂は、天の父の愛の光を受けて、温まることはできないのである。太陽の光線が大きくうねっている海を温め得ないのと同様である。
人の心が、神のことばによって温められ、生きかえらせられるためには、しずかに、敬虔なおもいで、神のことばを受けとらなければならないのである。
(『あらしと平安』ロセニウス著岸恵以訳聖文社342頁より引用)
久しぶりにロセニウスの霊想を読んでいる。心に染み入る内容である。この短い霊想の中には明らかに下記のみことばが念頭として描かれているのであろう。読み比べてみて、さらに含蓄が出て来る思いがした。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:7)
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。(ヘブル6:4〜8)
2017年5月1日月曜日
それほどまでにして戦争をしたいのか
三谷太一郎氏の『戦後民主主義をどう生きるか』(東京大学出版会2016年9月刊行)を読んだ。その中にご自身の「記憶としての戦争」が次のように記されていた。衝撃を感じた。忘れないために以下書き写した。(同書246頁から引用)
戦火が直接に私の身辺に及んだのは、私が在住していた岡山市に対する昭和20(1945)年6月29日未明の米軍機B29約70機による数時間に及んだ空爆である。それに先立って、当時国民学校三年生だった私に戦局の最終局面(私はそれを明確に認識するのを恐れていた)が近づいているのを感じさせたのは、沖縄の失陥だった 。
私は米軍が沖縄本島に上陸した日のことを鮮明に記憶している。昭和20年4月1日の夕方近く、家の玄関前の中庭で近所の子供の一人と遊んでいた時、家の中のラジオから流れるニュースが何事かを伝えた。その時一瞬にして一緒に遊んでいた子供の顔色が変わった。「お父ちゃんの居るところじゃ。お母ちゃんに知らせにゃ」といって、風のように去った。
60年経った今も、あの日の光景を忘れることができない。私は、それまで日本に「沖縄」という県が存在することを知らなかった。したがって米軍の沖縄上陸を伝えたニュースの重大性も、そのこと自体によってではなく、そこに駐屯していた兵士を父に持つ子供の全身を震わせるような反応によって、初めて知ったのである。その子の父が沖縄で戦死したのを知ったのは、戦後であった。
岡山市が焼夷弾による空襲にさらされたのは、沖縄の日本軍守備隊が壊滅した六日後である。六月に入って、米軍の本土上陸作戦の開始が近いとの観測が明らかにされ、これに対応する体制の準備が進んだ。国家総動員法を強化した戦時緊急措置法の成立によって、空前の委任立法権が内閣や全国九ブロックに設置された地方総監府に付与され、さらに義勇兵役法成立によって、性別・年齢を超えた国民義勇戦闘隊の編成が進んだ。
国民学校も軍隊化された。いくつかの学校群が「大隊」を構成し、各校は「中隊」と位置づけられ、各学級は「小隊」と名づけられた。私の所属は、「第一大隊第二中隊木山(担任の女性教諭の性)小隊」であった。私はもう一人の児童と共に「副小隊長」を命じられた。岡山市の上空にB29の大編隊が飛来した日の6月29日付けの『朝日新聞』には、安倍源基内相の「本土はもう戦場化しているといってもいい」との談話が載せられている。
空襲は、防空演習の予想や予測をはるかに超えるものであった。未明に異変を知った一家七人は、市街の中心にあった家を脱し、寸土も見逃さない絨毯爆撃によって燃えさかる街路を潜り抜け、辛うじて郊外の農村に逃れた。東京での二度の空襲を経て、この日岡山で三度目の空襲に遭遇した永井荷風は、その日記に「九死に一生を得たり」と記しているが、それは当日の私の実感にそのまま合致する。民家に襲いかかるB29の黒い機影は、民家の屋根をすれすれに飛び、爆撃目標を誤ることはないように感じられた。この空襲で、「木山小隊」の児童の約半数が亡くなった。もう一人の「副小隊長」とは再び会うことはなかった。(中略)
空爆によって家を失った私の一家は、父の出身の農村に移り住み、そこで敗戦を迎えた。八月十五日の記憶はもちろん鮮明であるが、とくに忘れることができないのは、その日の新聞に載った大日本政治会総裁南次郎大将の敗戦を語った談話である。当時の私にはもちろん南次郎についての知識はほとんどなかったが、「南次郎」という名前ははっきり覚えている。南談話の中で、私を刺激したのは、敗戦の原因として、「国民の戦争努力の不足」を挙げた点であった。自分自身でも意外であったのは、当時の私はこの談話に心の底から憤激した。私は生まれて初めて、日本のリーダーの責任感の欠如に対して根本的な不信感を持った。振り返ってみると、これが戦後への私の態度を決定する最初の要因であったと思う。そしてそれが記憶としての戦争を歴史としての戦争に結びつける媒介契機になったと思う。
長々と引用させていただいたが、考えさせられる三谷氏の文章である。人の痛みを痛みとして感ずる政治の不在が相も変わらず続いている。それは一言で言えば日本の要路の人たちは今日「それほどまでにして戦争をしたいのか」の一語に尽きる。だからこそ、二千年前に生身のからだをもって和解をなして下さった主イエスのみわざを我が記憶として今日も覚えたい。
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:18、21)
2017年4月27日木曜日
何々生まれ 何々育ち
老漁夫の詩 山村暮鳥 (大洗にて) |
中学校のころか、小学校のころだったか、新聞の社会面に、生まれ育った町の乱闘議会の様子が紙面を賑わせたことがある。その時、その「乱闘議会」の文字に大変恥ずかしい思いをした。事を決めるのに話し合いで終わらず、乱闘、腕力で事を決しようとした町の議員たちの姿が少年時代の自分にとっては、新聞を通して全国に知れ渡ったことを恥ずる思いがあったからである。それは今から60年前の1950年代のことである。
今日大臣の失言や、審議不十分の共謀罪法案の行く末など、少年少女を取り囲む政治の状況は彼らにとってどのように映っているのであろうか。大変気がかりである。いや政治の行く末そのものに大変危惧を覚える。
ところで、この乱闘議会は町村合併に賛成か反対かをめぐる対立がもたらしたものである。爾来、私たちの町は、市に編入されて誇りある町名を町民が名乗る機会が減ってきたのでないか。こんなことを書く気になったのも、田原総一朗氏の以下の文章に触発されたからである。同氏は『井伊家の教え』(2016年11月刊行)の冒頭で次のように書いている。
私は「彦根」生まれである。決して、「滋賀県」生まれとは言わない。あくまで、彦根なのである。この意識は、滋賀県内でも、彦根人だけが持っている熱烈ある郷土愛の証しだ。
何を隠そう。私の生まれ育った町が町村合併の結果編入されたのはこの彦根市だった。私は「高宮」生まれである。ために高校以来今日まで町は彦根市になり、まして高校も大学も彦根で過ごしたので、出身地はどこですかと問われると、一瞬心の中ではためらいながらも、説明が面倒くさいのと知名度が高いので「彦根」出身と答えている。しかし内心では「高宮」生まれだと自負している。
だから、田原氏が「彦根」生まれだと胸を張られるのは理解できるが、どっこいこのような「彦根人」もいることを田原氏に知って欲しいと思う。しかし、このような郷土意識は人類につきまとう一つの大切な意識かもしれない。聖書に次のような話が出て来る。
彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネの福音書1:45〜47)
ナザレについて大変な偏見を持っていたナタナエルが、「ナザレの人でまことの救い主イエスに会った」と喜んで伝えた友人ピリポの言を一度は拒みながら、二度目は「来て、そして、見なさい」ということばにしたがってイエスのところに近づく場面である。その時、イエスはこの真っ正直な男を賞賛された。
偏見は人間につきものである。しかし彼は心底神を求めていた。その思いは神の子イエスに通じていたのでないか。そのような偏見の対象たる町ナザレに神の子は住まれたのである。「偏見」、「誇り」、「過誤」一切を見そなはして、なおご自身がもっとも低きところにあってそこから絶望している者に絶えず声をかけて下さる主イエスに感謝する。
2017年4月1日土曜日
死別 オズワルド・スミス
暗黒! 真夜中! 最後の別れが告げられ、最後の握手がかわされました。そして、あなたがいのちをかけて愛していたいとしい者が、あなたから去っていき、あなたはやるせない心細さの中に残されます。痛む心をいだき、呆然として、埋葬式という胸の張り裂けるような、恐ろしい経験をします。自分がこの地上ですべての愛情を傾けた者をその中に収め、冷たく黙している墓に背を向け、家路につく時、あなたは苦悩のあまり声をあげて泣き、これから先どうして生きていけばよいだろうかと途方にくれるのです。
日はきたり、そして過ぎ去っていきます。長い暗い夜、あたりが静まり返っている時、いとしい者のおもかげが数かぎりなく、あなたの疲れきった頭を去来します。けれども、それはただ苦しみを増すだけで、慰めにはなりません。友人たちも、あなたを助けることはできません。宗教にさえ、あなたは失望してしまいます。教会は慰めを与えることができず、神は自分から遠く離れておられるように思えます。「ああ、消え去った手の感触よ、黙してしまった声の響きよ!」—これが、あなたの苦悩の叫びです。
しかし、ついにある日—ああ、それはなんという日だったことでしょう—、あなたは助け主について聞きます。この助け主は、あなたのような経験をしている者のためにこそ、つかわされたのです。最初あなたは、どのように助け主を受け入れてよいかわからないで、暗やみの中で手探りしています。あなたはイエスのみことば—特に、イエスがつかわそうとしておられるもうひとりの方についての約束—を読みます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。ただちに、このみことばはあなたの注意を引きます。「これが、私に必要なものではないだろうか。ああ、どうしてこれを手に入れるかを知ることさえできたら!」どうしてそれを手に入れるか! あなたはもう一度読みます。やがて、光がもたらされます。それをではなくて、その方をなのです。
突然、神はあなたの霊的理解力に活力をお与えになります。そして間もなく、あなたは助け主である方にある喜びを味わうようになるのです。驚いたことには、あなたの悲しみは去り、心痛はやみます。あなたの思いは、もうひとりの方にだけ集中されます。ただちに、あなたは自分の失ったものを思い起こします。しかし、流れ出ている涙は、今では感謝と賛美の涙であり、聖霊にある喜びの涙なのです。あなたのいとしい者は帰ってはきません。しかし、もうひとりの方、助け主が、あなたの心を満たしておられ、あなたにとって何ものにも代えがたいものとなっておられるのです。放心状態はまだ存在しています。しかし、それは不思議に満たされており、すべては最善なのです。ああ、なんという助け主でしょう。
初代教会ではこのようでした。「聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)。聖霊はその当時に助け主であられました。そして、今でもそうであられるのです。聖霊がおられないでは、任務を果たすことはなんと困難であることでしょう。しかし、聖霊がともにおられるならば、なんと容易であることでしょう。愛するみなさん。あなたはこの方を必要としています。実際、この方なしには、あなたはやっていけないのです。なぜ、あなたは神の最上の賜物—御霊—なしに、この人生を過ごすのですか。※
(『聖霊の満たし』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳119頁〜121頁より引用※引用者註:ルカ11:9〜13参照のこと。)
日はきたり、そして過ぎ去っていきます。長い暗い夜、あたりが静まり返っている時、いとしい者のおもかげが数かぎりなく、あなたの疲れきった頭を去来します。けれども、それはただ苦しみを増すだけで、慰めにはなりません。友人たちも、あなたを助けることはできません。宗教にさえ、あなたは失望してしまいます。教会は慰めを与えることができず、神は自分から遠く離れておられるように思えます。「ああ、消え去った手の感触よ、黙してしまった声の響きよ!」—これが、あなたの苦悩の叫びです。
しかし、ついにある日—ああ、それはなんという日だったことでしょう—、あなたは助け主について聞きます。この助け主は、あなたのような経験をしている者のためにこそ、つかわされたのです。最初あなたは、どのように助け主を受け入れてよいかわからないで、暗やみの中で手探りしています。あなたはイエスのみことば—特に、イエスがつかわそうとしておられるもうひとりの方についての約束—を読みます。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。ただちに、このみことばはあなたの注意を引きます。「これが、私に必要なものではないだろうか。ああ、どうしてこれを手に入れるかを知ることさえできたら!」どうしてそれを手に入れるか! あなたはもう一度読みます。やがて、光がもたらされます。それをではなくて、その方をなのです。
突然、神はあなたの霊的理解力に活力をお与えになります。そして間もなく、あなたは助け主である方にある喜びを味わうようになるのです。驚いたことには、あなたの悲しみは去り、心痛はやみます。あなたの思いは、もうひとりの方にだけ集中されます。ただちに、あなたは自分の失ったものを思い起こします。しかし、流れ出ている涙は、今では感謝と賛美の涙であり、聖霊にある喜びの涙なのです。あなたのいとしい者は帰ってはきません。しかし、もうひとりの方、助け主が、あなたの心を満たしておられ、あなたにとって何ものにも代えがたいものとなっておられるのです。放心状態はまだ存在しています。しかし、それは不思議に満たされており、すべては最善なのです。ああ、なんという助け主でしょう。
初代教会ではこのようでした。「聖霊に励まされて前進し続けた」(使徒9:31)。聖霊はその当時に助け主であられました。そして、今でもそうであられるのです。聖霊がおられないでは、任務を果たすことはなんと困難であることでしょう。しかし、聖霊がともにおられるならば、なんと容易であることでしょう。愛するみなさん。あなたはこの方を必要としています。実際、この方なしには、あなたはやっていけないのです。なぜ、あなたは神の最上の賜物—御霊—なしに、この人生を過ごすのですか。※
(『聖霊の満たし』オズワルド・スミス著松代幸太郎訳119頁〜121頁より引用※引用者註:ルカ11:9〜13参照のこと。)
2017年2月28日火曜日
『徒手空拳』ということば
版画 谷口幸三郎 |
ブログをずっと休んでいた。それなりの理由があった。ブログが中心で過去一年間ほど自らの聖書の学びが疎かになってしまっていたことを示されたからである。三週間、じっくり聖書を読むことができたか?と言うと心もとないが、それでも自らがどのような者であるかは少し静まって考えることができるようになった。でも後述するように果たしてどの程度自分が分かってきたのか、疑問である。
それよりも前回の記事『三年七ヶ月』の記事を投稿したその週の日曜日にはまさかの家族に再び病気が見舞った。主なる神様は私の好い加減な姿勢を見透かすかのように事を起こされた。幸い、三年九ヶ月前の病院に収容されて元気を回復しつつある。その背後には多くの方の祈りの支えがあったことと感謝している。
さて、標題の『徒手空拳(としゅくうけん)』ということばだ。人様の前でこのことばを使った。話し終わって早速妻から苦言を呈された。意味がわからない。意味を説明すべきだった、と。聖書中の人物を見ているうちに、その人物には何の頼るものもなかったことを思い、そう表現した。もっとも話す前にネットで意味を確かめて自分なりに確信を持って話していたのだが。
妻の苦言が気になり、もう一度改めて考えると適切でなかったとしか言えない。徒手空拳には二つの意味がある。1、手に何も持っていず、素手であること 2、資金・地位など頼るものがなく、自分の身一つであること。例文として「徒手空拳で事業を始める」とあった。果たして自分が説明しようとした人物にこの形容がふさわしいか。私はその話の中でこれこそ『徒手空拳』だと詩篇125篇の2節を引用した。
山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
しかし、これは全く徒手空拳どころか、主なる神様が何もない者を全面的に支えていてくださる証しのことばでないか。彼自身には何の力もないが、主なる神様があのエルサレムを囲んでいる山々のように、自らを全面的に支えてくださっていると確信を持って言うことができたからである。それが困難な900マイルの荒野にもかかわらず、多くの人を、また多くの金・銀・ささげ物を無事に運ぶことができた理由なのだ。その上、彼を待っていたのはもっと解決不可能なエルサレムの実情だった・・・そこにも主による解決があった。
全く見当違いのことばを皆さんの前で奇をてらって語ってしまった。ブログ氏の悪い性向は今もって一向に改まっていないのを恥ずる。このようにどうしようもないトンチンカンで自己中心のブログ氏だが、今日語らせていただいたみことばを我が胸に刻み、再びブログを再開することにする。ただし、ほどほどに。
すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。(エズラ7:9〜10)
2017年2月7日火曜日
3年7ヵ月の祝福
ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21〜22)
今日は火曜学び会の日であった。都合により休み、ネットで視聴させていただいた。メッセージ、お証し、それぞれ心を揺さぶられる内容であった。メッセンジャーの方は度々家庭集会にお招きする方だが、冒頭の聖句がメッセージの主題聖句であった。そしてそのみことばに基づいて四つのことを指摘してくださった。
先ず私たちは主なる神様によって愛される者として造られていること。次に、たとえどんな背きの罪もイエス様の贖いの死によって赦されるということ。第三に決して私たちは主にとって忘れられることがない存在だということ。最後に主なる神様は『わたしに帰れ』と絶えず呼びかけてくださる愛なるお方だと語ってくださった。
ところがそれで終わりかと思いきやこの愛の実践篇であると言ってご自身のお兄さんが78歳でつい最近召された経緯をお証してくださった。救われて後、30年間主に背き続けられたお兄さんが家族、兄弟に自らの罪を詫びて天に凱旋されたという内容であった。
学びの後、今度は昭和16年生まれのご婦人が自らの信仰を証してくださった。時間の経つのも忘れさせる、主イエス様の数々のお取り計らいに聞いている私はただ目を見開くばかりであったが、これまた私にとっては良き悔い改めの時となった。なぜなら、その方はご主人とともなる事業の浮沈の中で何故か苦難に襲われる時、いつも空を仰いで救われたと言われ、主の御存在を思う次のみことばを紹介されたからである。
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)
私のような好い加減な信仰でなく、揺るぎない主への感謝がその方の口を通して語られたからでもある。
そして今日は午後には去る1月19日に42歳で3年7ヵ月の闘病の末、召された若いご婦人のお別れ会もあった。ここでも詩篇103:1〜5、マルコ5:21〜43がメッセンジャーの口を通して忠実に語られ、遺族への大きな希望、慰めの一時となった。終わりに遺族であるご主人から挨拶があった。三ヶ月に及ぶ意識不明の状態から、意識が回復したが、視力は閉ざされたまま、他の五感も言うことを効かなかった。そのうち、やや改善されとうとう会話ができる状態になり、お二人にとってともに祈ることが生きる原動力になったこと。そして天国への確かな希望を持つことができたことなどを語ってくださった。
考えてみると彼女が倒れる一月前2013年の5月18日にやはり私どもにも同じような病が家族の一人に襲い、パニックになった。その頃から私たちはこのご夫妻には戦友の間柄の感があった。双方の家族のために多くの方々が祈ってくださり今日がある。だから今日のお別れ会は特別の思いもあり、出席したかったが、以下の事情がありネットで視聴せざるを得なかった。それは奇しくも今日、その家族がパリから帰国する日になってしまったからである。98歳になる祖父、親族のご機嫌伺いが目的である。先ほどその家族をふくんで食卓を囲んだ。感慨深いものがあった。
それにしても今日は一日、「主イエス様の真実な愛は尽きることがない」ということを嫌という程、この者に知らしめてくださる日となった。顧みると今日は我が誕生日の日であった。長女から写真の手作りのお菓子が贈られてきた。家内はそれをきれいにお皿に盛り、さっさと彩りをつけ飾ってくれた。いつもは様々なお祝い品をくれる次女には最初から当方で辞退していた。それなのに何もしないことをしきりと詫びる。そこへ行くと男性陣は三人が三人とも無関心である。寂しくもあるが、そうでもない。当然な気がするからである。やせ我慢を張るわけではないが、かくの如き十分な恵みを主にある兄弟姉妹のお証をとおして十分いただいたからである。これぞ誕生日にふさわしい恵みではないか。上から無償でいただいた最高の贈り物だと思う。
2017年2月6日月曜日
ベック兄の原稿
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
ベック兄のメッセージ原稿はローマ字で記されている。最近も一人の方からその原稿を漢字仮名まじりに直されたことを教えていただき興味を覚えた。というのは、私は今古い音源をもとに、聞き書きを集中的に行っているからだ。ところが最近『キリスト者の使命』というベック兄の比較的古い時代のものと思われるメッセージの聞き書きをして、気づいたことがあるので今日はそのことを話題にしたい。
ドイツ人であるベック兄にとって日本語でメッセージするのは大変である。必ず原稿が必要である。ところがベック兄の日本語表現は大変洗練されていてこの日本語はどなたに習われたのかいつも疑問に思う一つだ。一説には今ドイツに行ってしまわれた日本人の方がベック兄からドイツ語を習い、その方が日本語をベック兄に教えられたと言うがそれ以上はわからない。
しかしベック兄にとって来日当時日本語の聖書は文語訳と口語訳があり、それを軸にメッセージされたのであろうが、1970年に新改訳聖書が発行され、特に新改訳聖書を評価されたベック兄だから来日15、6年で今度は第三の聖書日本語訳を身につけねばならなかったから、その苦労は並大抵ではなかったと思う。今回『キリスト者の使命』の中の「実を結ぶ人生」のメッセージが明らかにその二つの聖書訳が混淆して語られていることに気づいた。大変苦労されたことが窺える箇所がいくつか見られる。多分1970年以前の口語訳でベック兄も最初のメッセージはつくられ、その聖句を覚えておられたのであろう。そのメッセージ中の「 」で示したことばはいずれも口語訳のそれであるからだ。
日本人にとっても聖書訳が変わることは大変だと思うが、ドイツ人であるベック兄にとってはさらに大変だったことが想像される。でも淡々とメッセージはなされている。そのことを大仰に考えもせず言われもしなかったのであろう。ゆかしいベック兄の態度だ。水鳥はスイスイと川の中を泳いで行く。しかし言うまでもなく、隠れた水中では必死に水かきがなされているのだ。
メッセージの中でベック兄は「イエス様は何事でも大仰に言われなかった」と語られている。ベック兄愛用のことばのようであるが、何人の日本人が今その表現を用いるであろうか。大仰とは言うまでもなく、「おおぎょう」と読み、大げさに言われなかったと言うことだ。それにくらべてブログ氏はどちらかと言えば大げさに物事を捉えもし言いもする方だ。ベック兄が残された遺産、それは何事も大仰に言われなかったイエス様の真実な生き方だ。それを学びたいと思った。くわしくは「ベックさんのメッセージ」http://2chronicles16-9.blogspot.jp/のサイトをご覧いただきたいが、その一部の文章を写しておく。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。
この末尾の二行の言い方、何度読んでも味がある。大仰に言われないイエス様はここではっきり何もすることができませんと言っておられるというのですから。そしてこのメッセージの後半では、その力を体験したパウロのことばが引用されている。それはベック兄が経験したことでもあるのだ。何しろベック兄にとって、日本語は「メトシェラの老齢、ソロモンの英知、ヨブの忍耐」が必要だと教えられたそうですから。逆に言うとベック兄はそれらすべてを備えられていたということが見えて来る。
ベック兄のメッセージ原稿はローマ字で記されている。最近も一人の方からその原稿を漢字仮名まじりに直されたことを教えていただき興味を覚えた。というのは、私は今古い音源をもとに、聞き書きを集中的に行っているからだ。ところが最近『キリスト者の使命』というベック兄の比較的古い時代のものと思われるメッセージの聞き書きをして、気づいたことがあるので今日はそのことを話題にしたい。
ドイツ人であるベック兄にとって日本語でメッセージするのは大変である。必ず原稿が必要である。ところがベック兄の日本語表現は大変洗練されていてこの日本語はどなたに習われたのかいつも疑問に思う一つだ。一説には今ドイツに行ってしまわれた日本人の方がベック兄からドイツ語を習い、その方が日本語をベック兄に教えられたと言うがそれ以上はわからない。
しかしベック兄にとって来日当時日本語の聖書は文語訳と口語訳があり、それを軸にメッセージされたのであろうが、1970年に新改訳聖書が発行され、特に新改訳聖書を評価されたベック兄だから来日15、6年で今度は第三の聖書日本語訳を身につけねばならなかったから、その苦労は並大抵ではなかったと思う。今回『キリスト者の使命』の中の「実を結ぶ人生」のメッセージが明らかにその二つの聖書訳が混淆して語られていることに気づいた。大変苦労されたことが窺える箇所がいくつか見られる。多分1970年以前の口語訳でベック兄も最初のメッセージはつくられ、その聖句を覚えておられたのであろう。そのメッセージ中の「 」で示したことばはいずれも口語訳のそれであるからだ。
日本人にとっても聖書訳が変わることは大変だと思うが、ドイツ人であるベック兄にとってはさらに大変だったことが想像される。でも淡々とメッセージはなされている。そのことを大仰に考えもせず言われもしなかったのであろう。ゆかしいベック兄の態度だ。水鳥はスイスイと川の中を泳いで行く。しかし言うまでもなく、隠れた水中では必死に水かきがなされているのだ。
メッセージの中でベック兄は「イエス様は何事でも大仰に言われなかった」と語られている。ベック兄愛用のことばのようであるが、何人の日本人が今その表現を用いるであろうか。大仰とは言うまでもなく、「おおぎょう」と読み、大げさに言われなかったと言うことだ。それにくらべてブログ氏はどちらかと言えば大げさに物事を捉えもし言いもする方だ。ベック兄が残された遺産、それは何事も大仰に言われなかったイエス様の真実な生き方だ。それを学びたいと思った。くわしくは「ベックさんのメッセージ」http://2chronicles16-9.blogspot.jp/のサイトをご覧いただきたいが、その一部の文章を写しておく。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。
この末尾の二行の言い方、何度読んでも味がある。大仰に言われないイエス様はここではっきり何もすることができませんと言っておられるというのですから。そしてこのメッセージの後半では、その力を体験したパウロのことばが引用されている。それはベック兄が経験したことでもあるのだ。何しろベック兄にとって、日本語は「メトシェラの老齢、ソロモンの英知、ヨブの忍耐」が必要だと教えられたそうですから。逆に言うとベック兄はそれらすべてを備えられていたということが見えて来る。
2017年2月5日日曜日
あなたは何に従って生きますか
肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8:4)
6年前に考えるところがあり、オースティン・スパークスのOpen Windowsを翻訳し続け、日々霊の糧にした。今年はその訳文を再び、今の日付けに直して2月から順次にアップし直してhttp://stryasheep.blogspot.jp/に掲載している。本当は訳文そのものを改良しなければならないのだが、今のところそのままアップしている。もはや、訳し直すという気力が無くなっているからだ。
そのブログの題名は「あなたは主のうちを歩んでいるか」であった。題名は私自身がその日の文章全体を訳し終えて仮題として自由につけていたものだ。ところが6年後の今日のS兄の福音集会の題名は「主を求める人生」であった。そしてその中心になるみことばは冒頭のものだと語られた。
主の光に照らされる時、人は自らの罪深さ惨めさを知らされ慨嘆するばかりである。しかし、そんな私たちが悔い改め、御霊なる神様に従う時、イエス・キリストは御霊として私たちの内に住み、いのちとして生き、日々主を求める人生へと導いてくださる。それこそキリストの福音にふさわしく生活する人生である、と結ばれた。
オースティン・スパークスの「あなたは主のうちを歩んでいるか」という題名の文章をあわせて読みながら、不思議な共通項を見出した。それは「従うこと」の祝福でないかと思った。
6年前に考えるところがあり、オースティン・スパークスのOpen Windowsを翻訳し続け、日々霊の糧にした。今年はその訳文を再び、今の日付けに直して2月から順次にアップし直してhttp://stryasheep.blogspot.jp/に掲載している。本当は訳文そのものを改良しなければならないのだが、今のところそのままアップしている。もはや、訳し直すという気力が無くなっているからだ。
そのブログの題名は「あなたは主のうちを歩んでいるか」であった。題名は私自身がその日の文章全体を訳し終えて仮題として自由につけていたものだ。ところが6年後の今日のS兄の福音集会の題名は「主を求める人生」であった。そしてその中心になるみことばは冒頭のものだと語られた。
主の光に照らされる時、人は自らの罪深さ惨めさを知らされ慨嘆するばかりである。しかし、そんな私たちが悔い改め、御霊なる神様に従う時、イエス・キリストは御霊として私たちの内に住み、いのちとして生き、日々主を求める人生へと導いてくださる。それこそキリストの福音にふさわしく生活する人生である、と結ばれた。
オースティン・スパークスの「あなたは主のうちを歩んでいるか」という題名の文章をあわせて読みながら、不思議な共通項を見出した。それは「従うこと」の祝福でないかと思った。
2017年2月4日土曜日
ああ、何と主の愛はおやさしいのであろうか
パリの幼な子たち |
恐らく、幼な子ほど近づきやすいものはほかにあるまい。幼な子と心やすくなることは決して困難ではない。このようにイエスのみもとに行くことは、ああ、なんと容易であろうか。そして彼は、なんと単純にわれわれ
を迎え、ゆるしと受納と恵みとをわれわれに与えられることであろうか。
疑い悩んでいる魂よ、あなたは幼な子の心にとどくようにたやすく、あなたの救い主を見出すことができる。多忙な母親よ、あなたは、あなたがさらに高い義務とみなすもののために思い悩み、いろいろな集会や、社会的な慈善、またはキリスト教的な奉仕などのために、はでに出席する余裕をもつ幸福な妹をうらやむであろう。そして終日育児にわが身を忘れて忙殺され、時には自分のエプロンにまつわりつく小さな子供たちに、うるさいあまり、つい短気を起こすような場合もあるだろう。
しかしながらその時、あなたはこのことをおぼえてほしい。すなわち、幼な子たちに対するあなたの奉仕は、イエスに対する奉仕と同じように主に受け入れられていることを。彼ら幼な子たちは、イエスを代表するものである。彼らを愛し、彼らのために心を配ることは、とりもなおさず彼らとあなたの主なるイエスを愛し、イエスのために心を配ることにほかならない。
以上は『マタイ伝のキリスト』(A.B.シンプソン著佐藤邦之助訳)の「キリストの代表者」と題する同書の164〜165頁の小文の抜粋である。明日は著者が有名と称しているセント・クリストファの伝説を引き続き紹介したい。
2017年2月2日木曜日
救いの喜び
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカ15:10)
親戚に98歳になるご老人がいらっしゃる。ところがここ数日お具合が悪いと言う。この方はカトリックの信仰を持っておられる。以前、自分は十戒を守れないから天国に行けないと真剣に悩んでおられるということを聞いた。
早速、お訪ねしたいと思った。ところが確かその方は耳が遠いと聞いた覚えがある。果たしてお交わりは成り立つかと一瞬思ったりしていた。ところがその思いを打ち消さんかのように、今朝の『ベックさんのメッセージ』http://2chronicles16-9.blogspot.jp/の「教会の交わり」を聞き書きしていたら、それはとんでもないこちらの杞憂に過ぎないと思わされた。
それと同時に2011年10月27日に87歳で召された一人のご老人のことを思い出した。召される前日ベック兄と一緒に病床を見舞った。その方は酸素マスクをかけておられた。耳は遠かった。やむを得ず、筆談になった。「イエス様、ごめんなさい。これで十分だ」という良き知らせであった。私はそのベック兄が話された日本語をそのまま書いて差し上げた。その方は喜ばれ、私の筆を取り上げ「これで十分だ」と書き、応答してくださった。たちまち病室に喜びが満ちた。
親戚に98歳になるご老人がいらっしゃる。ところがここ数日お具合が悪いと言う。この方はカトリックの信仰を持っておられる。以前、自分は十戒を守れないから天国に行けないと真剣に悩んでおられるということを聞いた。
早速、お訪ねしたいと思った。ところが確かその方は耳が遠いと聞いた覚えがある。果たしてお交わりは成り立つかと一瞬思ったりしていた。ところがその思いを打ち消さんかのように、今朝の『ベックさんのメッセージ』http://2chronicles16-9.blogspot.jp/の「教会の交わり」を聞き書きしていたら、それはとんでもないこちらの杞憂に過ぎないと思わされた。
それと同時に2011年10月27日に87歳で召された一人のご老人のことを思い出した。召される前日ベック兄と一緒に病床を見舞った。その方は酸素マスクをかけておられた。耳は遠かった。やむを得ず、筆談になった。「イエス様、ごめんなさい。これで十分だ」という良き知らせであった。私はそのベック兄が話された日本語をそのまま書いて差し上げた。その方は喜ばれ、私の筆を取り上げ「これで十分だ」と書き、応答してくださった。たちまち病室に喜びが満ちた。
2017年2月1日水曜日
幼な子は真中に立たせられているか
考えるところがあって、『マタイ伝のキリスト』(A.B.シンプソン著)を今年になってから読み始めた。教えられるところが随所にある。下記のみことばにちなんだ彼の思いを少し写して見よう。
イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。(マタイ18:2)
どんな文明国であってもまた野蛮国であっても、またどんな人種であったとしても、一度その家庭に入ってみる時、今なお地上でみられる最大の力は幼な子の感化力である。・・・この幼な子が一度熱病に犯され、死の腕の中に沈んで行くとき、この尊い生命のために両親は何ものを惜しむであろうか。小さな生命のかわりに、何ものを与えてもいやと言うであろう。この柔和な幼な子が、われわれの生涯のうちにしばしば現われるように、もし天上の世界に召されるとしたならば、このことほど地上の両親の心を天にむけさせるものはないであろう。・・・このように、多くの人々の心は、すばらしい御国へとわれわれを招く幼な子たちの歌声を聞いてきた。そして、幼な子たちと再会するという幸いな望みのために、この世と罪とに顔をそむけて、神と天国のために生活しようと決意したのである。
もしわれわれが天上の世界を隠しているカーテンの中にひとたび入ることができたら、きっと数えつくすことのできないほどの幸福な魂を見るであろう。しかし、その無数の霊魂のうち、幼な子と成人の割合は50対1以上であろう。・・・こうしてみれば、天国においては地上における時と同じように、今もなお主が小さい幼な子たちを大人たちのまん中に置かれていることは真実であると言わねばならない。
やがてわれわれは、われわれの愛する幼な子が、幼い日に家庭から取り去られたのは、われわれが天において幼な子とともに、その美しさ、その喜びをわかつことができるようにしてくださるためであったことを感謝するであろう。
(『マタイ伝のキリスト』160〜161頁の抜粋引用)
権力が暴走する。「いま世界にまん延しているのは論理の整合性を欠いた欲望であり、論理の破綻をものともしない暴走の連鎖である」(高村薫 図書12月号〈もう後がない〉より)
イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。(マタイ18:2)
どんな文明国であってもまた野蛮国であっても、またどんな人種であったとしても、一度その家庭に入ってみる時、今なお地上でみられる最大の力は幼な子の感化力である。・・・この幼な子が一度熱病に犯され、死の腕の中に沈んで行くとき、この尊い生命のために両親は何ものを惜しむであろうか。小さな生命のかわりに、何ものを与えてもいやと言うであろう。この柔和な幼な子が、われわれの生涯のうちにしばしば現われるように、もし天上の世界に召されるとしたならば、このことほど地上の両親の心を天にむけさせるものはないであろう。・・・このように、多くの人々の心は、すばらしい御国へとわれわれを招く幼な子たちの歌声を聞いてきた。そして、幼な子たちと再会するという幸いな望みのために、この世と罪とに顔をそむけて、神と天国のために生活しようと決意したのである。
もしわれわれが天上の世界を隠しているカーテンの中にひとたび入ることができたら、きっと数えつくすことのできないほどの幸福な魂を見るであろう。しかし、その無数の霊魂のうち、幼な子と成人の割合は50対1以上であろう。・・・こうしてみれば、天国においては地上における時と同じように、今もなお主が小さい幼な子たちを大人たちのまん中に置かれていることは真実であると言わねばならない。
