2013年2月28日木曜日

うたがいから信仰へ(3)

昨日は今年3回目の家庭集会※
あれは、結婚して長男が誕生したころだったと記憶する。足利市の松林が生い茂る静かな環境に位置した県営住宅に私たちは居を構えていた。その家内が妊娠初期にそれと知らず、近くの行道山に山登りをしたために具合が悪くなり、その後何日間か絶対安静を命ぜられた。生まれて始めて、他人(家内)の身辺の世話をした。信仰を持ち、新婚早々だから苦にはならなかった。

ところがお産のあと家内の世話に義母がかけつけてくれた。その時、私の内に、家内が何気なく義母と話しているのに、私が二人からはじかれていると思い込み、言い知れぬ嫉妬心がムラムラと湧いて来た。それは自然人としての幼すぎる私の感情であった。私はうろたえるばかりであり、その思いを押さえることができなかった。これから何日もこの義母がいるのはありがた迷惑とばかり、二人から離れたくなり家を出てしまった。くわしいことは覚えていないが、その行動で困ったのは何の責任もない家内と義母であった。私は自己の内側に起こっている感情を正直に言うこともできず、ごまかして何もなかったかのように家に戻り、何とか聖人君子として表面を装ったように思う。

どうしてこんな他愛もない私事を書く気になったかと言うと、昨日の

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7・12)」

という、みことばの実践に関わる隣人を真に愛することの失敗の一例になるのではないかと思ったからである。O.ハレスビーはそのみことばが実践できない人間の本来の性質を6段階にわけて考察しているが、このことを実際に実行しようとしてみても不可能なことを経験するだろうと順を追って述べる。そして、その後半で次のように語る。

「第五に、あなたは利己主義のただ中で、あなたはどれほど不誠実であるかを経験なさるでしょう。あなたは利己的ではないのだと人々に信じさせたいとせつに望むのです。人々があなたを誤解して、あなたは自己犠牲の行為をしているのだと考えるとき、・・・あなたは喜ぶのです。あなたが利己的な悪い行為をして、それを人々が知るようになったとき、あなたはなんとかしてあなたの行為を見上げたものに見せようとしたり、あるいは、そのことを利己的な理由でしたのではなくて善意をもってしたのだとか、風向きが悪くなると、あなたがそれを愚かさあるいは思慮のなさの中でやったのだと、人々を信じさせようとしてその言いわけをしていることを知るのです。あなたが利己的であったことを認めることは、あなたが愚かであったことを認めるよりもあなたにはもっとつらいのです。

第六に、あなたはご自分に対して誠実でないことを体験なさるでしょう。あなたが今気づきはじめなさることはまた、事実よりももっとりっぱな光の中で、ご自分の行為をご自分に説明してきかせようとしていらっしゃるということです。ご自分の悩んでいる良心を平静にするために、たくさんの技巧や細工を用いなさるのです。 (中略)

これらの簡単な、しかも根本的な道徳的経験をおもちになるならば、「あなたがたも、悪い者ではあっても」(ルカ11・13)ということばで、慎重に私どもの特徴をえがき出しておられるとき、イエスのおっしゃることは正しいんだということを、あなたはご自分で悟られることになるのです」(『私はなぜキリスト者であるか』21〜22頁)

主イエス様は、どんな人に対してもそのまま「わたしのところに来なさい 」(マタイ11・28)と手を差し伸べておられる。私が42年前のことを急に思い出したのは、それまで家内の世話を献身的にしていたように見えたとしても、たった一遍の自分の思い(嫉妬)を主イエス様のところに持っていかず、家を出て、ごまかし闇に葬りそのままにしたことである。葬り去るのではなく、そんなことはそもそも人間にはできない(現にこうして私はO.ハレスビーの書物を通して鮮明に昔の罪を思い出しているからである)ことを悟り、正直にイエス様の御前に出て罪を悔い改めることであったと思う。まことに

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。(旧約聖書 エレミヤ17・9〜10)

人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7・21)

(※昨日の家庭集会〈引用聖句2テモテ4・6〜8題名栄光の冠を受けるには〉にも主イエス様を求めて遠方から来られた方がおられた。そして喜んで帰られた。主イエス様はうたがう者を信仰を持つ者へと変えてくださる方である。次回は3月13日(水)14:00からである。)

