2016年12月14日水曜日

身代わりになって下さった王様

私は王だけを打ち殺します(2サムエル17:2)
 
 王に敵対するならず者の無益な脅しはカヤパの言い分に似ていたように思われます。それは「自分から言ったのではない(ヨハネ11:51)」のであり、私たちに「イエス様についてもっと」教えるために書かれものであります。致命的な一撃は「王だけ」に向けられていたものでした。というのは王は人々の「一万人の価値」があったからです。もし王が殺されれば、民は逃げねばなりませんでした。

 別の箇所のダビデのことばは、そうあるべき偉大な反対の人物像の意欲を語っているのでしょうか。「わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください(1歴代誌21:17)。」「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれた(イザヤ53:8)」それゆえに、私たちが打たれたのではありません。決して私たちが打たれたのではないのです。

 組み込まれている建物の代わりに避雷針を直撃する稲光はその燃え立つ力を消耗し尽くし、もはやそれ以上は撃たないのです。

「王だけ」なぜなら「主は私たちの罪のきよめを成し遂げられた(ヘブル1:3)」のだ
確かに その時 私たちはそのことと何の関係もなかった。
確かに 他のどんな人もどんな手段もいかなる関係もなかった 
そして確かに 今や 何事も 誰も その偉大な事実に触れることができない
イエス様が「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました(1ペテロ2:24)。」それは人間の言い逃れやお節介の達し得ないはるかなことだ
「私たちが弁明をしなければならない(ヘブル4:13)」お方が
私たちの代わりに 神から殺されたという事実で 十分じゃないか
私たちは自らの救いの保証としてほかにどんなものを望むのか
 
「今は見えるということです(ヨハネ9:25)。」
けれども  焼き滅ばされる地と天の分離でなく
人に絶望的な叫びをさせる 恐ろしいビジョンでもなく
いや 私には厳粛な言明がわかる
すべての者が罪を犯した だからすべての者が死なねばならぬ 
不服従の聖なる教訓 全世界は罪ありとせられねばならない
ちりに伏して 沈黙のうちに 今私には神が義であることがわかる

「今は見えるということです(ヨハネ9:25)。」
いや 私が愛しているのは
栄光でなく 主の御顔でなく
上なる不思議なる完全に燃え尽きる物語でもない

いや私は
神が話され どのように神の愛される御子が
人が破った律法をどのようにして守られたか
人が犯した罪のために死なれたかが  わかる
死に よみがえり 上なる王とされた
今 私は 神が愛であることを知る


(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-14-our-royal-substitute/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97513です。

※Godhold Beck(114)

『聖書とは何か』第二部[3]

 今まで私たちは第一番目としてみことばを宣べ伝える者としての預言者について、そして第二番目はみことばを宣べ伝えるお方としての主イエス様について考えましたが、今度、第三番目になりますがみことばを宣べ伝える者としての使徒たちについて少しだけご一緒に考えて見たいと思います。「みことばを宣べ伝える者としての使徒たち」

 神は新約聖書における使徒たちを通しても私たちに語られました。私たちは新約聖書においても神のみことばを受け、使徒たちのことばが、旧約聖書の預言者たちのことばと同じように、権威あることを正当に要求できる預言者たちを見出すことができます。主イエスは12人の弟子をお選びになりました。そしてイエス様は彼らを使徒とお呼びになったのです。ルカ伝6章13節に
夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。

と、あります。「使徒」、すなわち遣わされた者たちはイエス様御自身によって召され、特別に呼び出され、装備を与えられ、彼らの口に神のみことばを与え、大いなる権威もお与えになりました。二、三ヵ所を見るとわかると思いますが、マタイ伝18章18節
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

と。またマタイ伝10章の19節20節に
人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。

ルカ伝10章16節
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」

ヨハネ伝20章21節に
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

と、あります。使徒たちは主イエスのみことばの委託された宣教者です。このことについてそれは祈りの中で次のように言われたのです。ヨハネ伝17章14節と18節です。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

18節
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

と。主イエス様が使徒たちのもとから離れ、天に上られる時、使徒たちの口を通して今から語られるのは聖霊であると約束してくださいました。従って私たちは使徒たちの書いたものにおいて彼らを通して語られた聖霊の語るのを聞くことができます。

 主なる神は新約聖書の中でご自身を啓示なさるのに12人の使徒たちだけに限定しませんでした。パウロのような使徒も全く同じようにお召しになったのです。ガラテヤ書1章17節に
先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