やがてわれわれは、われわれの愛する幼な子が、幼い日に家庭から取り去られたのは、われわれが天において幼な子とともに、その美しさ、その喜びをわかつことができるようにしてくださるためであったことを感謝するであろう。
(『マタイ伝のキリスト』160〜161頁の抜粋引用)
権力が暴走する。「いま世界にまん延しているのは論理の整合性を欠いた欲望であり、論理の破綻をものともしない暴走の連鎖である」(高村薫 図書12月号〈もう後がない〉より)
2017年1月30日月曜日
ご挨拶
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。(ピリピ2:13〜14)
昨年一年間はほぼフランシスコ・リドレー・ハヴァガルの霊想の私訳を掲載し、8月23日にベック兄が召されてからは思い出も兼ねてベック兄についての小文を書き、その後は精力的に膨大なベック兄のメッセージの聞き書きを併せて掲載した。
本来想定していなかった事態にやむを得ず、体裁を抜きにブログとして展開し続けて2017年に入った。その後、当ブログを好意的に読んでいただいているT兄やS兄と交流のうちにオースティン・スパークス兄の毎日の霊想とゴッドホルド・ベック兄の聞き書きを並行して載せようとほぼ構想は固まり、それに基づいてブログを書き続けている。
ところが余りにも煩雑で読者にとっては読みにくいのではないかと自然に思うようになった。それで今日から『ベックさんのメッセージ』というタイトルhttp://2chronicles16-9.blogspot.jp/でブログを独立させ、従前の『泉あるところⅢ』は『Open Windows 試訳』 に名称を変更し、本ブログは以前のように折りにふれ随筆を載せるように変更した。読者諸氏の引き続いて暖かいご支援ご指導をお願いする。
なお、冒頭のみことばは、札幌農学校を去るに当たってクラーク博士が『ボーイズ ビー アンビシャス』と言われたことばのもとの聖書のことばだと私は確信している。
昨年一年間はほぼフランシスコ・リドレー・ハヴァガルの霊想の私訳を掲載し、8月23日にベック兄が召されてからは思い出も兼ねてベック兄についての小文を書き、その後は精力的に膨大なベック兄のメッセージの聞き書きを併せて掲載した。
本来想定していなかった事態にやむを得ず、体裁を抜きにブログとして展開し続けて2017年に入った。その後、当ブログを好意的に読んでいただいているT兄やS兄と交流のうちにオースティン・スパークス兄の毎日の霊想とゴッドホルド・ベック兄の聞き書きを並行して載せようとほぼ構想は固まり、それに基づいてブログを書き続けている。
ところが余りにも煩雑で読者にとっては読みにくいのではないかと自然に思うようになった。それで今日から『ベックさんのメッセージ』というタイトルhttp://2chronicles16-9.blogspot.jp/でブログを独立させ、従前の『泉あるところⅢ』は『Open Windows 試訳』 に名称を変更し、本ブログは以前のように折りにふれ随筆を載せるように変更した。読者諸氏の引き続いて暖かいご支援ご指導をお願いする。
なお、冒頭のみことばは、札幌農学校を去るに当たってクラーク博士が『ボーイズ ビー アンビシャス』と言われたことばのもとの聖書のことばだと私は確信している。
2017年1月29日日曜日
奉仕とは何か(下)
多くの人々はやっぱり正しい教えこそがもっとも大切だと考えていますけど、決してそうではありません。多くの律法学者たちは正しい教えを持っていました。イエス様はそれ確かに言われたのです。彼らの教えていることは正しいとイエス様は言われたのです。けども、もちろん彼らはへりくだっていなかったし、頭を下げたくなかったから、決して救われていなかったのです。
ですから、正しい教えであるかないかよりも、たいせつなのはいのちがあるかないかということなんですね。主が働くことができるかできないか、まことの喜びがあるかないかということです。イエス様は豊かなるいのちを得させるためにこの世に来てくださったと聖書は言っています。
豊かないのちを持つ人は証し人となり、そういう人々をとおして主は栄光をお受けになります。けど、多くの信ずる者はイエス様に対する信仰と愛が余りにも小さいので、何か起こるとすぐにぐらついてしまいます。ヨハネ伝の4章の中でイエス様は非常にめちゃくちゃな生活をした、いわゆるサマリヤの女に非常にすばらしいことばを言われたのです。ヨハネ伝4章の14節です。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。(渇くことがないのは恵みで満たされていることです、喜びに満たされていることです、神の平安によって守られていることです)わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
と、あります。我々のうちに泉を持つことは主の意図されるところです。私たちはこのような学び会をすることは、もっと聖霊をもらうためではありません。頭の知識を得るためでもありません。私たちは既に信ずる者として、イエス様を受け入れた者として、聖霊を宿しています。我々は心に、したがって、泉を持っているから、水を探しに行く必要はない。キリスト者は、イエス様を信じ受け入れた人々は、めいめい全き欠けたところのない聖霊を宿しています。聖霊は人格者です。聖霊を部分的に貰うことはあり得ないことです。
けど、多くの信者は詰まった管のようで、その中をとおって流れません。聖霊は我々のうちに少しだけではなく、完全に満たされることだけができるのです。信じている者は聖霊を宿しています。聖霊はどのような割合で与えられるのでありましょうか。それは流れるように与えられるのです。イエス様は、聖霊について使徒行伝の1章8節に次のように言われたのです。ここでもイエス様はキリスト者に与えられている使命について、そしてその使命を果たす秘訣について次のように言われたのです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
聖霊に満たされることと主の証人として用いられることとは同じことです。これはイエス様の言われた約束であり、イエス様の最後のおことばでした。それからあとイエス様は天にお帰りになり、父の右に座しておられるようになったのです。そしてイエス様はここではっきりキリスト者の使命について「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人」となるべきであると言われたのです。信ずる者の使命は自分の信仰を守ることだけではなく、もちろん家族の救いのために、親戚友人たち知り合いの救いのために闘うことであり、祈り続けることです。ここで全世界に福音が信ずる者によって宣べ伝えられなければならないと書いてあります。
もし私たちが大胆な証し人でなかったなら、管が詰まっているのです。すなわち、私たちは役割を演じたく思ったり、傲慢であったり、妬みを持ち、人を赦さず、怠惰であるからです。イエス様との交わりを疎かにしているからです。へりくだりましょう。管が通り良くなるためです。
前に言いましたようにキリスト者は皆自分に与えられている使命をなしとげるための力を持っています。聖霊の宮になったからです。けど、非常にたいせつなのはこの事実を信ずること、そのために感謝することです。信仰のあらわれはいつも感謝することです。もし、どなたか「イエス様。私はあなたの救いを信じます。」と言ったとしても、その人は果たして救われているかどうか分からないと思います。けれど、もし救われたことを感謝しますと言うとちょっと違うことになります。感謝することはいつも信仰のあらわれです。ですから聖霊が我々に満ちあふれていることを感謝することは大切です。あなたがそれを感じても感じなくても感謝してください。
弟子たちは、イエス様の弟子たちは、聖霊に満たされたのです。その結果は、聖書によると彼らが力強く証した、福音の宣べ伝えたと書いてあります。罪について世の人の目を開くために聖霊が与えられたのです。それを弟子たちは経験したのです。多くの人々は、その時、「兄弟たちよ。私たちはどうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。彼らはただイエス様のことを宣べ伝えたのです。救いとはどういうものであるか、別に説明しようとしなかったのです。彼らはイエス様を宣べ伝えた結果、「兄弟たちよ、私たちはどうしたらいいの」という叫びだったのです。コリント第一の手紙の6章の19節20節もう一回ちょっと読みましょうか。みな暗記している箇所だと思います。たとえば聖書の一ヵ所を読むと時々助けになるのは、このことばは・・・
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
(引用者註:残念ながら最後まで録音されていないので尻切れとんぼになっており申し訳ない。でも随所に「あれっ、そうなのだ」と思わず膝をたたかざるを得ないところが出て来る。太字で示したところなどがそうである。今日は礼拝のあとの福音集会で2列王紀7:1〜2から激しく問われた。『主のことばを聞きなさい!』と。メッセンジャーは言われた。「理性」や「常識」は恵みにとって最大の障壁である。天地宇宙の造り主なるお方に虫けらのごとき我らが何の理由があって対抗しているのか。こどものように素直にみことばを受け取りなさい、と。感謝であった。GB[160]。本日のスパークスは1月12日分を『生ける神様との生きた交わり』という題名で訳出した。なお本日の1月29日分は『啓示に身を置きなさい』と題して2011.1.29に訳出済みである。http://stryasheep.blogspot.jp/併せてお読みいただければ幸いである。)
ですから、正しい教えであるかないかよりも、たいせつなのはいのちがあるかないかということなんですね。主が働くことができるかできないか、まことの喜びがあるかないかということです。イエス様は豊かなるいのちを得させるためにこの世に来てくださったと聖書は言っています。
豊かないのちを持つ人は証し人となり、そういう人々をとおして主は栄光をお受けになります。けど、多くの信ずる者はイエス様に対する信仰と愛が余りにも小さいので、何か起こるとすぐにぐらついてしまいます。ヨハネ伝の4章の中でイエス様は非常にめちゃくちゃな生活をした、いわゆるサマリヤの女に非常にすばらしいことばを言われたのです。ヨハネ伝4章の14節です。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。(渇くことがないのは恵みで満たされていることです、喜びに満たされていることです、神の平安によって守られていることです)わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
と、あります。我々のうちに泉を持つことは主の意図されるところです。私たちはこのような学び会をすることは、もっと聖霊をもらうためではありません。頭の知識を得るためでもありません。私たちは既に信ずる者として、イエス様を受け入れた者として、聖霊を宿しています。我々は心に、したがって、泉を持っているから、水を探しに行く必要はない。キリスト者は、イエス様を信じ受け入れた人々は、めいめい全き欠けたところのない聖霊を宿しています。聖霊は人格者です。聖霊を部分的に貰うことはあり得ないことです。
けど、多くの信者は詰まった管のようで、その中をとおって流れません。聖霊は我々のうちに少しだけではなく、完全に満たされることだけができるのです。信じている者は聖霊を宿しています。聖霊はどのような割合で与えられるのでありましょうか。それは流れるように与えられるのです。イエス様は、聖霊について使徒行伝の1章8節に次のように言われたのです。ここでもイエス様はキリスト者に与えられている使命について、そしてその使命を果たす秘訣について次のように言われたのです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
聖霊に満たされることと主の証人として用いられることとは同じことです。これはイエス様の言われた約束であり、イエス様の最後のおことばでした。それからあとイエス様は天にお帰りになり、父の右に座しておられるようになったのです。そしてイエス様はここではっきりキリスト者の使命について「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人」となるべきであると言われたのです。信ずる者の使命は自分の信仰を守ることだけではなく、もちろん家族の救いのために、親戚友人たち知り合いの救いのために闘うことであり、祈り続けることです。ここで全世界に福音が信ずる者によって宣べ伝えられなければならないと書いてあります。
もし私たちが大胆な証し人でなかったなら、管が詰まっているのです。すなわち、私たちは役割を演じたく思ったり、傲慢であったり、妬みを持ち、人を赦さず、怠惰であるからです。イエス様との交わりを疎かにしているからです。へりくだりましょう。管が通り良くなるためです。
前に言いましたようにキリスト者は皆自分に与えられている使命をなしとげるための力を持っています。聖霊の宮になったからです。けど、非常にたいせつなのはこの事実を信ずること、そのために感謝することです。信仰のあらわれはいつも感謝することです。もし、どなたか「イエス様。私はあなたの救いを信じます。」と言ったとしても、その人は果たして救われているかどうか分からないと思います。けれど、もし救われたことを感謝しますと言うとちょっと違うことになります。感謝することはいつも信仰のあらわれです。ですから聖霊が我々に満ちあふれていることを感謝することは大切です。あなたがそれを感じても感じなくても感謝してください。
弟子たちは、イエス様の弟子たちは、聖霊に満たされたのです。その結果は、聖書によると彼らが力強く証した、福音の宣べ伝えたと書いてあります。罪について世の人の目を開くために聖霊が与えられたのです。それを弟子たちは経験したのです。多くの人々は、その時、「兄弟たちよ。私たちはどうしたらいいのでしょうか。」と叫ぶようになったのです。彼らはただイエス様のことを宣べ伝えたのです。救いとはどういうものであるか、別に説明しようとしなかったのです。彼らはイエス様を宣べ伝えた結果、「兄弟たちよ、私たちはどうしたらいいの」という叫びだったのです。コリント第一の手紙の6章の19節20節もう一回ちょっと読みましょうか。みな暗記している箇所だと思います。たとえば聖書の一ヵ所を読むと時々助けになるのは、このことばは・・・
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
(引用者註:残念ながら最後まで録音されていないので尻切れとんぼになっており申し訳ない。でも随所に「あれっ、そうなのだ」と思わず膝をたたかざるを得ないところが出て来る。太字で示したところなどがそうである。今日は礼拝のあとの福音集会で2列王紀7:1〜2から激しく問われた。『主のことばを聞きなさい!』と。メッセンジャーは言われた。「理性」や「常識」は恵みにとって最大の障壁である。天地宇宙の造り主なるお方に虫けらのごとき我らが何の理由があって対抗しているのか。こどものように素直にみことばを受け取りなさい、と。感謝であった。GB[160]。本日のスパークスは1月12日分を『生ける神様との生きた交わり』という題名で訳出した。なお本日の1月29日分は『啓示に身を置きなさい』と題して2011.1.29に訳出済みである。http://stryasheep.blogspot.jp/併せてお読みいただければ幸いである。)
2017年1月28日土曜日
奉仕とは何か(中)
主に奉仕するということは信仰の働きです。もしこれが神のみこころであると確信するなら、先ずためらわず前進することができます。このように主にゆだね、まかせ切ることこれがまことの信仰です。何かを始めるに至り、初めは不安です。自分に何の力もない、自分の弱さ、惨めさ、無力さをよく知っているからです。けども、やっているうちに効果が現われて来ます。結果が希望的に見えて来ます。そのうちに自分はできると思い込んでしまいます。これは危険です。我々の奉仕は瞬間、瞬間、一秒、一秒主を見上げ、主につながって行く奉仕でなければ、役に立たないものです。
色々なことを経験し、なされていても、どんなに年功を積んでいても、全きへりくだりをもって、ただ一人全てを知りたもう、全てをなしたもう主によりたのでいなければなりません。信仰を持つことはそれなんです。「信仰を持たなければ神に喜ばれない」とここで[ヘブル11:6]はっきり書き記されているのであります。
この旧約聖書を読んで行きますと、レビ人は驚くほどたくさんの奉仕をなしたことがわかりますけど、このレビ人たちはそのご奉仕に自分の力、自分の能力に依り頼まないで、ただ主の力に依り頼んでしたことがわかります。我々のご奉仕も信仰の現れでなければなりません。もしそうするなら、どんな小さなこともほんとうの奉仕になります。パウロはたとえばコロサイ書3章の23節に次のようなことを書いたのですね。奉仕する者の心構えはどういうものであるべきかと
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
何をやるのか、それ別に問題ない。どういう気持ちで、動機で、心構えでやるかは問題なのですね。「何をするにも人に対してでなく、主に対してするように心からしなさい」とあります。そして似てる箇所はコリント第一の手紙10章31節ですね
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
神の栄光があらわされなければ、結局すべてのすべては空しい努力です。「あなたがたは、結局何をしても、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」自分は誤解されても、憎まれても神の栄光だけがあらわれるように切に主に頼りなさい、と。
まことのご奉仕とはここでも書いてありますように、主の栄光のあらわれることです。それが何であれ、信仰を持って御栄えのためにやるならまことの奉仕。主が語りかけたその答えとして何事もするなら、それはまことの奉仕です。自分の○○の伝統にとらわれず、ひたすらただ主により頼み、すがって歩みたいものです。私たちの生活が、全く主のご支配のもとに入っていることを証しするために、我々の全生活を主にささげたいものです。
主の栄光を明らかにするために、主ご自身がすべての誉れを受けることこそがまことの奉仕の目的です、結果です。けど、我々は自分の使命を成し遂げるために、もちろん力が必要なのです。いかなる迫害にあってもあふるる喜びが、またいかなる無理解の中にあっても絶えざる平和が必要です。ですから、主に成し遂げる力とは、このような絶えざる喜び、いつまでも続く平和です。喜びがなければ、平和がなければ、力もないのは当然です。主に成し遂げる力とはもちろん「聖霊」です。イエス様を信じ受け入れた人は皆例外なく聖霊の宮であると書いてあります。ロマ書8章9節に、9節の後半だけちょっとお読み致します。いつも引用する箇所です。救いについて考えるとこの箇所はどうしても大切な所じゃないかと思うんですね。
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
結局、大切なのはキリストの御霊を持つことです。聖書研究して色んな頭の知識を得ることよりも、キリストの御霊を持つことです。多くのいわゆる聖書学者たちは無神論者です。聖書の知識、確かにあります。けども、キリストの御霊を持たない人は決して救われていません。
イエス様は我々にあふれでるほど豊かないのちを得させるために来られたと聖書は言っています。「わたしはいのち、豊かなるいのちを得させるために来た。わたしは一つの宗教をつくろうではなく、中々良い教えを伝えるために来たのではなく、わたしはいのちを得させるために来た」とイエス様は言われたのです。
(引用者註:今日の前半の箇所は、後述の今日訳したスパークスの箇所と符合していなくもない箇所だと思った。主を見上げるとは一瞬一瞬十字架から目を離してはならないことだと思ったからである。後半に述べられている「多くのいわゆる聖書学者たちは無神論者です。」という言い方は多くのキリスト教に関心のある人が聞いて欲しい言説である。そしてなぜそう言えるのかを読みとっていただきたい。GB[159]。本日のスパークスは1月11日分を『十字架こそ最大の防御』という題名で訳出した。なお本日の1月28日分は『心の目をあけてください』と題して2011.1.28に訳出済みである。併せてお読みいただければ幸いである。http://stryasheep.blogspot.jp/ をご覧ください。)
色々なことを経験し、なされていても、どんなに年功を積んでいても、全きへりくだりをもって、ただ一人全てを知りたもう、全てをなしたもう主によりたのでいなければなりません。信仰を持つことはそれなんです。「信仰を持たなければ神に喜ばれない」とここで[ヘブル11:6]はっきり書き記されているのであります。
この旧約聖書を読んで行きますと、レビ人は驚くほどたくさんの奉仕をなしたことがわかりますけど、このレビ人たちはそのご奉仕に自分の力、自分の能力に依り頼まないで、ただ主の力に依り頼んでしたことがわかります。我々のご奉仕も信仰の現れでなければなりません。もしそうするなら、どんな小さなこともほんとうの奉仕になります。パウロはたとえばコロサイ書3章の23節に次のようなことを書いたのですね。奉仕する者の心構えはどういうものであるべきかと
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
何をやるのか、それ別に問題ない。どういう気持ちで、動機で、心構えでやるかは問題なのですね。「何をするにも人に対してでなく、主に対してするように心からしなさい」とあります。そして似てる箇所はコリント第一の手紙10章31節ですね
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
神の栄光があらわされなければ、結局すべてのすべては空しい努力です。「あなたがたは、結局何をしても、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」自分は誤解されても、憎まれても神の栄光だけがあらわれるように切に主に頼りなさい、と。
まことのご奉仕とはここでも書いてありますように、主の栄光のあらわれることです。それが何であれ、信仰を持って御栄えのためにやるならまことの奉仕。主が語りかけたその答えとして何事もするなら、それはまことの奉仕です。自分の○○の伝統にとらわれず、ひたすらただ主により頼み、すがって歩みたいものです。私たちの生活が、全く主のご支配のもとに入っていることを証しするために、我々の全生活を主にささげたいものです。
主の栄光を明らかにするために、主ご自身がすべての誉れを受けることこそがまことの奉仕の目的です、結果です。けど、我々は自分の使命を成し遂げるために、もちろん力が必要なのです。いかなる迫害にあってもあふるる喜びが、またいかなる無理解の中にあっても絶えざる平和が必要です。ですから、主に成し遂げる力とは、このような絶えざる喜び、いつまでも続く平和です。喜びがなければ、平和がなければ、力もないのは当然です。主に成し遂げる力とはもちろん「聖霊」です。イエス様を信じ受け入れた人は皆例外なく聖霊の宮であると書いてあります。ロマ書8章9節に、9節の後半だけちょっとお読み致します。いつも引用する箇所です。救いについて考えるとこの箇所はどうしても大切な所じゃないかと思うんですね。
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
結局、大切なのはキリストの御霊を持つことです。聖書研究して色んな頭の知識を得ることよりも、キリストの御霊を持つことです。多くのいわゆる聖書学者たちは無神論者です。聖書の知識、確かにあります。けども、キリストの御霊を持たない人は決して救われていません。
イエス様は我々にあふれでるほど豊かないのちを得させるために来られたと聖書は言っています。「わたしはいのち、豊かなるいのちを得させるために来た。わたしは一つの宗教をつくろうではなく、中々良い教えを伝えるために来たのではなく、わたしはいのちを得させるために来た」とイエス様は言われたのです。
(引用者註:今日の前半の箇所は、後述の今日訳したスパークスの箇所と符合していなくもない箇所だと思った。主を見上げるとは一瞬一瞬十字架から目を離してはならないことだと思ったからである。後半に述べられている「多くのいわゆる聖書学者たちは無神論者です。」という言い方は多くのキリスト教に関心のある人が聞いて欲しい言説である。そしてなぜそう言えるのかを読みとっていただきたい。GB[159]。本日のスパークスは1月11日分を『十字架こそ最大の防御』という題名で訳出した。なお本日の1月28日分は『心の目をあけてください』と題して2011.1.28に訳出済みである。併せてお読みいただければ幸いである。http://stryasheep.blogspot.jp/ をご覧ください。)
2017年1月27日金曜日
奉仕とは何か(上)
引用箇所 民数記8:14、16、24
今日は日曜日に引き続いて少しだけキリスト者の使命について考えてみたいと思います。救われた人々は結局皆一つの使命を持っています。いつも言われることですけど、救われた人々は救われるために救われたのではなく、用いられるために、主の道具となるためです。救われることとはもちろん一つの宗教に入ることでもないし、もちろん、キリスト教と言う宗教を持つことを意味しているのではありません。
たいせつなのは、キリスト教、キリストの教えというものよりも、イエス・キリストご自身を知ることです。人間は一つの教えを知ることによって、信じ込むことによって救われないからです。人間を救うことのできるのは、神の救い主なるイエス・キリストだけです。救われることは、したがって何かを経験することを意味しているんじゃないし、一つの教えを理解することでもありません。救いとは何であるか、はっきり結局説明できる人間はいないのではないかと思うんです。説明することができれば、理解することができることであり、そうすれば、やっぱり頭のいい人々皆先に救われることになるからです。決してそうではありません。
救われた人とは何を証することができるかと言いますと、「私の罪過ち・わがままは偉大なる神によって赦されたのであり、私は永久的に受け入れられている者です。今晩死んだとしても必ず天国に行くようになる。」本人はどうしてこの確信を得たのか、もちろんはっきりつかめないでしょう。けども、この確信から離れられないことは素晴らしい事実ではないでしょうか。
今お読みになりました箇所を読みますと、レビ人についていろんなこと書いてあります。レビ人という人はもちろん救われた人々だったんですね。イスラエルの民に属する人々だったんです。イスラエルの民に属する人々は、結局皆自分たちの代わりに流された小羊の血のきよめる力、解放する力を体験的に知るようになった人々だったのです。彼らはわれわれは神の恵みによって救われた、解放されたと皆告白することができた人々だったのです。けども、彼らにとって大切だったのは救われることだけではなく、用いられることです。そして、彼らはほんとうに主を証しする証人だったのであります。
日曜日もちょっと言いましたように、彼らはいわゆる会見の幕屋を、契約の箱を担うつとめをする人々だったんです。16節を見ると全く「神にささげられていた者」はレビ人だったのですし、14節を見ると結局彼らは「わたしのもの」だと言われたのです。救われることとは主のものとなるということです。主に属することこそがまことの救いであります。そして、レビ人たちとは、一つ残らずすべてを主におささげした人々だったんです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主の栄光をあらわすことのできる模範の人々と言わなければならないかと思うんです。
いわゆる契約の箱とは主の臨在をあらわすものだったんです。そして、彼らはこの契約の箱を運ぶ者たちだったんです。結局、イスラエルの民は主の臨在の雲の柱が上がったとき、今まで止まっていたところから出発して、この臨在の雲に導かれ、この雲が再びとどまったところで、民たちも止まったのです。先頭にいた人はいつもこのレビ人たちであったのです。彼らは神の臨在の雲がとどまったところには素直にそこにとどまったのです。どうしてであるかもちろんわからなかったのです。けれども、これこそ主のみこころであるから、彼らは素直に従ったのです。そこがどんなに醜い場所であっても、また見る目に良くない場所であっても導きのままに止まったのです。これを通して彼らはほんとうに主に仕える人々だったのです。
彼らの一つの大切な特徴は何であったかと言いますと、主なる神に対する礼拝だったんです。彼らの生活そのものを通して主はあがめられ、礼拝さるるようになったのです。日曜日ちょっとだけこの礼拝の内容について、意味について考えたんですけど、今日はもう一つの別の特徴について考えてみたいと思うのです。すなわちこのレビ人の第二番目の特徴は奉仕でした。仕えることでした。イエス様も自分のことについて、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。わたしは奉仕するために来たのです。」と言われたのです。
「奉仕」とは、レビ人のご奉仕とは、我々の奉仕とはいったいどういうものであるべきでしょうか。ヨハネ伝の6章29節に一つの答えが書き記されていますが、すなわちイエス様が次のように言われました。ヨハネ伝6章29節
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
と、書いてあります。神に対するご奉仕とは、すなわち信ずることであるとこの箇所を通しても言えるのでないかと思います。不思議なご奉仕の定義だと思います。まことの奉仕とは「信仰」のあらわれであるべきです。たとえ私たちが全生涯をささげ、持っているすべてのものをささげたとしても、「信仰」がなければ、そこにはご奉仕もありません。ヘブル書の著者は11章の6節に次のように書いたのです。良く知られている大切な箇所です。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(「信仰」について考えるとひとことだけ覚えれば一番分かりやすいと思うんですね。「信仰」とはひとつの教えを信ずること、理解することじゃなくて、イエス様とつながっていることです。イエス様とつながっていない人は決して・・・からです。ここで)信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
イエス様に出会った人々は皆一つの切なる願いを持っていると思います。すなわち、主に喜ばれたい、いい子になりたい、主に用いられたい気持ちを持っているのです。ここでたいせつなのは「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」喜ばれようと思えば、主に頼りなさい。みことばにだけ頼りなさい。立派になれ、聖書研究せよ、熱心にこれとあれをやりなさいということでなく、ただ素直に主に頼りなさい、ということです。信仰なくして主なる神に近づくことは無意味です。同じように信仰なくして主にご奉仕することも無意味です。けど、主を信ずるとは何を意味しているのでありましょうか。
(引用者註:今日の箇所はろばの子サーバーDVD#1 CD#19 0252のキリスト者の使命2奉仕の聞き書きである。GB[158]。本日のスパークスは1月10日分を『イエス様はいのちの賦与者なんです』という題名で訳出した。なお本日の1月27日分は『私は見える』と題して2011.1.27に訳出済みである。http://stryasheep.blogspot.jp/ 併せてお読みいただければ幸いである。)
今日は日曜日に引き続いて少しだけキリスト者の使命について考えてみたいと思います。救われた人々は結局皆一つの使命を持っています。いつも言われることですけど、救われた人々は救われるために救われたのではなく、用いられるために、主の道具となるためです。救われることとはもちろん一つの宗教に入ることでもないし、もちろん、キリスト教と言う宗教を持つことを意味しているのではありません。
たいせつなのは、キリスト教、キリストの教えというものよりも、イエス・キリストご自身を知ることです。人間は一つの教えを知ることによって、信じ込むことによって救われないからです。人間を救うことのできるのは、神の救い主なるイエス・キリストだけです。救われることは、したがって何かを経験することを意味しているんじゃないし、一つの教えを理解することでもありません。救いとは何であるか、はっきり結局説明できる人間はいないのではないかと思うんです。説明することができれば、理解することができることであり、そうすれば、やっぱり頭のいい人々皆先に救われることになるからです。決してそうではありません。
救われた人とは何を証することができるかと言いますと、「私の罪過ち・わがままは偉大なる神によって赦されたのであり、私は永久的に受け入れられている者です。今晩死んだとしても必ず天国に行くようになる。」本人はどうしてこの確信を得たのか、もちろんはっきりつかめないでしょう。けども、この確信から離れられないことは素晴らしい事実ではないでしょうか。
今お読みになりました箇所を読みますと、レビ人についていろんなこと書いてあります。レビ人という人はもちろん救われた人々だったんですね。イスラエルの民に属する人々だったんです。イスラエルの民に属する人々は、結局皆自分たちの代わりに流された小羊の血のきよめる力、解放する力を体験的に知るようになった人々だったのです。彼らはわれわれは神の恵みによって救われた、解放されたと皆告白することができた人々だったのです。けども、彼らにとって大切だったのは救われることだけではなく、用いられることです。そして、彼らはほんとうに主を証しする証人だったのであります。
日曜日もちょっと言いましたように、彼らはいわゆる会見の幕屋を、契約の箱を担うつとめをする人々だったんです。16節を見ると全く「神にささげられていた者」はレビ人だったのですし、14節を見ると結局彼らは「わたしのもの」だと言われたのです。救われることとは主のものとなるということです。主に属することこそがまことの救いであります。そして、レビ人たちとは、一つ残らずすべてを主におささげした人々だったんです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主の栄光をあらわすことのできる模範の人々と言わなければならないかと思うんです。
いわゆる契約の箱とは主の臨在をあらわすものだったんです。そして、彼らはこの契約の箱を運ぶ者たちだったんです。結局、イスラエルの民は主の臨在の雲の柱が上がったとき、今まで止まっていたところから出発して、この臨在の雲に導かれ、この雲が再びとどまったところで、民たちも止まったのです。先頭にいた人はいつもこのレビ人たちであったのです。彼らは神の臨在の雲がとどまったところには素直にそこにとどまったのです。どうしてであるかもちろんわからなかったのです。けれども、これこそ主のみこころであるから、彼らは素直に従ったのです。そこがどんなに醜い場所であっても、また見る目に良くない場所であっても導きのままに止まったのです。これを通して彼らはほんとうに主に仕える人々だったのです。
彼らの一つの大切な特徴は何であったかと言いますと、主なる神に対する礼拝だったんです。彼らの生活そのものを通して主はあがめられ、礼拝さるるようになったのです。日曜日ちょっとだけこの礼拝の内容について、意味について考えたんですけど、今日はもう一つの別の特徴について考えてみたいと思うのです。すなわちこのレビ人の第二番目の特徴は奉仕でした。仕えることでした。イエス様も自分のことについて、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。わたしは奉仕するために来たのです。」と言われたのです。
「奉仕」とは、レビ人のご奉仕とは、我々の奉仕とはいったいどういうものであるべきでしょうか。ヨハネ伝の6章29節に一つの答えが書き記されていますが、すなわちイエス様が次のように言われました。ヨハネ伝6章29節
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
と、書いてあります。神に対するご奉仕とは、すなわち信ずることであるとこの箇所を通しても言えるのでないかと思います。不思議なご奉仕の定義だと思います。まことの奉仕とは「信仰」のあらわれであるべきです。たとえ私たちが全生涯をささげ、持っているすべてのものをささげたとしても、「信仰」がなければ、そこにはご奉仕もありません。ヘブル書の著者は11章の6節に次のように書いたのです。良く知られている大切な箇所です。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。(「信仰」について考えるとひとことだけ覚えれば一番分かりやすいと思うんですね。「信仰」とはひとつの教えを信ずること、理解することじゃなくて、イエス様とつながっていることです。イエス様とつながっていない人は決して・・・からです。ここで)信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
イエス様に出会った人々は皆一つの切なる願いを持っていると思います。すなわち、主に喜ばれたい、いい子になりたい、主に用いられたい気持ちを持っているのです。ここでたいせつなのは「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」喜ばれようと思えば、主に頼りなさい。みことばにだけ頼りなさい。立派になれ、聖書研究せよ、熱心にこれとあれをやりなさいということでなく、ただ素直に主に頼りなさい、ということです。信仰なくして主なる神に近づくことは無意味です。同じように信仰なくして主にご奉仕することも無意味です。けど、主を信ずるとは何を意味しているのでありましょうか。
