2022年3月31日木曜日

恐るべき罪悪である不信仰

それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6・5〜6)

 『行なうことができず』とは強い言葉である。マルコはよくも思い切って『できず』と書いたものである。マルコは四福音書の著書の中でイエスの能力をもっとも高唱するする人である。しかるにここに『できず』と書いたのには確実な根拠があるに相違ない。それは明らかにペテロから出たものであろう。

 ペテロとてもイエスご自身の言を聞かなければ、かように不敬なような語を伝えるはずがない。ああ、イエスにも不能を嘆息し給う場合がある。全知全能なる神の周到なるご慈愛も不信なる者を救うことができない。不信は神をも不能ならしめる恐るべき魔力を有する。凡ての敵よりも恐るべきは不信仰であり、凡ての罪悪よりも恐るべき罪悪は不信仰である。

祈祷

神よ、願わくは私を不信仰より救い給え。偉大なるあなたの右の胸をも動かすに余地なからしむる不信仰より私を救い出して、みわざを私の衷(うち)に遂げさせ給うよう信じ従う者とならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著90頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。以下の文章は昨日のクレッツマンによる『聖書の黙想』の続きである。

 彼らの不信仰に深く失望された主は、彼らのために何もなすことができなかった。もし人々が、彼を信じないならば、せっかくの主の力と知恵も、何の善きことをももたらさないだろう。責任は、主にあるのではなく、人々にあるのだ。そこで主がなされたすべてのことは、喜びと信仰とをもって彼を受け入れた少数の人々をいやすだけにとどまった。

 一方郷里の人々の不信仰は、彼をあやしむまでになったが、主はなおも、近くの村々で教え、まわられた。その愚かな偏見によって、今日でも多くの人々が救いを失っているのはなんと悲しむべきことだろうか。) 

2022年3月30日水曜日

我が内に心の硬化と嫉妬はないか

安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で・・・ありませんか。こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコ6・2〜3)

 突然彼らを驚かさぬよう、静かに安息日まで待ち給うたところに周到な用意が窺われる。しかしこれほどに注意深い紳士的な態度も、彼らが目撃した『力あるわざ』も、彼らの承認せざるを得ない『与えられた知恵』も彼らの信仰を喚起するに足りなかった。それは『この人は大工ではありませんか。マリヤの子』であるという理由であった。

 見慣れるということはかえって人を盲目にする。外観と皮相とに見慣れるということが心を硬化させるものであることは踏み固めた路傍に落ちた種の譬(たと)えでお説きになった通りであるが、ナザレがその実例を提供することになったのは主にとってどんなに悲しいことであったであろう。イエスは三十年の永い間完全な生活を続けられたがためにかえってイエスは凡人と見えたのであろう。そして彼らは隣人の一人に過ぎないイエスを妬まずには居られなかった。

祈祷

神よ、願わくは、私たちを恐るべき霊魂の硬化と、さらに恐るべき隣人への嫉妬より私を救い出し給え。願わくは、尊きものを惜しみなく尊ぶ心を与え給え。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著89頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、クレッツマンによる『聖書の黙想』の「自分の郷里では敬われない預言者、師の中の師であるかた」と題する文章の92頁を以下に紹介する。

 この安息日の日に、昔なつかしい会堂で主が彼らの教師としてその前に立った時、そこにいた多くの者は、彼らのなじみの、今では有名な同郷人が、何と言うのだろうかと聞き耳を立てたのは確かであろう。主は、ご自分だけのためになることや、人々から尊敬を受けることを少しも望まれていなかった。しかし、如何に主は、この人々に、救いについての知識をもたらそうとされていたことか。そこで、主の説教は深い感銘を与えはしたが、それは自分中心の希望や願いにもとづくものではなかった。

 多くの者は、主の教えと、主が示したおおうべくもない知恵と、彼がなさって来られた大いなるわざに驚いた。しかしその驚きの中には、あるそねみも含まれていたのではなかったか。人々は、彼の母や弟妹たちをもよく知っていたのだ。そこで彼らは主を自分たちより思い上がった者として、彼につまずいたのである。主は、彼らの態度を十分に理解することができた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」6・4)

2022年3月29日火曜日

博愛の人、愛郷の人

イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。(マルコ6・1)

 イエスの如く国境を超越し人種を超越した世界人にも『郷里』を思う心の切なるを見て、その人間味が私どもの心に響く。 主は昨年の春ガリラヤ伝道開始の当時も先ずナザレから始めて恐ろしく彼らの反感に遭い、直ちに『丘のがけ』から投げ落とされんとしたではなかったか(ルカ4・29)。わずか二、三日前にも『母と兄弟たち』がイエスを捕らえに来たではないか(マルコ3・33)。それでも主の御心はナザレに惹かれ、今一度福音を彼らの前に提供なさろうとした。

 今はカペナウムで行なった多くの驚くべき奇蹟がイエスを証明している。イエスのお心の中には『たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい』(ヨハネ10・38)との念願が起こっていたのかもしれない。『ナザレから何の良いものが出るだろう』(ヨハネ1・46)との悪評をとった故郷の人を如何にしてか救いたいとの切なる願望から危険を冒して再び故郷を訪(おとな)い給うた。

祈祷

主イエスよ、あなたは人となりてこの地上を歩み、人として『郷里』を愛し給いしことを感謝申し上げます。願わくは、私たちをも博愛の人となると同時に愛国愛郷の心にも熾(さか)んなる者となし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著88頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。※選抜高校野球が行なわれている。昨日は準々決勝があり、金光大阪高と近江高の試合もその一つであった。劣勢を予想していただけに近江高を応援した。ところが試合は予想に反して6対1で近江が勝ち、明日の準決勝に進出することになった。対戦相手は浦和学院である。妻はどっちを応援するのと聞いてきた。「もちろん、近江だよ」と答えた。私たち夫婦は今は埼玉県民だが、郷里は滋賀県彦根である。)

2022年3月28日月曜日

神の御力を真近に見聞きせし人々

すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。(マルコ5・42)

 四章の終わりから五章の終わりにかけて驚くべき大奇蹟が応接の遑(いとま)もなく、次から次へと起こって来たことが書いてある。すなわち暴風を鎮め、恐ろしい「汚れた霊」を追い出し、十二年間痼疾(こしつ)の血漏を癒し、死んだ娘を甦(よみがえ)らせた。これらは一晩と一日の中に続いて起こったのである。

 そしてマルコはこれらの奇蹟に対して周囲の人々の感動を示して『彼らは大きな恐怖に包まれて』(4・41)とか、『恐ろしくなった』(5・15)とか『みな驚いた』(5・20)とか、またここにあるように『非常な驚きに包まれた』とか註している。これは神聖なるご生活の御威徳を示したものである。

 今日ではたびたび奇蹟が信仰の邪魔になるように思って、これを弁解し去らんとする牧師方も多いことであるが、正直な目で見れば今日でも奇蹟は神の大能の発現に相違ない。奇蹟あるがゆえにイエスの御一生涯の神威が一層輝くのである。そして真実に奇蹟を信ずる者のために主は今日でも『非常な驚きに包まれ』るべき奇蹟を行ない給うのである。驚きの方面から信仰に入る者を迷信の如く取り扱う今日の宗教学者は真剣な信仰の威力を経験しない人であろう。

祈祷

主イエスよ、あなたは昔も今も変わり給うことなく信ずる者のために大いなる奇蹟を行ない給うことを感謝申し上げます。願わくは、私たちの信仰に大胆さを与え、嘲笑者をして嘲笑せしめ、臆することなく疑うことなく、進んで奇蹟をあなたより受け取らせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著87頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。)

2022年3月27日日曜日

タリタ・クミ

そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)(マルコ5・41)

 タリタ・クミの原語をそのままに保存してくれたのはマルコ伝だけである。(マルコ伝はペテロによる)ゲッセマネの園で主が祈り給うた時の用語をそのままに原語で保存じてくれたのもマルコ伝だけである。すなわち主は『アバ、父よ』(14・36)と呼んだと書いてある。

 なぜタリタ・クミとアバ(父よ)の二語だけが原語で遺されたか。想うにこの二語はペテロの心に深い印象を残してそのまま一生忘れ得なかったのであろう。主が用い給うたそのままの語を伝えなければ意が通じないと感じたほどペテロを動かしたものであろう。

 『アバ、父よ』と言うときにゲッセマネのイエスの一生懸命なお顔がそのまま浮かんで来る。『タリタ・クミ』と叫ぶときにヤイロの娘の手をとった時のイエスの真剣なお顔が浮かんで来る。イエスの如く『アバ、父よ』と叫んだ人は無く、イエスの如く『タリタ・クミ』と叫んだ人も無かった。これがペテロの感じであろう。

祈祷

天の父よ、願わくは私をして主イエスの如くあなたを父と呼ばせ給え。私たちは死に対して主の如くタリタ・クミと呼ぶことを得ざるも、主の御声に応じて起き上がるの信仰を与え給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著86頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。)

2022年3月26日土曜日

至誠の人イエス

人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは、みんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。(マルコ5・40)

 至誠天に通ずという語がある。イエスというお方は至聖そのものであられた。『わたしは真理である』(ヨハネ14・6)と仰せられたのには他の意味もあるであろうが、至聖一貫であられることを言明されたのである。さればイエスほど真剣に生きた人は他にない。

 イエスには虚偽がなく浅薄がなく、いい加減がない。まことであり、真剣であり、一生懸命である。今この幼児を死の手から取り戻そうとするにあたってイエスの真剣は一層深刻であったに相違ない。外界に対しては全く無念無想となって霊界を注視しなければならない時である。

 雇われて泣き叫ぶ人々の騒音や、浅薄な人々の嘲笑は少なからず邪魔となる。精神の統一を邪魔する凡ての人々を追い出して、ご自分と同じ心になれる人々だけにしてしまったのはもとより当然である。私はこの場面を想像するとすごいほど厳粛なイエスのお顔が浮かんでくる、