2013年2月27日水曜日

うたがいから信仰へ(2)

スイス・レマン湖 by Nobuo.Y
私が10代後半に友人からキリスト信仰を紹介されたにもかかわらず、即座に否定したのは、科学という絶対的な真理を盾にしたものでした。もし神が存在すると主張するなら、神の存在が誰にでもわかるように証明できるはずだ。それができない限り信じられないというものでした。しかし、今にして思えば、その立論の奥にはどうしても崩されたくない自我があったことに思い当たるのです。したがって、昨日の最後のみことば「彼らは理由なしにわたし(イエス)を憎んだ」は私にとっては大切なみことばです。なぜなら、私は意識していなかったのですが、まるで自らを理性の王者であるかのように客観的であると自負していたのですが、真相は心の中には様々な問題を抱えていながらイエスを憎んだとしか言えないからです。

O.ハレスビーはそういう私のように懐疑するために懐疑している者でなく、確信が持てず何とかキリスト信仰にたどり着きたい人のために、まず新約聖書を読むことを勧めています。そして次のように言っています。(実は私自身も後に、いつの間にか、今度は婚約者からキリスト信仰を勧められ、聖書を不承不承ひもとかなければならなくなっていたのですが)

「あなたは、聖書の超自然的な起源に疑問をもたれ、同様に、新約聖書の中の奇跡の記事の大部分、おそらくその全部に疑問をもたれると、私はまず考えるのです。それにもかかわらず、新約聖書をお読みなさるようお願いします。(しばらくの間あなたの知性にあまりにいやな気を起こさせるものを読むことを省きなさい。残るところを読みなさい。それは、あなたをうたがいから引き出し、キリストについて、またキリストについての聖書のあかし全体についての個人的な確信に入る助けを与えるのに十分なのです。)

イエスは、ご自分に関する大小幾多の教理を受け入れたり、前もって承認したりするようには聴衆に要求せられなかったのです。イエスは、むしろ、彼のもとに来て、その声をきき、彼に従うように人々にすすめをなさったのです。

どういうことが起こったでしょうか。正直にそのことをした者は、みな、イエスを体験して、彼がご自身について語られた事柄の真理であることを、すぐ自分で確信するに至ったのです。その人たちが、体験した事柄、また自分で確信するに至った事柄を後に至って言い表わしたとき、その結果が新約聖書でありました。」(『私はなぜキリスト者であるか』15〜16頁、かっこ内は18頁)

ここで何よりも勧められているのは、ひとりひとりがイエス(の仰せ)のところに出てイエスを体験することが求められているということであります。これが2000年来、変わることのない、聖書が真理であることを納得する道なのです。なぜなら聖書の真理は「体験」をとおして明らかにされる性質を持っているからです。イエスは次のように言われました。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(新約聖書 ヨハネ7・17)

このみことばは何と適切なみことばでしょうか。絶対的な真理と確信したいのなら、あなたは神のみこころを行ないなさい、とイエス様が勧められているからです。すなわち傍観者、認識者でなく、行為者としての人間という人格を持つ者にしか問われない責任が明らかにされているのです。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7・12)

これは私たちひとりひとりに対するイエス様の勧めのことばです。 これは今からでも実行できる勧めです。

2013年2月26日火曜日

うたがいから信仰へ(1)

懐疑者はいつの時代でもいます。現にこの私自身が懐疑者でした。懐疑者には二種類あることを最近『私はなぜキリスト者であるか』というO.ハレスビーの新書版の本で知りました。自己の立場(スタンス)を正当化するためにキリスト信仰を疑う人と、キリスト信仰を求めながらも、確信が得られず相変わらず不安定な精神生活を繰り返さざるを得ない懐疑者があると彼はその本で述べています。

そして彼は前者の人は私の本の対象者ではない、と断ります。しかし、私はこの本を読みながら、自らの苦い体験を思い出しました。それは浪人生活のため京都で下宿した時のことです。その下宿はたくさんの浪人生を泊まらせる専門宿でした。食事時に田舎から出て来て動作ののろい私は、各自が配膳せねばならないのですが、いつもお味噌汁をすくう段になると、先に行った人がすでに具を平らげているので、かすも同然の汁でがまんしなければなりませんでした。それでこれでは身が持たないとばかり、下宿屋さんに文句を言ったのです。それも半べそをかきながら喚(わめ)いたのです。