(引用者註:今日の箇所はろばの子サーバーDVD#1 CD#19 0252のキリスト者の使命2奉仕の聞き書きである。GB[158]。本日のスパークスは1月10日分を『イエス様はいのちの賦与者なんです』という題名で訳出した。なお本日の1月27日分は『私は見える』と題して2011.1.27に訳出済みである。http://stryasheep.blogspot.jp/ 併せてお読みいただければ幸いである。)
2017年1月26日木曜日
無題(中)
そしてイエス様はその当時いわゆる宗教的な指導者たちとされた人々に対しても、厳しく戒めたのです。ほんとうに最も強いことばでしょう。マタイ伝の23章13節と14節です。
しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。
これらの箇所を通して、誰でも与えられる光、すなわち上からの啓示によってさばかれることがわかります。そして福音をもたないいわゆる異邦人であっても責任を持っていると聖書は言っているのです。ロマ書によるといわゆる啓示には三つのものがあることがわかります。すなわち第一は創造であり、第二番目は人間に与えられている良心であり、もう一つは聖書であります。ロマ書1章の20節にパウロは当時のローマにいる人々に次のように書きました。1章の20節です。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
この大宇宙は人間の体もそうですけど、偶然にできてしまったと真剣に考える人はいないはずです。やっぱり創造主がいると人間は皆、例外なくわかっています。死にそうになれば、どういう人間であれ、皆「神様!助けて!」という気持ちになります。人間だからです。人間は皆神意識を持っているから、弁解の余地はないとここではっきり書かれています。次の2章14節
律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
すなわち、人間は誰にも何が良いことであり何が悪いことであるかということを良ーく知っている。たとえば、ドロボーする、大人でなくっても子どもでも皆んなの目の前でやらないよ、誰もわからないようにしようと思っているんです。当然です。良くないのはちゃんとわかっているんです。だから何があってもやっぱり人間は隠したい。悪いと分かっているからです。いいものだとわかれば別に隠さなくっても良いでしょう。2章の17節
あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、みこころを知っている
とありますが、もちろん、聖書は最高の啓示です。この最高の啓示、すなわち聖書によって、神の義、神の愛、主なる神の救い、またさばきが、すべて告げられているのです。いわゆる異邦人は二つの啓示、すなわち創造による啓示と良心による啓示しか持っておりません。ロマ書は神の前に不従順であった者がすべて裁きの時に弁解の余地を持たないと言っています。
いわゆる未信者はたとえ主なる神について何も聞かなかったとしても、主なる神の怒りを避けることはできません。というのは、不信心な者が自然や自分の良心の中にある神の偉大さを無視したからです。正直になろうとしなかったからです。「救い」を求めようとしなかったからです。「求めよ。そうすれば、与えられる。」ということばは何時の時代でも当てはまる主の約束であります。
聖書は失われた者が自分の失われた状態に対して責任を持つことを要求します。誰も失われて行くことに対して言い逃れをすることは出来ません。いわゆる未信者、したがってイエス様の救いを素直に受け入れなかった者は主なる神に対する自分の罪を知らず、したがってそれを告白することもせず、したがって罪の贖いも体験していない。したがって、そのような人々は贖われることなしに神の裁きに引き渡されるようになります。
私たちは次に未信者が死ぬと未信者の死者の国でも失われた状態にとどまることを聖書をとおして見てきました。この未信者の死者の国は良くなると(いう)目標を持っているのでしょうか。それともただ神のさばきを待っているだけなのでしょうか。未信者が死んだ後にいつか神の恩恵に浴するというようなことがあるというようなことについて聖書は何か言っているのでありましょうか。これに対して聖書は全然その希望がないことをはっきり示しています。なぜならば、死んだ後も死んだ瞬間の状態が変わることなく続くと、聖書ははっきり言っているのです。しかしながら、他方において神は被造物を決してないがしろにせず、あらゆるものを救いの手段にしようとしておられます。父なる神、御子、そして聖霊は「救い」というこの一つの目的のために絶えず心を砕いていてくださるのです。
イエス様はヨハネ伝6章45節で次のように言われました。
彼らはみな神によって教えられる。』と書かれています
大部分と書いていない、皆。皆は皆です。12章の32節
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。
とも書かれています。それからよく引用されるヨハネ黙示録の3章の20節、天にお帰りになったイエス様の招きのことばです。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
結局、主はちっぽけなどうしようもないわがままな人間と交わりを持ちたい。考えられない、あわれみであり、恵みであり、すばらしい宝物です。またヨハネ伝16章8節にイエス様は聖霊の働きについて次のように言われました。
その方(すなわち聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
このみことばから父なる神、御子なる主イエス様 、そして聖霊はすべての人が救われることを心から望んでおられることがわかります。出エジプト記の8章に次のように書かれています。出エジプト記8章の19節です。
呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。
と記されていますが、このことからわかるようにまことの神を退けた彼らでさえも「神の指」を認めざるを得なかったのです。誰でもこれは神の働きであると素直に認めざるを得ないときがあります。自然はあらゆる人に語りかけ、良心は人間に罪の念を起こし、聖霊は一人一人の心の戸をたたいているのです。自然と良心と聖霊が人間に囁きかけることによって、人間は永遠のいのちを持ちたいという切なる思いに目を開くようになります。けど、残念なことに多くの人は罪から離れることをせずに闇の中にとどまることを好んでいるのです。ですから、イエス様はヨハネ伝3章19節に次のように言ったのであります。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
「隠す者は成功しない 」明るみに出された罪は光である。もう罪ではないと聖書ははっきり言っているのであります。ほんとうに求めている素直な人は必ず必要な光を持つようになり、「救い」に導かれるようになります。「主は直ぐな人たちのために、光を闇の中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる」と詩篇112篇の4節に書かれています。詩篇の素晴らしい聖句です。主の啓示そのものであります。何らかの方法でもって主はそれらの人々にご自身を明らかになさいます。たとえばコルネリオとエチオピア人の宦官は素直な正直な人であったため主なる神は彼らにペテロとピリポをお遣わしになったのです。ちょっと読みましょうか使徒行伝の10章10節から
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような・・・
(引用者註: 残念ながら、このメッセージはここで切れている。コルネリオはわかるが、エチオピア人の宦官についてどのようなことが語られるのか知りたい思いがするが今のところわからない。またそれらしきものが見つかったら聞き書きをしたい。でもこれだけでも昨日ちょっと述べた知人のお母さんの死について考えさせられたことの答えは何となく出ているような気がする。さて、その知人のお母さんについてNHKのアーカイブスに録画があることを昨日知った。参考のためにサイトアドレスhttp://cgi2.nhk.or.jp/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100042_00000を載せる。ご覧いただき、ともに考えていただければ幸いである。[GB157]本日のスパークスは1月9日分を『霊的成長とは何なのか』という題名で訳出した。なお本日の1月26日分は『自我の終着駅』と題して2011.1.26に訳出済みである。併せてお読みいただければ幸いである。http://stryasheep.blogspot.jp/)
しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。
これらの箇所を通して、誰でも与えられる光、すなわち上からの啓示によってさばかれることがわかります。そして福音をもたないいわゆる異邦人であっても責任を持っていると聖書は言っているのです。ロマ書によるといわゆる啓示には三つのものがあることがわかります。すなわち第一は創造であり、第二番目は人間に与えられている良心であり、もう一つは聖書であります。ロマ書1章の20節にパウロは当時のローマにいる人々に次のように書きました。1章の20節です。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
この大宇宙は人間の体もそうですけど、偶然にできてしまったと真剣に考える人はいないはずです。やっぱり創造主がいると人間は皆、例外なくわかっています。死にそうになれば、どういう人間であれ、皆「神様!助けて!」という気持ちになります。人間だからです。人間は皆神意識を持っているから、弁解の余地はないとここではっきり書かれています。次の2章14節
律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
すなわち、人間は誰にも何が良いことであり何が悪いことであるかということを良ーく知っている。たとえば、ドロボーする、大人でなくっても子どもでも皆んなの目の前でやらないよ、誰もわからないようにしようと思っているんです。当然です。良くないのはちゃんとわかっているんです。だから何があってもやっぱり人間は隠したい。悪いと分かっているからです。いいものだとわかれば別に隠さなくっても良いでしょう。2章の17節
あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、みこころを知っている
とありますが、もちろん、聖書は最高の啓示です。この最高の啓示、すなわち聖書によって、神の義、神の愛、主なる神の救い、またさばきが、すべて告げられているのです。いわゆる異邦人は二つの啓示、すなわち創造による啓示と良心による啓示しか持っておりません。ロマ書は神の前に不従順であった者がすべて裁きの時に弁解の余地を持たないと言っています。
いわゆる未信者はたとえ主なる神について何も聞かなかったとしても、主なる神の怒りを避けることはできません。というのは、不信心な者が自然や自分の良心の中にある神の偉大さを無視したからです。正直になろうとしなかったからです。「救い」を求めようとしなかったからです。「求めよ。そうすれば、与えられる。」ということばは何時の時代でも当てはまる主の約束であります。
聖書は失われた者が自分の失われた状態に対して責任を持つことを要求します。誰も失われて行くことに対して言い逃れをすることは出来ません。いわゆる未信者、したがってイエス様の救いを素直に受け入れなかった者は主なる神に対する自分の罪を知らず、したがってそれを告白することもせず、したがって罪の贖いも体験していない。したがって、そのような人々は贖われることなしに神の裁きに引き渡されるようになります。
私たちは次に未信者が死ぬと未信者の死者の国でも失われた状態にとどまることを聖書をとおして見てきました。この未信者の死者の国は良くなると(いう)目標を持っているのでしょうか。それともただ神のさばきを待っているだけなのでしょうか。未信者が死んだ後にいつか神の恩恵に浴するというようなことがあるというようなことについて聖書は何か言っているのでありましょうか。これに対して聖書は全然その希望がないことをはっきり示しています。なぜならば、死んだ後も死んだ瞬間の状態が変わることなく続くと、聖書ははっきり言っているのです。しかしながら、他方において神は被造物を決してないがしろにせず、あらゆるものを救いの手段にしようとしておられます。父なる神、御子、そして聖霊は「救い」というこの一つの目的のために絶えず心を砕いていてくださるのです。
イエス様はヨハネ伝6章45節で次のように言われました。
彼らはみな神によって教えられる。』と書かれています
大部分と書いていない、皆。皆は皆です。12章の32節
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。
とも書かれています。それからよく引用されるヨハネ黙示録の3章の20節、天にお帰りになったイエス様の招きのことばです。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
結局、主はちっぽけなどうしようもないわがままな人間と交わりを持ちたい。考えられない、あわれみであり、恵みであり、すばらしい宝物です。またヨハネ伝16章8節にイエス様は聖霊の働きについて次のように言われました。
その方(すなわち聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
このみことばから父なる神、御子なる主イエス様 、そして聖霊はすべての人が救われることを心から望んでおられることがわかります。出エジプト記の8章に次のように書かれています。出エジプト記8章の19節です。
呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。
と記されていますが、このことからわかるようにまことの神を退けた彼らでさえも「神の指」を認めざるを得なかったのです。誰でもこれは神の働きであると素直に認めざるを得ないときがあります。自然はあらゆる人に語りかけ、良心は人間に罪の念を起こし、聖霊は一人一人の心の戸をたたいているのです。自然と良心と聖霊が人間に囁きかけることによって、人間は永遠のいのちを持ちたいという切なる思いに目を開くようになります。けど、残念なことに多くの人は罪から離れることをせずに闇の中にとどまることを好んでいるのです。ですから、イエス様はヨハネ伝3章19節に次のように言ったのであります。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
「隠す者は成功しない 」明るみに出された罪は光である。もう罪ではないと聖書ははっきり言っているのであります。ほんとうに求めている素直な人は必ず必要な光を持つようになり、「救い」に導かれるようになります。「主は直ぐな人たちのために、光を闇の中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる」と詩篇112篇の4節に書かれています。詩篇の素晴らしい聖句です。主の啓示そのものであります。何らかの方法でもって主はそれらの人々にご自身を明らかになさいます。たとえばコルネリオとエチオピア人の宦官は素直な正直な人であったため主なる神は彼らにペテロとピリポをお遣わしになったのです。ちょっと読みましょうか使徒行伝の10章10節から
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような・・・
(引用者註: 残念ながら、このメッセージはここで切れている。コルネリオはわかるが、エチオピア人の宦官についてどのようなことが語られるのか知りたい思いがするが今のところわからない。またそれらしきものが見つかったら聞き書きをしたい。でもこれだけでも昨日ちょっと述べた知人のお母さんの死について考えさせられたことの答えは何となく出ているような気がする。さて、その知人のお母さんについてNHKのアーカイブスに録画があることを昨日知った。参考のためにサイトアドレスhttp://cgi2.nhk.or.jp/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100042_00000を載せる。ご覧いただき、ともに考えていただければ幸いである。[GB157]本日のスパークスは1月9日分を『霊的成長とは何なのか』という題名で訳出した。なお本日の1月26日分は『自我の終着駅』と題して2011.1.26に訳出済みである。併せてお読みいただければ幸いである。http://stryasheep.blogspot.jp/)
2017年1月25日水曜日
無題(上)
ヨハネ5:28〜29、ヘブル9:27、黙示録20:11 の朗読
この間一人の姉妹が真剣な顔で、もちろんほんとうのこと言われたんです。「私の悔い改めは足りない」と言われた。そういうこと別に言わなくても、当然でしょう。「私の悔い改めは十分です」と言う人はちょっとおかしい、盲にされていると言えないこともない。そのあとで姉妹は言ったんです。「私はほんとうにイエス様に愛されているのでしょうか」そう思うとちょっと大変ですね。なぜならば、それこそすべてのすべてではないでしょうか。どういうことがあっても、いい子でなくても愛されていることこそが覚えるべきであり、そのために毎日感謝すべきなのではないでしょうか。もちろん人間はそういうふうに考えるのは当然です。目に見える現実を見ると、やっぱり悩みます、苦しみます。
昨日K兄の家で家庭集会があったんです。彼はちょっと証してくださったんです。「確かに辛い、どうすればいいかわからないけど、家族の一致が与えられた。」と言ったんです。いやーこれこそが金で買えないすばらしいものなのではないでしょうか。結局いろんなことで悩まなければ苦しまなければ、人間は真剣になろうとはしない。
この間九州で一人の29歳になったばかりの奥さんと出会いまして、子ども二人います。病気は脳腫瘍です。手術できない。医者はもしかするとあと二月くらい普通の仕事できるかもしれないけれどそれでおしまいです。そういうことを聞くとやっぱり誰でもぺちゃんこになることは決まり。けどイエス様に頼ればやっぱりまた希望を持つことができる。そういう病気も決して偶然起きるものではない、天罰でもない。やっぱり愛されている証拠である。今わからなくても必ずいつかわかるようになります。
今朝もM姉妹から手紙貰いまして、電話でもちょつとこないだ話したんです。病名はまだわからないし、けど医者は結局どうすればいいかわからないし・・・けど姉妹は「私はうれしくってしょうがない、イエス様はすごい、イエス様大好き、家族揃ってみんな一緒に祈っている喜びで一杯です」と言われたんです。結局、すべてを長い目で見ることこそが一番大切なのではないでしょうか。今読まれましたたとえばヘブル書の箇所を見ても「人間は一度死ぬことと、死後にはさばきを受けることが定まっている」と書かれています。そのことについてやっぱり考えるべきです。今若くっても元気であっても、いつまでその状態に置かれるかわからない。急にいっぺんに駄目になる可能性は十分あります。そしてイエス様は今読まれたヨハネ伝5章29節に「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」と、書き記されています。イエス様だけが肉体的に復活なさっただけではない。人間も肉体的に復活する。ですから、私たちは御代田の納骨堂は、意識して「待合室」という名前をつけたんです。
復活されることとはもう決まり。死によってすべてが終わるのではない。今話した九州の若い奥さんの初めての質問は「死は終わりではないの?」という質問だったんです。終わりだったら、ちょっと大変なことです。絶望的です。けど決してそうではありません。死によってすべてが終わると思っている人々も、死後復活してさばきを受けなければならないと聖書ははっきり言っているのです。将来の裁き主とはイエス様です。ヨハネ伝5章の22節に
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。
と書き記されています。将来の裁き主とは十字架の上で全人類のために救いの御業をなさったイエス様です。主を受けいれようとしたくなかった人々も、裁判官の前に出て責任を問われるようになります。つまりこの地上で主の提供されたものを拒み続けた者は御座の前に出て裁かれなければならないと聖書全体ははっきり言っているのです。
私たちは口をふさがれた者となるか、あるいは心から主を賛美する者となるかのどちらかです。イエス様を救い主として受け入れる時には、イエス様はもはや裁き主ではない。弁護士になるのです。自分のわがままが赦され、イエス様を自分の救い主として受け入れ永遠のいのちを与えられている者だけが、喜びと希望をもって将来に向かうことができるのです。パウロは喜びをもって主イエスにある者は罪に定められることはない。初代教会の人々とは皆私たちは裁かれ得ない、もうすでに死からいのちに移されている。我々の国籍は天国だと喜びをもって証しすることができたのです。
一つの質問は全然福音を聞いたことのなかった人々がいったいどのようにさばかれるかという質問です。たとえばイエス様の時代よりもずーっと前に生きていた人々は福音を知らないわけですが、そのような人々はいったいどうなるのでしょうか。この問いに対して聖書は次のように答えています。すなわち彼らは主なる神によって与えられる光によって、啓示によってさばかれるということです。ロマ書2章の12節です
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
と。パウロは律法について語っていますが、ここで「律法 」の代わりに「福音」ということばを置き換えればもっとよく当てはまります。すなわち福音を聞いた者は聞かなかった時よりもはるかに多くの責任を持つということです。イエス様の時代にイエス様の福音を拒み退けた者たちは昔のニネベの人たちによってさばかれるとイエス様は言われました。ルカ伝の11章の31節、32節を見るとわかります。
南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
と、書かれています。またイエス様の時代にあって頭を下げたくい悔い改めたくなかった人々に対して次のように言いました。マタイ伝の11章21節22節です
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
もう一ヵ所。マタイ伝の10章の14節、15節
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
この箇所でイエス様ははっきりと裁きの時について語っておられます。そしてイエス様の福音を聞いた者が福音を知らない者よりもはるかに大きな責任を持っていることも明らかです。たとえばルカ伝の12章47節、48節
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
(引用者註:今日の聞き書きはろばの子サーバーDVD#1 CD#19 0252からのものであるが実は非常に意味のある聞き書きとなった。それは私たちの知人の母上が95歳で20日に逝去され、このお母さんに残念ながら私は福音を直接お届けできなかった。このお母さんに福音を伝えられなかった無念さと同時にこのお母さんの救いはどうなのかと考えさせられたからである。このメッセージはまさしくその疑問に直接答えているからである。今日の箇所では明快ではないが、さらに明日の分を引き続いて読んでいただくといかに聖書がそのこともキチンと述べているのかわかる。明日の項目も引き続きお読みいただきたい。[GB156]。今日のスパークスは新しく1月8日分『御霊をとおして証しする民』と題して訳した。今日の1月25日分は『上にあるものをう求めなさい』と2011.1.25に掲載している。引き続いて興味のある方はhttp://stryasheep.blogspot.jp/をご覧いただきたい。)
この間一人の姉妹が真剣な顔で、もちろんほんとうのこと言われたんです。「私の悔い改めは足りない」と言われた。そういうこと別に言わなくても、当然でしょう。「私の悔い改めは十分です」と言う人はちょっとおかしい、盲にされていると言えないこともない。そのあとで姉妹は言ったんです。「私はほんとうにイエス様に愛されているのでしょうか」そう思うとちょっと大変ですね。なぜならば、それこそすべてのすべてではないでしょうか。どういうことがあっても、いい子でなくても愛されていることこそが覚えるべきであり、そのために毎日感謝すべきなのではないでしょうか。もちろん人間はそういうふうに考えるのは当然です。目に見える現実を見ると、やっぱり悩みます、苦しみます。
昨日K兄の家で家庭集会があったんです。彼はちょっと証してくださったんです。「確かに辛い、どうすればいいかわからないけど、家族の一致が与えられた。」と言ったんです。いやーこれこそが金で買えないすばらしいものなのではないでしょうか。結局いろんなことで悩まなければ苦しまなければ、人間は真剣になろうとはしない。
この間九州で一人の29歳になったばかりの奥さんと出会いまして、子ども二人います。病気は脳腫瘍です。手術できない。医者はもしかするとあと二月くらい普通の仕事できるかもしれないけれどそれでおしまいです。そういうことを聞くとやっぱり誰でもぺちゃんこになることは決まり。けどイエス様に頼ればやっぱりまた希望を持つことができる。そういう病気も決して偶然起きるものではない、天罰でもない。やっぱり愛されている証拠である。今わからなくても必ずいつかわかるようになります。
今朝もM姉妹から手紙貰いまして、電話でもちょつとこないだ話したんです。病名はまだわからないし、けど医者は結局どうすればいいかわからないし・・・けど姉妹は「私はうれしくってしょうがない、イエス様はすごい、イエス様大好き、家族揃ってみんな一緒に祈っている喜びで一杯です」と言われたんです。結局、すべてを長い目で見ることこそが一番大切なのではないでしょうか。今読まれましたたとえばヘブル書の箇所を見ても「人間は一度死ぬことと、死後にはさばきを受けることが定まっている」と書かれています。そのことについてやっぱり考えるべきです。今若くっても元気であっても、いつまでその状態に置かれるかわからない。急にいっぺんに駄目になる可能性は十分あります。そしてイエス様は今読まれたヨハネ伝5章29節に「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」と、書き記されています。イエス様だけが肉体的に復活なさっただけではない。人間も肉体的に復活する。ですから、私たちは御代田の納骨堂は、意識して「待合室」という名前をつけたんです。
復活されることとはもう決まり。死によってすべてが終わるのではない。今話した九州の若い奥さんの初めての質問は「死は終わりではないの?」という質問だったんです。終わりだったら、ちょっと大変なことです。絶望的です。けど決してそうではありません。死によってすべてが終わると思っている人々も、死後復活してさばきを受けなければならないと聖書ははっきり言っているのです。将来の裁き主とはイエス様です。ヨハネ伝5章の22節に
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。
と書き記されています。将来の裁き主とは十字架の上で全人類のために救いの御業をなさったイエス様です。主を受けいれようとしたくなかった人々も、裁判官の前に出て責任を問われるようになります。つまりこの地上で主の提供されたものを拒み続けた者は御座の前に出て裁かれなければならないと聖書全体ははっきり言っているのです。
私たちは口をふさがれた者となるか、あるいは心から主を賛美する者となるかのどちらかです。イエス様を救い主として受け入れる時には、イエス様はもはや裁き主ではない。弁護士になるのです。自分のわがままが赦され、イエス様を自分の救い主として受け入れ永遠のいのちを与えられている者だけが、喜びと希望をもって将来に向かうことができるのです。パウロは喜びをもって主イエスにある者は罪に定められることはない。初代教会の人々とは皆私たちは裁かれ得ない、もうすでに死からいのちに移されている。我々の国籍は天国だと喜びをもって証しすることができたのです。
一つの質問は全然福音を聞いたことのなかった人々がいったいどのようにさばかれるかという質問です。たとえばイエス様の時代よりもずーっと前に生きていた人々は福音を知らないわけですが、そのような人々はいったいどうなるのでしょうか。この問いに対して聖書は次のように答えています。すなわち彼らは主なる神によって与えられる光によって、啓示によってさばかれるということです。ロマ書2章の12節です
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
と。パウロは律法について語っていますが、ここで「律法 」の代わりに「福音」ということばを置き換えればもっとよく当てはまります。すなわち福音を聞いた者は聞かなかった時よりもはるかに多くの責任を持つということです。イエス様の時代にイエス様の福音を拒み退けた者たちは昔のニネベの人たちによってさばかれるとイエス様は言われました。ルカ伝の11章の31節、32節を見るとわかります。
南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。
と、書かれています。またイエス様の時代にあって頭を下げたくい悔い改めたくなかった人々に対して次のように言いました。マタイ伝の11章21節22節です
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
もう一ヵ所。マタイ伝の10章の14節、15節
もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
この箇所でイエス様ははっきりと裁きの時について語っておられます。そしてイエス様の福音を聞いた者が福音を知らない者よりもはるかに大きな責任を持っていることも明らかです。たとえばルカ伝の12章47節、48節
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
(引用者註:今日の聞き書きはろばの子サーバーDVD#1 CD#19 0252からのものであるが実は非常に意味のある聞き書きとなった。それは私たちの知人の母上が95歳で20日に逝去され、このお母さんに残念ながら私は福音を直接お届けできなかった。このお母さんに福音を伝えられなかった無念さと同時にこのお母さんの救いはどうなのかと考えさせられたからである。このメッセージはまさしくその疑問に直接答えているからである。今日の箇所では明快ではないが、さらに明日の分を引き続いて読んでいただくといかに聖書がそのこともキチンと述べているのかわかる。明日の項目も引き続きお読みいただきたい。[GB156]。今日のスパークスは新しく1月8日分『御霊をとおして証しする民』と題して訳した。今日の1月25日分は『上にあるものをう求めなさい』と2011.1.25に掲載している。引き続いて興味のある方はhttp://stryasheep.blogspot.jp/をご覧いただきたい。)
2017年1月24日火曜日
礼拝とは何か(下)
最後に三番目に礼拝とはいったい何なのでありましょうか。礼拝とは己のもっとも愛するものをささげることです。サムエル上の中で、サムエルの母について、ハンナについて色々なことが書いてありますけれども、彼女は一つの願いを持っていたのです。「主よ、子どもを与えて下さい」と彼女は祈り続けたんです。そして主は彼女の祈りを聞き届けていて下さったのです。サムエルが与えられるようになったんです。与えられるやその子を主にお返し致しました。かかる人は主をまことに礼拝する礼拝者と言わなければなりません。
主により良きものをささげることを知らない人はまことの礼拝を知らない人ではないでしょうか。これは彼女にとって決して簡単ではなかったのです。自分自身を否定することだったのでありましょう。けども彼女は主の偉大さ、素晴らしさを知るようになったからこれをささげることは当然だ、当たり前だ、もっともすばらしい特権だと彼女はわかったから、この態度を取ったのです。我々もハンナのように自分のサムエルを、自分のもっとも大切にしているものを主にささげるのでありましょうか。もしささげることができるなら、礼拝とは何かというその意味を知るようになるのであります。
信仰の父と呼ばれた、あるいは神の友と呼ばれたアブラハムについても同じことが言えるのです。彼はまことの礼拝者でした。彼はいろいろな犠牲を払うようになったのです。三つのこと言えるかも知れません。彼は肉的にはハガルとイシュマエルと別れなければならなかったのです。これも面白くない経験だったでしょう。第二番目は彼はたましいがロトとソドムより分離しなければならなかったのです。これも辛い経験だったでありましょう。そして霊的には彼は愛するひとり子イサクに別れなければいけなかったのです。創世記の22章でしたか、読みましょうか。創世記の22章2節だけちょっとお読み致します。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
そしてアブラハムは若い者たちにあなたがたはろばと一緒にここにいなさい、私と子どもはあすこに行き礼拝をしてあなたがたのところにもどってっくると言ったのです。
アブラハムは神のことばを聞いた時、びっくりしたのではないかと思うんですね。「あなたの子、あなたの愛している子、ひとり子イサクをわたしにささげなさい」このことばに対してアブラハムは「神よ、どうして、なぜイサクを殺さなければならないのか、もしイサクが死んだらあなたの約束は反故になり、何の価値もなくなるのではないか」と言ってつぶやくことを断じてしなかったのです。どうしてでしょうか。彼は神の道に己のすべてをささぐることによってのみ、まことの神を礼拝することができるのだと知っていたからです。だから彼はその若者たちに「礼拝」ということばを使ったのですね。「ここに残りなさい。私と子どもとはあすこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」と言ったんです。
彼は「私はモリヤの山に我が愛する我が子イサクを連れて行き、そこで彼をいけにえにささげるために行く」と言わなかったのです。「礼拝する」と言ったんです。なぜかと言ってささげることは、もっとも愛するものをささげることは取りも直さず「礼拝」を意味しているからです。すべてを主にささげることがまことの礼拝です。犠牲のあるところには必ず祭壇が築かれます。祭壇のあるところには必ず礼拝があります。このことを静かに思い巡らすならば我々にとって、イエス様の十字架が日々、毎日どれだけ大切なものであるかが深く知らされるのではないでしょうか。ほんとうに礼拝の問題は毎日毎日の生活のさなかに起こるのです。もし私は今これをやると神が満足しておられるのでありましょうか。あるいは悪魔が喜ぶなのでありましょうか。もし私はこの問題を解決しなければ、神に栄光があるのでしょうか。それとも悪魔は勝利を得るのでありましょうか。
もし、信者は一致しなければどうでしょうか。悪魔はこれによって勝利を得るなのでしょうか。もちろん、そうです。あなたは、たとえば一致しない信者は一致するようにと努力しなければいけません。そしてこの二人は一つになると、これこそが礼拝なのです。そうしたら、初めて生けるまことの神がすべてのものにあってすべてとなられるのであります。礼拝は主なる神があなたにあってすべてとなられることなんです。ですから、毎日の生活のいろいろな小さな事柄が全部一番大切なことに、すなわち神に対する礼拝に、かかっています。あなたの礼拝の中心は生けるまことの神なのでしょうか。
全体の要点は真に主の足もとにひれ伏した生涯にあります。主が私たちの心のうちにどれほどの余地を持っているかが問題です。主が私たちのためにいかほどの価値があるのでありましょうか。主が私たちにとって真に尊い方であれば、あまりに良いというものはひとつもない。あまりに高いというものもひとつもありません。私たちのあらゆるものはそれにもっとも深く、もっともすばらしくっても主に対してささげます。イエス様はかつてペテロにあなたはわたしを愛するかと聞いたのであります。もし私たちはこのイエス様の質問に対して「はい、あなたを愛します」と真心から言うことができれば、ほんとうにすばらしいと思うのです。
一つの実例はベタニヤに住んだマリヤではないかと思うのです。マリヤという人はほんとうに真心からイエス様を愛した人だったんです。だから彼女はまことの礼拝者でした。彼女は非常に価の高いナルドの匂い油を主に降り注ぐことにより実に高い聖い主に対する愛を示してくださったんです。彼女の取る態度によってベタニヤというところは主に対する愛が満ちあふれていたところになったのです。そして福音書にナルドの匂い油の匂いが家全体に満ちたと書いてありますが、それと同じように愛の雰囲気がこのベタニヤの家を包んでいたのです。
結果として多くの人々はそのあとでイエス様のみもとに導かれるようになり、救われたのです。その時非常にたいせつだったのはマリヤの態度を取ることによって主は大いに喜んだのです。満足してくださったのです。主に対するこのようなマリヤの愛は主が何にもまして主が求めておられるところのものです。イエス様は私たちが心からすべてをささげ主を愛しているかどうかを見ておられます。ほんとうに私たちは主だけを見て愛しているのでありましょうか。あるいは世のものも目に入り主にすべてをささげることをしないでいるのでありましょうか。マリヤはイエス様を分裂のない真実な愛をもって愛しました。だから彼女も御心にかなう礼拝者となったのであります。我々の人生の特徴は礼拝そのものであるならば本当に幸いだと思います。それによってまわりの人々も飢え渇きを持つようになり、導かれるようになり、主こそがすべての栄光と誉れを受けるようになるのです。