祈祷

ああ主イエスよ、あなたの真剣さを思うとき、私がいかにも不真面目に生きていることを感じます。ことに祈るときに真剣に霊界を見つめないことを感じます。どうぞこの罪を赦して、「みんなを外に出し」真剣な祈りをすることを教えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著85頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。昨日は『Days of His Flesh受肉者耶蘇』の文章を紹介したが、今日はクレッツマンによる『聖書の黙想』の「健康を回復した病める婦人と蘇生したヤイロの娘」の3/23の続きの文章を紹介する。同書87頁からの引用である。

 人々は何か劇的なことが、起ころうとしていると素早く見てとって、主のまわりにいっそう群がろうとしたにちがいない。しかしイエスは、そのようなことを望まれていなかった。主はただ三人の証人たち、ペテロとヤコブ、ヨハネの兄弟だけを伴って、この会堂管理者の家に来られた。そこには死によって引き起こされる大騒ぎが待っており、多分職業的な泣き役と思われる人々がすでに大声をあげてこの子供の死を嘆き悲しんでいた。

 主はきびしく、この望みをすてた悲しみのしるしを押しとどめられた。彼にとっては、子供は死んだのではなく、眠ったにすぎないのである。すると「人々はイエスをあざわらった」。神の御子の中の全能の力を信ずることはいかにむずかしいことか。わたしたちはいともたやすく、悲しみが胸を閉ざす時、そのことを忘れるのだ。イエスはそこで彼の権威を示され、すべての人々を外に出して、子供の両親と三人の弟子たちだけを連れて、死んだ子供の部屋に入ってゆかれた。

 そして彼らの悲しみを増し加えることなく、圧倒的な喜びをもって、彼らの心をみたされる。その女の子の手を取り、「起きなさい」と命ぜられ、娘は、いのちと健康とを取りもどして、両親のふところにもどったのだ。主はその娘に何か食物を与えるようにと付け加えられた。しかし、主はこのことについての誤った噂が立てられることを望まれなかった。

 今や、この一家は、主が死の力を打ち砕くために来られ、彼こそ、わたしたちの救い主なのだと信ずるにいたるのである。

以上がクレッツマンの文章であるが、昨日のデービッド・スミスの『受肉者耶蘇』の引用文と言い、そして青木氏の日々読んでいる霊解と言い、それぞれ寸分違わない主のみわざへの感謝・確信があふれていることを思い、励まされる。ーー『女帝小池百合子』石井妙子著の証言記事とこれはまた何と言うちがいか。) 

2022年3月25日金曜日

慟哭(どうこく)の家に対する主のことば

中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」(マルコ5・39)

 ラザロの死んだ時にも『わたしたちの友ラザロは眠っています』(ヨハネ11・11)と言い給うた。イエスは今これらの人をすぐ甦らせるのだから『眠る』と言葉を用いたのだと解釈する人が多いがこれは苦しい解釈である。それでは『 死んだのではない。』の語は余りに強すぎる。 

 私は思う、主イエスの眼には霊界がアリアリと見え透いている。かような罪知らぬ幼児や、ラザロの如き信仰の人の霊はアブラハム、イサク、ヤコブとともに神の前に生きているのがハッキリとイエスの眼に映じている。ただ肉体だけが静かに横臥(おうが)している。

 だから『死んだのではない。眠っているのです』と自然に御口から洩(も)れたのだと考える。とにかく彼らの死は私たちの眠ったのと同様の状態で、天上に目覚めても再び地上に目覚めるも神の力をもってすれば大した区別はないのであったろう。

祈祷

甦りの主イエスよ、私の多くの友は今天上にて私を待ちつつあると感謝申し上げます。あなたは私の肉より死の刺を取り除き、今しばらくの後、安らかに眠りて彼らの群れに入ることを許し給うを信じて感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著84頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。なお、『受肉者耶蘇(Days of His Flesh)』は「慟哭(どうこく)の家」と題してその384頁に次のように記している。

 ヤイロが繋(つな)いだ一縷(いちる)の望みも今は全く絶えたとの便りは彼のもとに達したが、イエスはなお婦人にことばをかけておられた。『あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。』と使いの者は言った。イエスは言下に『恐れないで、ただ信じていなさい。』と命じ、一行を伴いてその家に赴き、その特に愛せらるるペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人のみを従え室内に歩を移された。

 騒擾(そうじょう)かまびすしき慟哭の光景は眼前に開展した。古の習慣では、雇われた哀者(なきて)が笛に合わせ、声を揚げて嘆きをそそり、知人の群れは或は友情より悲しみに堪えずして、或は葬式の振る舞いを目的に、夥しく集まって来た。これイエスの聖眼(みめ)には痛ましき光景であった。死に対するイエスの見解はかくの如きものではない。『神に対しては、みなが生きている』(ルカ20・38)として死を慟(なげ)くを戒められた。『暗と死との大海を圧して、光と命の無限の大海は漲る』イエスは決して『死』という語を用いず『眠る』という言を適用せられた。この光景を痛んで『なぜ取り乱して、泣くのですか』と先ず彼らを戒飭し、『子どもは死んだのではない。眠っているのです。』と仰られたが、これを聞く一同は嘲笑った。しかるにイエスはその嘲笑するものを駆逐して両親及び三人の弟子を伴い、その室に入り、娘のか弱き手を取りつつ、母のその愛児に言うごとく『タリタ・クミ』と仰られた。

 見よ、眠れるものはこれを聞いて眼を開いた。その快癒には時間を要せず、予後もなかった。致命の重症の跡形もなく、全く快癒したのであった。『すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。』イエスはついで食物をこれに与えよと両親に命ぜられたので、茫然たりし彼らは漸く我に帰った。彼らは娘の物を食うのを見て始めてその全快したことを確実に認めたことであろう。)

2022年3月24日木曜日

時と場合を選ばれる主

折節に 色香愛でては 往き来する

そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。(マルコ5・37)

 他の弟子らは途中から返して、三人だけつれて行かれたらしい。十二弟子の中からこの三人を特に選び出したことは今始めて書かれてある。この他には、山上の変貌の時(マタイ17・2)とゲッセマネの祈祷の時(マタイ26・37)とである。

 どういうわけであろうか。イエスが不公平であったのではあるまい。地上の御生活ことに三年半の御公生涯の間主はどんなに淋しくあらせられたであろうかと考えられる。雑草の中にある一本の喬木のように一人として主の心を解する者は無かった。その中でもヨハネ、ヤコブ、ペテロの三人が少しはイエスの御心に触れるものを持っていたらしい。

 ヤコブの如きは主の死後、間もなく殉死した(引用者註:使徒12・2)。彼らはそれほどな熱情を献げていた。非常な僭越な考え方かも知れないが、私の大いなる願いは主のお淋しさの中に少しでも分け入りたいということである。

祈祷

淋しき主よ、野中の一本杉のごとく冷ややかなる世に立ち給う主よ。願わくは私をあなたの忠犬となし、少しばかりあなたの顔色を伺い得る者となし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著83頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。青木氏の感想を読み、他の方々がどうとらえているか調べてみたが、特段触れていなかった。現に並行箇所であるマタイ9・25は「イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり・・・」とさりげなく書いている。ただ、間垣洋助氏の『マルコによる福音書』には次のように書いてあった。同書95頁より 

 この三人は、十二弟子の中でもとくにイエスのそば近くいた者で、重大な事件の時には、この三人だけしかイエスについていくことを許されなかった〈変容の時9・2、ゲッセマネの祈りの時、14・13〉。イエスは、娘が死んだと聞き、普通の病気のいやしと異なり、死人の復活の奇蹟が必要な時に直面して、事が重大であるので三人だけ、ともに連れて行かれたのであろう。)

2022年3月23日水曜日

人知るや、これ慰藉(いしゃ)の端緒なり

通りがかりに拝見した花

イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5・35)

 主イエスのこの一語はいかに会堂管理者の胸に強く響いたであろう。主は人の弱きを見給うたびに度々かく仰せて勇気をつけ給うた。私自身としてもこの語が幾たび私に元気を与えてくれたか知れない。

 パウロも『どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです』(ピリピ1・28)と言った。実にそうである。

 恐怖と狼狽は最初から敗北の途上を歩んでいる。大胆と確信とはすでに勝利の栄冠に手をかけている。『恐れないで、ただ信じていなさい』この武器一つで敵の大軍を破ることが出来る。人生の成功と勝利とは懼れず臆せず驚かず、信じて一直線に進み行く人に与えられる。

 ヨハネはその黙示録において『おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者・・・』などと同列に並べて滅ぶべき人の中に数えている(21章8節)。懼(おそ)れることは不信仰であり、滅亡の第一歩である。

祈祷
神よ、私たちをして常に天を仰がしめ、常にあなたを信ぜしめ、如何なる逆境をも懼るることなく、信仰をもて、絶望の暗黒の中にも光明を見出す者となし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著82頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。なお、以下の二文はクレッツマンによる『聖書の黙想』の「健康を回復した病める婦人と蘇生したヤイロの娘」と題する文章の昨日の続きである。

 主はすべての人々の前で、彼女の信仰が、すべてをよくしたことと、彼女はもう、レビ記的な律法の前においても、その場所を取りもどし、平安の中に行くことができるのだということを述べられた。この日、その家に向かって一人のしあわせな婦人が、いそいそと足を運んで行ったことだろう。
 一方、ヤイロにとってはどうだろうか。このようにぐずぐずしたので、その幼い娘への不安のあまり、いらいらしていたのではあるまいか。そうだ、たしかに彼がもっともおそれていたことが起こったのである。一行のところに群衆をかき分けながらヤイロの家からの使いの者が、衝撃的な知らせを持ってやって来た。彼らはイエスの真の力を知ることに、なんとほど遠いことか。ショックを受けたこの父親の気を確かにするために、時を移さず主はこう言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」)

※なお、例のDays of His Flesh(『受肉者耶蘇』)では第23章『カペナウムへの帰還』と題して、巻頭に以下の詩が掲載している。まことにイエスさまのヤイロへの愛・御旨が充満している詩ではないか!