その時、自らの立場を正当化するために、よくもあんなことを次から次へ言ったかと思うほど、下宿屋さんの「悪政」を糾したのです。その折の主張としてはどうみてもお門違いの議論(おまえは、私の父が結核であることを知っていながら、こんな栄養価のない食菜、しかも商売のためとは言え、もともと少ない量を与えてよくもまあー平気だなあー、と)をふっかけたのです。それをどこかで聞いていたんでしょう。同宿人の三重出身のY君が「わしもまったく同感だ、こんな下宿屋は一時も早く出てしまおう」と言って、すぐ別の下宿先を見つけてきてくれました。だからその下宿は一月しかいず、その後半年ほどいることになる大徳寺の某塔頭にお世話になりました。打って変わって(お寺であるのに)、肉類が豊富に出て二人ともすっかり満足したのです。

そもそも自宅浪人のつもりでいた私ですが、わざわざ京都にまで出て来た理由の一つに、恥ずかしながら、父親が結核なので罹患を恐れての行動がありました。しかもその父親のスネをかじっているのに、予備校の授業はおもしろくないとばかり行かずに、自らの力を過信し、大学入学後の夢ばかり描いて、結局はろくに勉強もせず、目的の大学に入れませんでした。

このような私にキリスト信仰を勧める友人がいなかったわけではありません。しかし、彼が勧めても、頭から聞く意志はありませんでした。土台、キリスト信仰を受け入れるには余りにも天と地ほどの開きがあったのでしょう。自己中心の生活を続けている私には無理だったのかもしれません。ハレスビーのこの本の冒頭に次のような文章があります。

疑う者に二種類あります。第一に、疑うことの好きな者があるのです。そのわけは、その疑うことが、その人たちを、良心の呵責からのがれさせるからなのです。その人たちは、下品なはばかるところのない罪とか、普通の世俗を愛することとか、外見的な道徳性の自己満足で営んでいる利己的な生活とかを捨てようとしないのです。良心がその人たちをなやますとき、それを平静にするのにその人たちが手にする最善の方法はうたがいです。

このことが、疑うことを貴重な所有物として守り、それと離れようとしない人々を見るわけであります。その人たちは、自分のうたがいを強化する文献を選びます。キリスト信仰にかかわる問題を討論するあらゆる機をつかまえます。討論で、反対者を納得させることに成功しなくても、少なくとも、自分だけはそのたびごとに、信じている反対者を狼狽させて、窮地に追いやることができたといっそう安心するのであります。(『私はなぜキリスト者であるか』岸千年訳11〜12頁より引用)

考えてみますと、主なる神様は私が罪の渦中にある、すべての時に様々な形で語りかけてくださっていました。それを私は「うたがい」という形でつねに対峙していたのではないかと思うのです。私にとって次のみことばは真理です。

『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』(新約聖書 ヨハネ15・25)

(カット写真として用いさせていただいたのは『私はなぜキリスト者であるか』の表紙の絵である。この絵がどんな意図で描かれたか、まただれの作品かわからない。しかしよく見ていると、何となくルカ18・9〜14が背景になっていると思う。読者はいかに思われるだろうか?)

2013年2月25日月曜日

小羊の怒り(下) ゴッドホルド・ベック

彦根城大手門橋から西方面。右手奥は彦根西中、滋賀大学。2010.2.24
三番目、将来、大ぜいの人々は「何」を祈っているのでしょうか。今読んだように、「私たちの上に落ちかかれ、私たちをかくまってくれ」と祈るようになります。こういう人たちは主の前に出るよりも、死のほうを望んでいます。彼らはかつて自分の罪を認めようとしなかったのです。そして、小羊の提供された救いを受け入れようともしなかったのです。そして今、「小羊の怒り」から逃れようとしています。しかし、裁きと「小羊の怒り」とから誰も逃げることはできません。

