2017年2月28日火曜日

『徒手空拳』ということば

版画 谷口幸三郎

 ブログをずっと休んでいた。それなりの理由があった。ブログが中心で過去一年間ほど自らの聖書の学びが疎かになってしまっていたことを示されたからである。三週間、じっくり聖書を読むことができたか?と言うと心もとないが、それでも自らがどのような者であるかは少し静まって考えることができるようになった。でも後述するように果たしてどの程度自分が分かってきたのか、疑問である。

 それよりも前回の記事『三年七ヶ月』の記事を投稿したその週の日曜日にはまさかの家族に再び病気が見舞った。主なる神様は私の好い加減な姿勢を見透かすかのように事を起こされた。幸い、三年九ヶ月前の病院に収容されて元気を回復しつつある。その背後には多くの方の祈りの支えがあったことと感謝している。

 さて、標題の『徒手空拳(としゅくうけん)』ということばだ。人様の前でこのことばを使った。話し終わって早速妻から苦言を呈された。意味がわからない。意味を説明すべきだった、と。聖書中の人物を見ているうちに、その人物には何の頼るものもなかったことを思い、そう表現した。もっとも話す前にネットで意味を確かめて自分なりに確信を持って話していたのだが。

 妻の苦言が気になり、もう一度改めて考えると適切でなかったとしか言えない。徒手空拳には二つの意味がある。1、手に何も持っていず、素手であること 2、資金・地位など頼るものがなく、自分の身一つであること。例文として「徒手空拳で事業を始める」とあった。果たして自分が説明しようとした人物にこの形容がふさわしいか。私はその話の中でこれこそ『徒手空拳』だと詩篇125篇の2節を引用した。

山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。

 しかし、これは全く徒手空拳どころか、主なる神様が何もない者を全面的に支えていてくださる証しのことばでないか。彼自身には何の力もないが、主なる神様があのエルサレムを囲んでいる山々のように、自らを全面的に支えてくださっていると確信を持って言うことができたからである。それが困難な900マイルの荒野にもかかわらず、多くの人を、また多くの金・銀・ささげ物を無事に運ぶことができた理由なのだ。その上、彼を待っていたのはもっと解決不可能なエルサレムの実情だった・・・そこにも主による解決があった。

 全く見当違いのことばを皆さんの前で奇をてらって語ってしまった。ブログ氏の悪い性向は今もって一向に改まっていないのを恥ずる。このようにどうしようもないトンチンカンで自己中心のブログ氏だが、今日語らせていただいたみことばを我が胸に刻み、再びブログを再開することにする。ただし、ほどほどに。

すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。(エズラ7:9〜10)

2017年2月7日火曜日

3年7ヵ月の祝福


ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21〜22)

 今日は火曜学び会の日であった。都合により休み、ネットで視聴させていただいた。メッセージ、お証し、それぞれ心を揺さぶられる内容であった。メッセンジャーの方は度々家庭集会にお招きする方だが、冒頭の聖句がメッセージの主題聖句であった。そしてそのみことばに基づいて四つのことを指摘してくださった。

 先ず私たちは主なる神様によって愛される者として造られていること。次に、たとえどんな背きの罪もイエス様の贖いの死によって赦されるということ。第三に決して私たちは主にとって忘れられることがない存在だということ。最後に主なる神様は『わたしに帰れ』と絶えず呼びかけてくださる愛なるお方だと語ってくださった。

 ところがそれで終わりかと思いきやこの愛の実践篇であると言ってご自身のお兄さんが78歳でつい最近召された経緯をお証してくださった。救われて後、30年間主に背き続けられたお兄さんが家族、兄弟に自らの罪を詫びて天に凱旋されたという内容であった。

 学びの後、今度は昭和16年生まれのご婦人が自らの信仰を証してくださった。時間の経つのも忘れさせる、主イエス様の数々のお取り計らいに聞いている私はただ目を見開くばかりであったが、これまた私にとっては良き悔い改めの時となった。なぜなら、その方はご主人とともなる事業の浮沈の中で何故か苦難に襲われる時、いつも空を仰いで救われたと言われ、主の御存在を思う次のみことばを紹介されたからである。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)