(引用者註:今回この聞き書きをしていて、この[下]に至って意外なことに気づかされた。それはマリヤがいかに主を愛していたかという末尾の話に関連することだ。私は集会に移る前に教会で20年過ごした。その時の祈りは「恵み深い天の父なる神様」という呼びかけで始まっていた。ところが集会に移ったらベック兄はいつも「愛するイエス様」と祈られる。皆さんもそのように祈られる。最初奇異に感じて、「愛するイエス様」と呼びかけるのに中々慣れなかった。あれから27年が経過するが、今もこの呼びかけを考え、考えする時がある。しかし、この[下]の話を聞いていて「愛するイエス様」とはまさしく礼拝の心だと何となくわかったように思ったからである。その結果ナルドの匂い油が家全体に満ちたとベック兄は言われる。そうありたいものだ。[GB155]。今日もスパークス氏の1月5日分を『根を張り広げよう』と題して訳し掲載した。なお24日の分は2011.1.24『主に仕えるとは?モーセの場合』をご参照いただきたい。いずれもhttp://stryasheep.blogspot.jp/のサイトである。)
主により良きものをささげることを知らない人はまことの礼拝を知らない人ではないでしょうか。これは彼女にとって決して簡単ではなかったのです。自分自身を否定することだったのでありましょう。けども彼女は主の偉大さ、素晴らしさを知るようになったからこれをささげることは当然だ、当たり前だ、もっともすばらしい特権だと彼女はわかったから、この態度を取ったのです。我々もハンナのように自分のサムエルを、自分のもっとも大切にしているものを主にささげるのでありましょうか。もしささげることができるなら、礼拝とは何かというその意味を知るようになるのであります。
信仰の父と呼ばれた、あるいは神の友と呼ばれたアブラハムについても同じことが言えるのです。彼はまことの礼拝者でした。彼はいろいろな犠牲を払うようになったのです。三つのこと言えるかも知れません。彼は肉的にはハガルとイシュマエルと別れなければならなかったのです。これも面白くない経験だったでしょう。第二番目は彼はたましいがロトとソドムより分離しなければならなかったのです。これも辛い経験だったでありましょう。そして霊的には彼は愛するひとり子イサクに別れなければいけなかったのです。創世記の22章でしたか、読みましょうか。創世記の22章2節だけちょっとお読み致します。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
そしてアブラハムは若い者たちにあなたがたはろばと一緒にここにいなさい、私と子どもはあすこに行き礼拝をしてあなたがたのところにもどってっくると言ったのです。
アブラハムは神のことばを聞いた時、びっくりしたのではないかと思うんですね。「あなたの子、あなたの愛している子、ひとり子イサクをわたしにささげなさい」このことばに対してアブラハムは「神よ、どうして、なぜイサクを殺さなければならないのか、もしイサクが死んだらあなたの約束は反故になり、何の価値もなくなるのではないか」と言ってつぶやくことを断じてしなかったのです。どうしてでしょうか。彼は神の道に己のすべてをささぐることによってのみ、まことの神を礼拝することができるのだと知っていたからです。だから彼はその若者たちに「礼拝」ということばを使ったのですね。「ここに残りなさい。私と子どもとはあすこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」と言ったんです。
彼は「私はモリヤの山に我が愛する我が子イサクを連れて行き、そこで彼をいけにえにささげるために行く」と言わなかったのです。「礼拝する」と言ったんです。なぜかと言ってささげることは、もっとも愛するものをささげることは取りも直さず「礼拝」を意味しているからです。すべてを主にささげることがまことの礼拝です。犠牲のあるところには必ず祭壇が築かれます。祭壇のあるところには必ず礼拝があります。このことを静かに思い巡らすならば我々にとって、イエス様の十字架が日々、毎日どれだけ大切なものであるかが深く知らされるのではないでしょうか。ほんとうに礼拝の問題は毎日毎日の生活のさなかに起こるのです。もし私は今これをやると神が満足しておられるのでありましょうか。あるいは悪魔が喜ぶなのでありましょうか。もし私はこの問題を解決しなければ、神に栄光があるのでしょうか。それとも悪魔は勝利を得るのでありましょうか。
もし、信者は一致しなければどうでしょうか。悪魔はこれによって勝利を得るなのでしょうか。もちろん、そうです。あなたは、たとえば一致しない信者は一致するようにと努力しなければいけません。そしてこの二人は一つになると、これこそが礼拝なのです。そうしたら、初めて生けるまことの神がすべてのものにあってすべてとなられるのであります。礼拝は主なる神があなたにあってすべてとなられることなんです。ですから、毎日の生活のいろいろな小さな事柄が全部一番大切なことに、すなわち神に対する礼拝に、かかっています。あなたの礼拝の中心は生けるまことの神なのでしょうか。
全体の要点は真に主の足もとにひれ伏した生涯にあります。主が私たちの心のうちにどれほどの余地を持っているかが問題です。主が私たちのためにいかほどの価値があるのでありましょうか。主が私たちにとって真に尊い方であれば、あまりに良いというものはひとつもない。あまりに高いというものもひとつもありません。私たちのあらゆるものはそれにもっとも深く、もっともすばらしくっても主に対してささげます。イエス様はかつてペテロにあなたはわたしを愛するかと聞いたのであります。もし私たちはこのイエス様の質問に対して「はい、あなたを愛します」と真心から言うことができれば、ほんとうにすばらしいと思うのです。
一つの実例はベタニヤに住んだマリヤではないかと思うのです。マリヤという人はほんとうに真心からイエス様を愛した人だったんです。だから彼女はまことの礼拝者でした。彼女は非常に価の高いナルドの匂い油を主に降り注ぐことにより実に高い聖い主に対する愛を示してくださったんです。彼女の取る態度によってベタニヤというところは主に対する愛が満ちあふれていたところになったのです。そして福音書にナルドの匂い油の匂いが家全体に満ちたと書いてありますが、それと同じように愛の雰囲気がこのベタニヤの家を包んでいたのです。
結果として多くの人々はそのあとでイエス様のみもとに導かれるようになり、救われたのです。その時非常にたいせつだったのはマリヤの態度を取ることによって主は大いに喜んだのです。満足してくださったのです。主に対するこのようなマリヤの愛は主が何にもまして主が求めておられるところのものです。イエス様は私たちが心からすべてをささげ主を愛しているかどうかを見ておられます。ほんとうに私たちは主だけを見て愛しているのでありましょうか。あるいは世のものも目に入り主にすべてをささげることをしないでいるのでありましょうか。マリヤはイエス様を分裂のない真実な愛をもって愛しました。だから彼女も御心にかなう礼拝者となったのであります。我々の人生の特徴は礼拝そのものであるならば本当に幸いだと思います。それによってまわりの人々も飢え渇きを持つようになり、導かれるようになり、主こそがすべての栄光と誉れを受けるようになるのです。
(引用者註:今回この聞き書きをしていて、この[下]に至って意外なことに気づかされた。それはマリヤがいかに主を愛していたかという末尾の話に関連することだ。私は集会に移る前に教会で20年過ごした。その時の祈りは「恵み深い天の父なる神様」という呼びかけで始まっていた。ところが集会に移ったらベック兄はいつも「愛するイエス様」と祈られる。皆さんもそのように祈られる。最初奇異に感じて、「愛するイエス様」と呼びかけるのに中々慣れなかった。あれから27年が経過するが、今もこの呼びかけを考え、考えする時がある。しかし、この[下]の話を聞いていて「愛するイエス様」とはまさしく礼拝の心だと何となくわかったように思ったからである。その結果ナルドの匂い油が家全体に満ちたとベック兄は言われる。そうありたいものだ。[GB155]。今日もスパークス氏の1月5日分を『根を張り広げよう』と題して訳し掲載した。なお24日の分は2011.1.24『主に仕えるとは?モーセの場合』をご参照いただきたい。いずれもhttp://stryasheep.blogspot.jp/のサイトである。)
2017年1月23日月曜日
礼拝とは何か(中)
私たちはただ救われるために救われたのではありません。我々によって主なる神が礼拝の中心になるように。これこそが我々の生活の使命です。礼拝は主があなたにあってすべてとなられることです。他のことばで言いますならば、礼拝とはいったい何なのでありましょうか。すべてのことを主のみこころのままにおゆだねすることです。主の道に己をゆだねることです。主のなしたもうこと、主の導きは主の導きです。主はご自身のなしたもうこと、またご自身の導き、契機によって、私たちが主に目を開き、そしてその結果私たちが自発的に心から主を礼拝せざるを得なくなるように主は導いてくださるのです。
主の道を知り、主の道を喜ぶ、それが私たちの一番大切な課題ではないでしょうか。そうなったら、私たちはなぜか、どうしてかと主に言うことができなくなります。なぜでしょうと言う人は主を見上げない人であり、したがってまことの礼拝をなさない人、また主の道を歩み得ない人と言わなければならないのです。我々はよく主よみこころをこのようにしてください、このように重荷を私から取り去ってください、主よ、この環境を変えて下さいと祈るのです。これはもちろん「祈り」であり、「礼拝」ではありません。「祈り」は我々の願いの言い表わしであり、「礼拝」とは己のすべてを何もかもを主におゆだねすることです。
ダビデという人はよく聖書の中で、みこころにかなう人と呼ばれています。どうしてでしょうか。彼は決して完全で(あったわけではありません。)礼拝する者であったことを良く知ることができます。彼は最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道がなく前途が真っ暗な時にも、ひたすら神を礼拝する礼拝者だったんです。もちろん彼も経験したのです。すなわち神の道はいつも我々の願いとは同じとは限らないということだったんです。
彼は神の御心にかなった人だったんですけど、彼は何と言われたかと言いますと「あなたの子どもは死ぬ。必ず死ぬ。」 と書いてあります。もちろん彼は自分の子どもを愛したでしょう。だから祈るようになったんです。彼は断食するようになり、ほんとうに真心からひたすらに祈りました。けど彼の子どもは神の言われた通りに死にました。
多くの人はこのようなことを経験すると、どうしてでしょうか、なぜかと言うのではないかと思うのですけども、ダビデについて聖書は何と言っているかと言いますと、「彼は衣を着替えて主の家に行って礼拝した」と書いてあります。これだけを見てもわかりますね。礼拝は主の道に全く心から賛意を表することです。すべてを主のみこころにゆだねることです。彼は主の導きをもちろん全然理解することができなかったんですけども、礼拝することによって解放されたのです。
旧約聖書の中で一人の主だった人間はヨブではないかと思うんですね。ちょっとヨブ記見てみましょうか。このヨブと言う人は、主の目から見ると当時の一番すぐれた人格者でした。神によって大いに愛された人だったんです。けども彼は非常に苦しむようになったのです。すなわち二三週間以内だったでしょう。それまで持っていた財産を全部が取り去られてしまったんです。自分の10人の子どもも全部死にました。いわゆる友だちも結局彼の敵になってしまったんです。訴える者となりました。彼は重病人となり、彼の助け手であるべき奥さんは「神をのろいなさい、死ね、結局自殺しなさい」と。私たちは彼の苦しみ、悩みを理解できないと思います。
けどもその時彼はどういう態度を取ったのでありましょうか。1章の20節からお読み致します。
このとき(結局このような考えられない苦しいときを経験した時)、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し(たと書いてあります。つぶやいたと書いてありません、あきらめたのではありません。彼は礼拝し)そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
と、書いてあります。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とこういうふうにヨブは主を礼拝したのです。
私たちは主の道に従うことを確かに学ばなければなりませんけど、これはただ礼拝によってのみ出来得る事柄です。ダビデは主を礼拝する者だったんです。ヨブもそうだったんです。もちろん二人は同じ者ではなかったんですね。ダビデはひどい罪を犯してしまったんです。けどもヨブは主の前に全き人だったと書いていますね。もちろん、主の恵みによってそうなったんですね。自分の努力の結果ではありませんでした。けどもはっきり二人ともは礼拝したのです。どうしてであるかと言いますと、己を捨ててすべてを主のみ心にゆだねたからです。なぜだろう、どうしてでしょうと訊ねられても答えることがない。なぜか全然理解できなくてもただただ主を心からほめたたえ礼拝することです。
主よ、あなたは完全です。
全きことをなさるお方です。
私はあなたを心からあがめたてまつる。
この態度を取る人は主の望んでおられるまことの礼拝者です。
礼拝とは何でしょうか。今述べましたようにすべてのことを主のみこころのままにおゆだねすることです。主の道に己をゆだねることです。第二番目は礼拝とは主のみもとに「ひれ伏す」ことです。ヨシュア記の5章の13節、14節に、次のように書き記されています。
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
と。この箇所を見ると礼拝とは主のみもとにひれ伏すことであるとわかることができるのです。この時ヨシュアは神の民イスラエルをカナンの地、約束の地へ導き入れるという大きな使命を持っていたのです。このことはモーセが長年かかっても成し遂げることのできなかったわざでした。だから、若いヨシュアにとっては非常に困難な出来事、非常に重い重荷だったにちがいない。これから攻めようとするカナンには恐るべき強敵でありカナン人が待ち構えています。また率いているイスラエルの人たちは始末におえない不平ばっかり言っている人たちだったんです。ヨシュアにとってはまさに外患内憂と言った苦しみだったんです。けどその時、主があらわれたのです。この主の軍の将とは間違いなく主イエス様だったんです。神が自分自身を明らかにする時、いつも主イエス様を通してです。主は自分自身を明らかにしてくださったとき、ヨシュアは地にひれ伏して拝した、礼拝した、と書いてあります。
たとえ私たちのまわりに強敵がひしめき、私たちには耐えられない苦しみが襲いかかり、また試みがやってきたとしても、そのときこれがために主に助けを叫び求めることは大切ではありません。その時必要なのは、なさねばならない唯一のことは主のみもとにひれ伏し主を礼拝することです。もし私たちが主のみもとにひれ伏し礼拝するならば、私たちの問題は解決されます。主が面倒を見ていてくださるからです。礼拝とは主のみもとにひれ伏すことです。礼拝者は重荷から解放されます。喜びに満たされます。
(引用者註:絶対絶命の窮地に陥った時、人は「神様!」と呼ばわる。しかし、それは助けを求めることではあっても「礼拝」ではないと言われている。そして礼拝こそ弱り切っていた人間に喜びを心の底から与えるものだと語られている。じっくり味わいたいメッセージだ。明日の結論はどのように閉じられるのであろうか。GB[154]。スパークスの今日の分はやはり2011年1月23日『主がくださるいのち』と題して訳してあります。ために今日は未定稿であった1月4日の分を『地だけではなく天をも揺り動かす』と題し新たに訳し掲載しました。こちらhttp://stryasheep.blogspot.jp/の方もどうぞお読みください。)
主の道を知り、主の道を喜ぶ、それが私たちの一番大切な課題ではないでしょうか。そうなったら、私たちはなぜか、どうしてかと主に言うことができなくなります。なぜでしょうと言う人は主を見上げない人であり、したがってまことの礼拝をなさない人、また主の道を歩み得ない人と言わなければならないのです。我々はよく主よみこころをこのようにしてください、このように重荷を私から取り去ってください、主よ、この環境を変えて下さいと祈るのです。これはもちろん「祈り」であり、「礼拝」ではありません。「祈り」は我々の願いの言い表わしであり、「礼拝」とは己のすべてを何もかもを主におゆだねすることです。
ダビデという人はよく聖書の中で、みこころにかなう人と呼ばれています。どうしてでしょうか。彼は決して完全で(あったわけではありません。)礼拝する者であったことを良く知ることができます。彼は最も深いどん底の苦しみにあっても、また非常な絶望に陥っている時も、逃れ道がなく前途が真っ暗な時にも、ひたすら神を礼拝する礼拝者だったんです。もちろん彼も経験したのです。すなわち神の道はいつも我々の願いとは同じとは限らないということだったんです。
彼は神の御心にかなった人だったんですけど、彼は何と言われたかと言いますと「あなたの子どもは死ぬ。必ず死ぬ。」 と書いてあります。もちろん彼は自分の子どもを愛したでしょう。だから祈るようになったんです。彼は断食するようになり、ほんとうに真心からひたすらに祈りました。けど彼の子どもは神の言われた通りに死にました。
多くの人はこのようなことを経験すると、どうしてでしょうか、なぜかと言うのではないかと思うのですけども、ダビデについて聖書は何と言っているかと言いますと、「彼は衣を着替えて主の家に行って礼拝した」と書いてあります。これだけを見てもわかりますね。礼拝は主の道に全く心から賛意を表することです。すべてを主のみこころにゆだねることです。彼は主の導きをもちろん全然理解することができなかったんですけども、礼拝することによって解放されたのです。
旧約聖書の中で一人の主だった人間はヨブではないかと思うんですね。ちょっとヨブ記見てみましょうか。このヨブと言う人は、主の目から見ると当時の一番すぐれた人格者でした。神によって大いに愛された人だったんです。けども彼は非常に苦しむようになったのです。すなわち二三週間以内だったでしょう。それまで持っていた財産を全部が取り去られてしまったんです。自分の10人の子どもも全部死にました。いわゆる友だちも結局彼の敵になってしまったんです。訴える者となりました。彼は重病人となり、彼の助け手であるべき奥さんは「神をのろいなさい、死ね、結局自殺しなさい」と。私たちは彼の苦しみ、悩みを理解できないと思います。
けどもその時彼はどういう態度を取ったのでありましょうか。1章の20節からお読み致します。
このとき(結局このような考えられない苦しいときを経験した時)、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し(たと書いてあります。つぶやいたと書いてありません、あきらめたのではありません。彼は礼拝し)そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
と、書いてあります。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とこういうふうにヨブは主を礼拝したのです。
私たちは主の道に従うことを確かに学ばなければなりませんけど、これはただ礼拝によってのみ出来得る事柄です。ダビデは主を礼拝する者だったんです。ヨブもそうだったんです。もちろん二人は同じ者ではなかったんですね。ダビデはひどい罪を犯してしまったんです。けどもヨブは主の前に全き人だったと書いていますね。もちろん、主の恵みによってそうなったんですね。自分の努力の結果ではありませんでした。けどもはっきり二人ともは礼拝したのです。どうしてであるかと言いますと、己を捨ててすべてを主のみ心にゆだねたからです。なぜだろう、どうしてでしょうと訊ねられても答えることがない。なぜか全然理解できなくてもただただ主を心からほめたたえ礼拝することです。
主よ、あなたは完全です。
全きことをなさるお方です。
私はあなたを心からあがめたてまつる。
この態度を取る人は主の望んでおられるまことの礼拝者です。
礼拝とは何でしょうか。今述べましたようにすべてのことを主のみこころのままにおゆだねすることです。主の道に己をゆだねることです。第二番目は礼拝とは主のみもとに「ひれ伏す」ことです。ヨシュア記の5章の13節、14節に、次のように書き記されています。
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
と。この箇所を見ると礼拝とは主のみもとにひれ伏すことであるとわかることができるのです。この時ヨシュアは神の民イスラエルをカナンの地、約束の地へ導き入れるという大きな使命を持っていたのです。このことはモーセが長年かかっても成し遂げることのできなかったわざでした。だから、若いヨシュアにとっては非常に困難な出来事、非常に重い重荷だったにちがいない。これから攻めようとするカナンには恐るべき強敵でありカナン人が待ち構えています。また率いているイスラエルの人たちは始末におえない不平ばっかり言っている人たちだったんです。ヨシュアにとってはまさに外患内憂と言った苦しみだったんです。けどその時、主があらわれたのです。この主の軍の将とは間違いなく主イエス様だったんです。神が自分自身を明らかにする時、いつも主イエス様を通してです。主は自分自身を明らかにしてくださったとき、ヨシュアは地にひれ伏して拝した、礼拝した、と書いてあります。
たとえ私たちのまわりに強敵がひしめき、私たちには耐えられない苦しみが襲いかかり、また試みがやってきたとしても、そのときこれがために主に助けを叫び求めることは大切ではありません。その時必要なのは、なさねばならない唯一のことは主のみもとにひれ伏し主を礼拝することです。もし私たちが主のみもとにひれ伏し礼拝するならば、私たちの問題は解決されます。主が面倒を見ていてくださるからです。礼拝とは主のみもとにひれ伏すことです。礼拝者は重荷から解放されます。喜びに満たされます。
(引用者註:絶対絶命の窮地に陥った時、人は「神様!」と呼ばわる。しかし、それは助けを求めることではあっても「礼拝」ではないと言われている。そして礼拝こそ弱り切っていた人間に喜びを心の底から与えるものだと語られている。じっくり味わいたいメッセージだ。明日の結論はどのように閉じられるのであろうか。GB[154]。スパークスの今日の分はやはり2011年1月23日『主がくださるいのち』と題して訳してあります。ために今日は未定稿であった1月4日の分を『地だけではなく天をも揺り動かす』と題し新たに訳し掲載しました。こちらhttp://stryasheep.blogspot.jp/の方もどうぞお読みください。)
2017年1月22日日曜日
礼拝とは何か(上)
キリスト者の使命についてご一緒に考えてみたいと思います。今言われましたように、何か形式的になればおしまいだと言えるのでないかと思うのであります。ああすべきである、こうすべきであると思うようになれば危険ではないかと思います。知らないうちに形式的になり、律法的になるからです。主なる神が考えておられることはもちろん一人でも多くの人々が救われることです。だから多くの人々は本物を得るためにキリスト教に入らなければならないと思っています。キリスト教の教えは最高のものであるから、神の教えであるから、だからキリスト教という宗教に入らないと駄目だと思う人は非常に多いのです。私のようにキリスト教の国で生まれ大きくなった人々は決してそうじゃないといつも言いたいのです。何があってもキリスト教に入らないで、イエス様を知ってもらいたいということなんです。
キリスト教の国で生まれた人々は先ず幼児洗礼を受けます。生まれてから一週間以内洗礼を受けます。それによってクリスチャンになる。どうしてそのことをやるかと言うと、あとで強制的に献金しなくっちゃいけない。会社の方から直接国に渡さるるものなんですね。人間はいくら反対しても通じません。このようなまずい結果になれば結局刑務所(行き)です。どうしても払いたくなければやっぱり教会から離れなければならない。そのための勇気を持つ人は余りいないんです。 そしたら自分の葬式は誰がやるのか。そういう心配によって皆んな縛られてしまっているのです。非常に悲しいことなんです。
イエス・キリストを信ずることとキリスト教に入ることとは全然違うものなんです。教会の会員になったから、洗礼を受けるようになったから、だから多くの人々は救われ得ないということは悲しい事実なんです。神の目的は結局人間はキリスト教という人間のつくった宗教に入ることではなく、真理を知ることです。イエス様との出会いによって罪の赦しを得ることです。自分は救われた、自分の過ちを赦されているのであり、私は永久的に生けるまことの神によって受け入れられている、この確信を得ることこそが神の切に望んでおられることですけど、でもそれだけではありません。救われた人々をとおして主は働こうと望んでおられます。主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。他のことばで言いますならば、キリスト者のうちに宿りたもうイエス様、内住の主こそキリスト者の生まれ変わった証拠です。
イエス様はキリスト者のうちに住んでおられると聖書全体は言っているのです。ですから、信ずる者は神の神殿とも聖霊の宮とも呼ばれているのです。人々は私たちの内にイエス様が住んでおられることに気づくはずなんです。そのように身を以てイエス様を証して始めて主の証し人と言えると思います。今兄弟のお読みになりました民数記の箇所(民数記8章14、16、24節)を見ると、このいわゆるレビ人についていろいろなこと書き記されていますけど、会見の幕屋で働き、契約の箱を担うつとめをしたレビ人について書き記されています。もう一回14節をお読み致します。
あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。
と書いてあります。そして、16節
彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。
と、あります。レビ人は全く主なる神にささげられていた者であり、一つ残らずすべてを神におささげしたのがいわゆるレビ人たちだったのです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主のご栄光をあらわすことのできる模範の人々でした。この民数記暇があれば近いうちに、今週中読んでもいいと思うんですけど、非常にすばらしい本なんですけども、レビ人たちは、イスラエルの人たちが荒野を通って旅をした時、神の臨在をあらわすいわゆる契約の箱を担って歩いた人々はこのレビ人たちであったのです。そしてイスラエル人たちは臨在の雲の柱が上がった時、今までとどまっていた所から出発し雲に導かれ、雲が再びとどまったところで旅立ちもとどまったのです。彼らは神の臨在の雲がとどまった所には素直にそこにとどまりました。そこがどんなに醜い場所であっても、また見る目によくない場所であっても導きのままにとどまったんです。
我々の場合はいったいどうなんでしょうか。自分の考えの赴くままに良い環境を選んでそこへ行くのでありましょうか。それとも主の導きのままに歩むのでありましょうか。実際のところ、私たちは生きているこの世はどこへ行っても荒野のようなものです。見た目に居心地の良さそうなところでも実際に住んでみれば、しばらく経つとそこも荒野であったことがもちろんわかります。私たちはレビ人と同じように主の御手のあるところ、主の臨在があらわれて行くのですから、導きのまま歩みたいものです。
レビ記についていろいろなことが言えると思うのですが、今朝一つのことだけ触れたいと思うのですね。彼らはまことの神に対して礼拝する人々だったのです。礼拝することとは非常に大切なんです。礼拝する形式的なことがいろいろあるかもしれませんし、習慣になれば、もちろん形式的になればおしまいなんです。ヨハネ伝の4章の中で主なる神はまことの礼拝者を探しておられると書き記されていますが、よく読む箇所です。4章の23節ですね。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
とあります。礼拝とはいったいどういうことでしょうか。ひとことばで言いますと、父ならびに御子イエス様の素晴らしさ、偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを心から言い表わすのが礼拝です。心の目で自らの神から離れ去って役に立たなくなっており、罪深い駄目な状態を見、それとともにあわれみ深い主イエス様の救いを心の目で見て見る時、礼拝をせざるを得なくなります。
神の愛を、神の偉大さを知りながら礼拝をしないこととはもちろん罪であります。神の愛を、神の偉大さを知らない人々は、キリストに属さない人々は本当の意味で礼拝することができません。またイエス様を信じていない人々だけではなく、もうすでに救いにあずかっている信者も主の価値を完全に知ることは出来ません。神の偉大さを全く知ることには永遠の時を必要とするのではないでしょうか。もっともっと心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく、偉大なお方であるか見させていただきたいものです。主の偉大さに心の目が開かれることは礼拝にとってもっとも必要なことです。言えることは主の偉大さがわかればわかるほど、まことの礼拝があり、礼拝すればするほど主の偉大さが見えて来るということです。礼拝する人は主なる神の隠れた新しいことを教えられます。主を見た人は、主の御前にひれ伏し、拝まざるを得ません。
高く引き上げられ、すべての上に支配したもう主を見ることこそが大切です。そうすると私たちは心からなる礼拝をささげざるを得なくなるのです。
我々の場合現実にどうなるのでしょうか。私たちの生活の真中に主に対するまことの礼拝がなされているのでありましょうか。もちろんはっきり言えることは日曜日の午前中だ礼拝する人々は本物ではない。我々の人生そのものは礼拝そのものとならなければならないのです。礼拝が第一の場所を占めているのでありましょうか。時々仕事が第一の場所を占め、その他の色々なことが礼拝に代わる時間を取り、礼拝はどこへか影をひそめてしまうというのが現実ではないでしょうか。私たちはなるほどあわれみによって救われたキリスト者としてこの世に生活していますけど、礼拝する者として毎日毎日生きているなのでありましょうか。歴代誌下の16章9節の中で
あまねく全地を見まわし、心を全うし、主を第一にする、礼拝する人々を探し求めておられる
と書き記されているのであります。神に対する礼拝は我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。
(引用者註: 今日から三日間で聞き書きするものの音源は「ろばの子サーバー」のDVD#1 CD#19キリスト者の使命(1)である。形骸化したキリスト信仰は先ず礼拝から始まります。ベック兄が語られる「礼拝とはどのようなものか」聖書に登場する人物をとおして考えられているメッセージに耳を傾けたいものです。GB[153]。今日のスパークスの黙想http://stryasheep.blogspot.jp/はやはり2011年1月22日『麗しい王、遠くの国』という題名で掲載しています。したがって新訳としては1月3日の『復活の力』を掲載しました。)
キリスト教の国で生まれた人々は先ず幼児洗礼を受けます。生まれてから一週間以内洗礼を受けます。それによってクリスチャンになる。どうしてそのことをやるかと言うと、あとで強制的に献金しなくっちゃいけない。会社の方から直接国に渡さるるものなんですね。人間はいくら反対しても通じません。このようなまずい結果になれば結局刑務所(行き)です。どうしても払いたくなければやっぱり教会から離れなければならない。そのための勇気を持つ人は余りいないんです。 そしたら自分の葬式は誰がやるのか。そういう心配によって皆んな縛られてしまっているのです。非常に悲しいことなんです。
イエス・キリストを信ずることとキリスト教に入ることとは全然違うものなんです。教会の会員になったから、洗礼を受けるようになったから、だから多くの人々は救われ得ないということは悲しい事実なんです。神の目的は結局人間はキリスト教という人間のつくった宗教に入ることではなく、真理を知ることです。イエス様との出会いによって罪の赦しを得ることです。自分は救われた、自分の過ちを赦されているのであり、私は永久的に生けるまことの神によって受け入れられている、この確信を得ることこそが神の切に望んでおられることですけど、でもそれだけではありません。救われた人々をとおして主は働こうと望んでおられます。主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。他のことばで言いますならば、キリスト者のうちに宿りたもうイエス様、内住の主こそキリスト者の生まれ変わった証拠です。
イエス様はキリスト者のうちに住んでおられると聖書全体は言っているのです。ですから、信ずる者は神の神殿とも聖霊の宮とも呼ばれているのです。人々は私たちの内にイエス様が住んでおられることに気づくはずなんです。そのように身を以てイエス様を証して始めて主の証し人と言えると思います。今兄弟のお読みになりました民数記の箇所(民数記8章14、16、24節)を見ると、このいわゆるレビ人についていろいろなこと書き記されていますけど、会見の幕屋で働き、契約の箱を担うつとめをしたレビ人について書き記されています。もう一回14節をお読み致します。
あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。
と書いてあります。そして、16節
彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。
と、あります。レビ人は全く主なる神にささげられていた者であり、一つ残らずすべてを神におささげしたのがいわゆるレビ人たちだったのです。すべてを主にささげ尽くしたこのレビ人こそ主のご栄光をあらわすことのできる模範の人々でした。この民数記暇があれば近いうちに、今週中読んでもいいと思うんですけど、非常にすばらしい本なんですけども、レビ人たちは、イスラエルの人たちが荒野を通って旅をした時、神の臨在をあらわすいわゆる契約の箱を担って歩いた人々はこのレビ人たちであったのです。そしてイスラエル人たちは臨在の雲の柱が上がった時、今までとどまっていた所から出発し雲に導かれ、雲が再びとどまったところで旅立ちもとどまったのです。彼らは神の臨在の雲がとどまった所には素直にそこにとどまりました。そこがどんなに醜い場所であっても、また見る目によくない場所であっても導きのままにとどまったんです。
我々の場合はいったいどうなんでしょうか。自分の考えの赴くままに良い環境を選んでそこへ行くのでありましょうか。それとも主の導きのままに歩むのでありましょうか。実際のところ、私たちは生きているこの世はどこへ行っても荒野のようなものです。見た目に居心地の良さそうなところでも実際に住んでみれば、しばらく経つとそこも荒野であったことがもちろんわかります。私たちはレビ人と同じように主の御手のあるところ、主の臨在があらわれて行くのですから、導きのまま歩みたいものです。
レビ記についていろいろなことが言えると思うのですが、今朝一つのことだけ触れたいと思うのですね。彼らはまことの神に対して礼拝する人々だったのです。礼拝することとは非常に大切なんです。礼拝する形式的なことがいろいろあるかもしれませんし、習慣になれば、もちろん形式的になればおしまいなんです。ヨハネ伝の4章の中で主なる神はまことの礼拝者を探しておられると書き記されていますが、よく読む箇所です。4章の23節ですね。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
とあります。礼拝とはいったいどういうことでしょうか。ひとことばで言いますと、父ならびに御子イエス様の素晴らしさ、偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを心から言い表わすのが礼拝です。心の目で自らの神から離れ去って役に立たなくなっており、罪深い駄目な状態を見、それとともにあわれみ深い主イエス様の救いを心の目で見て見る時、礼拝をせざるを得なくなります。
神の愛を、神の偉大さを知りながら礼拝をしないこととはもちろん罪であります。神の愛を、神の偉大さを知らない人々は、キリストに属さない人々は本当の意味で礼拝することができません。またイエス様を信じていない人々だけではなく、もうすでに救いにあずかっている信者も主の価値を完全に知ることは出来ません。神の偉大さを全く知ることには永遠の時を必要とするのではないでしょうか。もっともっと心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく、偉大なお方であるか見させていただきたいものです。主の偉大さに心の目が開かれることは礼拝にとってもっとも必要なことです。言えることは主の偉大さがわかればわかるほど、まことの礼拝があり、礼拝すればするほど主の偉大さが見えて来るということです。礼拝する人は主なる神の隠れた新しいことを教えられます。主を見た人は、主の御前にひれ伏し、拝まざるを得ません。
高く引き上げられ、すべての上に支配したもう主を見ることこそが大切です。そうすると私たちは心からなる礼拝をささげざるを得なくなるのです。
我々の場合現実にどうなるのでしょうか。私たちの生活の真中に主に対するまことの礼拝がなされているのでありましょうか。もちろんはっきり言えることは日曜日の午前中だ礼拝する人々は本物ではない。我々の人生そのものは礼拝そのものとならなければならないのです。礼拝が第一の場所を占めているのでありましょうか。時々仕事が第一の場所を占め、その他の色々なことが礼拝に代わる時間を取り、礼拝はどこへか影をひそめてしまうというのが現実ではないでしょうか。私たちはなるほどあわれみによって救われたキリスト者としてこの世に生活していますけど、礼拝する者として毎日毎日生きているなのでありましょうか。歴代誌下の16章9節の中で
あまねく全地を見まわし、心を全うし、主を第一にする、礼拝する人々を探し求めておられる
と書き記されているのであります。神に対する礼拝は我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければなりません。