死は明らかに確かとなりぬ。 されど主にとりては慕わしき休憩のみ。
見よ、主の遺し給えるこの賜物は、生命の門戸のみ。慰藉の端緒のみ。
神の聖き山頂への階梯のみ。而してこの聖き幕屋への門は
神これを備え給えり。人の作れるに非ず。
  セント・ベルナルド )

2022年3月22日火曜日

悠揚迫らざる主の態度

イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」(マルコ5・35)

 ヤイロの目から見ればイエスが余りにユックリし過ぎたであろう。名も知れぬ貧しい女が途中でイエスに触ったくらいのことは捨てて置いて、瀕死の自分の娘のところに急いでほしかったであろう。私どもも神様のお答えがユックリし過ぎると感ずることは度々ある。しかし主は一人を救うために他の人を捨て置くようなお方ではない。綽々(しゃくしゃく)たる余裕をもって凡ての人を救い給う。
 かかる急ぎの時にもイエスの悠々迫らざるお姿が見える。貧しき一人の女を霊も肉も完全に救って、ヤイロの娘は手遅れになったように見えたけれども、人が絶対絶命の時、かえって神の御手はヨリ強く働き出すのである。人をしてヨリ深く信ぜしめんためである。

祈祷
神よ、あなたの御手の働きの遅しと見ゆるとき、願わくは私をして静かにあなたを信じて待つことを得させ給え。たといあなたの歩みの遅きによりて、私の望みの尽きたりと思わる時もあなたを仰ぎて動揺することなからせ給え、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著81頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。なお、以下、クレッツマンによる『聖書の黙想』の「健康を回復した病める婦人と蘇生したヤイロの娘」と題する文章の85頁を紹介する。 

 がダラ地方の人々は、主の滞在を望まなかったので、イエスは前の日に多くの群衆に教えを語られた、ガリラヤ湖の西の岸にもどられた。岸辺には、イエスを待っていた多くの人々が、まだ前と同じ場所に集まっていたようである。しかしいつものように主が人々に教えを宣べ始める前に、会堂管理者の一人であるヤイロが息せききって主のところにやって来た。彼はそれまで何度も、イエスの教えを聞いたことがあったし、多くの人々を主がいやされるのを見たこともあったらしい。興奮のあまり、彼の言葉は、こんがらがって、はっきりしなかったが、彼の可愛がっていた幼い娘が、まさに死にかかっているというのである。しかしヤイロは、もしもイエスが、足を運んで、娘にいやしの手を置いてくれるなら、彼女は生き返るのだと、主に信頼を寄せていた。少しもためらいなく、主は、彼と一緒に出かけられた。もちろん群衆も主のあとに続いた。彼らにとっては、みことばを聞くよりも、こんな場合、主がどんなことをなさるかを見る方にもっと関心があったらしい。

 しかし気がはやっているこの父親の信仰は、きびしい試みに出会うようになっていたのである。イエスに群がり押し寄せる群衆の中には大きな苦しみを背負っていた一人の婦人がいた。 彼女にとっての苦しみは、もっとも悲惨な肉体的な病気の苦しみばかりでなく、レビ的に言って、会堂や神殿から締め出される、不浄な者とみなされていたということもあった。彼女は彼女を知っているすべての人間からのけ者にされていた。それまで、全財産を医者に費やしたが、誰も彼女をなおすことができず、苦しみと屈辱の中に、この二十年間を過ごし、容態はますます悪くなるばかりだった。わたしたちは、イエスによるほとんど信じがたいほどの病気のいやしを耳にした時、彼女の胸がどんなにおどったかを想像することができる。「お着物にさわることができれば、きっと直る」こんな考えが心にわいた。

 わたしたちは、彼女の謙遜と彼女の信仰の偉大さを心から賞賛せねばなるまい。好機がやって来た。みんなが、主のまわりに群がっているので、彼女が気づかれることはあるまい。そして信仰による一触れは、即座の完全な救いをもたらし、新しい力と健やかさが、彼女の中にみなぎった。しかし、それは気がつかないでは、すまされなかった。このような信仰はかくれるすべもないのだ。キリストは、神としての彼の力が、ご自分から出て行ったことに気づかれた。この婦人に、したことを告白させ、人々の注意を彼女へと促そうとされたイエスの行動は、彼女のきわだった信仰を指し示し、同時にさらに強めるためのものであった。)

2022年3月21日月曜日

長血の女の救い

3月20日
イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。・・・イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

 掏摸(すり)に財布を盗まれてあとから気がついたように、イエスはあとから能力の己から出たのを知ったという意味ではあるまい。女の方では密かに触れたのであるが、イエスの方では女の初(うぶ)なる心の祈願に答えて癒し給うたのである。

 全能の神が人を救うぐらいは知らぬまにでも出来るだろうと考える人もあるかも知れない。否、私どもでも神様の費用についてあまり考えないかも知れない。主が人を救い給うには大なる費用がかかるのである。主の御能力の大なる損失があって始めて私どもが救われるのである。
 
 神ご自身の御身体から能力の流出するのを感ぜられたほどの御痛みがあって始めて人間が救われるのである。主は私たちのために汗どころでない。血を流し給うほどに、生命を消費して救いを成就して下さるのである。されば救われた私どもを『人を知ろうとして、見回しておられた』のは自然のお心持ちであろう。

祈祷

主イエスよ、あなたは己より能力を出し、生命の血を注ぎ出して、私たちを癒し私たちを救い給う。されば、この卑しき私をも人を知ろうとして、見回しておられた』ことをありがたく感謝し申し上げます。アーメン

3月21日
女は恐れおののき、・・・、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5・33〜34)

 『真実を余すところなく打ち明けた』は信ずる者の態度としてイエスの最も喜び給うところである。イエスがこの女を『それをした人を知ろうとして、見回しておられた』のもこの態度を惹き出さんためである。『ひれ伏し』とある文字は『倒れる』とも訳し得る。すなわち文字どおりにイエスの前に平伏したのである。この女のイエスに対する尊敬と感謝の念が十分に現われている。

 されば主は『あなたの信仰があなたを直したのです』と言ってこの女の霊魂を救い給うた。もちろんこの語のみならば必ずしも霊魂の救いを指すとの解釈はできないが、次いで『病気にかからず、すこやかでいなさい』と言い給うたのを見れば、これは霊魂の救いに相違ない。主の御在生中に病を癒された人はたくさんあるが、それと同時に霊魂の救われた人は割合に少ないようである。

祈祷

主よ、あなたは何事にても『真実を余すところなく(あなたに)打ち明け』る者を喜び給う。かかる者に対して救いと癒しとを与え給う。願わくは、あなたの前にあって私に砂一粒のかくれたることもなからせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著79〜80頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。)

2022年3月20日日曜日

ヤイロ、長血の女の信仰を嘉みせし主

3月18日

イエスは岸べにとどまっておられた。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」(マルコ5・21、22)

 これはカペナウムの会堂の管理者である。イエスはかつてこの会堂で穢れた霊につかれた人を救い(マルコ1・21)また片手のなえたる人を癒した(マルコ3・1)。ヤイロはその時何をしていたのであろう。

 かかる奇蹟の行われるのを見て驚いたではあろうけれど信仰は起こさなかったようである。自分の仲間のパリサイ人を恐れたのかも知れぬ。けれども自分の娘が『 死にかけて』いる時に、イエスを思い出さずには居られなかった。

 かような不純な態度に対してもイエスは決して同情を惜しみ給うお方ではない。たといその愛が親が子に対する本能的な愛に過ぎなくても、たといその信仰が『苦しい時の神頼み』に過ぎなくても、イエスはその心に同情し、その信仰を嘉(よ)みし、その祈願を容れ給うのである。思えば私どもの信仰や愛はこの人と大した差はないようである。けれども主はこの人に対する同じ愛をもって私どもに臨み給う。

祈祷

イエスさま、私どもは誠に自分勝手なものであります。そして自分勝手な祈願を献げます。それでもあなたに倚(よ)りすがる時にいつでも顧みて下さることを感謝致します。アーメン

3月19日

ところで、12年の間長血をわずらっている女がいた。・・・イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。(マルコ5・25〜27)

 イエスに触れるということは信仰の妙諦である。この女はヤイロよりも熱のある信仰の持ち主であった。しかしイエスの知らぬ間にその『着物にさわる』ことによって癒されようとするのは迷信である。イエスのご意志の働かない限り御肉体に触っても癒されはしない。

 主がことさらに振り返って『だれがわたしにさわったのか』と言い給うたのはこの迷信から救ってイエスの『着物』でなく、イエスご自身に触れしめたのであった。ここにもイエスの深い同情が見える。迷信的であっても、とにかくイエスに来たりさえすれば救って下さる。而して正しい信仰に導いて下さる。

 あるいはこの女は自分のつまらぬ者であることを恥ずかしく思って後ろからソッと触ったのかも知れない。その謙遜はよい。しかし、それがためにイエスの前に出て祈願することも遠慮しなければならぬと考えたのは大きな考え違いである。自分の人格は如何につまらぬものであっても、それはかえって主の憐みを受けるのであることを忘れてはいけない。

祈祷

最も卑しき者を最も大いなる憐みもて顧み給う主よ、全然無価値なる我がためにとこしえの愛を注ぎて私に近づき、私があならに触るるを待ち給うことを感謝し奉る。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著77〜78頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。)

Days of His Flesh 受肉者耶蘇(下)