と、書いてあります。パウロは諸教会の前で上からの召しを通して使徒であることを認められ、彼の福音が第三者からではなく、直接主ご自身から来るのであるのを強調し、そのことに最大の価値を置いています。

引用者註:前回がイエス様が預言者であること、前々回は旧約聖書の預言者について述べられていた。今日のところではイエスの弟子12人が使徒とされたが、彼らも預言者であることがその使命であったことがわかる。そしてそれは聖霊の働きに他ならないことが確認され、最後に新約聖書の多くの書を書いたパウロもまた預言者であることが示唆される。 ) 

2016年12月13日火曜日

As the Tree Falls, So It Lies


あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守られます。(詩篇32:7) 
各々みな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになる(イザヤ32:2)

 いかなる時も、もはやかなたの救いの可能性の黄昏もなく、恵みあるあなたの日は、失せるでしょう。そして次に木が倒れるように、あなたも葬られます。死があなたに訪れるように、裁きがあなたを訪れるでしょう。あなたが見出されるところ・・・そこで主の日はあなたを見出すでしょう。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます(2ペテロ3:10)。」

 天も地もあなたが立てる場所まで与えない時、あなたはどうしますか。しかし、イエス様のところに来なさい。主はその恐ろしい嵐からあなたを守る隠れ場所です。「私はあなたの中に、身を隠します(詩篇143:9)。」「やがて来る御怒りから(1テサロニケ1:10)」「あなたは私の隠れ場です。」

あなたは永遠のいのちのみことばを
持っておられます
あなたは戦いに勝利を下さいます
あなただけが変わることのない友です
私たちはいつまでもあなたにお頼りします
生にあっても死にあっても
私たちは世の救い主から逃れ出て
あなたのもとに急ぎます

Thou hast the words of endless life;
Thou givest victory in the strife;
Thou only art the changeless Friend,
On whom for aye we may depend:
In life, in death, alike we flee,
O Savior of the world, to Thee.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-13-as-the-tree-falls-so-it-lies/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97512です。本文も詩も思い切って意訳した。間違いを指摘していただければ幸いである。

※Godhold Beck(113)

『聖書とは何か』第二部[2] 

 今まで私たちは神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについて見て来ましたが、これからは第二番目になりますけれど、神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス・キリストについて見てみることにしましょう。私たちは旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは新約聖書に移って、神が新約時代の預言者を通してお語りになったかどうか訊ねてみたいと思います。新約聖書の比類なき預言者は主イエス様ご自身です。主イエス様は完全な認識を持った神の預言者でした。申命記18章18節に次のように書き記されています。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。

と、書いてあります。このみことばはイエス・キリストを通して成就されたのです。主イエス様はこの地上に来られた時、父なる神は自ら主イエス様を公に認めました。いかなる人間も主イエスが偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、主なる神は天を開き、聞き取ることの出来る声でおっしゃいました。「これはわたしの愛する子、汝らは聞くべし」と。マタイ伝17章5節に
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

と、あります。主イエス様はただ単に時間に制約されて神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られすべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者だったのです。主イエスの口から出たことばは、いずれも直接神のみことばでした。主イエスは預言者として比類なき地位を占め、他の預言者と同列に置くことができません。主イエス様について次のように言われています。ヨハネ伝1章の18節です。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と、ありますし、また3章の31節〜34節までに次のように書いてあります。
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

と、あります。主イエス様自ら、ご自身について上から、完全な啓示、すなわち父なる神のみことばを伝えなければならないと証なさいました。ご自身についての主の証しは何と力強いことでしょう。ヨハネ伝8章23節
それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。

28節
イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」

12章49節50節
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」 

また17章の8節に
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

と、あります。このようなみことばを読むとイエス様が比類なき預言者であることが分かります。主なる神は御子をとおして語られましたが、それは動かすことのできない事実です。ヘブル書1章2節に
この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

と、あります。私たちはイエス・キリストの口を通して言い表わすことの出来ない素晴らしい神の啓示を見ることができます。

引用者註:今日は火曜学び会であった。メッセージは1コリント3・1から「霊的なキリスト者を目ざして」と題して語られた。その終わりの席で、ベック兄のクリスマス・プレゼントがありますとアナウンスがあった。いずれもベック兄が生前使っておられたものがテーブルに並べられた。私も一本ネクタイを頂戴して来た。話は飛躍するがイエス様はそのようなもの、片身になるものは何一つ残されなかった。でも残されたものがある。それは「みことば」である。これぞ、類いなきものであることが、この『聖書とは何か』と題するベック兄の恐らく40年近く前のメッセージの聞き書きで分かることだ。)