 私のような好い加減な信仰でなく、揺るぎない主への感謝がその方の口を通して語られたからでもある。

 そして今日は午後には去る1月19日に42歳で3年7ヵ月の闘病の末、召された若いご婦人のお別れ会もあった。ここでも詩篇103:1〜5、マルコ5:21〜43がメッセンジャーの口を通して忠実に語られ、遺族への大きな希望、慰めの一時となった。終わりに遺族であるご主人から挨拶があった。三ヶ月に及ぶ意識不明の状態から、意識が回復したが、視力は閉ざされたまま、他の五感も言うことを効かなかった。そのうち、やや改善されとうとう会話ができる状態になり、お二人にとってともに祈ることが生きる原動力になったこと。そして天国への確かな希望を持つことができたことなどを語ってくださった。

 考えてみると彼女が倒れる一月前2013年の5月18日にやはり私どもにも同じような病が家族の一人に襲い、パニックになった。その頃から私たちはこのご夫妻には戦友の間柄の感があった。双方の家族のために多くの方々が祈ってくださり今日がある。だから今日のお別れ会は特別の思いもあり、出席したかったが、以下の事情がありネットで視聴せざるを得なかった。それは奇しくも今日、その家族がパリから帰国する日になってしまったからである。98歳になる祖父、親族のご機嫌伺いが目的である。先ほどその家族をふくんで食卓を囲んだ。感慨深いものがあった。

 それにしても今日は一日、「主イエス様の真実な愛は尽きることがない」ということを嫌という程、この者に知らしめてくださる日となった。顧みると今日は我が誕生日の日であった。長女から写真の手作りのお菓子が贈られてきた。家内はそれをきれいにお皿に盛り、さっさと彩りをつけ飾ってくれた。いつもは様々なお祝い品をくれる次女には最初から当方で辞退していた。それなのに何もしないことをしきりと詫びる。そこへ行くと男性陣は三人が三人とも無関心である。寂しくもあるが、そうでもない。当然な気がするからである。やせ我慢を張るわけではないが、かくの如き十分な恵みを主にある兄弟姉妹のお証をとおして十分いただいたからである。これぞ誕生日にふさわしい恵みではないか。上から無償でいただいた最高の贈り物だと思う。

2017年2月6日月曜日

ベック兄の原稿

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

 ベック兄のメッセージ原稿はローマ字で記されている。最近も一人の方からその原稿を漢字仮名まじりに直されたことを教えていただき興味を覚えた。というのは、私は今古い音源をもとに、聞き書きを集中的に行っているからだ。ところが最近『キリスト者の使命』というベック兄の比較的古い時代のものと思われるメッセージの聞き書きをして、気づいたことがあるので今日はそのことを話題にしたい。

 ドイツ人であるベック兄にとって日本語でメッセージするのは大変である。必ず原稿が必要である。ところがベック兄の日本語表現は大変洗練されていてこの日本語はどなたに習われたのかいつも疑問に思う一つだ。一説には今ドイツに行ってしまわれた日本人の方がベック兄からドイツ語を習い、その方が日本語をベック兄に教えられたと言うがそれ以上はわからない。

 しかしベック兄にとって来日当時日本語の聖書は文語訳と口語訳があり、それを軸にメッセージされたのであろうが、1970年に新改訳聖書が発行され、特に新改訳聖書を評価されたベック兄だから来日15、6年で今度は第三の聖書日本語訳を身につけねばならなかったから、その苦労は並大抵ではなかったと思う。今回『キリスト者の使命』の中の「実を結ぶ人生」のメッセージが明らかにその二つの聖書訳が混淆して語られていることに気づいた。大変苦労されたことが窺える箇所がいくつか見られる。多分1970年以前の口語訳でベック兄も最初のメッセージはつくられ、その聖句を覚えておられたのであろう。そのメッセージ中の「 」で示したことばはいずれも口語訳のそれであるからだ。