 9「寛容なる戦略」 この事件の意義如何。彼を支配するてがかりを得んがため、名医のごとくイエスは狂人の妄想に準じて万事を取り扱われ、この乱暴な考案にもその恩寵溢るる目的を遂行する機会を探し求められた者であった。かくて陽にはその思慮に従ったかのごとく装われたのであった。『行け』と仮定の汚れた霊に命ぜられたが、同時に恩寵溢るる事業にその豚を用いられた(ルカ5・4〜6、ヨハネ21・6)。イエスは人の主たると同時に獣の主であって、弟子たちの網へ魚群を誘われたるごとく豚の一群を、その聖旨(みこころ)に従わしめられ、豚を叱咤して急に恐れ惑わしめらるるや否や、彼らは溺死せんがため崖下へ馳せ落ちた。策略は図に当たって、六千の「汚れた霊」が豚に乗り移れるものと考えた狂者は主の命令を聴いて、豚の荒れ狂いつつ走り出したのを見て、己が救われたことを確実に意識した。「汚れた霊」はこの男を捨てて、豚に移り、湖に駆け入ったがため、もはや彼を苦しむべくもないと信じたのであった。ユダヤ人の思想によれば、海はゲヘナに通ずる三道中の一路で、「汚れた霊」はその遺憾この上なき境地に追い出されて陰府(よみ)へ履き落とされたのであった(ルカ8・31)。かくして彼を離れたことは疑うべくもない。現に彼は自らこれを目撃したのではないか。彼の狂気は鎮まって、イエスの聖旨(みこころ)のままに服した。
 10「狂人耶蘇を認む」 この男は従来イエスを知っていたものであろう。彼はイエスを認むるや否や、その聖名(みな)を唱えて挨拶し、メッシヤとしてこれを祝している。しかしこれは解き難き問題ではない。かくのごとき狂気には爾く久しく罹っていたものとは思われないのであって、その病に犯さるる前にこの驚くべき預言者の名声を聞き伝えていたことであろう。否、彼はカペナウムにも渡ったことがあったに相違なく、その説教を聞き、また奇蹟を目撃したことであろう。彼はこれを心に留めていたけれどもその考えを押さえていたのであった。しかるに今、イエスに邂逅してユダヤ人の待望せるごとく、メッシヤの悪魔を駆逐し、最後の審判において彼の夥しき侶伴をも駆逐せらるべきその恐ろしき大事業を開始せんとして、ここにも来られたことをその錯乱した頭脳にも思い浮かべたのであった(マタイ8・29参照)。
 11「ガダラ町民の無情」 豚の溺死したうわさの町の内外に伝わるや、即刻多くの群衆が、その騒動の演ぜられた舞台へ集まって来た。彼らはイエスと狂者ーーもはや狂者とは言えぬ。全快して衣紋を正してその恩人の足下に座したーーとを見た。彼らは事件の真相を知っていかなる手段を取ったであろう。彼らはその町民の一人が救われたことを喜び、その救い主の脚下に伏して、恭敬感謝の意を表すべきはずであったろう。なおあるいは急ぎ帰って界隈の病者を伴い来たって、等しくこれらをも癒されんことを願うべきはずではあるまいか。しかるに彼らは敢えて何事をもなさざるのみならず、迷信的恐怖に駆られ、これにまさる騒擾の彼らの財産に加えられるべきを警めた。彼らの間にイエスの居らるるを危険に感じ、ここを去られんことを念じつつ『この地方から離れてくださるよう願った』(マルコ5・17)
12「耶蘇の退去」 イエスは彼らの希望を許された。元来十二使徒とのみ共に居て神の国の奥義を彼らに伝えんがためこの東岸に来られたのであるが、その計画は全く破れた。今や激昂した無情の群民に囲まれ給うては、ただカペナウムに帰らるるほかはないので、再び小舟に乗り移られた。曩(さき)に従随した狂者は、イエスの乗船せらるるを見て、ともに侶伴に加えられんことを願ったけれども許されず、『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』と命ぜられた。
13「前の狂者の伝道」 イエスは奇蹟を行なわるるや、必ず秘密を守るべきを求め、『だれにも知らせないように』(マルコ5・43)と命ぜられた。しかるにこの時のみはその地方を去らるるので、ただ好奇心に駆られて、教訓には耳を傾けようともせず茫然たる群衆の集まり来る虞(おそれ)がなかったので、平生の習慣を破られ、退去のあとに噂の伝わるべくば、その奇蹟の広く人の知るところとならんことを望まれたのであった。この男は感謝胸に溢れて『そこで彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた』(マルコ5・20)。彼はイエスの侶伴としてその使徒の列に加わるを許されなかったけれども、なお他の方面に採用せられ、彼らに劣らざる神聖な事業に当たらしめられた。彼は己が郷国に残留してその同胞の間に活動し、彼を恵まれたるその恩寵の活ける記念として、これを聴くものは皆祝福を受けたことであろう。

2022年3月19日土曜日

Days of His Flesh 受肉者耶蘇(中)

 『受肉者耶蘇』の第22章「湖を渡りて隠退」は、既述した一編の詩に続き、以下に列挙する13の小見出しのもと説明がなされる。(『受肉者耶蘇』上巻369頁以下より転写)

1「上舟」2「耶蘇眠らる」3「台風」4「耶蘇これを誡む」5「ガダラ」6「墓地の狂人」7「彼と耶蘇との邂逅(かいこう)」8「豚に関する事件」9「寛容なる戦略」10「狂人耶蘇を認む」11「ガダラ町民の無情」12「耶蘇の退去」13「前の狂者の伝道」

 この中から5以下の九項目を順次に紹介させていただく。

 5「ガダラ」 一行はかくして現今もなおその昔の名を転訛しケルサと称し頽廃した古跡の残っているガダラという町の近傍にあたる湖の東岸に上陸した。『この地は大いならねども四囲城壁に包まれたるがごとく、重要なる市街なりしと思わる・・・湖岸を去る咫尺(しせき)の間にあり、巨山覆いかぶさるごとくに聳えたり』。東岸はいずこも渚まで緩やかな勾配であるが、ただここのみは山が岸に迫って、急な懸崖をなしている。市街の旧跡の近郊に昔の墓地の跡が山腹に刻み出されている。
 6「墓地の狂人」 イエスは小舟を後にして山へと登って行かれた。その目的は疑うべくもないのである。暴風雨の治って一行が着陸したのは早天であって、いわゆる『夜明け前に』、ある閑静な地を選んで祈祷せらるる思召であったに相違はなく、その好んで赴かれた礼拝堂は山の頂上であった。(マタイ16・23、マルコ6・46、ヨハネ6・15)今山腹を攀じ登らるる中途に恐るべき難事に邂逅せられた。恰もその墓地に差し掛からるるや、人間と言わんより、むしろ野獣に近い男が飛び出して来た。彼は当時の語(ことば)をもって言えば「汚れた霊」に憑かれたるもの、すなわち狂人であって、いわゆる急燥狂であった。キリスト教のまだ慈悲温柔の精神をもって社会を風化するに至らざる当時にあって、かくのごとき悲惨な廃人は、放擲してその為すがままに任せられた。彼らはその衣服を破棄し、夜は空虚な墓穴に蹲(うずくま)り、昼は出て墓地に徘徊するのを常習とした。ガダラの狂人はその近隣に恐慌を与えて、幾度か鎖で繋がれたけれども、暴力をもってこれを寸断し、裸体を鋭い岩角に打ち着けて叫びながら山中を彷徨していたのであった。
 7「彼と耶蘇との邂逅」 彼はイエスを発見するや、憤怒に非ず、恐怖に駆られ、叫びつつこれに近づいてその前に平伏した。これと同時に驚くべき光景がそこに現出した。イエスはこの狂人を癒そうと決心せられたが、何よりも先ず彼を屈服せしめらるる必要を認めて、その慣用の手段たる彼の錯乱した頭より生ずる妄想に準じて、厳かにその仮定の「汚れた霊」に対し、その人より出でよと命ぜられた。すなわち権威を示して狂える精神を支配しようと試みられたけれども、さらに効がなかった。ただ狂燥の発作を起こして『神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか』(マタイ8・39)と叫ばしめしに過ぎなかった(ルカ1・32、35、76参照)
 その効なきを見てイエスは他の方法を用いて『おまえの名は何か』(マルコ5・9)と、狂人の本心を喚起せんと考えつつ問われた。彼の有する妄想はその口から漏らされた。彼は「汚れた霊」が一つに非ず、幾千入り込めるものと思倣していたのであった。当時天下無敵のロオマの軍隊が通過する毎に、民衆はこの不可抗の暴君の威勢を思わざるを得ずして、その軍隊の名はユダヤ人の口にもまた膾炙(かいしゃ)するところであった(マタイ26・53参照)。この憐れむべき狂者は「汚れた霊」の一軍団が入り込めるものと思倣して、さながらに「汚れた霊」の口吻を藉りて『私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。』(マルコ5・9)と答えた。
 8「豚に関する事件」 かくてなお「汚れた霊」のために、彼は『この地方から追い出さないでください』とイエスに祈った。主の柔和な人格より出づる権威は自ずから彼を支配し始めたが、彼は到底敵すべからざるを感じつつもなお「汚れた霊」と同体なるが如くに思倣して、追い出さるるを恐れ、「汚れた霊」の去るを惜しんだ。そのとき恰も豚の大群ーー二千匹以上のものが、はるか彼方に草を食んでいたが、狂人は一策を案出して『私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください』と妥協を申し込んだ。これも不健全な観念であったけれども、イエスはなおこれを認容せられた。今や患者はイエスの支配の下に自由に委ねらるべき機会が来たのであった。『行け』(マタイ8・32)と命じ給うや、驚くべき光景が現出した。豚は山腹より荒れ狂い、駆け出すよと見る間に、断崖の下、湖の中へ落ちて溺れ死んだ。

2022年3月18日金曜日

Days of His Flesh 受肉者耶蘇(上)

