版画 谷口幸三郎 |
ブログをずっと休んでいた。それなりの理由があった。ブログが中心で過去一年間ほど自らの聖書の学びが疎かになってしまっていたことを示されたからである。三週間、じっくり聖書を読むことができたか?と言うと心もとないが、それでも自らがどのような者であるかは少し静まって考えることができるようになった。でも後述するように果たしてどの程度自分が分かってきたのか、疑問である。
それよりも前回の記事『三年七ヶ月』の記事を投稿したその週の日曜日にはまさかの家族に再び病気が見舞った。主なる神様は私の好い加減な姿勢を見透かすかのように事を起こされた。幸い、三年九ヶ月前の病院に収容されて元気を回復しつつある。その背後には多くの方の祈りの支えがあったことと感謝している。
さて、標題の『徒手空拳(としゅくうけん)』ということばだ。人様の前でこのことばを使った。話し終わって早速妻から苦言を呈された。意味がわからない。意味を説明すべきだった、と。聖書中の人物を見ているうちに、その人物には何の頼るものもなかったことを思い、そう表現した。もっとも話す前にネットで意味を確かめて自分なりに確信を持って話していたのだが。
妻の苦言が気になり、もう一度改めて考えると適切でなかったとしか言えない。徒手空拳には二つの意味がある。1、手に何も持っていず、素手であること 2、資金・地位など頼るものがなく、自分の身一つであること。例文として「徒手空拳で事業を始める」とあった。果たして自分が説明しようとした人物にこの形容がふさわしいか。私はその話の中でこれこそ『徒手空拳』だと詩篇125篇の2節を引用した。
山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
しかし、これは全く徒手空拳どころか、主なる神様が何もない者を全面的に支えていてくださる証しのことばでないか。彼自身には何の力もないが、主なる神様があのエルサレムを囲んでいる山々のように、自らを全面的に支えてくださっていると確信を持って言うことができたからである。それが困難な900マイルの荒野にもかかわらず、多くの人を、また多くの金・銀・ささげ物を無事に運ぶことができた理由なのだ。その上、彼を待っていたのはもっと解決不可能なエルサレムの実情だった・・・そこにも主による解決があった。
全く見当違いのことばを皆さんの前で奇をてらって語ってしまった。ブログ氏の悪い性向は今もって一向に改まっていないのを恥ずる。このようにどうしようもないトンチンカンで自己中心のブログ氏だが、今日語らせていただいたみことばを我が胸に刻み、再びブログを再開することにする。ただし、ほどほどに。
すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。(エズラ7:9〜10)