(引用者註: 今日から三日間で聞き書きするものの音源は「ろばの子サーバー」のDVD#1 CD#19キリスト者の使命(1)である。形骸化したキリスト信仰は先ず礼拝から始まります。ベック兄が語られる「礼拝とはどのようなものか」聖書に登場する人物をとおして考えられているメッセージに耳を傾けたいものです。GB[153]。今日のスパークスの黙想http://stryasheep.blogspot.jp/はやはり2011年1月22日『麗しい王、遠くの国』という題名で掲載しています。したがって新訳としては1月3日の『復活の力』を掲載しました。)
2017年1月21日土曜日
こんなにすばらしい救い(下)
その老人は両目を閉じて、両手を重ねていました。私が助けを求めると、その老人は言いました。「私は仏陀、すなわち釈迦です。あなたも両目を閉じて両手を束ね、すべてのことを忘れ去り、全く静かに落ち着きなさい。そうすれば、誰もそしてどんなものもお前を動揺させることはできない。そうすれば、我が子よ、お前は私と同じように平安のうちにいるようになる。」と。「はい、お父さん、私はそうします。しかしこの穴から私を助けて下さい。」とその人は一生懸命叫びました。しかし、仏陀、釈迦もまた姿を消してしまいました。
その男の人はますます深く穴の中に沈んで行きました。その時、彼は突然三番目の男の人を見ました。その人の顔には大きな苦しみと悩みの跡が刻み込まれ、その人の両手両足には刺し通された傷跡がありました。その時、泥沼に沈んでしまっていた人はただ一言だけ叫びました。「どうか私をあわれんでください。」するとこの三番目の人は深い穴の泥沼にいる彼のところにまで降りて来て、両手を彼に差し伸べ、穴から救い出して下さいました。その第三の人は穴から引き上げられた人に十分な食物を与え安らぎの場を提供し、そしておっしゃいました。「今からは私があなたとともにいてあなたを助けましょう」と。この解放者こそ主イエス様でした。
「あなたは彼の名をイエスとつけなさい、この方こそご自分の民を罪から救って下さる方です。」このようにして悔い改めた仏教徒は自分がどのようにしてイエス様を経験し知るようになったかを述べました。
イスラエルの王ダビデは同じことを経験できました。まず最初にサタンは彼を誘惑しました。ダビデは姦淫を犯し、その夫を殺させました。悪魔はこのようにして、ダビデが永久に役に立たない者となるだろうと期待しました。しかしダビデは主なる神の解放を経験しました。詩篇40篇の1節から5節までお読み致します。これこそがダビデ王の救いの経験をあらわすことばです。
私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
と。まず悪魔は罪を大したものではないと思わせました。表面的には秘密に包まれているかのように見えても実際には大変な毒なんです。罪によって人間は精々移り行く快楽感を手に入れることはできますが、良心の呵責は残ります。まことの喜びは主イエス様だけがお与えになります。なぜでしょうか。まことの喜びの土台は罪の赦しであり、罪を赦すことがお出来になるのはイエス様だけ、イエス様お一人だけです。ガラテヤ5章22節23節に
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
とあります。
初めに読みましたヘブル書2章3節をお読み致します。
こんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。
なぜ、私たちは今日こうした交わり会を持っているのでしょうか。多くの人はじっくりと考えるようになるべきです。すなわち私のたましいの救いはどうなっているのでしょうか。いったい私は死んでから永遠の時をどこで過ごすのでしょうか。罪の救い主から遠く離れた地獄で過ごすのでしょうか。あるいは考えられないほどの栄光に包まれて主イエス様のもとで過ごすのでしょうか。
あなたの失われた望みのない状態を知って下さい。ただひとり生けるまことの神だけが逃れ道をご存知であるということを知って下さい。単なる聖書の知識はあなたを救いに導かないということを知って下さい。あなたの立派な志も救うことができないということを知って下さい。神のみことばである聖書は、努力する人やがんばる人、聖書を研究する人や、いい人間になりたいと思う人が救われるのではなく、主イエス様を受け入れる人が神の子、つまり救われた者となると言っています。
聖書の救いの福音は簡単に理解できます。ヨハネ伝3章6節に今日、
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
と、あります。ここでは信じる者と信じない者と言われています。その中間の道は提供されていません。主なる神は私たちに選択をさせますから、私たちはその責任を持っています。永遠のいのちがここに提供されます。私たちはどのような決断をするのでしょうか。次のように祈る者は幸いです。
主イエスよ、私は今失われた罪人としてあなたのみもとに行きます
あなたは私の身代わりとなって罰を受け殺されました
あなたの名前はイエスです
あなたはただひとり罪の救い主です
私はあなたを私の人生のなかに受け入れます
私はあなたの血潮が私の債務の赦しのために流されたことを
そしてあなたが私をも赦してくださったことを感謝します
と。彼の名前はイエスと名づけられました。というのは、主はあなたの罪をも赦したいと思っておられ、あなたに全く新しいいのちを送りたいと望んでおられます。提供された罪の赦しを受け取る人は幸いです。
(引用者註: 文中の詩篇40篇はかつて1990年の某日に引用者が妻と輪読している時、そのみことばの一字一句がすべてそのとおり自分のすべての状態に当てはまりただひたすら泣くのみであったことを思い出します。この心の琴線に触れたダビデの詩篇はまさしくダビデの悔い改めの詩であったことを今回新しく知らされました。罪の赦しが人間が永遠に生きるためには何としても必要です。スパークスの今日の箇所はhttp://stryasheep.blogspot.jp/の2011年1月21日の分として『イエス様、あなただけが中心となってください』と題してすでに掲載しています。そのため今日は未提稿である1月2日の分を『我が内におられるキリスト』という題名で掲載しました。興味のある方はそちらもご覧ください。GB[152])
その男の人はますます深く穴の中に沈んで行きました。その時、彼は突然三番目の男の人を見ました。その人の顔には大きな苦しみと悩みの跡が刻み込まれ、その人の両手両足には刺し通された傷跡がありました。その時、泥沼に沈んでしまっていた人はただ一言だけ叫びました。「どうか私をあわれんでください。」するとこの三番目の人は深い穴の泥沼にいる彼のところにまで降りて来て、両手を彼に差し伸べ、穴から救い出して下さいました。その第三の人は穴から引き上げられた人に十分な食物を与え安らぎの場を提供し、そしておっしゃいました。「今からは私があなたとともにいてあなたを助けましょう」と。この解放者こそ主イエス様でした。
「あなたは彼の名をイエスとつけなさい、この方こそご自分の民を罪から救って下さる方です。」このようにして悔い改めた仏教徒は自分がどのようにしてイエス様を経験し知るようになったかを述べました。
イスラエルの王ダビデは同じことを経験できました。まず最初にサタンは彼を誘惑しました。ダビデは姦淫を犯し、その夫を殺させました。悪魔はこのようにして、ダビデが永久に役に立たない者となるだろうと期待しました。しかしダビデは主なる神の解放を経験しました。詩篇40篇の1節から5節までお読み致します。これこそがダビデ王の救いの経験をあらわすことばです。
私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
と。まず悪魔は罪を大したものではないと思わせました。表面的には秘密に包まれているかのように見えても実際には大変な毒なんです。罪によって人間は精々移り行く快楽感を手に入れることはできますが、良心の呵責は残ります。まことの喜びは主イエス様だけがお与えになります。なぜでしょうか。まことの喜びの土台は罪の赦しであり、罪を赦すことがお出来になるのはイエス様だけ、イエス様お一人だけです。ガラテヤ5章22節23節に
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
とあります。
初めに読みましたヘブル書2章3節をお読み致します。
こんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。
なぜ、私たちは今日こうした交わり会を持っているのでしょうか。多くの人はじっくりと考えるようになるべきです。すなわち私のたましいの救いはどうなっているのでしょうか。いったい私は死んでから永遠の時をどこで過ごすのでしょうか。罪の救い主から遠く離れた地獄で過ごすのでしょうか。あるいは考えられないほどの栄光に包まれて主イエス様のもとで過ごすのでしょうか。
あなたの失われた望みのない状態を知って下さい。ただひとり生けるまことの神だけが逃れ道をご存知であるということを知って下さい。単なる聖書の知識はあなたを救いに導かないということを知って下さい。あなたの立派な志も救うことができないということを知って下さい。神のみことばである聖書は、努力する人やがんばる人、聖書を研究する人や、いい人間になりたいと思う人が救われるのではなく、主イエス様を受け入れる人が神の子、つまり救われた者となると言っています。
聖書の救いの福音は簡単に理解できます。ヨハネ伝3章6節に今日、
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
と、あります。ここでは信じる者と信じない者と言われています。その中間の道は提供されていません。主なる神は私たちに選択をさせますから、私たちはその責任を持っています。永遠のいのちがここに提供されます。私たちはどのような決断をするのでしょうか。次のように祈る者は幸いです。
主イエスよ、私は今失われた罪人としてあなたのみもとに行きます
あなたは私の身代わりとなって罰を受け殺されました
あなたの名前はイエスです
あなたはただひとり罪の救い主です
私はあなたを私の人生のなかに受け入れます
私はあなたの血潮が私の債務の赦しのために流されたことを
そしてあなたが私をも赦してくださったことを感謝します
と。彼の名前はイエスと名づけられました。というのは、主はあなたの罪をも赦したいと思っておられ、あなたに全く新しいいのちを送りたいと望んでおられます。提供された罪の赦しを受け取る人は幸いです。
(引用者註: 文中の詩篇40篇はかつて1990年の某日に引用者が妻と輪読している時、そのみことばの一字一句がすべてそのとおり自分のすべての状態に当てはまりただひたすら泣くのみであったことを思い出します。この心の琴線に触れたダビデの詩篇はまさしくダビデの悔い改めの詩であったことを今回新しく知らされました。罪の赦しが人間が永遠に生きるためには何としても必要です。スパークスの今日の箇所はhttp://stryasheep.blogspot.jp/の2011年1月21日の分として『イエス様、あなただけが中心となってください』と題してすでに掲載しています。そのため今日は未提稿である1月2日の分を『我が内におられるキリスト』という題名で掲載しました。興味のある方はそちらもご覧ください。GB[152])
2017年1月20日金曜日
こんなにすばらしい救い(中)
(誇り、高ぶる人、自己正当化する人はわざわいです。最後の赦しを得るために主イエス様のもとに来たいと思わない人はわざわいです。)それほど愚かなことはありません。木はその実によって知られます。これと同じように私たちは主イエス様を信じることによって変えられ、新しく造られた人々によって主イエス様の贖いの偉大さを知ることができます。人生を通して何十年もの間、神もなく望みもなく生きてきた人が今日イエス様を信ずることによって確固たる人生の目標をもち望みに満たされているそのような人々が大勢私たちの中にいます。なぜでしょうか。
その人たちは主イエス様によって新しい人間とされたのです。ある人は次のように訊ねられました。あなたはすでに福音を聞きましたか。答えは次のようなことでした。いいえ、私は聞いたことがありませんが、見たことがあります。すなわち、近所の人がいたのですが、その男の人はすべての人によって恐れられ、避けられ、その人が酔っぱらうと猛獣のように暴れ回りました。しかしこの男の人はイエスを信じ、自分の人生の中に受け入れたのです。それ以来すべてが新しくなりました。
今日は「とよだきよし」兄弟も証しをしてくれます。彼のお嬢さんは私に次のように言いました。「私のお父さんは主イエス様を信じてから、私は新しいお父さんを貰いました。私はイエス様を信じるということがすばらしいものだということを知りました」と。これは娘のあやこちゃんの素晴らしい証ではないでしょうか。
ここでちょっとたくさんの宗教の事を考えてみて下さい。すべての宗教はこれもあれも約束しますが、しかし人々はそれによって騙されるだけなのです。というのは、罪の赦しと永遠のいのちの確信はただ主イエス様だけが提供して下さるからです。主イエス様は債務を赦して下さいます。主イエス様は罪に対する勝利を与えて下さいます。主イエス様はひとりの人間を根本的に変えて下さいます。
それでは主イエスはいったいどのように一人の人間を変えて下さるのでしょうか。罪を好い加減にすることによってではなく、罪の源を示すことによってです。マルコ伝7章の21節からお読み致します。イエス・キリストのことばです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
と。イザヤは同じことを別のことばで言っています。1章5節の後半から
頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
と。最近大阪から一組の夫婦がやって来ました。私は非常に心を動かされ悲しくなりました。その夫婦は結婚していたのですが、二人とも自分のしたいことをしているのです。その二人はまことの一致を一度も知ることがありませんでした。二人は宗教について何も知りたいと思いません。どうしたらこの夫婦を助けることができるでしょうかと私は考えました。すると突然その奥さんが言いました。ただ一つの可能性が、生まれ変わることでしょう。もちろん彼女はこの地上でこの人生において全然可能性がないと思っていました。しかし、もしも私たちがこの世に再び人間として生まれることができるならば、多分可能性があるだろうという意味でした。
もちろん私は当然のことながらこの奥さんのことばをとらえて言いました。「そのとおりです。新しく生まれ変わること、そのことが実際可能なのです」というのは主イエス様はそれを提供して下さるからです。主なる神の霊は霊的に死んでいた人を生き返らせることができます。主イエス様は心を開いて求めたニコデモに向かって次のように言われました。ヨハネ伝3章3節
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
主イエス様を自分の人生に受け入れる者はそれによって新しいいのちを貰います。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、私は死からいのちに移されていると証しすることができます。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、罪が赦されていることを知り、そしてやがて栄光に包まれてイエス様のもとで永遠の時を過ごすことを知っています。
以前、仏教徒だった人がイエスを自分の人生に受け入れ、それによって本当に新しい人間になりました。その人はしばらくしてから一つの夢を見たのですが、それは実際自分の経験したものを反映したものでした。彼は深い穴に落ち、深い深い泥沼に沈んで行きました。彼が助けを求めて上を仰いだ時、恐るべき一人の老人が自分を見下ろしているのが見えました。するとその老人が言いました。「わが子よ。お前は何という恐ろしいところにいるのか。」「私は知らずにこんなところに堕ちてしまったのですが、ここから抜け出すことができないのです。あなたは私を助けることがおできになれませんか。」すると、その老人は答えました。「私は孔子です。お前は私のたくさんの本を読んで私の教えに従っていたならば今日別のところにいたことであろう。」「確かに、その通りです。しかし、今私はここにいるのです。どうか、私を助けて下さい。」とその人は叫びました。しかし、孔子はもはや二度と見ることができませんでした。私は絶望的になってあたりを見まわし、別の人が見えないかと探し、一人の別の老人がそこにいたのは何という喜びだったでしょうか。
(引用者註:さて、その別の老人とは誰でしょうか。続きは明日です。オースティン・スパークスは1月1日のものを「永遠のご計画」と題してhttp://stryasheep.blogspot.jp/に掲載しました。そちらの方もご覧ください。どうも今年はベックさんとスパークスさんの競演になりそうです、このブログ。お二方のメッセージを通してより深い聖書理解が得られますようにと祈るばかりです。GB[151])
その人たちは主イエス様によって新しい人間とされたのです。ある人は次のように訊ねられました。あなたはすでに福音を聞きましたか。答えは次のようなことでした。いいえ、私は聞いたことがありませんが、見たことがあります。すなわち、近所の人がいたのですが、その男の人はすべての人によって恐れられ、避けられ、その人が酔っぱらうと猛獣のように暴れ回りました。しかしこの男の人はイエスを信じ、自分の人生の中に受け入れたのです。それ以来すべてが新しくなりました。
今日は「とよだきよし」兄弟も証しをしてくれます。彼のお嬢さんは私に次のように言いました。「私のお父さんは主イエス様を信じてから、私は新しいお父さんを貰いました。私はイエス様を信じるということがすばらしいものだということを知りました」と。これは娘のあやこちゃんの素晴らしい証ではないでしょうか。
ここでちょっとたくさんの宗教の事を考えてみて下さい。すべての宗教はこれもあれも約束しますが、しかし人々はそれによって騙されるだけなのです。というのは、罪の赦しと永遠のいのちの確信はただ主イエス様だけが提供して下さるからです。主イエス様は債務を赦して下さいます。主イエス様は罪に対する勝利を与えて下さいます。主イエス様はひとりの人間を根本的に変えて下さいます。
それでは主イエスはいったいどのように一人の人間を変えて下さるのでしょうか。罪を好い加減にすることによってではなく、罪の源を示すことによってです。マルコ伝7章の21節からお読み致します。イエス・キリストのことばです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
と。イザヤは同じことを別のことばで言っています。1章5節の後半から
頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
と。最近大阪から一組の夫婦がやって来ました。私は非常に心を動かされ悲しくなりました。その夫婦は結婚していたのですが、二人とも自分のしたいことをしているのです。その二人はまことの一致を一度も知ることがありませんでした。二人は宗教について何も知りたいと思いません。どうしたらこの夫婦を助けることができるでしょうかと私は考えました。すると突然その奥さんが言いました。ただ一つの可能性が、生まれ変わることでしょう。もちろん彼女はこの地上でこの人生において全然可能性がないと思っていました。しかし、もしも私たちがこの世に再び人間として生まれることができるならば、多分可能性があるだろうという意味でした。
もちろん私は当然のことながらこの奥さんのことばをとらえて言いました。「そのとおりです。新しく生まれ変わること、そのことが実際可能なのです」というのは主イエス様はそれを提供して下さるからです。主なる神の霊は霊的に死んでいた人を生き返らせることができます。主イエス様は心を開いて求めたニコデモに向かって次のように言われました。ヨハネ伝3章3節
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
主イエス様を自分の人生に受け入れる者はそれによって新しいいのちを貰います。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、私は死からいのちに移されていると証しすることができます。主イエス様を自分の人生に受け入れる者は、罪が赦されていることを知り、そしてやがて栄光に包まれてイエス様のもとで永遠の時を過ごすことを知っています。
以前、仏教徒だった人がイエスを自分の人生に受け入れ、それによって本当に新しい人間になりました。その人はしばらくしてから一つの夢を見たのですが、それは実際自分の経験したものを反映したものでした。彼は深い穴に落ち、深い深い泥沼に沈んで行きました。彼が助けを求めて上を仰いだ時、恐るべき一人の老人が自分を見下ろしているのが見えました。するとその老人が言いました。「わが子よ。お前は何という恐ろしいところにいるのか。」「私は知らずにこんなところに堕ちてしまったのですが、ここから抜け出すことができないのです。あなたは私を助けることがおできになれませんか。」すると、その老人は答えました。「私は孔子です。お前は私のたくさんの本を読んで私の教えに従っていたならば今日別のところにいたことであろう。」「確かに、その通りです。しかし、今私はここにいるのです。どうか、私を助けて下さい。」とその人は叫びました。しかし、孔子はもはや二度と見ることができませんでした。私は絶望的になってあたりを見まわし、別の人が見えないかと探し、一人の別の老人がそこにいたのは何という喜びだったでしょうか。
(引用者註:さて、その別の老人とは誰でしょうか。続きは明日です。オースティン・スパークスは1月1日のものを「永遠のご計画」と題してhttp://stryasheep.blogspot.jp/に掲載しました。そちらの方もご覧ください。どうも今年はベックさんとスパークスさんの競演になりそうです、このブログ。お二方のメッセージを通してより深い聖書理解が得られますようにと祈るばかりです。GB[151])
2017年1月19日木曜日
こんなにすばらしい救い(上)
今日の交わり会の主題はヘブル書2章3節からの短いことばです。すなわち「こんなにすばらしい救い」であります。「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。」今読まれましたマタイ伝1章18節から25節までの、21節と25節をもう一回部分的にお読み致したいと思います。
21節
その名をイエスとつけなさい。
25節
その子どもの名をイエスとつけた。
と。
イエスという名前は罪人の救い主を意味します。21節に書いてありますように「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いてあります。これこそ、主イエス様に与えられた使命でした。それですから、望みはすべての人のために存在しています。もっともひどい罪人に対しても望みがあります。聖書によれば全人類は罪の重荷のもとに嘆き呻き苦しんでいます。と言うのも「すべての人は罪を犯して主なる神の栄光を受けられなくなっているからです。」ロマ書6章23節に
罪から来る報酬は死です。
と、書いてありますが、別のことばで表現すれば、罪は罰せられなければなりません。しかも神はいかなる罪をも見逃すことができません。罰がなければ赦しはないというこのことは聖なる神の確実な判断なのです。聖書の喜びの訪れというのは、十字架におけるイエス様の死をとおして全人類の罪がすでに罰せられているということです。私たちが受けなければならなかったはずの罰を主イエス様がご自身の上に受けて下さいました。
十字架につけられた方、すなわち主イエス様は人類の罪に対する主なる神の裁きを、ご自身の身の上に引き受けて下さり完全な贖いを成就して下さいました。主イエス様が永遠からこの地上にいらっしゃった時、「その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民をその罪から救って下さるお方です」と言われました。主イエス様のご降誕は決して主の始まりではなく、この地上に来られたことに過ぎませんでした。主イエス様は目に見える世界と目に見えない世界の造り主です。
聖書から二三ヵ所お読み致します。ヨハネによる福音書1章1節から3節まで
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
コロサイ1章16節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
ヨハネ黙示録4章11節に
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
そして、最後にピリピ人2章6節から8節までです
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
と。そしてヘブル書9章26節の後半に
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
主イエス様はご自分の教えによってではなく、ご自身の犠牲によって、すなわち死によって罪の問題を解決して下さいました。キリストの教えではなく、主イエス様の死が聖書の中心なのです。
もう一度申し上げますと、どのような罪を犯したかは問題ではなく、すべての人のために希望が存在してるのです。主イエス様がご自身の流された血潮によって贖いの代価を支払って下さいましたので、主は赦してくださるために、悔い改めの備えのある罪人を待っておられるのです。罪の赦し、それはすべての人が必要としているのです。誇り、高ぶる人、自己正当化する人はわざわいです。最後の赦しを得るために主イエス様のもとに来たいと思わない人はわざわいです。
(引用者註:この集いはいったいいつごろのものなのでしょう。1980年代の半ばごろではないかと私は推定しております。それはベック兄より一足先にすなわち2014年に召された染野兄が司会をなさっておられるからです。なお引用箇所としてはマタイ伝1章18節から25節までが朗読されています。罪の赦し、それはすべての人が必要としているもので、またその罪はたとえどんなひどい罪でも、イエス様の十字架の贖罪死によって赦されていると確信をもって語られています。資料はろばの子サーバーDVD1 CD#10 130の録音から聞き書きであります。GB[150]。なお、本日はオースティン・スパークスの今日の分をhttp://stryasheep.blogspot.jp/ に訳し、掲載しました。そちらの方もご覧いただけますならば幸いです。)
21節
その名をイエスとつけなさい。
25節
その子どもの名をイエスとつけた。
と。
イエスという名前は罪人の救い主を意味します。21節に書いてありますように「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と書いてあります。これこそ、主イエス様に与えられた使命でした。それですから、望みはすべての人のために存在しています。もっともひどい罪人に対しても望みがあります。聖書によれば全人類は罪の重荷のもとに嘆き呻き苦しんでいます。と言うのも「すべての人は罪を犯して主なる神の栄光を受けられなくなっているからです。」ロマ書6章23節に
罪から来る報酬は死です。
と、書いてありますが、別のことばで表現すれば、罪は罰せられなければなりません。しかも神はいかなる罪をも見逃すことができません。罰がなければ赦しはないというこのことは聖なる神の確実な判断なのです。聖書の喜びの訪れというのは、十字架におけるイエス様の死をとおして全人類の罪がすでに罰せられているということです。私たちが受けなければならなかったはずの罰を主イエス様がご自身の上に受けて下さいました。
十字架につけられた方、すなわち主イエス様は人類の罪に対する主なる神の裁きを、ご自身の身の上に引き受けて下さり完全な贖いを成就して下さいました。主イエス様が永遠からこの地上にいらっしゃった時、「その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民をその罪から救って下さるお方です」と言われました。主イエス様のご降誕は決して主の始まりではなく、この地上に来られたことに過ぎませんでした。主イエス様は目に見える世界と目に見えない世界の造り主です。
聖書から二三ヵ所お読み致します。ヨハネによる福音書1章1節から3節まで
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
コロサイ1章16節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
ヨハネ黙示録4章11節に
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
そして、最後にピリピ人2章6節から8節までです
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
と。そしてヘブル書9章26節の後半に
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
主イエス様はご自分の教えによってではなく、ご自身の犠牲によって、すなわち死によって罪の問題を解決して下さいました。キリストの教えではなく、主イエス様の死が聖書の中心なのです。
もう一度申し上げますと、どのような罪を犯したかは問題ではなく、すべての人のために希望が存在してるのです。主イエス様がご自身の流された血潮によって贖いの代価を支払って下さいましたので、主は赦してくださるために、悔い改めの備えのある罪人を待っておられるのです。罪の赦し、それはすべての人が必要としているのです。誇り、高ぶる人、自己正当化する人はわざわいです。最後の赦しを得るために主イエス様のもとに来たいと思わない人はわざわいです。
(引用者註:この集いはいったいいつごろのものなのでしょう。1980年代の半ばごろではないかと私は推定しております。それはベック兄より一足先にすなわち2014年に召された染野兄が司会をなさっておられるからです。なお引用箇所としてはマタイ伝1章18節から25節までが朗読されています。罪の赦し、それはすべての人が必要としているもので、またその罪はたとえどんなひどい罪でも、イエス様の十字架の贖罪死によって赦されていると確信をもって語られています。資料はろばの子サーバーDVD1 CD#10 130の録音から聞き書きであります。GB[150]。なお、本日はオースティン・スパークスの今日の分をhttp://stryasheep.blogspot.jp/ に訳し、掲載しました。そちらの方もご覧いただけますならば幸いです。)
2017年1月18日水曜日
宗教の空しさ(下)
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)
その節が終わると、すぐ彼は言いました。これで安心しました。「今、私は平安のうちに死ぬことができます」この若者はその時、その場所で主イエス様のところに行きました。彼はどうすることもできなかったにもかかわらず、ありのままの状態で主のみもとに行き、主はこの人を救って下さいました。
あなたもまた同じように主のみもとに行って下さい。そうすれば主は必ずあなたを救って下さいます。イエス様はあなたをご自身のみもとに招いておられます。「わたしのところに来なさい」と主は言っておられます。「教会行きなさい」とか「お寺に行きなさい」とか「宗教的でありなさい」とかということは、一言も言っておられません。ただ「わたしのところに来なさい」と主はおっしゃるのです。すなわち、聖なるお方、造り主、祝福された神の御子、カルバリの十字架で死んでくださったお方のところに行って下さい。そうすれば、あなたはとこしえに、主とともに永遠の栄光のうちにいることができるのです。
あなたのすべての宗教的な習慣は宗教による奴隷状態以外の何物でもありません。それは悪魔の偽りと欺きです。そして、あなたの罪は大変な重荷です。その時どうかイエス様のみもとに行って下さい。そうすれば主はあなたを休ませて下さいます。イエス様はあなたをも完全に救うことがおできになります。なぜなら、イエス様はあなたのために尊い血潮を流すことによってあなたのために救いの御業を完成して下さったからです。
十字架の上での主のことば、すなわち「完了した」ということばは本当にすばらしい「福音」であります。「完了した。」そうです。罪の問題は解決しました。そしてイエス様は栄光に満ちて御国へ上られました。これこそすべてがなされたことの証明です。あなたはそのままの状態で主のみもとに行って下さい。あなたがどこにいようと、誰でいようと、主の声を聞き、それに従って下さい。いわゆるキリスト教を学ぶことではなく、キリストのみもとに行くことこそ大切です。それ以外の場合にあなたは永遠に失われるでしょう。ルカ伝19章10節に
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
と、書いてあります。
前に言いましたように、サウロと言う、あとのパウロは宗教を持っていましたが、彼は失われていたんです。けども神の恵みによって、彼は空しい宗教から救い主を見出す者になり、次のように証しています。ピリピ書3章4節から読んで終わりたいと思います。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
このように真心から言える人は本当に幸いと思います。
(引用者註:自らの罪の前に、いかなる人間のいかなる努力も通じない。ましてその問題を解決するかのようにふるまう宗教、特にイエスを主と仰がないでいつの間にか人間の組織と化してしまい形骸化したキリスト教に多くの人が惑わされている。十字架のイエス様の『完了した』ということばに心の衷心から感謝する者でありたい。まことにこれぞ『福音』である。人に出来ないことを主は成し遂げて下さるからだ。GH[149])
その節が終わると、すぐ彼は言いました。これで安心しました。「今、私は平安のうちに死ぬことができます」この若者はその時、その場所で主イエス様のところに行きました。彼はどうすることもできなかったにもかかわらず、ありのままの状態で主のみもとに行き、主はこの人を救って下さいました。
あなたもまた同じように主のみもとに行って下さい。そうすれば主は必ずあなたを救って下さいます。イエス様はあなたをご自身のみもとに招いておられます。「わたしのところに来なさい」と主は言っておられます。「教会行きなさい」とか「お寺に行きなさい」とか「宗教的でありなさい」とかということは、一言も言っておられません。ただ「わたしのところに来なさい」と主はおっしゃるのです。すなわち、聖なるお方、造り主、祝福された神の御子、カルバリの十字架で死んでくださったお方のところに行って下さい。そうすれば、あなたはとこしえに、主とともに永遠の栄光のうちにいることができるのです。
あなたのすべての宗教的な習慣は宗教による奴隷状態以外の何物でもありません。それは悪魔の偽りと欺きです。そして、あなたの罪は大変な重荷です。その時どうかイエス様のみもとに行って下さい。そうすれば主はあなたを休ませて下さいます。イエス様はあなたをも完全に救うことがおできになります。なぜなら、イエス様はあなたのために尊い血潮を流すことによってあなたのために救いの御業を完成して下さったからです。
十字架の上での主のことば、すなわち「完了した」ということばは本当にすばらしい「福音」であります。「完了した。」そうです。罪の問題は解決しました。そしてイエス様は栄光に満ちて御国へ上られました。これこそすべてがなされたことの証明です。あなたはそのままの状態で主のみもとに行って下さい。あなたがどこにいようと、誰でいようと、主の声を聞き、それに従って下さい。いわゆるキリスト教を学ぶことではなく、キリストのみもとに行くことこそ大切です。それ以外の場合にあなたは永遠に失われるでしょう。ルカ伝19章10節に
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
と、書いてあります。
前に言いましたように、サウロと言う、あとのパウロは宗教を持っていましたが、彼は失われていたんです。けども神の恵みによって、彼は空しい宗教から救い主を見出す者になり、次のように証しています。ピリピ書3章4節から読んで終わりたいと思います。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
このように真心から言える人は本当に幸いと思います。
(引用者註:自らの罪の前に、いかなる人間のいかなる努力も通じない。ましてその問題を解決するかのようにふるまう宗教、特にイエスを主と仰がないでいつの間にか人間の組織と化してしまい形骸化したキリスト教に多くの人が惑わされている。十字架のイエス様の『完了した』ということばに心の衷心から感謝する者でありたい。まことにこれぞ『福音』である。人に出来ないことを主は成し遂げて下さるからだ。GH[149])
2017年1月17日火曜日
宗教の空しさ(中)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11:28)
使徒パウロもまた非常に宗教的な人だったのです。けども、彼も失われていました。 しかし、このパウロは主イエス様との出会いを通して、自分の罪の状態に心の目が開かれ、それと同時に主なる神の偉大さ、救いの素晴らしさも知ることができたのです。パウロは次のように告白しています。ガラテヤ書1章12節に
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
人間から受けなかったし、教えられもしなかった。イエス・キリストの啓示によって、自分のものにしたのですと彼は証しています。すなわち、彼はイエス・キリストを知ることによって、「失われた者」から「救われた者」に変えられたのです。彼はテモテ第一の手紙1章15節に
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