待つ人に 枝伸ばしての 蕾なる 
 デービッド・スミス(1866〜1932)というスコットランド人の方がおられる。私はこの方の書かれた本を数年前に「復活書店」という古書バザールを主宰している方の店頭で発見した。邦訳書名は『聖パウロの生涯とその書簡』『受肉者耶蘇』の二著でいずれも日高善一訳であった。

 爾来、何度か手にとっては眺めている。日高善一氏の筆になる名文達意の翻訳ではあるが、ほぼ100年ほど前の文語調の訳文で、しばしば原文はどうなっているのかと思いをめぐらし、やや隔靴掻痒(かっかそうよう)の感に襲われたりするときもある。

 ところが、今回、青木澄十郎氏の『マルコ伝の一日一文マルコ伝霊解』を掲載させていただく機会に、『受肉者耶蘇』を並行して読む機会が多くなった。そしてこのデービッド・スミス氏の本は『聖パウロの生涯とその書簡』に匹敵する大著であると確信するようになった。

 そんなある日、脳裏にかつて読んだオズワルド・チェンバーズの伝記の一文がよみがえってきた。本ブログでもご紹介したエジンバラ訪問https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.htmlの折も、私はブックレット風の『Oswald Chambers』というDavid W. Lambertの本を肌身離さず携行していたのだが、その中に次の一文があった。それはチェンバーズが1907年に日本への初来日する際の船室内での一エピソードを紹介したものである。(同書43頁より引用)

The diaries of the voyage to Japan make fascinating reading. Ghambers gave himself to reading, and we note among the authors on his list at this time were George MacDonald, Walter Scott, and Crockett; also, more serious, Westcott's Gospel of the Resurrection and David Smith's Days of His Flesh.

 この文章の最後に何気なく紹介されている本こそ今から100年前に京都室町の牧師日高善一氏がデービッド・スミス氏から許可を得て翻訳し、江湖(こうこ)に提供した本である。その本がまわりまわって今私の手元にある。『いと高き方のもとに』でお馴染みのオズワルド・チェンバーズが33歳のころこのDays of His Flesh.を船内でもう一冊の本と一緒に瞑想しながら日本にやって来た(この時、中田重治もいっしょだったのだが・・)ことを思うて感一入(ひとしお)の思いがする。

 デービッド・スミスは『受肉者耶蘇』の第22章「湖を渡りて隠退」と称して、私たちが今マルコの福音書とほぼ同一箇所を克明に説明している。そして以下の詩は、その梗概(こうがい)とも称すべき詩である。簡潔なうちにみことばのエキスが伝わってくる。(『受肉者耶蘇』上巻366頁より引用)

風は深淵の上に咆え
 波は重なり覆う山に似たり
救い主は眠りより覚め給いぬ
 聖語(みことば)に風浪共に凪ぎぬ 

墓場の狂者はここを
 絶望の住家となしぬ
何気なく足を運び給いし
 彷徨う旅人に悲痛となりぬ

彼はその打ち震うまで美しき眼差しを受け
 その温かく強き聖音を聴きぬ
かくてメッシヤの足許に崩折れつつ
 乳離れし嬰児の如く泣きぬ

   ヒ イ バ ア
マタイ8・18〜9・1、マルコ4・35〜5・20、ルカ8・22〜39

2022年3月17日木曜日

追い払われた悪霊のレギオン(4)

それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5・18〜19)

 イエスはこの地の人に道を伝えたかった。しかし紳士である彼は土地の人の要求するがままにそこを去った。その代わりに土地の人をもって神の道を伝えさせたのである。この地方の住民はユダヤ人ではなかったらしいから、この人はパウロよりも先に異邦人の伝道者となったとも言えよう。

 深いことは何も知らない。ただイエスというお方が神の大能によって自分を癒してくれた立証人(あかしびと)となっただけである。伝道はこれだけでよいのであることを教えられて嬉しい。私どもはたびたび伝道をむづかしく考えすぎる。そして自分の浅い伝道のごときは少しも効果がないように思う。いわゆる大風に灰を撒くようなものであると思って躊躇する。これは主の御心ではない。

 自分が恵まれたら、ただそれだけのことを語る。それだけでよい。信者が出来るか出来ぬかなど考えないでよい。それは私どもの考うべき範囲ではない。ただ一言『主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか』を述べるだけでこの世界は幾分でも天国に近くなるのである。

祈祷

主よ、私に機を得るも機を得ざるもあなたのみことばを伝うる心を与え給え。願わくはあなたのことばは空しくは帰らざることを信じ、あなたの御名のために証する者となし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著76頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なお、以下、昨日に引き続いてクレッツマンによる『聖書の黙想』の81頁の「追い払われた悪霊のレギオン」と題する文章の続きを紹介しておく。 

 しかし、ここに、主を知るにいたっていた一人の人間がいた。イエスと弟子たちが、ガリラヤにもどるために、舟に乗り込もうとしていた時、あのいやされた男が、どうか一緒に連れて行って下さいと熱心に願って来たのである。彼は、イエスと共にいる安らかさと幸福とを思ったのだろう。しかし、先のことを予知されていたイエスは、別のことを望まれていた。主はこの男のために、感謝と信仰にみちた重要な役割を考えておられたのだ。

 主は、この男にその友のために家に帰って、他の誰もが言うことのできないこと、つまり自分の身に神が深い憐れみの中に、いかに大いなることをなさったかを、彼らに告げなさいと命じられた。その男は喜んでこの言葉に従った。そして、デカポリス(十の町)の地方をめぐり歩いて、彼の救い主がしてくださったことを雄弁に告げてまわったので、人々は、驚きにみたされた。

 あがないの救いの力と愛とにふれた者は誰も、そのことを、他人に伝えないで終わることがないように!) 

2022年3月16日水曜日

追い払われた悪霊のレギオン(3)

すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。(マルコ5・17)

 何と悲しい心を持つ人たちであろう。これほどの奇蹟を見、これほどの人格に接しながら、イエスに近づこうとはせず、かえって去り給わんことを求めた。先刻、汚れた霊が『自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した』(10節参照)のも無理はない。

 イエスに去らんことを求むる人たちの住むところは汚れた霊の住みよい場所であるにちがいない。私は霊界の有様を多く知らない。しかしこの話によって汚れた霊という者はたくさん存在する、そして私たちの意外とする様々な働きをするものであることが示されてただ戦慄するばかりである。

 しかし、イエスは彼らの上にも絶対の権威を持ち給うゆえに、主にある間は彼らの私たちに触れることはできないことを知って安心する。

祈祷

主イエスよ、願わくは、私と共にいまして私を去り給うなかれ。願わくは、サタンをして私に近づく余地なからしむるまでに、常に私とともにいまし給え。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著75頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。  なお、以下、昨日に引き続いてクレッツマンによる『聖書の黙想』の80頁の「追い払われた悪霊のレギオン」と題する文章の続きを紹介しておく。  

 わたしたちは、豚の群れの飼い主の痛手を察することができる。彼らは町にとんで行って町やその近くにこの話をふれまわった。そこで、人々は何ごとが起こったのかとのぞきにやって来た。そして実際にそこで目にしたものは、彼らを驚かせた。

 今や事実、多数の悪霊から解放され、きちんと着物をつけ、正気にもどったあの男が一人の異邦人、イエスの足もとに、おとなしくすわっているのを見て、ある神秘な力の前にいるようなおそれを感じた。しかし、かと言って、この奇蹟の真実性については疑うべくもない。かつて悪霊たちにとりつかれていた哀れな男の上に起こった出来事を語りうる目撃者たちも沢山いたし、水の中には、豚の死体が浮かんでいるのが見られたにちがいない。

 しかし豚の群れの損失のゆえか、それともこの神秘的な異邦人に対する恐れに心を動かされたのか、人々は、主にどうか去っていただきたいとと乞うた。明らかに、彼らは福音を聞こうとする心がなかったのである。なんと多くの人が、ちょうどこのような姿をしていることか。彼らは、このかたこそ悪魔の力をほろぼすために来られたかたとは気がつかない。彼らにとってはこの世的な損失の方が、天の賜物よりも、大きな意味を持っていたのである。

2022年3月15日火曜日

追い払われた悪霊のレギオン(2)

それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。(マルコ5・5)

 単なる狂人ではない。悪霊の宿った人である。この人から出でて豚の群れに入った事実によっても単なる精神錯乱でなかったことがわかる。この人から出た時に豚の精神を錯乱させたではないか。イエスの時代にはこの種の悪霊の働きがかなり多くあったように見受けられる。

 この人は肉体的になやまされているから、非常に恐ろしく思われるが、よく見ると私どもの霊魂の自画像ではないだろうか。もしマルコの記述が正確であるとすれば、暴風の中にも、狂人の中にも、イエスの命令を聞き分けその交渉に応じ得る霊が住んでいることを示すものである。かかる霊界が存在している以上は人間がいかにもがいても自ら救う能わざるものであって、天来の救いを要することは明らかではないだろうか。

 私どもには感ぜられないが。サタンは今でも霊魂に対してはもちろん、肉体の中にも、社会の中にも、自然界の中にも働いて、神の王国の代わりに、サタンの王国建設を企てているのである。

祈祷

神よ、私たちは20世紀の文明を誇る。されどサタンの王国もまた大なる力をもって建設せられつつあるを見る。而して私たちの力は弱し。神よ、救いの神よ、速やかにあなたの腕の力を現わし、この世界を彼の手より掠奪してあなたの御手にかえし給え。御国を来たらせ得る者はただあなたのみなるを知ればなり。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著74頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なお、以下、昨日に引き続いてクレッツマンによる『聖書の黙想』の79頁の「追い払われた悪霊のレギオン」と題する文章の続きを紹介しておく。

