彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。(マルコ9・8)
天界は忽ちにして開け、忽ちにして閉じた。モーセとエリヤは忽然として現われ、忽然として消え去った。ただイエスだけは、いつものままのイエスだけは彼らと共に在った。もちろんこれは率直な事実の記事であって、何らの教訓でもないが、人生はかくの如きものであろう。私たちにも天が開けたような法悦や歓喜に胸を踊らすこともあるか、それは地上の生活では永続するものでない。また単調無味な日常に帰らなければならない。しかし私たちは如何に平凡な生活に帰っても平凡な姿のイエスだけは残っていることを覚えたい。そこには尽きざる平凡の慰めがある。
祈祷
主イエスよ、あなたは最も多く平凡の中に私たちと共におられることを感謝申し上げます。願わくは、平凡なる生活の中に平凡なるあなたを楽しむことができるようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著151頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 なお、 A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』上巻325頁より、昨日の「イエスへの励まし」の続きである「キリスト者への教え」を語っている箇所である。
次に、変貌の出来事がそこに居合わせた弟子たちに、また彼らを通して仲間の弟子たち、すべてのキリスト者に何を教えたか、ということを考えてみたい。この点で重要なのは、天からの御声に添えられた「彼の言うことを聞きなさい」という指示である。この命令は、特にイエスが十二弟子に語られたのに、彼らが正しく受け止めることのできなかった十字架の教えと関連がある。つまりそれは、キリストがご自分の苦難について、また、弟子たち全員に十字架を負う義務を課すことについて語られた一言一句が、完全に是認されたことを意味している。ペテロとヤコブとヨハネの三人は、いわば、師から聞かされた喜ばしくない主題のすべてをわざわざ思い起こすために招待されたのであった。そして、師の言われたことがすべて真実であり、神の御旨にかなっていることを確認した。 いやむしろ、天の御声はこの弟子たちがその教えを不承不承受け入れたことに対する、「つぶやくことをやめ、信仰を持って従順に聞きなさい」という鋭い叱責のことばだったとも言えよう。弟子たちが六日前と依然として同じ考え方だったことをさらけ出した以上、この叱責はなおさら必要であった。
少なくともペテロは、まだ十字架を負う気持ちになっていなかった。眠くてたまらなかった状態から覚め、はっきりした意識を取り戻して、去って行こうとする二人の見慣れない人物を見た時、その弟子〈ペテロ〉は思わず、「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と叫んだ。彼は十字架を負うといったことを何もせずに、天の祝福を満喫したように思い込んだ。そんなわけで心の中で次のように思ったのである。「信じようともしないであら捜しばかりしているパリサイ人や、気の毒な人々のいる下界で、罪人たちの矛盾に耐え、地上の呪われた多くの害毒と戦うよりも、聖徒たちといっしょにここに住むのは、なんと素晴らしいことでしょう。先生。ここにいてください。そうすれば、近づいている不吉な苦難に別れを告げ、意地悪い祭司長、長老、律法学者の手ももはや届かないでしょう。太陽が輝き、天が口づけするこの丘の上にとどまっていてください。気が滅入るような陰気な謙卑の谷へ降りて行くのは、もうやめてください。地上と十字架よ、さらば! 天上の栄冠よ、ようこそ!」
ペテロの愚かなことばをわかりやすく言い換えてみたが、彼がそう口走った時、真夜中の見事な光景に目がくらみ、放心状態にあったことを忘れてはならない。しかしながら、それを認めたとしても、そんな怠惰な提案がペテロのその時の心境を示している、という事実を否定することはできない。ペテロは酒にではないが、酔っていた。酔っている時に人が物を言うことにもその人なりの特徴が示されるものである。ペテロが幕屋について無頓着にしゃべったことの中にも、真面目な意味があった。まさにペテロは、彼が思わず語ったとき天からの来訪者たちが振舞っていたように、彼らに去らずにいつまでもとどまっていて欲しい、と願ったのであろう。