ヘブル人への手紙の9章の中で次のように書いてあります。399頁になります。ヘブル人への手紙の9章27節になります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」いつか死ななくちゃいけないでしょうと、人間はみなわかっている。け(れ)ど、死んでから死後に裁きを受けることについて考えると、ちょっと問題になるのではないでしょうか。代表者、唯一のまことの弁護士であるイエス様なしだったら、もう悲劇的です。神の裁きと「小羊の怒り」とは、夢ではない、恐るべき事実です。「だれがそれに耐えられるでしょうか」と将来の人々が叫ぶのです。しかし、これは心からの問いかけではなくして、単なる恐れから出た叫びです。誰も主なる神の裁きに入る時にはその裁きがどのようになるのかという疑問は持っていないのです。なぜなら、小羊の裁きが正しいことを人間は認めざるを得ない。

最後に、三つの質問を考えてみたいと思います。第一番目、私たちは「いつ」祈るなのでしょうかね。今、恵みと受け入れられる時に祈るのでしょうか。それとも、恵みの時が過ぎ去り、すべてのものが揺り動かされる時に祈るなのでしょうか。あらゆる人間にとって一番大切なのは、「祈り」・「助けを求める」ことです。イザヤ書の55章6節、素晴らしいことばが書き記されています。1117頁です。イザヤ書55章の6節です。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」祈ることとは主を呼び求めることです。助けを心から求めることです。

二番目、「誰」に向かって祈るなのか。生けるまことの神に向かって、イエス様をとおして永遠の救いを提供しておられる主に向かって祈るなのか、それとも後の日に岩や山に向かって祈るのでしょうか。結局、祈る対象は考えられないほど大切です。人間はほんとうに苦しむようになると(悩むと)「神さま助けてくれ」と言うでしょうが、この神とはいったい誰なのでしょうか。宗教と関係している神は空しい。まことの神は宗教と関係のない方であるからです。

(三番目、)「何」を祈るなのでしょうか。一時的な自分の守りについて祈るなのでしょうか。それとも不滅の魂のために祈るなのでしょうか。永遠のいのちのために祈るなのでしょうか。永遠のいのちとはどういうものか、今もちろんまったくわかりません。初めて完全な者として造られたアダムとエバでさえも永遠のいのちを持っていなかったのです。造られたいのちにすぎなかった。永遠のいのちは造られているものではない。イエス様は「わたしがいのちです」(と、言われた)。イエス様を受け入れた人は意識しないでしょうけれど、間違いなく永遠のいのちを持っている。行き先は決まっていると信じ、前向きに生活することができる。

今の時に罪人の私をあわれんでください、と祈ることこそがもっともたいせつです。いつか後の日に、岩や山に向かって、私たちの上に落ちかかれと祈っても終わりです。罪人の私をあわれんでくださいと祈るほうがはるかに賢明なのではないでしょうか。その人の罪が主イエス様の流された血によっておおわれている人だけがその日には守られるのです。ダビデはみこころにかなう祈りをしたから、喜んで言うことができました。詩篇の32篇1節2節だけ読みます。お宅で全部、初めから終わりまで読んだほうがいいと思います。856頁。詩篇32篇1節2節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」

イエス様は今の時代には、なお救い主です。しかし、裁きの日には「救い主」でなくて「裁き主」になります。われわれの生活の基礎はいったい何なのでしょうか。イエス様の成し遂げられた救いなのでしょうか。基礎がイエス様にある人は幸せです。詩篇の2篇12節を読むと次のように書かれています。2篇12節「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」

イエス様を信ずる兄弟姉妹にとって来たるべき真っ暗な裁きの日に対して二つのことが言えるのです。すなわち私たちにとっては、まず、まだ救われていない知り合いの人々のために絶え間なく祈るということ、そしてその次にそれらの方々をイエス様のみもとに連れてくるために、いわゆる愛の労苦をするということこそ要求されています。どういう人々は今救われているかと言いますと、救われていない人々のために心から祈られている人々ではないでしょうか。多くの人は「いやあ、信じています」「信じています」と言います。しかし、救われていない人のために心配して祈らない人(と)は考えられないのではないでしょうか。なぜなら私たちはどうしてイエス様を信ずるようになったか。主はあわれんでくださったからだけなんです。け(れ)どいつか天国へ行くためではないョ、悩んでいる人、困っている人、孤独になった人々をイエス様のみもとに連れて行くために救われたのです。