 この大騒ぎのさ中に、イエスと弟子たちは来あわせたのだが、様子は、直ちに一変する。イエスの一行がまだ遠くはなれている時から、この悪霊にとりつかれた人は、彼を主と認め、走り寄って、その足もとにひざまずき大声をもって、イエスをいと高き神の子と口にした。キリストはけがれた霊にこの男から出て行けと命じられると、けがれた霊は、自分は主とかかわりを持とうとは思わず、またそれが当然だと感じていた罰をどうか容赦してくれと哀願した。

 弟子たちと近くに立っていた人々のために、イエスがけがれた霊にその名前をたずねられると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と答えた。またこの時、悪霊たちは自分たちをこの土地から追い出さないでくれと願いつづけた。しかし、その要求がききとどけられないと感ずると、できるだけ多く、ともかく害を与えたいとの悪魔的な欲望から、悪霊たちは、では、近くの豚の群れにはいることを許してほしいと願った。この豚は異教の土地の住民たちがそこに飼っており、ユダヤ人たちからは忌みきらわれていた動物なのである。

 イエスは、この男が、いかに似つかわしく、けがれた霊とともにいたかを示そうと望んでおられたので、イエスの明白な許しの下に、悪霊に追い立てられたおよそ二千匹の豚は、けわしいがけをすさまじく、湖の中へと駆け下りていって、そこですっかり死んでしまった。)

2022年3月14日月曜日

追い払われた悪霊のレギオン(1)

イエスが舟から上られると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。・・・もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。(マルコ5・2)

 天の父はあまりにイエスを虐待なさるではないかと思われるほどではないか。嵐の中でも、舟板の上でも倒れたらすぐ眠ってしまうほどに働き疲れた肉体に少しの休息も与えず『すぐに』これである。これがパウロの言った『愛の労苦』(1テサロニケ1・3)と言うのであろう。

 父なる御神も何というご苦労であろう。私ども罪の子らを救うには、かくまでなさって下さらねばならないのか。鎖でつなごうとしても、つなげなかった狂人をつなぐものはかかる愛の鎖のほかはなかったのである。神の子の十字架愛のほかに悪魔の鎖をちぎり得るものはないのである。

 恐るべきは悪魔である。今の人は悪魔を無視するが、彼の手より人の霊魂も肉体も救うものはキリストのほかはないのである。

祈祷

主よ、私は悪魔の存在をすら感じ能わぬほどに彼に迷わされております。どうかつながれた私自身を見出して、畏れおののき、一生懸命にあなたの愛の労苦に依り頼む心を起こさしてください。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著73頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なおクレッツマンはその『聖書の黙想』の77〜78頁でマルコ5・1〜20について「追い払われた悪霊のレギオン」と題して次のように述べている。

 荒れ狂う水と、吠えたける嵐をしずめられ、湖の向こう岸に上がられた主は、自然の破壊的な力よりも、人間にとって、はるかにおそろしい危険にみちた力に出会われた。しかし、年経た悪の力が己の地盤に迎えたこの主によって、いかに追い払われていったかを、ここにたどってみようと思う。

 ガリラヤ湖の向こう岸はガダラの地と呼ばれる、異教の地として有名な所であった。ここに着いても休むいとまもなく、イエスはすぐに、人間の力や、小細工で解決するにはほど遠い一つの問題に直面された。主は、悪魔的な力としての、けがれた霊につかれた一人の男に出会われたのである。マタイによれば、実際にはその土地には二人の男がいたとある〈マタイ8・28〉。

 しかし、この男の方がもう一人よりも、ずっとひどく苦しんでいたのは明らかだった。狂人以上の悲惨な状態である。彼は動物以下に扱われていた。彼は湖を望む丘のほら穴の、死人の骨の間に住んでいた。この男と、彼の仲間は、鋭い石で自分たちの体を傷つける時、気味の悪い叫び声を上げるので、近所の人々は、夜も昼もゆっくり休むことができなかった。勇敢なある男たちは、彼らが害をなさないように綱や鎖で何度もつなぎとめようとしたが、彼らの粗暴さを誰もしずめることはできなかった。彼らはすべての足かせを振りちぎってしまうのである。)   

2022年3月13日日曜日

うぶな心でイエスさまを信じ続けたい

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。(マルコ4・40)

 弟子から見ればイエスの沈着と権威とは不思議であるが、イエスから見れば弟子たちの臆病と無力とは不思議であった。いつも天父への信頼に充ち満ちたイエスはたびたび人々の『不信仰に驚かれた』(マルコ6・6)

 イエスにとっては天の父を信仰し得ないということは不可思議なように感ぜられたのであろう。信ずる心は順当な心、人間本来の心、まっすぐな心、あたりまえの心であって、信じない心は不自然な心、ひねくれた心、転倒した心、曲がった心であって、人間ありのままの心ではない。

 うぶな人や子供や処女を見るがいい。信じやすい心を持っている。これが誰でもの心であるべきなのである。社会が虚偽であるために、信じない心を造り上げてしまったのである。だから、神に対してだけは子供のように初々しい処女心を持たねばならない。すなわち信じたい心であらねばならない。

祈祷

主よ、あまりに汚れたこの世に染まり、ひねくれ曲がって初心(うぶ)な心を夢の中に置き忘れてしまった私をあわれんで、どうかあなたに対してだけは常に幼子のごとく、処女のごとく信じやすい心を与えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著72頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。青木氏の霊解はほぼ1節づつていねいになされているが、ややもすると マルコ4・35〜41の全体の流れを読み落としかねない。そこでクレッツマンの黙想を以下引用したい。同書75〜76頁からである。

 長い忙しい一日の働きは、終わろうとしていた。まことの人間である主は、群衆からはなれて、憩いを取る必要を感じられた。それから主は、ご自分のことをかまうことなく、夕食のために休もうともされずに、湖の向こう岸に渡るため、舟をこぎ出すよう命じられた。

 一行は他の舟がついてくるのをとめることができなかった。ぐったりと疲れられた主は舟の艫(とも)にある木を枕にして、眠り込まれた。そうだ、彼こそまことの人でありつつ、全能の神なのだ。絶望にとらわれた弟子たちは、主を求めて空しく終わることはない 。

 つむじ風のような激しさを伴って、周囲の山々から吹き降ろしてくるすさまじい風も、押しとどめられるほかはない。山のような波も主が命じたもう時に、直ちに、しずまらざるをえない。このような力ある方を、彼らの中に持ちながら、なぜ弟子たちはおそれにとらわれたのか。信仰を欠いていたのか。わたしたちの困難や試練が、主の支配の手に及ばないということがあるとでも言うのだろうか。わたしたちはその時思い起こそう。「いったいこの方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。)

2022年3月12日土曜日

風と海さえも順ふ

梅の花 戦火受けずして ほころびる 届けよ平和 神の御旨なり

イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。(マルコ4・39)

 弟子たちの不平はよろしくないが。イエスにこそ不平があって善かるべきではあるまいか。数日の間一生懸命群衆に道を説いて身体は綿のごとく疲れ、せめては舟の中で少しの睡眠をとりたいと思えばこの大嵐。

 天の父はイエスをいたわってはくれないのか。その上に弟子たちは非難がましい声で彼を呼び起こす。が、イエスには少しの不機嫌な様子も見えない。カナの婚宴の時に御母の期待に背き給わなかったのと同様のお心持ちで、弟子の芥子種(からしだね)の如き信頼を嘉(よみ)して神の大権を動かして風と波とを鎮め給うた。

 イエスはご自分のためには一回も奇蹟を行い給わなかったが、人を救うためにこれを惜しみ給わなかった。けだし人を救うのがご使命であるから、いかに神の大権を働かせても神権濫用にはならないのであろう。

祈祷

昔も今も変わり給わぬ主よ、ただ一言もてガリラヤの海と風とを鎮め給いしあなたは今も同じ大権をもって私たちとともにあり給うを感謝し奉(たてまつ)る。願わくは、いと小さき私のために天地の大権を動かすことを惜しみ給わざるあなたの大権を確く信じ、つねにあなたの胸に倚(よ)るの平安を与え給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著71頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なお、The Days of His Flesh』by Smith David邦訳名『受肉者耶蘇』上巻日高善一訳368頁の簡潔な叙述「耶蘇これを戒む」を以下に紹介する。やはり第22章「湖を渡りて隠退」と題する箇所の一文である。  

 耶蘇は目を覚まして、その恐るべき光景を見下ろして『信仰薄きものよ、何ぞ懼るるや』と静かに弟子を誡めつつ、その荒れ狂う風浪をさながら獰猛な野獣を見るが如くに『風をいましめ、かつ海に「静まりて穏やかになれ」と言い』給うや風も海もこれに服した。

 暴風自然に治って、風波の暫時に凪ぐ場合には、その鎮まった後までも、長い間、海には荒れたうねりのあるのが常である。しかるに耶蘇のことばによって『風はやみて大いに和ぎたり』他の小舟もまたその余慶に浴して救われたが、その船員は驚駭と恐怖に打たれ、『これ誰なるぞや、風と海さえも順う』と語り合った。)

2022年3月11日金曜日

何とも思われないのですか

弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(マルコ4・38)

 かく悲鳴をあげた弟子たちの中でペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人はたしかにこの海で育った漁夫である。彼らがあわてるのだからよほどの台風であったに相違ない。が、熟練した水夫が山間で育った木工に海で救いを求めるのは、少し見当違いなように思われる。

 しかし、彼らはイエスには何か大きな力が宿っていることを感じていたからこのように叫んだのであろう。しかり、彼らはまだイエスが神の子であられることはハッキリ知らなかったであろうが、神から遣わされた預言者か何かであろうくらいは考えていたにちがいない。

 だから、困った時にとにかくイエスに叫ぶ。これは左もあるべきである。ただ『何とも思われないのですか』と不平の声、非難の語気がふくまれているのは甚だよくない※。イエスの態度がいかにも冷淡であるとでも思ったのかも知れない。甚だしい誤解であると言わなければならない。

