それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6・5〜6)
『行なうことができず』とは強い言葉である。マルコはよくも思い切って『できず』と書いたものである。マルコは四福音書の著書の中でイエスの能力をもっとも高唱するする人である。しかるにここに『できず』と書いたのには確実な根拠があるに相違ない。それは明らかにペテロから出たものであろう。
ペテロとてもイエスご自身の言を聞かなければ、かように不敬なような語を伝えるはずがない。ああ、イエスにも不能を嘆息し給う場合がある。全知全能なる神の周到なるご慈愛も不信なる者を救うことができない。不信は神をも不能ならしめる恐るべき魔力を有する。凡ての敵よりも恐るべきは不信仰であり、凡ての罪悪よりも恐るべき罪悪は不信仰である。
祈祷
神よ、願わくは私を不信仰より救い給え。偉大なるあなたの右の胸をも動かすに余地なからしむる不信仰より私を救い出して、みわざを私の衷(うち)に遂げさせ給うよう信じ従う者とならせ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著90頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。以下の文章は昨日のクレッツマンによる『聖書の黙想』の続きである。
彼らの不信仰に深く失望された主は、彼らのために何もなすことができなかった。もし人々が、彼を信じないならば、せっかくの主の力と知恵も、何の善きことをももたらさないだろう。責任は、主にあるのではなく、人々にあるのだ。そこで主がなされたすべてのことは、喜びと信仰とをもって彼を受け入れた少数の人々をいやすだけにとどまった。
一方郷里の人々の不信仰は、彼をあやしむまでになったが、主はなおも、近くの村々で教え、まわられた。その愚かな偏見によって、今日でも多くの人々が救いを失っているのはなんと悲しむべきことだろうか。)