イエス様は生きておられます。このイエス様は貧しくなった。無視されても、悪口言われても、イエス様は口を開かなかった。黙って死に赴かれるのです。どうしてでしょうか。イエス様は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた。それは私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためです。富む者とは大金持ちではない。健康人でもない。私でさえも受け入れられている。神の愛を受ける資格はないけれど、愛されているからありがたいと素直に信じ、感謝している人々ではないでしょうか。

(ベックさんはこのようなメッセージを一週間のうち何回となくされている。蚕はせっせと桑の葉を食べては糸を紡ぎ出す。60年間、語り続けて来たベックさんの源泉は桑ならず、神のみことばである聖書である。みことばは食べるものである。食べるからこそ蚕はあの美しい絹糸を生み出すのだ。われらもかくあらん!)

2013年2月24日日曜日

小羊の怒り(中) ゴッドホルド・ベック

彦根城大手門橋の東方面。奥に見えるのは彦根東高校。2010.2.24
将来、多くの人々も結局祈るんです。山や岩に向かって。そういう祈りは全く意味のないことです。普通の祈り会にはそんなに多くの人が来ないかもしれないけれど、ここでは数えられない大変多くの人が来るんです。ここには七つの異なったグループの人々があげられています。七という数字は完全な数であります。ということは、小羊の救いを拒んだすべての人がここに来ているということになります。

「恐怖」が彼らを一つにしたのです。したがって最も強い者も力を失ってしまう。主なる神の提供された救いを拒んだ、思い上がった人々は、もぐらのように、ほら穴の中に隠れようとしています。け(れ)ど、これらの人々は落ちかかって来る原子爆弾から私たちを守れと言っているのではなくして、御座にいる方から、また「小羊の怒り」から守ってくれと叫んでいます。これらの人々は原子爆弾や人間の前に隠れているのではなくして、「小羊の怒り」の前に隠れようとしているのです。

この箇所を見ながら三つのことを考えましょうか。まず第一番目、「いつ」彼らが祈っている(の)でしょうかね。二番目、「誰に」向かって祈るのでしょうか。そして三番目、「何を」祈っているのでしょうか。

この祈りの時は「怒りと裁き」の時です。すなわち彼らの祈りはすでに遅すぎます。今のわれわれの時代は聖書によると、「恵み」の時代、「救い」を得る時代であります。すなわち今日罪を悔い改めてイエス様のみもとに来る者は罪の赦しを得、永遠のいのちを自分のものにすることができるのです。

聖書においては、父なる神の怒りについては確かに多くのこと書き記されています。けれど「小羊の怒り」については余り書いていない。小羊である主イエス様の怒りということは結局、完全なる破壊を意味します。その愛からいのちを与えられたお方が今怒っておられます。もしも主なる神の怒りをわれわれの代わりに受けてくださったそのお方が怒られる時、だれがこれに耐えることができるでしょうか。もしそうであればすっかり駄目です。小羊が怒られる時にはもはや救いがありません。

ちょっと、逆のことを見てみましょうか。ロマ書8章31節と32節です。277頁になります。皆さん、何回もお読みになった素晴らしい箇所です。8章31節32節ですね。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

イエス様がわれわれの味方であれば、だ(あ)れもわれわれの敵となることができません。け(れ)ど、イエス様がわれわれの敵となればだれが救いを与え、いやすことができるのでしょうか。小羊が怒られる時にはすべてがおしまいです。

二番目、「誰」に対しておおぜいの人々が祈っている(な)のか。ここで書かれているのです。ちょっと考えられないことです。 「山と岩」に向かって、彼らは祈っているのです。これは全く空しい、役に立たない祈りです。確かに聖書の中によくイエス様の御名を呼び求める者が救われる、と約束されています。ただ神の救い主のもとにのみ救いがある、と聖書は言っています。イエス様は聖書において岩そのものと呼ばれています。今日もなおイエス様に自分の支配権をゆだねる人は揺るがない永遠の岩の上に守られるに違いない。け(れ)どもこの人たちは山や岩に向かって熱心に祈りますが、それは全く意味のないことです。無駄なことです。