と、証しています。ここでイエス様は「道徳」や「宗教」を与えるためではなく、「罪人を救う」ためにこの世に来たとおっしゃっています。そのように宗教的だった人は、しかしながら失われていた人は、「罪人」として主イエス様のみもとに来て救われたというような人は何百何千万というような数に上ります。たとえ非常に宗教的なお坊さん、教会の牧師、あるいは哲学者、あるいは博士あるいは技師、法律家、あるいはその他どのような職業であろうとも、あなたは失われた罪人として、救いの恵みを受けるために主なる神の前に行かなければなりません。あなたはそのままの状態で、すなわち乏しく、失われている、そのありのままの状態で主イエス様のみもとに行って下さい。そうすればイエス様はあなたを受け入れ救って下さいます。
ヨハネ伝1章12節に
しかし、この方を(キリスト教の教えとは書いていないのです。「この方」を、すなわちイエス・キリストご自身を)受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
と、あります。イエス様のみもとに来るすべての人をイエス様は確実に救って受け入れてくださいます。わたしのもとに来る者をわたしは決して捨てませんとイエス様は約束してくださったからです。教会、お寺その他あらゆる種類の集会所は宗教的ではあるけど、失われた人々で一杯ではないでしょうか。
パウロはコリント第二の手紙4章の3節と4節に、悪魔の働きについて次のように書き記したのです。
それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神(すなわち「悪魔」)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
と、書いてあります。
何年か前のことですが、臨終の床におかれている若いカトリック信者がいました。彼は自分は失われていること、そして恐ろしい状態に置かれていることを知っていました。「死」は恐ろしい現実であり、今まで一度も味わったことのないような不安を人々に与えます。神父が来るようにと呼ばれました。かけつけてきた神父は一冊の本からいくつかの祈りを朗読し、あわれな死につつある若者に秘蹟をし、また「何も恐れるものはありません」と告げました。その神父が立ち去ると、すぐに一人の友だちが若者に言いました。「あなたは今やしあわせで平安に死んで行けると思いますか」と訊ねたんです。「絶対、そんなことはありません」と若者は答えました。「私は全然しあわせではありません」「私は平安を持っていません」「私は平安がなければ死ねません、どうしたらいいのでしょうか」と叫んだんです。
あらゆる儀式や形式をともなう宗教と言えども、キリストなしには死の床にたましいに平安を与えることは絶対にできません。しばらくすると別の友だちが彼を見にやって来ました。そして、次のような美しい賛美歌を彼に向かって読み始めました。
主イエスよ、私は今
ありのままの状態で罪人として
あなたのみもとに参ります
私は滅ぶべき者ですが
主の流された血潮によって
私の罪も罰せられたことを感謝します
私は自分の力では何もできませんが
神の小羊であるイエス様が救いの御手を
差し伸べてくださっていることを感謝します
あなたを受け入れ信じます
この最初の一節が読まれるのを聞くやいなや、死につつある若者は心の奥底から、真剣にどうかもう一度読んでくださいと言いました。この賛美歌は何度も繰り返し読まれました。すると、その若者はあたかも彼のいのちがすべてそれにかなっているかのように耳を澄ませ、ことばの一つ一つを噛みしめました。
(引用者註:見出しの赤字のみことばは引用者の判断でつけくわえているもので、そのあとからが昨日のベック兄の『宗教の空しさ』と題するメッセージの聞き書きの続きです。今日の火曜学び会では『死刑囚への手紙』という題名で2サムエル12:1〜7が引用聖句として語られた。証しは「ゆずり」ちゃんのお父さんだった。GH[148])
使徒パウロもまた非常に宗教的な人だったのです。けども、彼も失われていました。 しかし、このパウロは主イエス様との出会いを通して、自分の罪の状態に心の目が開かれ、それと同時に主なる神の偉大さ、救いの素晴らしさも知ることができたのです。パウロは次のように告白しています。ガラテヤ書1章12節に
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
人間から受けなかったし、教えられもしなかった。イエス・キリストの啓示によって、自分のものにしたのですと彼は証しています。すなわち、彼はイエス・キリストを知ることによって、「失われた者」から「救われた者」に変えられたのです。彼はテモテ第一の手紙1章15節に
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
と、証しています。ここでイエス様は「道徳」や「宗教」を与えるためではなく、「罪人を救う」ためにこの世に来たとおっしゃっています。そのように宗教的だった人は、しかしながら失われていた人は、「罪人」として主イエス様のみもとに来て救われたというような人は何百何千万というような数に上ります。たとえ非常に宗教的なお坊さん、教会の牧師、あるいは哲学者、あるいは博士あるいは技師、法律家、あるいはその他どのような職業であろうとも、あなたは失われた罪人として、救いの恵みを受けるために主なる神の前に行かなければなりません。あなたはそのままの状態で、すなわち乏しく、失われている、そのありのままの状態で主イエス様のみもとに行って下さい。そうすればイエス様はあなたを受け入れ救って下さいます。
ヨハネ伝1章12節に
しかし、この方を(キリスト教の教えとは書いていないのです。「この方」を、すなわちイエス・キリストご自身を)受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
と、あります。イエス様のみもとに来るすべての人をイエス様は確実に救って受け入れてくださいます。わたしのもとに来る者をわたしは決して捨てませんとイエス様は約束してくださったからです。教会、お寺その他あらゆる種類の集会所は宗教的ではあるけど、失われた人々で一杯ではないでしょうか。
パウロはコリント第二の手紙4章の3節と4節に、悪魔の働きについて次のように書き記したのです。
それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神(すなわち「悪魔」)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
と、書いてあります。
何年か前のことですが、臨終の床におかれている若いカトリック信者がいました。彼は自分は失われていること、そして恐ろしい状態に置かれていることを知っていました。「死」は恐ろしい現実であり、今まで一度も味わったことのないような不安を人々に与えます。神父が来るようにと呼ばれました。かけつけてきた神父は一冊の本からいくつかの祈りを朗読し、あわれな死につつある若者に秘蹟をし、また「何も恐れるものはありません」と告げました。その神父が立ち去ると、すぐに一人の友だちが若者に言いました。「あなたは今やしあわせで平安に死んで行けると思いますか」と訊ねたんです。「絶対、そんなことはありません」と若者は答えました。「私は全然しあわせではありません」「私は平安を持っていません」「私は平安がなければ死ねません、どうしたらいいのでしょうか」と叫んだんです。
あらゆる儀式や形式をともなう宗教と言えども、キリストなしには死の床にたましいに平安を与えることは絶対にできません。しばらくすると別の友だちが彼を見にやって来ました。そして、次のような美しい賛美歌を彼に向かって読み始めました。
主イエスよ、私は今
ありのままの状態で罪人として
あなたのみもとに参ります
私は滅ぶべき者ですが
主の流された血潮によって
私の罪も罰せられたことを感謝します
私は自分の力では何もできませんが
神の小羊であるイエス様が救いの御手を
差し伸べてくださっていることを感謝します
あなたを受け入れ信じます
この最初の一節が読まれるのを聞くやいなや、死につつある若者は心の奥底から、真剣にどうかもう一度読んでくださいと言いました。この賛美歌は何度も繰り返し読まれました。すると、その若者はあたかも彼のいのちがすべてそれにかなっているかのように耳を澄ませ、ことばの一つ一つを噛みしめました。
(引用者註:見出しの赤字のみことばは引用者の判断でつけくわえているもので、そのあとからが昨日のベック兄の『宗教の空しさ』と題するメッセージの聞き書きの続きです。今日の火曜学び会では『死刑囚への手紙』という題名で2サムエル12:1〜7が引用聖句として語られた。証しは「ゆずり」ちゃんのお父さんだった。GH[148])
2017年1月16日月曜日
宗教の空しさ(上)
このようにして、ふたり(アダムとエバ)の目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創世記3:7)
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)
主なる神の目から見ると、この世には二種類の人間、すなわち「失われた人間」と「救われた人間」がいます。人間がどのような宗教を持つかということは問題ではありません。それはどうでもいい問題なのです。なぜなら、「救い」はいかなる宗教によっても実現されないからです。あらゆる宗教は人間がつくった産物です。
宗教は次のような事柄にたとえて考えられます。すなわち初め(て)の人間であるアダムとエバは主なる神の命令に背いて罪を犯した時、自分たちが裸でいることがわかり、その裸を隠すために木の葉を用いました。この裸を隠す木の葉のようなものが宗教であり、と言ったらば、恐らくお分かりいただけるのでないかと思います。けども、それに対して主なる神は罪のない動物を殺し、その毛皮から人間のために着物をつくってくださったと聖書は言っています。まことの「救い」とは言わば、主なる神がつくってくださった毛皮のようなものであります。宗教とは人間がつくりだした木の葉を綴り合わせたものにたとえられるでしょう。
主なる神によって最初につくられた人間は罪を犯して失われた者となりました。そしてそのすべての子孫たちもこの最初の人間から、堕落した人間性、すなわち罪の性質を受け継ぎました。その結果、私たちもまた「失われた者」となったのです。私たちが罪人であるのは私たちが罪を犯したからではなく、最初に罪を犯した人間の子孫だから罪人なんです。すべて失われた魂は悪魔の子であり、すべて救われた魂は、新生の経験による神の子なのであります。
どうか、生けるまことの神の前に正直であってください。あなたはいったい失われているのでしょうか 。救われているのか、どちらでしょうか。あなたは神の子ですか。悪魔の子なのでしょうか。ヨハネ第一の手紙3章10節に両方のことばが出てきます。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
と、書いてあります。
もう一度お訊ねしますが、あなたは神の子なのでしょうか。それとも、悪魔の子なのでしょうか。恐らくあなたはこのように直接聞かれる、単刀直入の質問を好まないことでしょう。そして今まで誰もあなたに対してそのような質問をしなかったことでしょう。たとえ今までにあなたが教会に行ったことがあったとしても、そのような質問はされたことはなかったかも知れません。恐らくもしそうだったら、その教会の牧師さんと言えども救われていなかったことでしょう。もし救われていなかったならば、その人がこのような質問をするはずがありません。その牧師が救われていないのであるなら、確実に地獄に行くでしょうが、あなたもまだ救われていないのなら地獄に行かなければならないと聖書は言っています。
多くの人はあなたをもふくめて今まで地獄へ行くような悪いことをしたことがないので絶対に地獄に行くことがないと考えています。あなたは規則正しく教会に行き、非常に規則正しく聖書を読み、教会生活では積極的な役割を活動に参加し、日曜学校の先生もつとめ、聖餐式に預かり、個人でも家族全体でも規則正しく祈り、貧しい人に施し出来る限り最善を尽くしたと言うかも知れません。けども、これらのすべての働きについて、主なる神のみことばが何と言っているか、あなたはご存知でしょうか。イザヤ書64章6節に主は、次のように言っています。人間の働きについて、
私たちはみな(例外なく)、汚れた者のようになり、私たちの義はみな(例外なく)、不潔な着物のようです。
と、書いています。私たちはあらゆる宗教的な行ないは聖なる神の前では不潔な着物のようです。ハバクク書1章13節に書いてありますように、主なる神はきよく、悪を見ず、不潔な着物と同じような宗教的な行ないをご覧にならないとあります。
あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。
と、あります。
罪の中に生まれた人間の希望とはいったいどのようなものでありましょうか。ダビデというイスラエルの王様は詩篇51篇の5節に
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
と、書いてあります。私たちは咎ある者、罪ある者として生まれましたから、思い・ことば・行ないにおいて、罪を犯す者です。いかなる宗教もあなたを救うことは出来ません。そして、もしあなたが自分を救ってくれると思い込んでいるあなたの宗教に信頼しているならば、あなたは永遠に失われた者となります。実際、そうなんです。あなたが宗教的であるということは救いのために何の役にも立ちません。なぜなら、あなたは失われているからです。けども、主なる神はあなたを罪から救うために、救い主をお与えになるという素晴らしいご配慮をしてくださいました。けども、その救い主を受け入れる代わりに、自分の宗教のために一生懸命に働いて自分自身を救おうと試みています。
昔、ニコデモというヨハネ伝3章に出て来る人なんですけど、彼は非常に宗教的な人でした。イスラエル民族における指導者、聖書学者でした。このニコデモは主なる神の律法をよく守り、神学に非常によく精通していましたが「失われた人間」でした。ですから、イエス様は彼に向かって「あなたは新しく生まれなければ決して天国に入ることは出来ません」と、はっきりおっしゃったのです。
(引用者註:『宗教の空しさ』と題するベック兄のメッセージ[ろばの子サーバーDVD1CD#10の0130]の聞き書きである。私たちの集会は教会生活に矛盾と問題を感じて教会から出てきた人が多かった。残されている1990年6月29日の家庭集会のメッセージをお聞きしたが、多分にそのことを配慮されたかに思える内容であるが、非常に長い。原典はおそらくこの『宗教の空しさ』という題名のメッセージもその一つなのではないかと思い、三回の予定で聞き書きを掲載する。ベック兄はその『神の愛』という著書のまえがきの中で「キリスト教に対する反対!」という題名をつけたいくらいだと言われている。そのお気持ち・理由がこのメッセージを虚心坦懐にお聞きするとよくわかる気がする。Godhold Beck[147日]。なお、オースティン・スパークスの今日の分は2012年1月16日にすでに訳してあります。興味のある方はhttp://stryasheep.blogspot.jp/をご覧ください。)
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)
主なる神の目から見ると、この世には二種類の人間、すなわち「失われた人間」と「救われた人間」がいます。人間がどのような宗教を持つかということは問題ではありません。それはどうでもいい問題なのです。なぜなら、「救い」はいかなる宗教によっても実現されないからです。あらゆる宗教は人間がつくった産物です。
宗教は次のような事柄にたとえて考えられます。すなわち初め(て)の人間であるアダムとエバは主なる神の命令に背いて罪を犯した時、自分たちが裸でいることがわかり、その裸を隠すために木の葉を用いました。この裸を隠す木の葉のようなものが宗教であり、と言ったらば、恐らくお分かりいただけるのでないかと思います。けども、それに対して主なる神は罪のない動物を殺し、その毛皮から人間のために着物をつくってくださったと聖書は言っています。まことの「救い」とは言わば、主なる神がつくってくださった毛皮のようなものであります。宗教とは人間がつくりだした木の葉を綴り合わせたものにたとえられるでしょう。
主なる神によって最初につくられた人間は罪を犯して失われた者となりました。そしてそのすべての子孫たちもこの最初の人間から、堕落した人間性、すなわち罪の性質を受け継ぎました。その結果、私たちもまた「失われた者」となったのです。私たちが罪人であるのは私たちが罪を犯したからではなく、最初に罪を犯した人間の子孫だから罪人なんです。すべて失われた魂は悪魔の子であり、すべて救われた魂は、新生の経験による神の子なのであります。
どうか、生けるまことの神の前に正直であってください。あなたはいったい失われているのでしょうか 。救われているのか、どちらでしょうか。あなたは神の子ですか。悪魔の子なのでしょうか。ヨハネ第一の手紙3章10節に両方のことばが出てきます。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
と、書いてあります。
もう一度お訊ねしますが、あなたは神の子なのでしょうか。それとも、悪魔の子なのでしょうか。恐らくあなたはこのように直接聞かれる、単刀直入の質問を好まないことでしょう。そして今まで誰もあなたに対してそのような質問をしなかったことでしょう。たとえ今までにあなたが教会に行ったことがあったとしても、そのような質問はされたことはなかったかも知れません。恐らくもしそうだったら、その教会の牧師さんと言えども救われていなかったことでしょう。もし救われていなかったならば、その人がこのような質問をするはずがありません。その牧師が救われていないのであるなら、確実に地獄に行くでしょうが、あなたもまだ救われていないのなら地獄に行かなければならないと聖書は言っています。
多くの人はあなたをもふくめて今まで地獄へ行くような悪いことをしたことがないので絶対に地獄に行くことがないと考えています。あなたは規則正しく教会に行き、非常に規則正しく聖書を読み、教会生活では積極的な役割を活動に参加し、日曜学校の先生もつとめ、聖餐式に預かり、個人でも家族全体でも規則正しく祈り、貧しい人に施し出来る限り最善を尽くしたと言うかも知れません。けども、これらのすべての働きについて、主なる神のみことばが何と言っているか、あなたはご存知でしょうか。イザヤ書64章6節に主は、次のように言っています。人間の働きについて、
私たちはみな(例外なく)、汚れた者のようになり、私たちの義はみな(例外なく)、不潔な着物のようです。
と、書いています。私たちはあらゆる宗教的な行ないは聖なる神の前では不潔な着物のようです。ハバクク書1章13節に書いてありますように、主なる神はきよく、悪を見ず、不潔な着物と同じような宗教的な行ないをご覧にならないとあります。
あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。
と、あります。
罪の中に生まれた人間の希望とはいったいどのようなものでありましょうか。ダビデというイスラエルの王様は詩篇51篇の5節に
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
と、書いてあります。私たちは咎ある者、罪ある者として生まれましたから、思い・ことば・行ないにおいて、罪を犯す者です。いかなる宗教もあなたを救うことは出来ません。そして、もしあなたが自分を救ってくれると思い込んでいるあなたの宗教に信頼しているならば、あなたは永遠に失われた者となります。実際、そうなんです。あなたが宗教的であるということは救いのために何の役にも立ちません。なぜなら、あなたは失われているからです。けども、主なる神はあなたを罪から救うために、救い主をお与えになるという素晴らしいご配慮をしてくださいました。けども、その救い主を受け入れる代わりに、自分の宗教のために一生懸命に働いて自分自身を救おうと試みています。
昔、ニコデモというヨハネ伝3章に出て来る人なんですけど、彼は非常に宗教的な人でした。イスラエル民族における指導者、聖書学者でした。このニコデモは主なる神の律法をよく守り、神学に非常によく精通していましたが「失われた人間」でした。ですから、イエス様は彼に向かって「あなたは新しく生まれなければ決して天国に入ることは出来ません」と、はっきりおっしゃったのです。
(引用者註:『宗教の空しさ』と題するベック兄のメッセージ[ろばの子サーバーDVD1CD#10の0130]の聞き書きである。私たちの集会は教会生活に矛盾と問題を感じて教会から出てきた人が多かった。残されている1990年6月29日の家庭集会のメッセージをお聞きしたが、多分にそのことを配慮されたかに思える内容であるが、非常に長い。原典はおそらくこの『宗教の空しさ』という題名のメッセージもその一つなのではないかと思い、三回の予定で聞き書きを掲載する。ベック兄はその『神の愛』という著書のまえがきの中で「キリスト教に対する反対!」という題名をつけたいくらいだと言われている。そのお気持ち・理由がこのメッセージを虚心坦懐にお聞きするとよくわかる気がする。Godhold Beck[147日]。なお、オースティン・スパークスの今日の分は2012年1月16日にすでに訳してあります。興味のある方はhttp://stryasheep.blogspot.jp/をご覧ください。)
2017年1月15日日曜日
救われることとは簡単ですね
主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ10:13)
『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(下)
今までちょっとドイツ人と日本人が多くの点で似ているということを見て来ました。それだけでなく、似ていない点もちょっと考えました。最後に簡単に次のようなことを申し上げたいのです。人間の心というものは世界中どこでも全く同じです。つまりイエス・キリストを体験的に知るまで本当の満足はありません。ただイエス様に出会って、イエス様に従う者だけが永遠の幸せ、本当の満足、満たされた人生を体験できるのです。ドイツで一つのアンケートがなされました。俳優、指揮者、作家、出版者、大学教授と言ったような人々が集められたのですが、その問いというのは「歴史上の人物でもし会えるならば、一番会いたいと思う人は誰か」という質問でした。九十何%はイエス・キリストと書いたのです。特別な大会のためにどのような題が一番望まれるかという問いが別の時に路上で問われました。すると、その答えは「失敗した人物に対して逃れ道があるか」という問いが一番多く望まれました。何が我々の人生に意味と内容を与えるのでありましょうか。
現代人は確かに近代的かも知れないが、一番深い心の奥底では満たされていません。現代人は本当の意味で頼るべきものがないのです。ある自動車のうしろの窓に一枚の次のような文章の書かれた紙切れが貼ってありました。「どうか私について来ないで下さい、私は道に迷っています。」いつからですか知りませんが、 このことばは大部分の人について言われなければならないのではないでしょうか。多くの人は望むものを何でも持っているのに満たされていない。何でも持っているけど、そこには喜びも平和も安全もありません。つまり不満足の感情がそこにあるのです。きっと別の人生があるに違いない。人生とはこんなに空しいものであるはずがない。そう思って多くの人は真理や本当の救いを求めています。求めていない人はいないと思います。自分で気がついていないかも知らないけど満たされていない人は悩んでいます。悩んでいる人は求めています。何を求めるべきかわからない。だから迷うのです。もちろん、普通の人は宗教と関係を持ちたくない。
この間、大分県の別府へ行ってひとりの人は今までずうーっと逃げてしまったのです。続いて逃げようと思ったのですね。何と言われたかと言いますと「私は束縛されたくない」「ほー、あなたの考えはすばらしい」と言ったとき、びっくりしたのです。「結局、宗教によって縛られるでしょうし、聖書読んでも自由にならないでしょうし、縛られたくない。あなたの考え方は正しい、イエス様も同じ気持ちだからです。だから、イエス様は『わたしはあなたがたを自由にする』もし、宗教によって教会によって束縛されれば間違っている。」「ほー、そうか」と言ったのですね。二番目は何と言ったかと言いますと「私は他の勉強することいっぱいあるから」と言ったのです。結局救いを得るために勉強しなくちゃいけないと思ったのです。決してそうではない。学校の勉強は十分でしょう。救われるためにまた勉強しなくちゃいけないということだったらちょっと可哀想なのではないでしょうか。
一週間前に東大の数学の教授を訪ねたのです。肝臓癌なのです。奥さんは20年間どこかの教会へ行ったんですけど、もう彼は見向きもしなかったのです。けども、もう癌になってちょっと訪ねたんです。初めてだったんですけど、彼は非常に正直な立派な人格者でした。「あなたもやっぱり自分の人生を振り返ってみると過ちもあったでしょう、わがままあったでしょう」「もちろん、その通りです」「実はやっぱり自分のわがままは赦されているとわからなければ、大変なことになる。ね、そうでしょう。神の要求しているのは頭を下げることだけです。あなたは、『あわれんでください』『赦してください』という態度を取るとあなたのわがままは赦されるし、あなたは、神によって受け入れられるようになりますし、生ける希望を持つようになる。」と言って、彼は頷いただけでなく一緒に祈ったのです。最後の挨拶の時、彼は何と言ったかと言いますと「救われることとは簡単ですね」
奥さんの話によると彼はその時から、重荷から、死を恐れる恐れから解放されたのです。そのあとで奥様は初めて勇気をもって「実はあなたの考えているより、ずっと危ない。あなたは毎日いつ死んでもおかしくない。」彼は答えて「ああ、そうか。けどイエス様を信じましたから、全部イエス様に任せます。信頼します。」という態度を取ったのです。まことの救いとはそれです。彼は一回も教会へ行ったことがない。けども、頭を下げることによって、彼は赦された、愛されている、心配されている、神の御手の中に守られていると確信することができたのです。
うちの娘、20歳で結局天に召されました。葬儀のあとで彼女の聖書ちょっと見て、妹だったんですけど、彼女の妹は彼女の聖書どうしても欲しいと言って、もちろん上げたのですけど、あの聖書の中で小ちゃい紙切れが入っていました。誰ももちろん読んだことがないんですけど、彼女はそれをいつ書いたか分からないけど、我々は親としてそれは彼女の遺言だと思ったんです。本の中にも書いているんですけど、次のような祈りだったんです。
主イエスさま。たとえ肉眼であなたを見ていないにしても、
私は心からあなたを愛しています。
そして、たとえ個人的にあなたを見ていないとしても、
私はあなたに全き信頼をおきます。
この目であなたを見ることが許される時、なんとすばらしい、
言葉にならない喜びで、歓呼の声をあげるでしょう。
その時、私は永遠に安全な場所におかれます。
あなたはよみがえりであり、いのちです。
あなたを信じる者は死んでも生きるのです。
そして、生きているあなたを信じるものは、だれでも永遠に死ぬことはありません。
神のたまものは、私たちの主イエス・キリストとの交わりにおける永遠のいのちです。
私はまだ、この肉の体にとどまる限り、本当のふるさとに到達していません。
私はまだ、主から離れている旅人のような状態におかれています。
私は主と顔と顔とを合わせていませんが、信仰によって歩み続けています。
しかし、私は安らかです。
願わくば、この肉の体を去って私の天のふるさとへ行き、主のみもとに行きたいと思います。
ですから私は、主が来られるまで、主に喜ばれるように、
すべてのことを一生懸命にやりたいと思います。
私のふるさとと、私の目標は、天にあります。
娘はこういうふうに書いただけではなく、百%そう思ったのであり、だから毎日喜ぶことができ安心して将来に向かうことができ、希望をもって死に向かうことができたのです。
最後に一日の経験したことちょっと話したいと思うんですね。まあ、ある朝電話があったんです。本当は僕空いている日はないんですね。年中一回もないけど、いつももうあっちこっち歩かなくちゃいけないし、北海道から沖縄まで、東京に住んでいるけど、東京にいるのは滅多にない、今年になってから三回しかいなかったけど、そういう生活をしています。ある朝一人のお母さん電話してきたんです。「ちょっと娘は聞きたいことがある」「いやー何ですか」「いやー娘の葬式やるかどうか」「へーっ、娘は元気ですか?」「うん、娘は元気ですけど今日自殺するつもりなんです」って、「あなた葬儀をやるかどうか」「いやーちょっと電話で言えないよ、集会やめて伺います。」それから三時間電車を乗って、娘は何か気がついたらしいけど、もちろん僕会ったことがないし、そして自分の部屋に逃げて閉じこもって、蒲団の中に隠れちゃったのですね。お母さんと一緒に部屋に入って行ったんだけど、顔を見せようとしなかったし、彼女は蒲団の下から叫んだんです「あなた帰れ、呼んでいないだろう、私は死んだ人間です、生きる人のために頑張りなさい」へーっ、困っちゃったんですけどね、10分くらいしゃべって・・・
引用者註:残念ながら最後まで録音されていなかったのか、途中で終わっている。このお嬢さんがどうなったのかわからないが、先述の東大教授やベックさんの娘リンデさんと同じく、死の恐れから解放されて、そのような状態から救い出されたのではないでしょうか。ただ、端なくも1991年当時のベック兄の生活の一端がご本人の口を通して語られている。Godhold Beck (146))
『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(下)
今までちょっとドイツ人と日本人が多くの点で似ているということを見て来ました。それだけでなく、似ていない点もちょっと考えました。最後に簡単に次のようなことを申し上げたいのです。人間の心というものは世界中どこでも全く同じです。つまりイエス・キリストを体験的に知るまで本当の満足はありません。ただイエス様に出会って、イエス様に従う者だけが永遠の幸せ、本当の満足、満たされた人生を体験できるのです。ドイツで一つのアンケートがなされました。俳優、指揮者、作家、出版者、大学教授と言ったような人々が集められたのですが、その問いというのは「歴史上の人物でもし会えるならば、一番会いたいと思う人は誰か」という質問でした。九十何%はイエス・キリストと書いたのです。特別な大会のためにどのような題が一番望まれるかという問いが別の時に路上で問われました。すると、その答えは「失敗した人物に対して逃れ道があるか」という問いが一番多く望まれました。何が我々の人生に意味と内容を与えるのでありましょうか。
現代人は確かに近代的かも知れないが、一番深い心の奥底では満たされていません。現代人は本当の意味で頼るべきものがないのです。ある自動車のうしろの窓に一枚の次のような文章の書かれた紙切れが貼ってありました。「どうか私について来ないで下さい、私は道に迷っています。」いつからですか知りませんが、 このことばは大部分の人について言われなければならないのではないでしょうか。多くの人は望むものを何でも持っているのに満たされていない。何でも持っているけど、そこには喜びも平和も安全もありません。つまり不満足の感情がそこにあるのです。きっと別の人生があるに違いない。人生とはこんなに空しいものであるはずがない。そう思って多くの人は真理や本当の救いを求めています。求めていない人はいないと思います。自分で気がついていないかも知らないけど満たされていない人は悩んでいます。悩んでいる人は求めています。何を求めるべきかわからない。だから迷うのです。もちろん、普通の人は宗教と関係を持ちたくない。
この間、大分県の別府へ行ってひとりの人は今までずうーっと逃げてしまったのです。続いて逃げようと思ったのですね。何と言われたかと言いますと「私は束縛されたくない」「ほー、あなたの考えはすばらしい」と言ったとき、びっくりしたのです。「結局、宗教によって縛られるでしょうし、聖書読んでも自由にならないでしょうし、縛られたくない。あなたの考え方は正しい、イエス様も同じ気持ちだからです。だから、イエス様は『わたしはあなたがたを自由にする』もし、宗教によって教会によって束縛されれば間違っている。」「ほー、そうか」と言ったのですね。二番目は何と言ったかと言いますと「私は他の勉強することいっぱいあるから」と言ったのです。結局救いを得るために勉強しなくちゃいけないと思ったのです。決してそうではない。学校の勉強は十分でしょう。救われるためにまた勉強しなくちゃいけないということだったらちょっと可哀想なのではないでしょうか。
一週間前に東大の数学の教授を訪ねたのです。肝臓癌なのです。奥さんは20年間どこかの教会へ行ったんですけど、もう彼は見向きもしなかったのです。けども、もう癌になってちょっと訪ねたんです。初めてだったんですけど、彼は非常に正直な立派な人格者でした。「あなたもやっぱり自分の人生を振り返ってみると過ちもあったでしょう、わがままあったでしょう」「もちろん、その通りです」「実はやっぱり自分のわがままは赦されているとわからなければ、大変なことになる。ね、そうでしょう。神の要求しているのは頭を下げることだけです。あなたは、『あわれんでください』『赦してください』という態度を取るとあなたのわがままは赦されるし、あなたは、神によって受け入れられるようになりますし、生ける希望を持つようになる。」と言って、彼は頷いただけでなく一緒に祈ったのです。最後の挨拶の時、彼は何と言ったかと言いますと「救われることとは簡単ですね」
奥さんの話によると彼はその時から、重荷から、死を恐れる恐れから解放されたのです。そのあとで奥様は初めて勇気をもって「実はあなたの考えているより、ずっと危ない。あなたは毎日いつ死んでもおかしくない。」彼は答えて「ああ、そうか。けどイエス様を信じましたから、全部イエス様に任せます。信頼します。」という態度を取ったのです。まことの救いとはそれです。彼は一回も教会へ行ったことがない。けども、頭を下げることによって、彼は赦された、愛されている、心配されている、神の御手の中に守られていると確信することができたのです。
うちの娘、20歳で結局天に召されました。葬儀のあとで彼女の聖書ちょっと見て、妹だったんですけど、彼女の妹は彼女の聖書どうしても欲しいと言って、もちろん上げたのですけど、あの聖書の中で小ちゃい紙切れが入っていました。誰ももちろん読んだことがないんですけど、彼女はそれをいつ書いたか分からないけど、我々は親としてそれは彼女の遺言だと思ったんです。本の中にも書いているんですけど、次のような祈りだったんです。
主イエスさま。たとえ肉眼であなたを見ていないにしても、
私は心からあなたを愛しています。
そして、たとえ個人的にあなたを見ていないとしても、
私はあなたに全き信頼をおきます。
この目であなたを見ることが許される時、なんとすばらしい、
言葉にならない喜びで、歓呼の声をあげるでしょう。
その時、私は永遠に安全な場所におかれます。
あなたはよみがえりであり、いのちです。
あなたを信じる者は死んでも生きるのです。
そして、生きているあなたを信じるものは、だれでも永遠に死ぬことはありません。
神のたまものは、私たちの主イエス・キリストとの交わりにおける永遠のいのちです。
私はまだ、この肉の体にとどまる限り、本当のふるさとに到達していません。
私はまだ、主から離れている旅人のような状態におかれています。
私は主と顔と顔とを合わせていませんが、信仰によって歩み続けています。
しかし、私は安らかです。
願わくば、この肉の体を去って私の天のふるさとへ行き、主のみもとに行きたいと思います。
ですから私は、主が来られるまで、主に喜ばれるように、
すべてのことを一生懸命にやりたいと思います。
私のふるさとと、私の目標は、天にあります。
娘はこういうふうに書いただけではなく、百%そう思ったのであり、だから毎日喜ぶことができ安心して将来に向かうことができ、希望をもって死に向かうことができたのです。
最後に一日の経験したことちょっと話したいと思うんですね。まあ、ある朝電話があったんです。本当は僕空いている日はないんですね。年中一回もないけど、いつももうあっちこっち歩かなくちゃいけないし、北海道から沖縄まで、東京に住んでいるけど、東京にいるのは滅多にない、今年になってから三回しかいなかったけど、そういう生活をしています。ある朝一人のお母さん電話してきたんです。「ちょっと娘は聞きたいことがある」「いやー何ですか」「いやー娘の葬式やるかどうか」「へーっ、娘は元気ですか?」「うん、娘は元気ですけど今日自殺するつもりなんです」って、「あなた葬儀をやるかどうか」「いやーちょっと電話で言えないよ、集会やめて伺います。」それから三時間電車を乗って、娘は何か気がついたらしいけど、もちろん僕会ったことがないし、そして自分の部屋に逃げて閉じこもって、蒲団の中に隠れちゃったのですね。お母さんと一緒に部屋に入って行ったんだけど、顔を見せようとしなかったし、彼女は蒲団の下から叫んだんです「あなた帰れ、呼んでいないだろう、私は死んだ人間です、生きる人のために頑張りなさい」へーっ、困っちゃったんですけどね、10分くらいしゃべって・・・
引用者註:残念ながら最後まで録音されていなかったのか、途中で終わっている。このお嬢さんがどうなったのかわからないが、先述の東大教授やベックさんの娘リンデさんと同じく、死の恐れから解放されて、そのような状態から救い出されたのではないでしょうか。ただ、端なくも1991年当時のベック兄の生活の一端がご本人の口を通して語られている。Godhold Beck (146))
2017年1月14日土曜日
永遠に続くものや将来のことを考えよう
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:33〜34)
※Godhold Beck(145)
『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(中)