 日本人にとっても聖書訳が変わることは大変だと思うが、ドイツ人であるベック兄にとってはさらに大変だったことが想像される。でも淡々とメッセージはなされている。そのことを大仰に考えもせず言われもしなかったのであろう。ゆかしいベック兄の態度だ。水鳥はスイスイと川の中を泳いで行く。しかし言うまでもなく、隠れた水中では必死に水かきがなされているのだ。

 メッセージの中でベック兄は「イエス様は何事でも大仰に言われなかった」と語られている。ベック兄愛用のことばのようであるが、何人の日本人が今その表現を用いるであろうか。大仰とは言うまでもなく、「おおぎょう」と読み、大げさに言われなかったと言うことだ。それにくらべてブログ氏はどちらかと言えば大げさに物事を捉えもし言いもする方だ。ベック兄が残された遺産、それは何事も大仰に言われなかったイエス様の真実な生き方だ。それを学びたいと思った。くわしくは「ベックさんのメッセージ」http://2chronicles16-9.blogspot.jp/のサイトをご覧いただきたいが、その一部の文章を写しておく。

 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。

この末尾の二行の言い方、何度読んでも味がある。大仰に言われないイエス様はここではっきり何もすることができませんと言っておられるというのですから。そしてこのメッセージの後半では、その力を体験したパウロのことばが引用されている。それはベック兄が経験したことでもあるのだ。何しろベック兄にとって、日本語は「メトシェラの老齢、ソロモンの英知、ヨブの忍耐」が必要だと教えられたそうですから。逆に言うとベック兄はそれらすべてを備えられていたということが見えて来る。

2017年2月5日日曜日

あなたは何に従って生きますか

肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8:4)

 6年前に考えるところがあり、オースティン・スパークスのOpen Windowsを翻訳し続け、日々霊の糧にした。今年はその訳文を再び、今の日付けに直して2月から順次にアップし直してhttp://stryasheep.blogspot.jp/に掲載している。本当は訳文そのものを改良しなければならないのだが、今のところそのままアップしている。もはや、訳し直すという気力が無くなっているからだ。

 そのブログの題名は「あなたは主のうちを歩んでいるか」であった。題名は私自身がその日の文章全体を訳し終えて仮題として自由につけていたものだ。ところが6年後の今日のS兄の福音集会の題名は「主を求める人生」であった。そしてその中心になるみことばは冒頭のものだと語られた。

 主の光に照らされる時、人は自らの罪深さ惨めさを知らされ慨嘆するばかりである。しかし、そんな私たちが悔い改め、御霊なる神様に従う時、イエス・キリストは御霊として私たちの内に住み、いのちとして生き、日々主を求める人生へと導いてくださる。それこそキリストの福音にふさわしく生活する人生である、と結ばれた。

 オースティン・スパークスの「あなたは主のうちを歩んでいるか」という題名の文章をあわせて読みながら、不思議な共通項を見出した。それは「従うこと」の祝福でないかと思った。

2017年2月4日土曜日

ああ、何と主の愛はおやさしいのであろうか

パリの幼な子たち
だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。(マタイ18:5)

 恐らく、幼な子ほど近づきやすいものはほかにあるまい。幼な子と心やすくなることは決して困難ではない。このようにイエスのみもとに行くことは、ああ、なんと容易であろうか。そして彼は、なんと単純にわれわれ
を迎え、ゆるしと受納と恵みとをわれわれに与えられることであろうか。

 疑い悩んでいる魂よ、あなたは幼な子の心にとどくようにたやすく、あなたの救い主を見出すことができる。多忙な母親よ、あなたは、あなたがさらに高い義務とみなすもののために思い悩み、いろいろな集会や、社会的な慈善、またはキリスト教的な奉仕などのために、はでに出席する余裕をもつ幸福な妹をうらやむであろう。そして終日育児にわが身を忘れて忙殺され、時には自分のエプロンにまつわりつく小さな子供たちに、うるさいあまり、つい短気を起こすような場合もあるだろう。