ちょうど初めの人間であるアダムやエバが主の前から逃げようとした時のように。恐怖と不安とがこれらの人々を捕えているのです。罪の赦しと呵責(※)とが人間を主なる神様の前から逃れさせるのです。罪が人間を臆病者に、そして神の前から逃げる者にさせるのです。もしかすると今日来られた方々の中で主の前から逃げている(方がおられる)かもしれない。そのようなことをやめて悔い改めてイエス様のもとに帰ったほうが幸せです。イエス様こそがほんとうの逃れ場そのものです。そしてイエス様はもちろん人間ひとりひとりを待っておられます。受け入れて赦そうと望んでおられるのです。

(語られる中で時々頁数が出てくるが、いずれも新改訳聖書第二版の頁数である。※意味が不鮮明だが、正しくは「罪の責めと良心の呵責」と言うべきところだろうか。)

2013年2月23日土曜日

小羊の怒り(上) ゴッドホルド・ベック

彦根城・馬屋の梅 2010.2.24
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 (新約聖書 2コリント8・9)

今読んでくださった箇所を通してわかることは、イエス様はどうして来られたのか、犠牲になったのか、空しいものになったかと言いますと、私たちは富む者となるためです。富む者となるために、言うまでもなく、へりくだることです。自分の空しさですか、自分のみじめさを知ることです。聖書全体の言わんとしていることは次の箇所でしょう。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」有名なイザヤ書57章15節のことばです。

へりくだるということは、たとえて言うならば、イエス様の前にあわれな乞食のような者です。心砕かれた人です。そしてイエス様の光によって自分の空しさ、自分のみじめさを知っている人なのではないでしょうか。自分には主の御心にかなったものが一つもないことを知ることなのではないでしょうか。もっとも大切な祈りの一つは、ルカ伝18章に出て来るのですが、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』このような祈りは、必ず聞き届けられます。このような祈りをささげる者は絶対に後悔しない。このような心の態度を取ることだけが要求されています。非常にありがたい事実なのではないでしょうか。

ダビデは多くのいわゆる詩篇・祈りを書いたのです。彼の心をあらわす一番大切なのは多分詩篇32篇と51篇なのではないでしょうか。51篇の17節に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と彼は書き記したのです。どうして? 結局、彼は体験的に知るようになったからです。へりくだることとは、自分が強く偉大な富んだ者ではない、本当にみじめでどうしようもないことを認めることです。

イエス様は貧しくなられた。もちろんこの大宇宙を造られる前に、イエス様は想像できない栄光を持っていたのです。け(れ)ど、イエス様は貧しくなった。イエス様の貧しさとは何であるかと言いますと父なる神に対して自分で選んだ依存です。 イエス様は父なる神から聞いたことだけを語った。父なる神が行なったことだけを行なったのです。ですから、私たちは一生懸命四福音書を読んでもイエス様はどういうお方であったか、ちょっとつかめません。われわれ人間は全く違うからです。イエス様の唯一の変わらない祈りは「わたしの思いではなく、みこころだけがなるように」自分は、別に、どうでもいい、無視されても、悪口言われても、イエス様は全部(父なる神に)ゆだねたからあらゆる不安・心配から解放されたのです。すなわちイエス様は決して自分で勝手になさることはなかった。父なる神に全くより頼んだ。いつも父の御心に服従なさったのです。「わたしの思いではなく、あなたの思いがなるように」ちょっと想像できない、考えられない態度でした。なぜならば、この世に来る前にイエス様は何でも知っておられたし、何でもできたのです。何の不自由もなかったのです。けれどもこの地上に来ることによって本当に束縛されてしまいました。

黙示録の中で将来のことについて色々なこと書いています。われわれはイエス様に祈れば、助けを求めればイエス様は聞いて下さる。けれども、将来のことについてちょっと考えられないこと書いています。黙示録の6章15節から、444頁ですね。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」(6・15〜17)

ここで「小羊の怒り」について書いてあります。普通だったら、小羊のささげられたいのちについて、小羊の変わらない愛について書いてあるのです。けれどもこの箇所を見るとやはり、この小羊なるイエス様の愛は変わるものですって。「小羊の怒り」と書かれているからです。イエス様ははっきり約束してくださいました。すなわち「わたしは迎えに来ます」。もちろん、今度十字架の上で死ぬためではない、わたしに属する人々を迎えに来るためです。このいわゆる空中再臨の時、主の恵みによって救われた人々は皆、瞬間的に見えなくなる 、死を見ないでそのままよみがえりのからだを持つようになり、イエス様と一緒になる。それだけでなく、その瞬間、いわゆる恵みの時も終わります。そのあとのことについて前に読みました聖書の箇所によると多くの人々は祈るようになります。もう一節見てみましょうか。ルカ伝の23章30節153頁になります。「そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます」とあります。