祈祷

主イエスよ、私どもはこの世にあって恐るべき風浪と闘うとき、あるいはあなたが眠っておられるように感じることもあります。でも私どもはあなたの愛と力とを信じて疑うことなく一生懸命にあなたに向かって叫ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著70頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。※主に対する不平、非難は残念ながら私たち罪人の変わらない性質であることを思う。出エジプト15・24、16・2、17・3と荒野を旅するイスラエル人は、苦い水〈マラ〉、飢え、渇水と次々苦しめられ、その都度つぶやいたことがしるされている。しかし、果たして主はそのつぶやきに頬かぶりしておられただけだろうか。マラは甘い水になり、飢えにはマナが与えられ、渇水には岩から水が奔出させられた。すべて主は民の不平非難を覚え、そのみわざはその不平非難を凌駕するものであった。東日本震災11年、ロシヤのウクライナ侵攻から二週間、被災地の復興のさまざまな問題、ウクライナの人々の悲惨さを思う時、前途暗澹たる思いにさせられる。ただひたすら主のあわれみあれと祈る毎日だ。)

2022年3月10日木曜日

暴風怒涛の中、安眠せる主イエス

舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。(マルコ4・37〜38)

 茵(しとね)という漁夫が舟の中で用いる皮か板で造られた小さい腰掛け、あるいは座布団のようなものがともの方に置いてあった。このかたい台を枕として舟板の上にころがって直ぐ熟睡に入られた。いかにも簡単な生活に慣れておられたことが見える。

 ぜいたくどころではない、少しの安楽もなめたことなしに鍛えられて来られたお体であることが知れる。連日の激しい働きでいくら疲れておられたとは言え、打ち込む波で御衣服などもビショビショになったのも知らずに寝ておられたのである。何という大なる熟睡であろう。

 暴風怒涛の中に安眠する沈勇にも驚くけれども、荒波をかぶりながら目もさまさずに居ることのできる肉体の鍛錬には驚くのほかはない。少しの音響にも安眠を妨げられる私どもの神経過敏はむしろ病的と言いたい。しかもイエスは何事にかけても、あれほど敏感であられたではないか。不思議なお方である。

祈祷

神様、私どもは霊魂とともに肉体も堕落しているのであります。安楽を貪り過ぎて、全く病的になっております。どうぞ霊も肉も今少し剛健にして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著69頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なお、昨日に続いてThe Days of His Flesh』by Smith Davidの描写をたどりたい。邦訳名『受肉者耶蘇』上巻日高善一訳367頁からの第22章「湖を渡りて隠退」と題する箇所からの引用である。

 ガリラヤの湖にはたびたび台風が襲ってくる。四囲高い断崖に包まれて、蒸し暑き日の夕暮れには、高原より冷たき空気の恐るべき勢いをもって、この谷間に突撃してくるのが常であった。この日にも、色褪せゆく夕暮れの光を浴びて、小舟の一団の滑りゆく間に、黒雲を飛ばしつつ、篠のごとき雨をそそぐ台風は、異常の狂暴の勢いをもって押し寄せてきた。瞬時にして湖面一帯、狂瀾怒濤の荒れるにまかせる境域となった。激浪は片々たる小舟に迫って、その頭上に砕け、飛沫は舟も沈めと満ちてきた。今一撃にして彼らは覆没するのほかない。

 耶蘇は咆哮する風にも、荒れ狂う浪にも、しのつく雨にも頓着せず、静かに眠っておらるるのであった。恐怖におののく弟子たちは、主を揺り起こしつつ『主よ、主よ、我ら滅びんとす』と嘆願した。

※まさに躍動感あふるる、Smith Davidの描写であり、それを受けての日高善一氏の訳文である。同書は1922年の出版であるから、ちょうど100年前の本になる。引用者は小学4年のころ父親と一緒に琵琶湖で小舟に乗船し転覆しそうな恐怖を味わったことが一度だけある。その昔、ヴォーリズさんは琵琶湖にガリラヤ丸と称する福音伝播の船を走らせたと聞いている。)

2022年3月9日水曜日

さあ、向こう岸へ渡ろう

さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。・・・すると、激しい突風が起こり、・・・(マルコ4・35〜37)

 今日は夕方に家に帰り給う代わりに『 さあ、向こう岸へ渡ろう』と言い給うた。無理解な群衆を離れて静かに弟子らと語り合うためである。弟子らの心は踊ったであろう。今こそ十分に親しく御教えを受けることができる。ある意味において自分たちだけでしばらく主を占領することができるのである。

 ところが忽然として暴風が起こって来た。舟はくつがえらんばかりである。親しく主に触れ奉(たてまつ)るどころのさわぎではない。いのちが危うい。一生懸命に舟を救わなければならない。ああ人生は実にかくの如くである。円満なる幸福を味わい、さらに大なる希望を抱いて進み行くとき、忽(たちま)ちにして暴風に出会うのである。決してそれが悪い希望ではない。しかるに天はこれを妨げる。全く不可解な感を抱くこともある。かかる時こそ疑ったり惑ったりしてはいけない。イエスの如く神を信じて嵐の中にも安眠したい。

祈祷

主よ、嵐の吹くときも、波高く打ち寄する時も、楽しき望みの砕かるるときも、あなたが私とともにおられることを覚えて、あなたとともに安心して眠れる静けさをお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著68頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、このガリラヤ湖の一連のできごとについて『The Days of His Flesh』by Smith Davidに次の描写がある。邦訳名『受肉者耶蘇』上巻日高善一訳367頁より以下引用する。題して第22章「湖を渡りて隠退」

 耶蘇はカペナウムに長く滞在せられなかった。群衆にはつきまとわれ、有司らには苦しめられ、十二使徒の教育に専心努力をせられ得なかった。ゆえに機会を作らんがため、ある日の夕暮れ、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と仰せられた。急ぎ出発して群衆を帰らしめ、「舟に乗っておられるままで」終日の労役にも少しの休憩もせられず、栄養をも摂取せずして小舟に投ぜられた。しかし群衆は耶蘇に別るるを惜しんで、ある者は舟を求めて、同時に出発したのであった。

 耶蘇はその漁夫の弟子たちが小舟を操る間、ともの座に腰を下ろしておられたが、湖上七マイルにあまる航程を、その日の激務に疲労せられ、小舟のゆるやかなうねりと、へさきやふなべりを打つなぎさも心地よきままに、舵手の座を枕に深い眠りに沈まれた。・・・)

2022年3月8日火曜日

十二使徒教育の要諦

イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。・・・ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(マルコ4・33、34)

 時は秋である。おそらくはこの二、三日がイエスのもっともお忙しい日であったろう。前年の一月ごろに伝道を始られめてから約一ヵ年半になって、いわゆる人気の高潮に達した時である。がしかし主はその群衆の大多数は『路傍』の人であり『礫地』の人であり、かなりすぐれた聴衆でも『茨』の畑であることを愈々ハッキリと見抜かれて、しかもたとえの形式ではあるが、これを公衆の前に宣言してしまった。

 実に『光は暗黒に照り、暗黒はこれを悟らず』(ヨハネ1・5文語訳)である。大衆に見切りをつけたイエスは少数の弟子らと益々親しくなって、これからは主に十二使徒の教育に力を注ぎ給うたのである。『弟子らには人なき時にすべてのことを解き給えり』(34節文語訳)と意識した弟子たちはどんなに嬉しかったことであろう。この二、三日は毎朝イエスとともに海辺に出て大衆と共に教えを受け、毎晩家に帰って説明を聴く。まことに天国のような日々であったろう。

祈祷 

主イエスよ、あなたのところに集まって来る者は多いのですが、あなたに聴きあなたに従おうとする者は少うございます。願わくは、私を『路傍』の人、『礫地』の人たらしめ給うことなく、あなたのお弟子のひとりとしてくださり、みことばを理解できる者としてくださいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著67頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、この一連の主イエスのたとえ話に関連して『The Days of His Flesh』by Smith Davidに次の説明がある。邦訳名『受肉者耶蘇』上巻日高善一訳356頁より

 耶蘇のこのたとえを用いられたのは、元来十二使徒教育のためであって、これらの人物を選抜せられたのは、この世を辞せらるるのち、事業を継承せしめんがため、その高遠な職分に対する準備を全うせらるるのが最大重要な事件であった。

 ゆえに耶蘇の特殊の準備はこの十二人に集注せられ、愈倍深く彼らの教育に一身を傾倒せられたのであった。そのたとえの教訓も畢竟、この最大目的を完成せんがための工夫であった。一度たとえをもって民衆に教えられたのち、必ず人なきところにおいて十二人にはその真意を解釈せられた。これ決して民衆を等閑にせらるるのではない。ただ大事業を完成するの機関を整理せんがため、しばらく世界を掌握すべき努力を一部分臨時に弛められたに過ぎなかった。

一方、クレッツマンはその黙想75頁で次のように語っている。

 このように、人々に、ことに単純で無学な人々に、みことばを説き明かすことは、主の常であった。マタイが言っているように、彼らは必ずしもこれらの教えを理解しなかったが、自分たちの日常生活から引き出された説明と一緒にそれを取り上げ、それについて思いをめぐらし、お互いが意見を話し合ったのだろう。

 今日に至っても、これらのたとえは、わたしたちの救いにかかわっている永遠の真理についての深遠な奥義を理解させ、さとらせるために役立っているのである。これらの教えが、イエスと弟子たちだけの時に、彼らに説き明かされたと全く同じように、わたしたちにも明らかにされるとは、なんと恵まれた特権だろうか。イエスと共に過ごす時以上に祝福された時が、他にありうるだろうか。)

2022年3月7日月曜日

からし種のたとえ話(2)

それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。(マルコ4・32)

 先の種蒔きのたとえには『空の鳥(4節)』が悪魔を指しているからここでも同じである。すなわち教会の中に悪魔が働き出すのを預言したのだと解釈する人もある。そうかも知れぬ。