まあ、戦争後ドイツ国家は解体され、四つの占領地域に分けられました。産業設備は壊され、外国へ運ばれました。お金は全く価値が無くなりました。重要な研究者や科学者はロシアへ強制送還されたり、あるいは自分からアメリカに行ったりしました。なぜならば、彼らにとっては祖国ドイツに何の明るい見通しもなかったからです。つまりドイツは全く絶望的な状態に置かれ瓦礫の山だけが残されました。けども経済的な貧困を救うための国家の努力はやがて輝かしい成功をもたらしました。すなわち、世界中どこでも人々はドイツの経済奇跡について話合いました。日本も同じように、人が驚くようなこと、すなわちアジアにおける経済大国を実現したのです。
ですけども、ここで私は一つの問いを出して見たいと思うのです。すなわち根無し草のようになるもの、まあ心の支えを失った人間が経済的な貧困から救助によって本当に救われたのでしょうか。心が満たされるようになったのでしょうか。本当の幸せを得たのでありましょうか。残念ながら救われていないと言わざるを得ないのです。観念論のあとには、物質主義、すなわち「唯物論」と呼ばれるものが続きました。多くの人々のただ一つの目標は成功、福祉、安全、快楽と言ったようなことなんです。非常に恐ろしい結果は次のようなものでありました。「無関心さ」「順応」そして「妥協」なのではないでしょうか。
まず第一に「無関心さ」というものは、今日多くの人の状態です。多くの人々が世界の出来事の単なる見物人となってしまっているのです。つまり人々はテレビで世界の出来事を見るのです。けど、自分とは全く無関係だという気持ちで見物しているのではないでしょうか。まあ、この無関心の状態というのは実は非常に危ない、危険です。物質主義は多くの人々を惑わしました。人間は本当の価値に対して盲になってしまったのです。色々な報道機関、テレビ、映画、週刊雑誌などによって人間は非常に強く影響され、そのために多くの人々はもはや自分自身で物事を考えることができないほどになってしまったのです。今日一体どこで家庭の団らんが見られるのでありましょうか。家庭の中でお互いに気持ちよく語り合い、色々な問題について話し合い、また妻や子どものために時間を作り出すというようなことが行われていることは非常にまれなのではないでしょうか。
先ほど述べたようなテレビなど多くのものが人間から静けさを奪いました。多くの者はもはや、物事をじっくりと考えたり、物事を正しく判断することができなくなってしまったのです。いわゆる大衆人間の反対は「人格者」であると言えます。ここで人格者とは群衆とか大衆とか呼ばれている者とはちがったことを考えたり、行ったり、ふるまったりすることを、あえてできる人なのではないでしょうか。皆のしていることを同じことをするのはおかしい、人間らしくない、自分自身の良心に従って行動しようという人は何と少ないのではないでしょうか。西郷隆盛とか上杉鷹山、二宮尊徳とか中江藤樹というような代表的な日本人は今日どこにいるのでしょうか。
戦後のもう一つの特徴は「順応」です。人間は結局、自分のことばっかり、あるいは自分の利益のことばっかり考えているために、順応するのです。自分だけのことを考える人は決して人間の名前にふさわしくない、と言えます。つまり本来人間のもとの意味は上を仰ぐ者、そういう意味です。下ばかり見て、自分のことばかり見ている者は、本来の人間の意味に結局ふさわしくない。残念なことに今日、信じたい、あるいは抵抗したい、あるいは何かを求めたい、何かのために一生懸命になりたい、というような意志は色々な形で失われてしまっています。抵抗することの代わりに順応したい。あるいは流されるままになっていたい。あるいは適当に譲歩したり、諦めたりしたいという気持ちが強く出てきたのです。
第三に「妥協」の危険があります。今日多くの人々はたくさんの宗教の奴隷もが、また何らかの真理をふくんでいるどの宗教でも救いを見つけることができると間違って信じ込んでいます。何百万もの人々が今日救いを求めていますけど、自己流で求めています。これは非常に危険です。まあ、私たちは同じことが現代のドイツ人と日本人についても言うことができるということを見てきました。すなわち、多くの人々が物質主義によって盲にされているのです。その特徴はマスメディアすなわちテレビ・映画・週刊誌というようなものによって「無関心」になっていること、そして自己中心によって「順応」という現象が持たれ、最後に苦しみを避けたいという気持ちから安易な「妥協」が生まれているのです。
次にドイツ人と日本人の違いについてちょっとだけ考えたいと思います。もちろん人は決して物事を一般化することは出来ません。私もまた決して批判したりなどという気持ちを持っていません。なぜならば、少なくともドイツと全く同じように日本が大好きであるからです。ですから、これからの言うことを愛の心から出ていることを是非、まあ、覚えていただきたいと思います。
第一に勤勉に働くということと、がむしゃらに働くということの間の違いを考える必要がある。次に職業と使命との間の違いに注意すべきであり、第三に宗教を持つということとまことの救いを自分のものとするということの間の違いも、もちろん大切です。
日本人とドイツ人は勤勉な国民です。けど、学生として勤勉に学習するか、あるいは非常にがんばるかということは一つのちがいです。日本人として生まれるということは確かに一つの生存競争に投げ込まれたことを意味しています。これはすでに幼稚園で始まります。ある幼稚園で入学試験があるんですって。そして幼稚園のために金を出すこととはドイツ人として考えられないことです。幼稚園も小学校も中学校も高校も大学ももちろんあります。学校の教科書ももちろん全部あります。そのために金を出すのはドイツ人にとってちょっと理解できないことです。
結局、まあ、よく試験地獄と言われています。本当にそうです。日本ほど子どもや若者が自殺している国は他にありません。政府の目標は平均以上に良い企業を持ちたい。また国民として平均以上に稼ぎたいために、平均以上に働くと言ったぐあいです。けども物質的な利益は人間個人個人のためになるのではなく、結局大きな会社のものとなり、政府の利益になります。日本は経済的に国民としては恐らく世界の第二番目か第三番目かになりますけど、個人としては15番目であると言われます。これは悲しむべき事実なのではないでしょうか。
まあ、日本の若者は自由ではありません。彼は学習し、さらにまた学習しなければならない。日曜日でさえも塾と呼ばれる補習校に行くのです。そのことはドイツでは政府は絶対に許さない。日曜日に大部分のお店が開いているということもドイツ人には考えられない。許されない。大学に入るまでの不自然ながむしゃら、あるいは猛烈さというものは私にはよくわからない。けど、いずれにしてもその結果は良いものであると言えないでしょう。もちろん、私たちはこの教育制度から脱出することが非常にむつかしいのは知っています。
第二にある人は仕事のことを一番大切にし、もっと大切なことを全く無視してしまうか、あるいは自分の職業を生きるという目的のための一つの手段と見るかということは大きな違いなのではないでしょうか。ドイツ人として、私はしばしば子どもたちが学校に束縛されているのと同じように、大人は会社に束縛されているという印象を受けます。どれほどの残業がなされていることでありましょうか。たとえ休暇が認められていても大部分の場合は休暇を取らない。ドイツは誰でも、夏休み誰でもまとめて四週間の休暇を取ります。当たり前です。会社全体休みです。大部分の人は、ある会社の就職すると、55歳までその会社に留まる。会社を変えるということは非常に少ない。というのは一つの会社に長くいれば給料と地位が自動的に上がるからです。ドイツでは勤続年数ではなく、実際の能力だけが大切にされます。ですから、全く若い人がやがてある会社で高い地位に就くことが出来ますし、他の人は二十年、三十年も働かなければその地位に就くことができないということが実際問題としてあります。
まあ、日本ではしばしば個人の率先というものが許されてもいなければ望まれることもありません。ドイツでは反対に促進されます。つきあいというものももちろん実際ドイツに存在しません。職業は目的のための一つの手段に過ぎない。男の人はしばしば自分が先ず第一に自分の家族のためにしなければならないことをします。それは家族のために時間をつくるということの中にもあらわれています。家族のためにお金を与えるだけじゃなく、時間をつくることは、なくてはならない大切なことになっています。実は職業が一番大切なのではなく、職業のために時間をつくらないということではなく、自分の使命にふさわしく生きるための手段として職業があるべきです。使命感が欠けると視野も狭くなる。そのために多くの人は枝葉のこと、また過ぎ行くこと、はかないことに満足を見出そうとするようになります。その結果、永遠に続くものや将来のことを考えることができなくなってしまいます。
第三にある人が宗教を持っているか、あるいは本当の救いを自分のものとしているかの間には非常に多くの違いがあります。ほとんど大部分の人はキリスト教がたくさんある宗教の中の一つであると思っています。そしてイエス・キリストの教会は多くの人には利益団体のように思われます。そして彼らは教会というものは自由に出入りできるものと思い込み、徹底的に重要な意味を持っていることを知りません。いずれにせよ、彼らにとっては会社の利益が一番大切です。こういうふうに考えている人は教会に属していたり、あるいは洗礼を受けているかも知れませんけど、一番大切なことが欠けているのです。すなわち、あらゆる束縛から解放し、本当の自由を与えるイエス様が欠けているのです。
引用者註:ベックさんの誤解された言い回しの一つに「がんばらなくっていい」という言い方がありました。「がんばらなくっていい」と言われた人の中にはそのことばによって重荷を下ろすことができた人が多かったのですが、中にはベックさんが何もしなくってもいいと言ってるんだと受け取ってつまずいた人もいたようです。しかし、この講演をよく聞いてみるとベックさんが「がんばらなくっていい」と言われていたのは、本当のものを見失った「がむしゃらな精神」に陥りがちな日本人のことを心配されていたことがよく分かります。)
※Godhold Beck(145)
『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(中)
まあ、戦争後ドイツ国家は解体され、四つの占領地域に分けられました。産業設備は壊され、外国へ運ばれました。お金は全く価値が無くなりました。重要な研究者や科学者はロシアへ強制送還されたり、あるいは自分からアメリカに行ったりしました。なぜならば、彼らにとっては祖国ドイツに何の明るい見通しもなかったからです。つまりドイツは全く絶望的な状態に置かれ瓦礫の山だけが残されました。けども経済的な貧困を救うための国家の努力はやがて輝かしい成功をもたらしました。すなわち、世界中どこでも人々はドイツの経済奇跡について話合いました。日本も同じように、人が驚くようなこと、すなわちアジアにおける経済大国を実現したのです。
ですけども、ここで私は一つの問いを出して見たいと思うのです。すなわち根無し草のようになるもの、まあ心の支えを失った人間が経済的な貧困から救助によって本当に救われたのでしょうか。心が満たされるようになったのでしょうか。本当の幸せを得たのでありましょうか。残念ながら救われていないと言わざるを得ないのです。観念論のあとには、物質主義、すなわち「唯物論」と呼ばれるものが続きました。多くの人々のただ一つの目標は成功、福祉、安全、快楽と言ったようなことなんです。非常に恐ろしい結果は次のようなものでありました。「無関心さ」「順応」そして「妥協」なのではないでしょうか。
まず第一に「無関心さ」というものは、今日多くの人の状態です。多くの人々が世界の出来事の単なる見物人となってしまっているのです。つまり人々はテレビで世界の出来事を見るのです。けど、自分とは全く無関係だという気持ちで見物しているのではないでしょうか。まあ、この無関心の状態というのは実は非常に危ない、危険です。物質主義は多くの人々を惑わしました。人間は本当の価値に対して盲になってしまったのです。色々な報道機関、テレビ、映画、週刊雑誌などによって人間は非常に強く影響され、そのために多くの人々はもはや自分自身で物事を考えることができないほどになってしまったのです。今日一体どこで家庭の団らんが見られるのでありましょうか。家庭の中でお互いに気持ちよく語り合い、色々な問題について話し合い、また妻や子どものために時間を作り出すというようなことが行われていることは非常にまれなのではないでしょうか。
先ほど述べたようなテレビなど多くのものが人間から静けさを奪いました。多くの者はもはや、物事をじっくりと考えたり、物事を正しく判断することができなくなってしまったのです。いわゆる大衆人間の反対は「人格者」であると言えます。ここで人格者とは群衆とか大衆とか呼ばれている者とはちがったことを考えたり、行ったり、ふるまったりすることを、あえてできる人なのではないでしょうか。皆のしていることを同じことをするのはおかしい、人間らしくない、自分自身の良心に従って行動しようという人は何と少ないのではないでしょうか。西郷隆盛とか上杉鷹山、二宮尊徳とか中江藤樹というような代表的な日本人は今日どこにいるのでしょうか。
戦後のもう一つの特徴は「順応」です。人間は結局、自分のことばっかり、あるいは自分の利益のことばっかり考えているために、順応するのです。自分だけのことを考える人は決して人間の名前にふさわしくない、と言えます。つまり本来人間のもとの意味は上を仰ぐ者、そういう意味です。下ばかり見て、自分のことばかり見ている者は、本来の人間の意味に結局ふさわしくない。残念なことに今日、信じたい、あるいは抵抗したい、あるいは何かを求めたい、何かのために一生懸命になりたい、というような意志は色々な形で失われてしまっています。抵抗することの代わりに順応したい。あるいは流されるままになっていたい。あるいは適当に譲歩したり、諦めたりしたいという気持ちが強く出てきたのです。
第三に「妥協」の危険があります。今日多くの人々はたくさんの宗教の奴隷もが、また何らかの真理をふくんでいるどの宗教でも救いを見つけることができると間違って信じ込んでいます。何百万もの人々が今日救いを求めていますけど、自己流で求めています。これは非常に危険です。まあ、私たちは同じことが現代のドイツ人と日本人についても言うことができるということを見てきました。すなわち、多くの人々が物質主義によって盲にされているのです。その特徴はマスメディアすなわちテレビ・映画・週刊誌というようなものによって「無関心」になっていること、そして自己中心によって「順応」という現象が持たれ、最後に苦しみを避けたいという気持ちから安易な「妥協」が生まれているのです。
次にドイツ人と日本人の違いについてちょっとだけ考えたいと思います。もちろん人は決して物事を一般化することは出来ません。私もまた決して批判したりなどという気持ちを持っていません。なぜならば、少なくともドイツと全く同じように日本が大好きであるからです。ですから、これからの言うことを愛の心から出ていることを是非、まあ、覚えていただきたいと思います。
第一に勤勉に働くということと、がむしゃらに働くということの間の違いを考える必要がある。次に職業と使命との間の違いに注意すべきであり、第三に宗教を持つということとまことの救いを自分のものとするということの間の違いも、もちろん大切です。
日本人とドイツ人は勤勉な国民です。けど、学生として勤勉に学習するか、あるいは非常にがんばるかということは一つのちがいです。日本人として生まれるということは確かに一つの生存競争に投げ込まれたことを意味しています。これはすでに幼稚園で始まります。ある幼稚園で入学試験があるんですって。そして幼稚園のために金を出すこととはドイツ人として考えられないことです。幼稚園も小学校も中学校も高校も大学ももちろんあります。学校の教科書ももちろん全部あります。そのために金を出すのはドイツ人にとってちょっと理解できないことです。
結局、まあ、よく試験地獄と言われています。本当にそうです。日本ほど子どもや若者が自殺している国は他にありません。政府の目標は平均以上に良い企業を持ちたい。また国民として平均以上に稼ぎたいために、平均以上に働くと言ったぐあいです。けども物質的な利益は人間個人個人のためになるのではなく、結局大きな会社のものとなり、政府の利益になります。日本は経済的に国民としては恐らく世界の第二番目か第三番目かになりますけど、個人としては15番目であると言われます。これは悲しむべき事実なのではないでしょうか。
まあ、日本の若者は自由ではありません。彼は学習し、さらにまた学習しなければならない。日曜日でさえも塾と呼ばれる補習校に行くのです。そのことはドイツでは政府は絶対に許さない。日曜日に大部分のお店が開いているということもドイツ人には考えられない。許されない。大学に入るまでの不自然ながむしゃら、あるいは猛烈さというものは私にはよくわからない。けど、いずれにしてもその結果は良いものであると言えないでしょう。もちろん、私たちはこの教育制度から脱出することが非常にむつかしいのは知っています。
第二にある人は仕事のことを一番大切にし、もっと大切なことを全く無視してしまうか、あるいは自分の職業を生きるという目的のための一つの手段と見るかということは大きな違いなのではないでしょうか。ドイツ人として、私はしばしば子どもたちが学校に束縛されているのと同じように、大人は会社に束縛されているという印象を受けます。どれほどの残業がなされていることでありましょうか。たとえ休暇が認められていても大部分の場合は休暇を取らない。ドイツは誰でも、夏休み誰でもまとめて四週間の休暇を取ります。当たり前です。会社全体休みです。大部分の人は、ある会社の就職すると、55歳までその会社に留まる。会社を変えるということは非常に少ない。というのは一つの会社に長くいれば給料と地位が自動的に上がるからです。ドイツでは勤続年数ではなく、実際の能力だけが大切にされます。ですから、全く若い人がやがてある会社で高い地位に就くことが出来ますし、他の人は二十年、三十年も働かなければその地位に就くことができないということが実際問題としてあります。
まあ、日本ではしばしば個人の率先というものが許されてもいなければ望まれることもありません。ドイツでは反対に促進されます。つきあいというものももちろん実際ドイツに存在しません。職業は目的のための一つの手段に過ぎない。男の人はしばしば自分が先ず第一に自分の家族のためにしなければならないことをします。それは家族のために時間をつくるということの中にもあらわれています。家族のためにお金を与えるだけじゃなく、時間をつくることは、なくてはならない大切なことになっています。実は職業が一番大切なのではなく、職業のために時間をつくらないということではなく、自分の使命にふさわしく生きるための手段として職業があるべきです。使命感が欠けると視野も狭くなる。そのために多くの人は枝葉のこと、また過ぎ行くこと、はかないことに満足を見出そうとするようになります。その結果、永遠に続くものや将来のことを考えることができなくなってしまいます。
第三にある人が宗教を持っているか、あるいは本当の救いを自分のものとしているかの間には非常に多くの違いがあります。ほとんど大部分の人はキリスト教がたくさんある宗教の中の一つであると思っています。そしてイエス・キリストの教会は多くの人には利益団体のように思われます。そして彼らは教会というものは自由に出入りできるものと思い込み、徹底的に重要な意味を持っていることを知りません。いずれにせよ、彼らにとっては会社の利益が一番大切です。こういうふうに考えている人は教会に属していたり、あるいは洗礼を受けているかも知れませんけど、一番大切なことが欠けているのです。すなわち、あらゆる束縛から解放し、本当の自由を与えるイエス様が欠けているのです。
引用者註:ベックさんの誤解された言い回しの一つに「がんばらなくっていい」という言い方がありました。「がんばらなくっていい」と言われた人の中にはそのことばによって重荷を下ろすことができた人が多かったのですが、中にはベックさんが何もしなくってもいいと言ってるんだと受け取ってつまずいた人もいたようです。しかし、この講演をよく聞いてみるとベックさんが「がんばらなくっていい」と言われていたのは、本当のものを見失った「がむしゃらな精神」に陥りがちな日本人のことを心配されていたことがよく分かります。)
2017年1月13日金曜日
神の愛を体験的に知ることこそ肝要だ
やはり ハヴァガルの詩 微かに読める! |
キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した(ローマ8:2)
まず自然法則について話すことにしましょう。自然法則っていったい何ですか。栄養摂取の原理を取り上げてみなさい。その原理が尊重され、体が必要とするものが多くもなく少なくもなくちょうど与えられる限り、栄養摂取の原理が働き、全く無意識のうちに体は成長していくものです。それが無意識のうちに行なわれる自然法則の働きというものです。あなたは原理に従って座ったり、見たり、わずらったりしないでしょう。あなたのすることは食べることだけです。そのあとは原理にまかせるでしょう。もしあなたが原理に違反するならすぐわかります。しかし、原理通りに働くなら、あなたは終日栄養摂取の原理に煩わされることはないでしょう。あなたは食べ物を取り働くだけでしょう。その結果、あなたは働き、活動を続けられるのです。栄養摂取の原理は貫徹されているのです。
ちょうどキリストにある御霊の原理もその通りなんです。それがいのちの原理です。その原理が尊重されるとき実際的な働きをなすのです。この原理は無意識のうちに働くものです。それ自身で全く自然に結果を生み出します。私たちはキリストにあるいのちの御霊の原理を知るようになります。それがこの事態における最も単純な方法です。
主イエス様はご存知でした。ある定められた時でないと、動けないことも、また話すこともできないことも。主イエス様は急かすような御霊の動きやそうするいのちはお持ちにはなりませんでした。ご自身の霊においていのちを働かせられなかったのです。原理は積極的には機能しないのです。
しかし話すべき行動すべきことをすべてご存知の父なる神様が、その時がやってき、主の耳もとで「今が時だ。さあ!言いなさい。さあ!しなさい。」と言われるなら、その通り話されたのです。主イエス様は父なる神様の促しによってだけ急がれたのです。いのちの原理はこのようにして働いたのです。主イエス様は神様のみこころが何であるかをすばやく知られたのです。それがパウロの言う「御霊の心がいのちです」という意味です。
(久しぶりにオースティン・スパークス兄からの引用です。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003011.html 2011年に『泉あるところⅢ』http://stryasheep.blogspot.jp/ですでにその一部は訳しましたが 、訳せていない日のものがいくつもあります。また例により誤訳の多いものですし、最近終わったばかりのハヴァガルの再点検修正訳も必要なところですが、試みに今日の部分を訳してみました。念のために以前のブログを見ましたら、この13日はすでに訳してあり、今日の訳より6年前の訳の方が正確でしたので、慌ててそれをコピーして載せることにしました。読者のご指導を引き続きお願いします。
※Godhold Beck(144)
以下のベック兄のメッセージは昨年の秋に彦根に帰省中、知人から貸していただいた録音テープの聞き書きである。すでにその梗概は昨年の10月14日の「計画され目論まれる救い」という題名の当ブログで紹介してある。
『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』(上)
誤解されたらちょっと困りますけど、私はキリスト教のために宣伝するために来たのではない。イエス様を紹介するためにだけ来たのです。キリスト教に入って、何十年間がんばってつまずいて離れている人々はいっぱいいます。キリスト教に入らないでイエス様を体験的に知るようになり、そしてあとで後悔するようになる人間は一人もいません。
今言われた山川千秋さんとはキリスト教大嫌いな男でした。東大を出て人気者になり、成功した人だったんですけど、キリスト教と関係を持ちたくないと最後まで思ったのです。けども、彼はイエス・キリストを知るようになってから、もう死を恐れる恐れから解放され、安心して死に向かうことができたのです。彼は「私の人生は空しかった」と告白したことがあります。けども、彼の最後のことばは、死ぬ前のことばは「イエス・キリストこそが私の望みであり、私のすべてです」と言うことができたのです。
結局、皆さんまだ若いからまだ死についてもちろん考えたくないのは決まっているけど、今言われたように私はうちの娘、子ども三人亡くしたんです。その中の一人はリンデ、20歳で癌で召されたのです。病院生活は非常に短かったのですが、7週間だけでした。ちょうどドイツにいる間だったから毎日病院まで行きまして、診察する前に彼女は私は癌ですと姉さんに言ったのです。本人は看護婦さんだったから徹底的に医学書を読んだりして、チャンと癌とわかったのです。けども我々は彼女を一切慰める必要はなかったのです。我々はいつも励まされたのです。「もうちょっと、一足先に天国に行きますよ、待っています」そういう態度を取ったのです。普通の若者は中々死について考えたくないし、死にたくない気持ちを持っているかも知れないけど、うちのリンデは生きる希望をもって死に向かうことができたのです。
名誉人になっても大金持ちになっても人気者になっても心は満たされない。けどもイエス様を知ることによって人間は変わります。
今日の題名はちょっと変わった題名なのです。『主なる神によって愛されている日本人とドイツ人』です。
先ず、日本人とドイツ人についてちょっと考えましょう。そのあとで主なる神について考えて、最後に愛されていることについてしゃべっても恐らくあんまり役に立たないでしょう。神の愛を体験的に知らなければどうせ駄目だからです。けど、愛する皆さんにとってどうしても必要なのは、私も人間に無視されても、万物の造り主によって大いに愛されている、大切にされている、私こそが神の愛の対象である、この確信を得ると、見方変わる。はっきりとした目的をもって毎日進むことができるのです。
ドイツ人と日本人との友情というものは昔からよく知られています。多くのことが二つのお国に共通しているのではないかと思います。まあ、若者はちょっと覚えていないかもしれないけど、たとえば戦争の時に、妥協することなく最後まで戦い、そしてともに敗れたことは一つの例でありましょう。それからまた戦後ドイツも日本も同じように経済の奇跡を実現し、世界を驚かせたことも共通しているのではないかと思います。
もちろん私はドイツ人であることを恥ずかしく思うことも幾つかございます。例えば、「共産主義」。皆さんもよくご存知であるように、マルクスもエンゲルスもドイツ人だったのです。「原子爆弾の発明」もドイツ人の責任です。もっと大きな破局は「聖書批判」でありましょう。これもドイツから出てきたものです。つまり、聖書は現代人にはもはや役に立たないものです、神のことばではないという考え方です。まあ、だからこそ多くの人々はキリスト教に入っていても、洗礼を受けても、生かされていない。本物をつかんでいないからです。
まあ、二つの国民を比較するためにちょっと次のように時代区分をして考えてみたいと思います。第一番目は第一次世界大戦以前の時代においては、「無邪気な喜び」があったと言えましょう。第二番目は第二次世界大戦中の時代においては「狂信的な観念論」がありました。そして第三番目は第二次世界大戦以後の時代においては、人を惑わす「唯物主義」であります。
まあ第一次世界大戦以前には日本には五つの国立大学とたくさんの私立大学だけがありました。けど大学教育がなくても、何らかの目的を達成することができた時代でした。したがって人々が満足していたということが、その時代の特徴であったと言えるでしょう。それと全く同じような状態がドイツにも見られたのです。才能のある人は大学で勉強したんです。両親は金があってもなくても関係なし、国が代わりに面倒をみてたのです。大学に行けば卒業してから高給取りになるということはあまり考えられていませんでした。つまり、人々は自分が持っているもので満足していたのです。その当時は物事を深く考えることができた時代でした。一人一人は「人格形成をする」ことができた時代でした。したがっていつも時間に追われ、人を押しのけて行くというような目まぐるしい時代ではなかったのです。
けど、やがて恐ろしい世界戦争がやって来たのです。それはまさに「むさぼってはならない」という神の掟とは正反対の出来事でした。つまり満足しておられる状態はなくなってしまいました。その当時、ドイツは次のような馬鹿らしい歌が歌われたのです。まあ、僕も心から歌ったんですけど「たとえもっともすぐれた兵士がたくさん倒れても、我々は敵を第一に打ち倒す。今日はドイツが我々のものである。明日は全世界が我々のものになる」そういう歌は良く歌われました。
皆さんも歴史の本を通して知られておられるでしょうけど、ドイツの総統であるアドルフ・ヒットラーのため、そしてドイツ民族のため、祖国のために死ぬことが許されていることこそ本当の名誉なのだと皆、洗脳されてしまったのです。まあ、日本の場合にも神風特攻隊のことだけ考えてもわかるように、妥協なき戦いこそが日本民族の特徴でした。日本もドイツも我々は勝つと確信して言いました。すなわち、そこにはもはや無邪気な喜びではなく狂信的な観念論が支配していたのです。けどもこの狂信的な観念論はすべて悲劇に終わってしまいました。
この敗戦によって多くの人々はすべてのものを奪われてしまい、全く根無し草のようになってしまったのです。新たに物事を深く考えることがどうしても必要になりました。実際多くの人々はまことの救いを探し求めるようになり、生けるまことの神に立ち返り、イエス・キリストに従うようにとなったのです。まあ、私もその中の一人です。戦争後、私はもうおしまいだ、自殺しようとも考えたことがあるだけではなく、まあ首つりのためにひもを探すために出かけたんです。
引用者註:オースティン・スパークス兄は言うまでもなく、ベック兄がロンドンでお世話になられ、大変影響を受けられた方である。しばらく両者の同時掲載が続くことになるが、このベック兄が彦根の短大でなさった講演はベック兄が理性的に極めて透徹した史観・現状認識を持っておられたことを思い、自分だけで聞いておくのはもったいないのでこのような形で再現させていただいた。)
2017年1月12日木曜日
みことばを受け入れる者はみことばの力を体験する
ハヴァガルの詩※ |
みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする(エペソ5:26)
『聖書とは何か』第六部 [完]
今日もっとも必要とされているものは、みことばに対する信仰と信頼の回復であり、すべてを主に明け渡すことにより、聖霊に満たされることです。私たちは自分の不信仰と疑いによって主を悲しませたことを正直に言い表わして、悔い改めるべきです。私たちは、主に対する不信頼という罪を主の血潮によって洗いきよめていただこうではありませんか。「信仰から出ないことはすべて罪である」と聖書は言っています。主に頼らない人生も罪です。しかし、主はあらゆる罪を赦したいと、切に願っておられます。そして、主は赦してくださると再び回復してくださり用いてくださいます。今までまちがって用いられていたみことばという剣を、主は再び私たちに返してくださいます。エペソ書6章17節に「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
とあります。神のみことば、すなわち聖書全体を主は御霊の剣として、私たちに与えて下さいます。私たちは悪魔の巧妙な攻撃に抵抗し、悪魔のとりこから解放されたいと願うならば、みことばというこの剣をどうしても必要とするのです。主はみことばを私たちにも与えて下さったのです。ヨハネ伝17章8節に
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
と、あります。繰り返し、繰り返し言われたように、「信仰」こそもっとも必要とされているものです。信仰の前提条件は本当の意味で聞くことです。なぜなら、聞くことから信仰が出て来るからです。ロマ書10章17節
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
と、あります。みことばの提供は同時に信仰の提供です。
誰でもこの提供されたものを受け入れるか、拒否するか全く自由です。聞くことと信じることとは密接に結びついています。聖書の作者である聖霊は、神のみことばをとおしてまことの信仰を引き起こします。聖霊は神のご臨在を明らかにし、主イエスの栄光をあらわしていてくださり、それによってまことの信仰が生まれます。コリント第一の手紙2章10節に
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
と、あります。
まことの信仰とは主イエス様に対する信仰、また主のみことばに対する信仰です。まことの信仰とは聖霊の働きの結果でありますが、しかし、人間が信じたくなければ、聖霊の働く余地はありません。誰も自分の力で信じることができません。しかし、誰でもみことばに対して心を開くことができます。人間が信じるか信じないかは意志の決断であり、理性の問題ではありません。信仰は神によって引き起こされます。しかし、信仰は決して強制ではなく、みことばの働きに対する私たちの意志の肯定です。したがって私たちが信じたいと思うかどうかという一つのことだけが大切なのです。
信じるとは受け入れることであり、主のみことばを真理として受け入れる、そしてまたみことばにおいて事実、すなわち真理を受け入れることです。みことばを受け入れることはみことばを語った方を受け入れることです。みことばを受け入れることは主イエス様を受け入れることに他なりません。テサロニケ第一の手紙1章6節に
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
と、ありますし、ヨハネ伝1章12節に
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
と、あります。神のみことばは、受け入れて欲しい、信じて欲しい、という主なる神の願いです。イスラエルの民は主イエス様を受け入れませんでした。主なる神はいつの時代にも信じる人たち、すなわちご自身を信じ、みことばを信じる人たちを探し求めておられます。創世記15章6節に、アブラハムは主を信じたと、書いてあります。弟子たちが信じた時、主イエス様の心に何という喜びが起こったことでしょう。ヨハネ伝16章31節に
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
と、あります。主イエス様は何度も何度も「わたしのことばを聞いて信じる者」という表現をお使いになられました。たとえばヨハネ伝5章24節に
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
ヨハネ伝3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
6章47節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
35節
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
7章38節
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
また、14章12節
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
と、あります。
「信仰」は神のみことばに対する鍵です。信仰者にはみことばが開かれます。信仰者は見えない世界を見ることができます。信仰者は開かれた天国を体験します。イスラエルの民については、彼らの不信仰のゆえに彼らは約束の地、カナンに入ることができなかったと記されています。ヘブル書3章19節に
それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
と。主イエス様はみことばに対する弟子たちの不信仰を何度もお責めになりました。ルカ伝24章25節から27節までを読むとよくわかります。みことばを信じないことは主ご自身に対して自分の心を閉ざすことです。
今まで私たちは主の要求として第一番目は「聞け」という要求、第二番目は「信ぜよ」という要求について聖書から見て参りましたが、最後に第三番目として「従え」という主の要求、またみことばの要求について見てみることにしましょう。みことばを受け入れる者はみことばの力を体験します。「従う」とは聞いたことを行うことであり、約束されたことを経験することです。なぜ、みことばが与えられたかと言いますと、それを行うためです。ですから、聖書の命令は「行いなさい」と言うのです。二三ヵ所お読み致します。申命記4章1節2節
今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。
5節6節
見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。
マタイ伝7章24節
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
ヤコブ書1章22節
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
使徒行伝6章7節に
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。
ヤコブ書2章17
それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
26節
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
と。ヨハネ伝4章50節に
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
と。「従うこと」は主のみことばに従って主ご自身に従うことを意味しています。みことばは私たちの人生を変えてくれます。「光よあれ」と神は言われると、「光」が生まれたのです。従おうと思う人はみことばの力を経験するようになります。
最後に二、三ヵ所読んで終わりたいと思います。コリント第二の手紙3章2節