このことは、山を降りる時、イエスと三人の弟子との間で交わされた会話から明らかである。ペテロと二人の仲間は師に尋ねた。「すると、、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」〈マタイ17・10〉この質問は、その直前にイエスが弟子たちに「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられたことに関するよりも、山上の光景がすぐ消え去る一時的なものであったことに関連していた。三人の弟子たちは、二人の天の来訪者がまるで、天使のように短時間姿を現しただけで、あっという間に立ち去ったことに失望し、当惑していた。彼らは御国が回復される前に、また御国を回復するためにエリヤが来るという通説を受け入れていた。そしてこの時、ついにエリヤがモーセと一緒にやってきた、と思った。ちょうど南方からつばめが渡って来ると夏が間近で、寒い冬が完全に終わったしるしであるように、栄光の時の近いことが告げられた、と考えたかったのである。まさしく、師が十字架を宣べ伝えている間中、彼らは栄冠を夢見ていた。そして私たちは、最後まで彼らがそのような夢を見続けていたことを知るであろう。
「彼の言うことを聞きなさい」ーーこの御声は、三人の弟子のみでなく、また十二弟子に対してのみでもなく、彼らと同じくキリストに従うことを告白したすべての人に対するものであった。その御声は、次のように全キリスト者に告げている。「イエスの言うことを聞きなさい。イエスが自分の苦難とそれに伴う栄光ーーそれこそ御使たちも知りたいと願っていた主題であったーーについて語る時、それを理解するように努めなさい。イエスが、すべての弟子に課せられた義務として十字架を負うように宣告する時、その言うことをよく聞きなさい。血肉の人間の身勝手は提案や、自己の目的を第一にして私利私欲を求めるように誘うサタンの試みに耳を傾けてはいけません。重ねて言うが、イエスの言うことを聞きなさい。この世に飽きてしまってはいけません。自分の重荷を投げ出そうとしてはいけません。日の下で行われるさまざまなことにかかわるのを避けて、人里離れた山中に住む隠者のように、自分だけの安住の幕屋を夢見ることはやめなさい。男らしく自分の務めを全うしなさい。そうすれば、時が来て、天幕のような手で造った家ではなく、天において永遠に住まう神殿を与えられることになるでしょう。」
真実、この肉体と呼ぶ幕屋の中にあって、悲しみの世に住んでいる私たちは、重荷に耐えかねるように、苦しみ悶える時がある。これは私たちの弱さである。そして、このこと自体は罪ではない。時によってはため息をついたり、「十字架が過ぎ去ってくれたらなあ」と思わず口に出すことも罪を犯すことではない。イエスご自身でさえ、時に、人生の疲れを覚えられることがあった。そうした際、イエスの口からいらいらしたことばが出た。山を降りて下界で行われていることを知った時、イエスはただちに、そこに居合わせた律法学者たちの不信仰、弟子たちの弱い信仰、罪の呪いの結果をまともに浴びた人類の悲惨に関連して、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と嘆かれた。
愛に満ちた人間の贖い主〈イエス〉でさえ、善を行なうのに飽きるーー罪人たちのちぐはぐさにでくわしたり、弟子たちの霊的な弱さを担うのに飽きるーー誘惑を感じられた。従って、そのような飽きを瞬間的に感じたからといって、必ずしも罪を犯したことにはならない。むしろ、それは私たちが負うべき十字架である。だが、それに溺れたり、打ち負かされたりしてはならない。イエスはそのような感情に屈服してしまわれることはなかった。ご自身が住んでいた世について不満をぶちまけられたが、世のために愛の労苦を惜しまれなかった。叱責のことばをぶちまけることによって心の重荷を軽くしてから、イエスは気の毒なてんかんの子を連れてくるように命じ、その子をいやされた。※引用者註 ブルースはここでは「変貌」をマルコ9・20まで射程を伸ばして述べている。)