2019年7月10日水曜日

天に参入する喜びを独り占めにするな

梅雨寒に 名も知らぬ花 華やぎて

 長年、筋萎縮症の病の中にある主にある友からメールをいただいた。「梅雨寒」と出だしに書かれてあった。ちょうど私は来週の家庭集会の案内ハガキを書いていた。今頃の気候をどう表現していいのか迷っていて、「梅雨になっても、いつもより気温が低く過ごしやすいですが、云々」と書き始めたが、ちょっと説明調しすぎて、いやだなあと思い、別の文章に置き換えて投函した。そのあとに先ほどのメールに接したのだ。ああ、彼女は私と違って行動の自由を奪われているのに、今の季節を正確に言い表しているなあ、となぜか痛く感動した。

 さて、投函するため、郵便局まで歩いて行った。久しぶりにのんびりと散歩がてらの歩行となった。するともう80はとっくに超えていると思われるご高齢のお方が一人住まいでいらっしゃるが、その方の家の前を通ると、いつも綺麗に住んでいらっしゃるその立ち居振る舞いに敬意を表せざるを得ない思いにとらわれる。よく見ていると、この方はいつも何でも手作りで楽しまれる。これからは葡萄棚などが大変な見ものであるお宅である。その葡萄棚の下で、今日はご老人が柱にくくりつけたチューブのようなものを、一方は自分の腰に巻きつけて柱にくくりつけたところと適当に間合いをとってはバウンドよろしく腰を鍛えておられるのだ。大変な研鑽ぶりだ。おそらく老人は誰の世話にもならないように、万一に備えてこうして体を鍛えておられるのだろう。精一杯努力されることを願ってその場を離れた。(もっとも当方が勝手に老人扱いしているだけで、ブログ氏とはそう年齢が違わないのかも知れぬ。)

 次に目にしたのが、首にひもをつけられて家の玄関の門扉の外で寝っ転がっている猫だった。猫にひもをつけるなんて、猫もさぞかし不自由だろうなあとは思ったが、結構猫はいつも自由を満喫しているようだ。ひもは大変長目で室内から前の路地のある程度のところにまでは自由に動けるからだ。この風景もいつもながら見慣れた風景ではある。ところが今日は違った。門扉の中に、二匹の子犬がちょこんと座っていたのだ。見ると彼らには首輪ははめられてはいない。おとなしそうに座っていて、私が立ち去るのを可愛い目で追っている。もちろん吠えない。そうか、猫は自由にくぐり抜けてどこにでも出かけて行ってしまうが、子犬にはその心配は要らないのか、と勝手に合点してその場を立ち去った。

 郵便局の帰りにその前を通ればひょっとしてかわいい写真が撮れるかもしれないと思ったが、案の定、もう猫も子犬もいなかった。でもひもだけは見えた。立ち止まって紐の先を見たら、玄関のドアの下をくぐっているのがわかった。今頃は家の中で過ごしているのだな、子犬も室内で飼っているのだろうなあ、飼い主はどんな方だろうかと想像を逞しくしたが、もちろんその人物像を描けるはずがない。

 こうして端なくも三者三様の方々の姿を追ってみたが、それぞれの方々のうちに懸命に生きておられる姿を思った。そして今朝読んだオースティン・スパークスのことばを思い出した。「人々はいろんなことを見聞きしますが、それらが真実の姿を示すところにまで決して参入しに来ないのであります。もし『すべての霊的祝福』エペソ1:2が、キリストにあって天にあるのなら、あなたがたが天に参入するまでは何も知ったことにはなりません。あなたがたはそれらの祝福が支配する天にあるところにまで達する必要があります。」(http://www.austin-sparks.net/quotes.html

 冒頭の友は、主イエス様を愛しておられ、天にある霊的祝福をもって私たちを祝福してくださる方をご存知である。とすれば、あとの二組の方、一人の方はお顔を知っている。もう一人の飼い主なるお方は猫こそ知っているがどんなお方か知らない。ただ、私が知らないだけで、天なる神様はとっくにご存知である。となれば「天への参入あれかし」と今度通るときは、これらの方々のために祈らねばなるまい。