前に読んだのですがロシア、ソ連のレーニンという男とはもちろん神を否定していましたし、神がいない、いない、それを信じなければ殺されるべきです(と主張していました)。もう何万人、彼を通して殺されたかわからない。けれども彼は死にそうになったのです。そして彼は祈るようになったんですって。誰に向かって祈ったかと言うと、テーブルと椅子に向かって祈ったのです。けれどいくら立派なテーブルであっても、丈夫な椅子であっても答えはない。気の毒です。結局生きている間に祈らない人はかわいそう。祈ることとは、もちろんまず頭を下げることであり、助けを求めることです。助けを求めなければ、この世でもっとも気の毒な人々です。なぜなら助けを求めなければ、助け主を知る可能性はないからです。

(今週水曜日上尾で家庭集会があった。私は出席しなかったが、出席した方から、良かったので、是非筆耕して欲しいと言われ、CDを預かった。語るのはゴッドホルド・ベックさんでドイツから1953年に来日され、今年で満60年になる宣教師の方である。自分の日本語が完全であるかはわからない、自分は日本人として一人前でないといつも言われるが・・・。これを機会に三回に分けて掲載する。)

2013年2月21日木曜日

良い地は実を結ばせる!

忍耐と 告げるかのよう 三須臾
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(新約聖書 ルカ8・15)

私たちは、今日はじめて、神のことばを聞いて救われた人についてまなぶことができるのです(※)。

最初に私たちが教えられることは、救われた人たち、すなわち、良き地は、みことばを受け入れたということです。これが第一歩です。語りたもうのは神であって、その神のことばが人の魂に来るときに、いわゆる霊の目ざめとなるのであります。神から語りかけを受けて、霊の眼が開かれた者は、神に召された人とされるのです。

神のことばをきいて、それに従う者は、新しい人とされるのです。ほんとうに人が生まれ変わるためには、まず神のことばを受け入れ、そして日ごとにおこたらずに祈らなければなりません。

「主よ、私はあなたの御声に耳を傾けていますからみことばをきかせて下さい。私の罪、とが、あやまちを私に悟らせて下さい。あなたが語りたもうときに、その御声を聞きわけるようにして下さい」と。

このようにして日ごとに神からのことばを待つ者には、信仰の実がすみやかにみのりはじめるのです。

その人は最初に、罪の重荷に苦しみ、また悲しみます。次に、過去におかしたさまざまの罪、人に知られた罪や、心ひそかに犯した罪を一つ残らず神の告白します。そうすると、罪深い自分自身が恐ろしくなって来るのです。

自分というものに、自信が持てなくなります。自分という者は、罪を心から悲しむこともできなければ、憎むこともできず、神を愛することも、信じることもできない者のように思われて来るのです。それにもかかわらず、キリストなしには生きることはできないのです。が、人の魂がこのような状態におちいったときに、神のめぐみが授けられるのであります。キリストの十字架のみが、彼らの唯一のさけどころとなるのです。

この信仰の実を結ばせるものは、忍耐であると、イエスは教えておられます。

実を結ぶということは、たしかに、容易なことではありません。なぜなら、信仰の実は、私たちのこの目に見えるものではないからです。

種は人の知らない間に育つものであります。

(『みことばの糧』O.ハレスビー著岸恵以訳2月21日の項より引用。※2/18ルカ8・5、2/19マルコ4・5〜6、2/20ルカ8・14と著者は種まきのたとえについて過去三日間で説明してきた。さて、ハレスビーがどのようにして主イエス様を信じたかを詳しく詳述した本に『私はなぜキリスト者であるか』岸千年訳がある。それを読むと、今日の箇所がいかに彼の体験から来たものであるかがわかる。それにしても最後のことば「種は人の知らない間に育つ」とは言い得て妙である。三須臾もまた連日の寒さの中じっと耐えて、黄色き花を咲かせようとしている。植物のように素直でありたい。)