 しかし大多数の学者は神の国の発達の大なることを示したのだと考える※。ある人は空の鳥は世界万国を指すとさえ言っている。自分だけが救われるのでなく『大きな枝』を出して旅する人の蔭となり空飛ぶ鳥の休みどころとなり、すべて周囲に近づき来る者の祝福となるような人格にまで成長するのだと解しても差し支えはあるまいと思う。

 とにかく、私たちの信仰、私たちの教会は、死物であってはならぬ。否、ほんものであるならば、死物ではあり得ない。死物でないから、停滞し得ないはずである。常に動き、常に働き、間断なく生長する、しかも生き生きとした緑色を呈して、見る人に快感を与えるものでありたい。

祈祷

主よ、枯れ木の野中に立てるが如き私をあわれんでください。私には枝もなく葉もなく、緑の色の潤いもなく、道ゆく人の蔭とならず、空の鳥さえ宿ることができません。願わくは、あなたの霊をもって再び私を生かし、水のほとりに植えた樹が時に至って実を結び、葉もまた萎まないような者にしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著66頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。※KGKの『聖書註解』はその828頁で次のような見解を述べている。

 このたとえには、御国の膨張を、とるに足らぬはじまりからの展開として見る見方と、空の鳥〈悪の霊〉を宿すほどに異常に大きく発展するとする見方〈キャンベル・モルガン〉の二つがある。後者の見解には、象徴の使用で一貫性がある〈例、鳥はこのたとえでも、たねまきのたとえでも悪を表わす〉点でまさっており、歴史的にも支持されている。それは教会が、コンスタンチヌス帝の時、思わぬ輝かしい地位と保護を得た時から堕落し始めたことによってもわかる。他方、伝統的な見解は、より単純で、神の言葉の究極の繁栄を楽観し確信しているこの章全体の流れとも一致する。)  

2022年3月6日日曜日

からし種のたとえ話(1)

それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり・・・(マルコ4・31〜32)

 厳密に言えばからし種より小さい種はあるけれども、当時一般によく知られた最も小さい種はこれである。しかも暖国ではその生長驚くべきものがあって、人間が枝の上に登り馬がその蔭に休むほどになると言う。

 キリストの蒔き給う種はその中にある生命の力が強大であって、個人としてはその全人格を支配するに至り、社会的に全世界に広がる。このたとえはキリストの教えが単なる言語や教理でなく、人の心に生きて働く生命であることを説かれたのである。と同時に当時の弟子らを奨励するために、神の国の発展を預言し給うたのである。

 神の言葉はあるいは路傍、あるいは礫地に、あるいは茨の中に落ちることああっても決して失望するな、全体として見るならば遂に世界的勢力となる時が来ると約束し給うたのである。

祈祷

主よ、何はなくとも私にからし種のような信仰を与えてください。たとい小さくても生きた信仰を与えてください。少しずつでも毎日生成する信仰を与えてください。否、ついには大きな樹になるまで成長してやまない信仰を与えてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著65頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。) 

2022年3月5日土曜日

相談されるような主の話し方

珍しや 白鳩見たり 散歩道

また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。」(マルコ4・30)

 主イエスは如何に聴く人々の心に注意深く語られるお方であったかがうかがわれる。あたかも聴衆と相談するような態度で語っておられる。いわゆる『ひとりよがり』と言ったような態度をなされないお方である。これは主のご性格の一部を示しているように感ぜられる。まことに同情深いお方であるから多くの人々を前にしてお話をなさる時にも決してその一人一人の心の向き方をいいかげんにはなさらない。

 自分一人が大演説をなして大衆に聞かせると言った態度をお取りにならず『我ら』とおおせられて『お互いに考えて見ようではないか』というような態度をとられたことは誠にゆかしくもあり、真の教育家でいらっしゃったことを思わずにはおられない※。天国の真理を無理やりに注ぎこもうとはなさらないで、一緒に考えるように導いて啓発して下さることは実にありがたい思し召しである。

祈祷

主イエスよ、あなたと私とは天と地とのように、あなたの知恵の富は高くしてこれを仰ぐことさえできません。ところがあなたは私を友と呼び、私と友のように語り、親しく私のことばをもって私に語ってくださることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著64頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。※欽定訳聖書はWhereunto shall we liken the kingdom of God?とあり、文語訳聖書は「われら神の国を何になずらえ、いかなるたとえをもて示さん」とイエスさまが私たちをふくめて発言なさっていることが文章構造上見えるようになっている。青木さんはもちろん、文語訳聖書をもとにこの霊解を書いておられる。)

2022年3月4日金曜日

収穫の時来たらん

水ぬるみ はるのいぶきと こだまする※

実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。(マルコ4・29)

 これを世界の終末と見ても個人の死と見てもおなじではあるまいか。この世は畑である神の国が順当に育ち行けば必ず収穫の時が来る。キリストは神を信ずる人の死について、また世の終末について輝く希望を持っておられる。死は敗北でなく、収穫であり、信仰の生涯を終わった人は熟した穀物のように天国に収穫される。

 パウロが『今からは、義の栄冠が私のために用意されている』(2テモテ4・8)と叫んで従容(しょうよう)として死に臨んだのもこの信仰によるのであろう。使徒ヨハネはこれを世界的に見て、『「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。』(黙示14・15〜16)と預言している。

 私たちはこの世の甘き酒に酔ってこの深刻な事実を忘れてはならない。日々の歩みはこのゴールに向かって進みつつあることを忘れてはならない。

祈祷

神よ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。願わくは、私たちをしてその一日をも空しく過ごさせないでください。あなたの雨に浴しあなたの日に照らされ、月毎に年毎に、次第に熟した実を結んであなたの収穫にふさわしい者としてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著63頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。
※ウクライナ危うし、国際情勢は混迷し、無辜の民のいのちが奪われる。今日も整骨院のお世話になった。如月に拝見した先の絵は弥生に至り、この絵に代わっていた。主なるイエスさまは刻々と近づいておられる。あだや「春のいぶき」を疎かにするまじ。 ) 

2022年3月3日木曜日

みことばの成長である神の国

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。(マルコ4・26〜28)

 このたとえでは『種の成長』が語られる。神のみことばは、それ自身が生命を有する『種』である。本当に人の心に落ちつきさえすれば、自然に発芽し、自然に成長する。もちろん自然というのは神を除外した自然でない。人間の力を除外した自然である。

 本当に神のみことばを受け入れた者はくよくよと心配せずともその信仰は自然に成長する。これは私たちの衷(うち)に働き給う聖霊によるのである。ただし、信仰の成長には順序がある。初めには苗、次には穂という具合である。気を悪くしてはいけぬ。ゆっくりと静かな心で神の霊にまかせていればおのずから生長して実を結ぶ。

祈祷

父よ、願わくは、ひながめんどりの羽の下で安心しているように、私があなたの暖かいふところの中で安心できる心を、つねにお与え下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著62頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 )

2022年3月2日水曜日

そこひもしらぬいのちのみことば

また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。(マルコ4・24)

 イエスは今枡の下に灯火を置くなと言ったが、すぐ同じ『枡』をたとえとして神のみことばを聴く心得を説き給うた。マタイ伝ルカ伝にも同じことばがあるけれども、前後の関係がちがい、意味がちがっている。イエスは同じたとえをもって異なった真理をいろいろと説かれたのであろう。

 マタイ伝ルカ伝では人を量れば、同じ量で自分も量られるという意味であるが、ここでは人に対するのでなく、神および神のことばに対する態度を教えたのである。神のみことばは実に『種』である。まことに含蓄が大きい。意味が深い。だから聞いたところによく注意せねばいかぬ。

 大きな深い量で量れば底知れぬ深さがある。大きな量で量る人には『さらにその上に増し加えられます』。すなわち一層深く一層大きな神の奥義が示される。神のみことばはへりくだって祈り、深く読む人の前に開かれる。

祈祷

神よ、私をしてみことばの同情なき読者(よみて)たらしめ給うなかれ。願わくは、あなたの霊は私とともにあってみことばの中より昔のように私に奥義を説き聞かせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著61頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。今日の箇所は何度読んでもわかったようで私には今ひとつ理解できない。それで聖文舎刊行の間垣洋助さんのマルコの福音書の註解を調べたら同書77頁に次のような文章が載っていた。参考までに、載せさせていただく。

 24節以下の言葉も神の国に関して言われたことであるから、「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ」を、隣人を遇する態度いかんによって、神の態度がきまるという道徳的理解は、ここにない。

 したがって「量る」という言葉自体が意味を持つのでなく、「その量りで」というところに中心点がある。すなわち、人間の態度いかんによってということが問題なのであり、人間の神に対する態度、言いかえると信仰の態度に応じて、神の国が与えられるのである。

 神のみこころは、人を救い、神の国に入れることにある。しかし、神は人間を機械的に無差別に取り扱うのでなく、人間が神に応答し、御国を来たらせてくださいと祈り求める時に、その人に神の国が与えられるのである。)

2022年3月1日火曜日

あかりは燭台の上に

また言われた。「あかりを持って来るのは、桝の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4・21〜22) 

 貧しい家の中に一つの寝台(低い棚のようなもの)、一つの枡、一つの灯火(浅い火皿に灯心と油を入れたもの、カンテラの類)しかなかったことが暗示されている。そのほかにカンテラを載せる台が一つある。

 イエスはこれらの貧しい家具を見回しながら弟子たちに教え給うた。カンテラを低い寝台の下に入れれば暗くなるし、火も消えかかる。枡の下に入れれば全く暗黒となるし、火も消えてしまう。蒔いた種が地中にかくれるのはしばしのみである。今、弟子たちの心にのみ天国の奥義を注意深く蒔きつけ給うのは将来全世界にひろがるためである。

祈祷

主イエスよ、あなたは貧しい家に住み、貧しい生活の中に天国の奥義を見出し給えり。願わくは、私をも生活のそれぞれの方面の中に、天国を見出させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著60頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。)