大洗漁港 |
いのちのパンである、天よりの食物、すなわち、神のことばをふりむきもしない人は、自分の魂を、なんとむごく取り扱っていることよ。神は、慈愛にとみたもうおかたであるから、神御自身が、わたしたちのうちに、はいり来たりたもうために、目に見える手段を設けてくださっている。その手段をとおして、神は、わたしたちを呼び、集め、照らし導いてくださる。この手段を正しく用いることによって、わたしたちは、永遠の幸福にあずかるのである。
しかるに、今日は、なんとしたことであろう。まだ霊的に盲目な、世俗的な人々が、価の高い真珠を、足で踏みにじっている、ということだけでも嘆かわしいことであるのに、さらに悲しむべきことは、「神のすばらしいみことばや、きたるべき世の権威をその身に経験した」人々が、「落伍者」になっているではないか。
彼らは、この世や、肉にさまたげられて、神のことばの追求を投げ棄ててしまっている。何日も、何週間も、神のことばを考えることなしにすごして、魂は飢えるにまかせている。たとい、まれに、みことばを読んだり、聞いたりすることはあっても、その心や頭には、この世的な事が、雑然といっぱいつまっているので、魂は、天の父の愛の光を受けて、温まることはできないのである。太陽の光線が大きくうねっている海を温め得ないのと同様である。
人の心が、神のことばによって温められ、生きかえらせられるためには、しずかに、敬虔なおもいで、神のことばを受けとらなければならないのである。
(『あらしと平安』ロセニウス著岸恵以訳聖文社342頁より引用)
久しぶりにロセニウスの霊想を読んでいる。心に染み入る内容である。この短い霊想の中には明らかに下記のみことばが念頭として描かれているのであろう。読み比べてみて、さらに含蓄が出て来る思いがした。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:7)
一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。(ヘブル6:4〜8)