 しかしながらその時、あなたはこのことをおぼえてほしい。すなわち、幼な子たちに対するあなたの奉仕は、イエスに対する奉仕と同じように主に受け入れられていることを。彼ら幼な子たちは、イエスを代表するものである。彼らを愛し、彼らのために心を配ることは、とりもなおさず彼らとあなたの主なるイエスを愛し、イエスのために心を配ることにほかならない。

 以上は『マタイ伝のキリスト』(A.B.シンプソン著佐藤邦之助訳)の「キリストの代表者」と題する同書の164〜165頁の小文の抜粋である。明日は著者が有名と称しているセント・クリストファの伝説を引き続き紹介したい。

2017年2月2日木曜日

救いの喜び

ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカ15:10)

 親戚に98歳になるご老人がいらっしゃる。ところがここ数日お具合が悪いと言う。この方はカトリックの信仰を持っておられる。以前、自分は十戒を守れないから天国に行けないと真剣に悩んでおられるということを聞いた。

 早速、お訪ねしたいと思った。ところが確かその方は耳が遠いと聞いた覚えがある。果たしてお交わりは成り立つかと一瞬思ったりしていた。ところがその思いを打ち消さんかのように、今朝の『ベックさんのメッセージ』http://2chronicles16-9.blogspot.jp/の「教会の交わり」を聞き書きしていたら、それはとんでもないこちらの杞憂に過ぎないと思わされた。

 それと同時に2011年10月27日に87歳で召された一人のご老人のことを思い出した。召される前日ベック兄と一緒に病床を見舞った。その方は酸素マスクをかけておられた。耳は遠かった。やむを得ず、筆談になった。「イエス様、ごめんなさい。これで十分だ」という良き知らせであった。私はそのベック兄が話された日本語をそのまま書いて差し上げた。その方は喜ばれ、私の筆を取り上げ「これで十分だ」と書き、応答してくださった。たちまち病室に喜びが満ちた。

2017年2月1日水曜日

幼な子は真中に立たせられているか

 考えるところがあって、『マタイ伝のキリスト』(A.B.シンプソン著)を今年になってから読み始めた。教えられるところが随所にある。下記のみことばにちなんだ彼の思いを少し写して見よう。

イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。(マタイ18:2)

 どんな文明国であってもまた野蛮国であっても、またどんな人種であったとしても、一度その家庭に入ってみる時、今なお地上でみられる最大の力は幼な子の感化力である。・・・この幼な子が一度熱病に犯され、死の腕の中に沈んで行くとき、この尊い生命のために両親は何ものを惜しむであろうか。小さな生命のかわりに、何ものを与えてもいやと言うであろう。この柔和な幼な子が、われわれの生涯のうちにしばしば現われるように、もし天上の世界に召されるとしたならば、このことほど地上の両親の心を天にむけさせるものはないであろう。・・・このように、多くの人々の心は、すばらしい御国へとわれわれを招く幼な子たちの歌声を聞いてきた。そして、幼な子たちと再会するという幸いな望みのために、この世と罪とに顔をそむけて、神と天国のために生活しようと決意したのである。

 もしわれわれが天上の世界を隠しているカーテンの中にひとたび入ることができたら、きっと数えつくすことのできないほどの幸福な魂を見るであろう。しかし、その無数の霊魂のうち、幼な子と成人の割合は50対1以上であろう。・・・こうしてみれば、天国においては地上における時と同じように、今もなお主が小さい幼な子たちを大人たちのまん中に置かれていることは真実であると言わねばならない。

 やがてわれわれは、われわれの愛する幼な子が、幼い日に家庭から取り去られたのは、われわれが天において幼な子とともに、その美しさ、その喜びをわかつことができるようにしてくださるためであったことを感謝するであろう。

 (『マタイ伝のキリスト』160〜161頁の抜粋引用)

 権力が暴走する。「いま世界にまん延しているのは論理の整合性を欠いた欲望であり、論理の破綻をものともしない暴走の連鎖である」(高村薫 図書12月号〈もう後がない〉より)