私たちの推薦状はあなたがたです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
ペテロ第一の手紙1章23節
あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
すなわち、回心はみことばを通してのみ起こるのです。エレミヤ記15章16節
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
みことばは私たちの必要とする食べ物です。
テモテ第二の手紙3章15節から17節まで
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
と。すなわちみことばは私たちの人生を完成させる力を持っています。
エペソ書5章26節に
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
と。
私たちは主を見る時、主の御姿に変えられ、すなわち主に似た者とされ、みことばは私たちを通して実現されます。ヨハネ第一の手紙3章2節に
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
Godhold Beck(143)
引用者註:かくして、このメッセージは終わっている。最後に今仲氏と思われる方のテノールで「我が光、我が造り主?」という歌がほんのわずか聞こえるので、ああ、これでこの第六部は終わりだとわかる。起承転結のスタイルを取りながらもベック兄のメッセージは「開かれた」終わりとなっている。そして私たちにみことばのすばらし魅力をふんだんに伝えて終わる。もし真剣にこのメッセージを受け止められるなら、私たちのそれぞれにみことばへの飢え渇きを今以上に与えられることと確信する。
※懐かしきハヴァガルの詩を載せよう。韻を踏んだ見事で簡潔な詩。
それに配するは友 Baroness Helga von Crammの絵だ。
興味ある方は昨年の3月24日前後のブログを参照されたし。
Prasing together for all the way
Now let us welcome our New Year's Day
Rejoicing together in faith and love
Hoping together for rest abobe )
2017年1月11日水曜日
あなたは神を偽り者としていないか
あなたのみことばは真理です。(ヨハネ17:17)
神を信じない者は神を偽り者とするのです。(1ヨハネ5:10)
『聖書とは何か』第六部[3]
次に「信じなさい」という神の要求を見てみましょう。すなわち、神のみことばに対する「信仰」がここで要求されているのです。私たちは聖書による神の啓示、すなわち神のみことばは神のみことばであるという啓示が、根本的な事実であることを確証致しました。一つの事実は、私たちがそれを理解できなくても認めざるを得ません。主なる神は人間から「信仰」を要求しておられるのであり、私たちがまずすべてのことを理解して信ずるということを期待していらっしゃるのではありません。
神の事実を体験するためにはただ一つの道、すなわち「信仰」の道だけが備わっています。救いに至る信仰とは、絶対者である主なる神を百%信頼することであり、神の権威を百%認めることです。この信仰はいかなる証拠も保証も証明も必要としません。私たちは主なる神は絶対者であるから信ずるのです。霊感の問題については理解したり証明したりしてから信じるというようなものではなく、ただ単純に信じることが大切です。もしも私たちは理性で神の知識を得ようとするならば、神は「否」という態度をお取りにならざるを得ません。信じる者は認識し、理解し、見るようになるのです。
聖書は神の霊感によって書かれたものである、と聖書は事実として伝えていますから、私たちは正直になりたいと思うなら、この事実を信ぜざるを得ません。私たちは人間の理性に頼るのではなく、聖書は真理ですから、その真理を信ずるという態度、すなわち意志の問題が問われることになるのです。自分の理性で判断してから、安全な路線を行くことに慣れてしまっている人間にとって、神の要求は何と困難に思えることでしょうか。それはまさに今までの道とは逆行する正反対の道だからです。ヨハネ伝4章50節に
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
と、あります。
私たちはイエス様がみことばに対して取られたと同じ態度を取るべきです。ヨハネ伝17章17節にイエス様は次のように言っています。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
弟子たちについて、聖書は次のように言っています。ヨハネ伝2章22節
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
と、書いてあります。
これこそ、預言者たちや使徒たちの証しを信じ、大いに用いられた人々の勝利の秘訣だったのです。彼らは旧約聖書と主イエスのお語りになったこと、すなわち旧約聖書と新約聖書を素直に信じました。
すべての不信仰の源は、悪魔です。悪魔が人間に語った最初のことばは、神のみことばに対する疑いをふくんでいます。創世記3章1節に
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
悪魔は神のみことばのうしろに最初の疑問符を置きます。そしてそれ以来、神のみことばのうしろにつけられる疑問符は、疑いもなく蛇である悪魔の足跡です。悪魔自身も神のみことばを信じます。というのは、悪魔でさえも神のみことばが真理であることを認めざるを得ないのです。しかし、悪魔は自らを低くして神のみことばに従おうとはしません。これこそ罪そのものです。しかし、悪魔は神のみことばである聖書が真理であるということを知っているからこそ、そのように人間から奪い取ろうとするのです。そして完全に奪い取ることができない場合にはみことばの下にトンネルを掘って土台を崩そうとするのです。
悪魔は私たちから聖書を奪い取ろうとしますが、うまくいかない時には聖書を穴だらけにして役に立たないようにしてしまおうと企みます。この悪魔の企てが成功しますと、聖書は私たちにとってもはや巌の土台ではなく揺り動く大地となり、私たちを罠にかけてしまいます。悪魔は初めから偽り者であり、神のみことばは神のみことばではない、神のみことばは一部分だけ神のみことばであるということを人間に信じ込ませることに成功した時、悪魔の目的を達成したことになります。それによって、悪魔は私たちの日常生活を無力にし、私たちの奉仕を不毛としたことになります。
聖書全体が完全な神の霊感によるものである、という事実から出発しないようなものである福音宣教や聖書研究は初めから無効であることになってしまいます。その結果、空しい努力がなされ、いつも落胆の結果に終わります。それは空気を打つようなものです。ですから、悪魔はあらゆる信者を聖書の完全な霊感によるものとする信仰から引き離すことに一生懸命がんばるのです。神のみことばはダイナマイトのようなものです。なぜなら、みことばによって巌は爆破され鎖は解け、悪魔のとりこから解放されるようになるからです。しかし、私たちは神のみことばに徹頭徹尾信頼しなければ悪魔にとって要注意人物とはなりません。みことばを信じないことは、悪魔の嘘を信ずることになります。
主なる神の切なる願いは人間がみことばを百%信じることです。創世記15章16節に「アブラハムは主を信じた」と書いてありますが、ひとりの人間がアブラハムのような態度を取る時、天において大いなる喜びが上がるのです。主のみことばを信じることが今日の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なことではありませんでした。信仰によって昔の信者たちは生き歩み行動しました。彼らはただみことばだけに頼ったのです。イスラエルの民の悲劇は神のみことばを預言者たちの口をとおして与えられていながら、信じようとしなかったこと、信じたいと思わなかったことにありました。聖書のどこを見てもイスラエルの民が神のみことばを信じることができなかったと書き記されておらず、信じようとしなかった、ということがわかります。前に読みましたエレミヤ記25章3節4節をもう一回お読み致します。
アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。
と、あります。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかった」とあります。イスラエルについてはこう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中手を指し伸べた」とロマ書10章21節にあります。そしてこの不信仰の恐ろしい結果はイスラエルの歴史にあらわれています。
主イエス様はこの地上において生涯の間、イスラエルの民、パリサイ人、聖書学者、律法学者、弟子たちが神のみことばを信じるようにとどれほど一生懸命になられたことでしょうか。主イエス様がいつも繰り返しお責めになったただ一つのことは神のみことばとご自分のお語りになったことに対する人間の不信仰でした。
ヨハネ伝5章46節、47節です。
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
と。復活された主イエス様はエマオの途上で神のみことばに対する弟子たちの不信仰について真剣に弟子たちにお語りになっておられました。ルカ伝24章25節から27節までです。
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
と、書いてあります。主は、今日、信者たちの不信仰について何とおっしゃるでしょうか。ヨハネ第一の手紙5章10節に
神を信じない者は、神を偽り者とするのです。
と、あります。このことばはわれわれにとって何と重大な意味を持っていることでしょうか。これは今日の信者及びイエス・キリストのからだなる教会の最大の負い目です。すなわち、あらゆる聖書批判は神を偽り者とするのです。何と深くこの罪の中に私たちは入り込みやすいものでしょうか。私たちは大きな問題がなければ、自信をもって聖書は神のみことばであると言い張ることができるでしょうが、全部滅茶苦茶になってしまうような状態が発生しますと、簡単に主のみことばに頼ることをやめ、主の約束に信頼を置けないようになってしまうのではないでしょうか。ですから、私たちはそのようなことをとおして主なる神のご栄光を恥ずかしめ、傷つけしてしまったことを悔い改めましょう。
引用者註: 昨年の12月7日以来連載させていただいたGodhold Beck兄の『聖書』についてのメッセージもいよいよ明日で終わる。今日はベック兄が召されて142日経つ。日毎に地上でのベック兄との交わりの記憶は遠のいていく。しかし、今日このように録音テープによりその肉声が聞け、信仰の基本的な姿勢の原点を教えていただくことができるのは私にとって何より感謝であった。昨日は97歳の方と一時間余りみことばによるお交わりができた。ご老人はとっくに耳が聞こえなくなっておられるというのに。今日は今日で尊敬する方が祈っている方を見舞われ、みことばの宣べ伝えをなさったが、お帰りの際、私どもの家にもお寄り下さり、そこでの恵みのおすそ分けに預かった。みことばがいかに真実なものかを改めて考えさせられている。)
神を信じない者は神を偽り者とするのです。(1ヨハネ5:10)
『聖書とは何か』第六部[3]
次に「信じなさい」という神の要求を見てみましょう。すなわち、神のみことばに対する「信仰」がここで要求されているのです。私たちは聖書による神の啓示、すなわち神のみことばは神のみことばであるという啓示が、根本的な事実であることを確証致しました。一つの事実は、私たちがそれを理解できなくても認めざるを得ません。主なる神は人間から「信仰」を要求しておられるのであり、私たちがまずすべてのことを理解して信ずるということを期待していらっしゃるのではありません。
神の事実を体験するためにはただ一つの道、すなわち「信仰」の道だけが備わっています。救いに至る信仰とは、絶対者である主なる神を百%信頼することであり、神の権威を百%認めることです。この信仰はいかなる証拠も保証も証明も必要としません。私たちは主なる神は絶対者であるから信ずるのです。霊感の問題については理解したり証明したりしてから信じるというようなものではなく、ただ単純に信じることが大切です。もしも私たちは理性で神の知識を得ようとするならば、神は「否」という態度をお取りにならざるを得ません。信じる者は認識し、理解し、見るようになるのです。
聖書は神の霊感によって書かれたものである、と聖書は事実として伝えていますから、私たちは正直になりたいと思うなら、この事実を信ぜざるを得ません。私たちは人間の理性に頼るのではなく、聖書は真理ですから、その真理を信ずるという態度、すなわち意志の問題が問われることになるのです。自分の理性で判断してから、安全な路線を行くことに慣れてしまっている人間にとって、神の要求は何と困難に思えることでしょうか。それはまさに今までの道とは逆行する正反対の道だからです。ヨハネ伝4章50節に
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
と、あります。
私たちはイエス様がみことばに対して取られたと同じ態度を取るべきです。ヨハネ伝17章17節にイエス様は次のように言っています。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
弟子たちについて、聖書は次のように言っています。ヨハネ伝2章22節
それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
と、書いてあります。
これこそ、預言者たちや使徒たちの証しを信じ、大いに用いられた人々の勝利の秘訣だったのです。彼らは旧約聖書と主イエスのお語りになったこと、すなわち旧約聖書と新約聖書を素直に信じました。
すべての不信仰の源は、悪魔です。悪魔が人間に語った最初のことばは、神のみことばに対する疑いをふくんでいます。創世記3章1節に
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
悪魔は神のみことばのうしろに最初の疑問符を置きます。そしてそれ以来、神のみことばのうしろにつけられる疑問符は、疑いもなく蛇である悪魔の足跡です。悪魔自身も神のみことばを信じます。というのは、悪魔でさえも神のみことばが真理であることを認めざるを得ないのです。しかし、悪魔は自らを低くして神のみことばに従おうとはしません。これこそ罪そのものです。しかし、悪魔は神のみことばである聖書が真理であるということを知っているからこそ、そのように人間から奪い取ろうとするのです。そして完全に奪い取ることができない場合にはみことばの下にトンネルを掘って土台を崩そうとするのです。
悪魔は私たちから聖書を奪い取ろうとしますが、うまくいかない時には聖書を穴だらけにして役に立たないようにしてしまおうと企みます。この悪魔の企てが成功しますと、聖書は私たちにとってもはや巌の土台ではなく揺り動く大地となり、私たちを罠にかけてしまいます。悪魔は初めから偽り者であり、神のみことばは神のみことばではない、神のみことばは一部分だけ神のみことばであるということを人間に信じ込ませることに成功した時、悪魔の目的を達成したことになります。それによって、悪魔は私たちの日常生活を無力にし、私たちの奉仕を不毛としたことになります。
聖書全体が完全な神の霊感によるものである、という事実から出発しないようなものである福音宣教や聖書研究は初めから無効であることになってしまいます。その結果、空しい努力がなされ、いつも落胆の結果に終わります。それは空気を打つようなものです。ですから、悪魔はあらゆる信者を聖書の完全な霊感によるものとする信仰から引き離すことに一生懸命がんばるのです。神のみことばはダイナマイトのようなものです。なぜなら、みことばによって巌は爆破され鎖は解け、悪魔のとりこから解放されるようになるからです。しかし、私たちは神のみことばに徹頭徹尾信頼しなければ悪魔にとって要注意人物とはなりません。みことばを信じないことは、悪魔の嘘を信ずることになります。
主なる神の切なる願いは人間がみことばを百%信じることです。創世記15章16節に「アブラハムは主を信じた」と書いてありますが、ひとりの人間がアブラハムのような態度を取る時、天において大いなる喜びが上がるのです。主のみことばを信じることが今日の私たちと同じように、アブラハムにとっても簡単なことではありませんでした。信仰によって昔の信者たちは生き歩み行動しました。彼らはただみことばだけに頼ったのです。イスラエルの民の悲劇は神のみことばを預言者たちの口をとおして与えられていながら、信じようとしなかったこと、信じたいと思わなかったことにありました。聖書のどこを見てもイスラエルの民が神のみことばを信じることができなかったと書き記されておらず、信じようとしなかった、ということがわかります。前に読みましたエレミヤ記25章3節4節をもう一回お読み致します。
アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。
と、あります。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかった」とあります。イスラエルについてはこう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中手を指し伸べた」とロマ書10章21節にあります。そしてこの不信仰の恐ろしい結果はイスラエルの歴史にあらわれています。
主イエス様はこの地上において生涯の間、イスラエルの民、パリサイ人、聖書学者、律法学者、弟子たちが神のみことばを信じるようにとどれほど一生懸命になられたことでしょうか。主イエス様がいつも繰り返しお責めになったただ一つのことは神のみことばとご自分のお語りになったことに対する人間の不信仰でした。
ヨハネ伝5章46節、47節です。
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
と。復活された主イエス様はエマオの途上で神のみことばに対する弟子たちの不信仰について真剣に弟子たちにお語りになっておられました。ルカ伝24章25節から27節までです。
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
と、書いてあります。主は、今日、信者たちの不信仰について何とおっしゃるでしょうか。ヨハネ第一の手紙5章10節に
神を信じない者は、神を偽り者とするのです。
と、あります。このことばはわれわれにとって何と重大な意味を持っていることでしょうか。これは今日の信者及びイエス・キリストのからだなる教会の最大の負い目です。すなわち、あらゆる聖書批判は神を偽り者とするのです。何と深くこの罪の中に私たちは入り込みやすいものでしょうか。私たちは大きな問題がなければ、自信をもって聖書は神のみことばであると言い張ることができるでしょうが、全部滅茶苦茶になってしまうような状態が発生しますと、簡単に主のみことばに頼ることをやめ、主の約束に信頼を置けないようになってしまうのではないでしょうか。ですから、私たちはそのようなことをとおして主なる神のご栄光を恥ずかしめ、傷つけしてしまったことを悔い改めましょう。
引用者註: 昨年の12月7日以来連載させていただいたGodhold Beck兄の『聖書』についてのメッセージもいよいよ明日で終わる。今日はベック兄が召されて142日経つ。日毎に地上でのベック兄との交わりの記憶は遠のいていく。しかし、今日このように録音テープによりその肉声が聞け、信仰の基本的な姿勢の原点を教えていただくことができるのは私にとって何より感謝であった。昨日は97歳の方と一時間余りみことばによるお交わりができた。ご老人はとっくに耳が聞こえなくなっておられるというのに。今日は今日で尊敬する方が祈っている方を見舞われ、みことばの宣べ伝えをなさったが、お帰りの際、私どもの家にもお寄り下さり、そこでの恵みのおすそ分けに預かった。みことばがいかに真実なものかを改めて考えさせられている。)
2017年1月10日火曜日
聞け!見よ!味わえ!
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネの福音書1:29)
Godhold Beck(141)
『聖書とは何か』 第六部[2]
聖書は三つの要求をもって一人一人の人間に迫って来ます。すなわち第一番目は「聞きなさい」、第二番目は「信じなさい」、そして第三番目は「従いなさい」ということです。
それでは先ず最初の要求、すなわち「聞きなさい」という要求から見てみることにしましょう。聖書全体は、人間に対して「聞きなさい」というはっきりとした要望、また命令です。この要望はしかしながら人間が聞くことができないならばおかしなことでしょう。みことばが私たちの心の目を開いてくださるということはまさに神のみことばの力です。主イエス様はつんぼの人に「エパタ」すなわち「開け」とおっしゃいました。すると聞こえるようになりました。同じ意味のことばは聖書の中で何回も何回も出てきます。
先ず旧約聖書の呼びかけとして「イスラエルよ、聞け」とよく書き記されているのであります。申命記4章1節
今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。
6章4節
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
9章1節
聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。
また、「天地よ、聞け。」という表現は、イザヤ書1章2節に書き記されています。
天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。
10節
聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
と、あります。7章13節
そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
8章20節
国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。
28章23節
あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。
32章9節
のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。
34章1節
国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。
34章16節
主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
と、あります。またイザヤ書39章5節
すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。
40章21節
あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
28節
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
と、書いてあります。44章1節
今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
47章8節
だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。
48章12節
わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。
51章4節
わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
21節
それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。
55章3節
耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
と、書いてあります。またマタイ伝17章5節
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
と、あります。
主イエス様の呼びかけはどういうものだったのでありましょうか。マタイ伝11章15節
耳のある者は聞きなさい。
黙示録 2章7節
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
さらに使徒たちの呼びかけとして、使徒行伝2章22節に書いてあります。
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。
と。
聖書の結論は次のように証ししています。黙示録1章3節
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。
同じような意味として、聖書には次のような表現が出てきます。「見なさい」「見よ」「味わいなさい」と。実はもっとも大切な事実は 「見よ」ということばで紹介されています。「見よ、わたしのしもべ」とイザヤ書42章1節に書いてあります。
見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
と、あります。また「見よ、あなたの王があなたのところに来られる」とゼカリヤ書9章9節に書いてあります。
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
と。また、ルカ伝に「見よ、わたしはあなたがたに大いなる喜びを知らせる」と書いてありますね。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
それから、ヨハネ伝1章29節に
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
と、書いてありますし、黙示録3章20節に
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
と、書いてあります。こういう箇所を見るとわかります。もっとも大切な事実は「見よ」ということばで紹介されています。「見よ、わたしのしもべ。」「見よ、あなたの王があなたのところに来られる。」「見よ、わたしは、あなたがたに大いなる喜びを知らせる。」「見よ、これは神の小羊。」「見よ、わたしは戸の外に立っている。」と。
同じように「味わいなさい」という表現も出てきます。詩篇34篇の8節です。
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
ペテロ第一の手紙2章3節
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
と、あります。また、みことばは食べ物となります。黙示録10章9節10節に
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
と、ありますし、エゼキエル書3章1節から3節まで、お読み致します。
その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
と、書いてあります。また、エレミヤ記15章16節に
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
と、あります。「聞くこと」は心の態度であり、みことばに対して心を開くことです。すなわち、聞くことは意志の問題です。神がお語りになることを人間が聞きたくないと思うことが、罪の始まりです。
イスラエルの罪は次の三つに別れます。「イスラエルの民は聞こうとしなかった。」「イスラエルの民は信じようとしなかった。」「イスラエルの民は従おうとしなかった。」と、いうことです。エレミヤ7章23節から28節までお読み致します。
ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。
と、あります。そして25章3節4節に
アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。
と、あります。7節8節
それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。――主の御告げ。――それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。」それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、
ロマ書10章21節に
またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
と、あります。
引用者註:ハヴァガルが終わり、ベック兄のメッセージを単独で載せることができるようになった。あと二、三回でこのシリーズも終わりそうである。今後どのように展開して行くか思案中である。 )
Godhold Beck(141)
『聖書とは何か』 第六部[2]
聖書は三つの要求をもって一人一人の人間に迫って来ます。すなわち第一番目は「聞きなさい」、第二番目は「信じなさい」、そして第三番目は「従いなさい」ということです。
それでは先ず最初の要求、すなわち「聞きなさい」という要求から見てみることにしましょう。聖書全体は、人間に対して「聞きなさい」というはっきりとした要望、また命令です。この要望はしかしながら人間が聞くことができないならばおかしなことでしょう。みことばが私たちの心の目を開いてくださるということはまさに神のみことばの力です。主イエス様はつんぼの人に「エパタ」すなわち「開け」とおっしゃいました。すると聞こえるようになりました。同じ意味のことばは聖書の中で何回も何回も出てきます。
先ず旧約聖書の呼びかけとして「イスラエルよ、聞け」とよく書き記されているのであります。申命記4章1節
今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。
6章4節
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
9章1節
聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。
また、「天地よ、聞け。」という表現は、イザヤ書1章2節に書き記されています。
天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。
10節
聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
と、あります。7章13節
そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。
8章20節
国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。
28章23節
あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。
32章9節
のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。
34章1節
国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。
34章16節
主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
と、あります。またイザヤ書39章5節
すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。
40章21節
あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
28節
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
と、書いてあります。44章1節
今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
47章8節
だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。
48章12節
わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。
51章4節
わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
21節
それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。
55章3節
耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
と、書いてあります。またマタイ伝17章5節
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
と、あります。
主イエス様の呼びかけはどういうものだったのでありましょうか。マタイ伝11章15節
耳のある者は聞きなさい。
黙示録 2章7節
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
さらに使徒たちの呼びかけとして、使徒行伝2章22節に書いてあります。
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。
と。
聖書の結論は次のように証ししています。黙示録1章3節
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。
同じような意味として、聖書には次のような表現が出てきます。「見なさい」「見よ」「味わいなさい」と。実はもっとも大切な事実は 「見よ」ということばで紹介されています。「見よ、わたしのしもべ」とイザヤ書42章1節に書いてあります。
見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
と、あります。また「見よ、あなたの王があなたのところに来られる」とゼカリヤ書9章9節に書いてあります。
シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
と。また、ルカ伝に「見よ、わたしはあなたがたに大いなる喜びを知らせる」と書いてありますね。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
それから、ヨハネ伝1章29節に
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
と、書いてありますし、黙示録3章20節に
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
と、書いてあります。こういう箇所を見るとわかります。もっとも大切な事実は「見よ」ということばで紹介されています。「見よ、わたしのしもべ。」「見よ、あなたの王があなたのところに来られる。」「見よ、わたしは、あなたがたに大いなる喜びを知らせる。」「見よ、これは神の小羊。」「見よ、わたしは戸の外に立っている。」と。
同じように「味わいなさい」という表現も出てきます。詩篇34篇の8節です。
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
ペテロ第一の手紙2章3節
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
と、あります。また、みことばは食べ物となります。黙示録10章9節10節に
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
と、ありますし、エゼキエル書3章1節から3節まで、お読み致します。
その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
と、書いてあります。また、エレミヤ記15章16節に
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
と、あります。「聞くこと」は心の態度であり、みことばに対して心を開くことです。すなわち、聞くことは意志の問題です。神がお語りになることを人間が聞きたくないと思うことが、罪の始まりです。
イスラエルの罪は次の三つに別れます。「イスラエルの民は聞こうとしなかった。」「イスラエルの民は信じようとしなかった。」「イスラエルの民は従おうとしなかった。」と、いうことです。エレミヤ7章23節から28節までお読み致します。
ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。
と、あります。そして25章3節4節に
アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。
と、あります。7節8節
それでも、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。――主の御告げ。――それで、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。」それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、
ロマ書10章21節に
またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
と、あります。
引用者註:ハヴァガルが終わり、ベック兄のメッセージを単独で載せることができるようになった。あと二、三回でこのシリーズも終わりそうである。今後どのように展開して行くか思案中である。 )
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