2016年12月12日月曜日

持続する喜び

薔薇ひとつ 悩める人を 励ませり

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:11)
 
 主にある喜びの幾分かを知ったが「けれどもその喜びは持続するのですか」と訊ねたのは誰でしょうか。そして、なぜまだ終わりもしていない始まりにあたってその疑問がそんなにしばしば起こるのでしょうか。なぜなら、私たちは自分自身や他の人の喜びを訊ねたのであって、主だけの喜びについてではなかったからです。この絶えず起こって来る疑問に対する主ご自身のお答えは、主の子どもたちが非常にしばしば示す用心深く冷やかで悲しませるものとは大いに異なります。主ご自身のお答えは絶対的であり、十分であり、繰り返されるものです。 

 私たちは喜びという主の良い賜物を自分自身や他の人々に対して疑い深くそれゆえに不信仰な「もし続くなら」ということでもって満足させている時、私たちがどれほど反聖書的であるかということをほとんど認識していません。おお、「おしえとあかしに尋ねなければならない(イザヤ8:20)。」幸せなキリスト者よ、そこにあなたは私たちの喜びの輝きの上にある唯一の影に対する真の豊かな答えを見出すことでしょう。あなたがそれに関して主のことばを信じている限り、喜びは非常に長く持続することでしょう。

 あなたが、別の相談者に訊ね、その代わりに彼らのことばを信ずるやいなや、すぐに喜びは駄目になるでしょう。イエス様があなたのむつかしさに対抗されるのは明らかなことでしょう。主は、なぜ最後の談話で恵みあふれることばを話されたかの理由を話すことにより、それに対抗する準備をなさったのです。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあるように」と。


おお あらゆる不信仰の日々の後の 自由と熱情よ
おお 絶えず新しい感謝と 絶えず湧き出る賛美よ
私たちは イエス様から目を離し そそのかされるのですか
疑惑の影を 投げ捨て
「もし続くなら」というささやきにより
暗示するサタン自身の暗やみのことばを投げ捨てないのですか
 
O the freedom and the fervor after all the faithless days!
O the ever-new thanksgiving and the ever-flowing praise!
Shall we tempt the gaze from Jesus, and a doubting shadow cast,
Satan's own dark word suggesting by the whisper "If it last"?

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-12-lasting-joy/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97511です。本文の訳も苦労したが、最後の詩の部分は英文の構造がつかめず、誤訳の恐れがある。読者の適訳をお願いしたい!

※Godhold Beck(112)

『聖書とは何か』第二部[1]

 有名人の聖書観についてちょっと考えてみたいと思いますが、マルチン・ルッターは「聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない、聖書は永遠のものである」と言いましたし、ニュートンは「いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する」と。ヴォルフガング・ゲーテは「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます」と。ナポレオンは「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」インドのガンジーは「私の生涯にもっとも深い影響を与えた書物は聖書である」リンカーンは「聖書は神が人間に賜わった、もっともすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に読まれている」ルーズベルトは「聖書を教えない単なる教育は無責任な人に鉄砲を渡すようなものである」また山室軍平は「聖書は世界中宇宙第一の書物である」と言ったのであります。

 前に始まったテーマについて、すなわち、みことばを宣べ伝える者としての預言者についてもう少し考えてみたいと思います。

 主なる神が差出人であり、人間が受取人であります。預言者たちは神の声を聞き、みことばを受け取るわけです。預言者たちは神のみことばを宣べ伝える者となります。このようにして特別に神によって召し出された人々のことを聖書は預言者、宣べ伝える者と呼んでいます。したがって、預言者は言わば、神の通りよき管のようなものであり、預言者はみことばを直接主なる神から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。すなわち預言者の特別な使命は主なる神から受け取ったみことばを人間に伝えようとするならば・・・することに他なりません。そのように聞いたことをそのままの形で伝えることを聖書は「霊感」と呼んでいます。預言者は神の啓示を直接見たり聞いたりします。主なる神は行動するお方であり、みことばを与えて下さるお方です。これに対して預言者は単に受身的に参加し、見たり聞いたりするだけです。神のみことばは言わば預言者たちを襲ったのです。決して預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。

 イザヤは前回学びましたように主を見たのであり、主の声を聞いたのであります。そして、彼は自分の無力さ、罪深さを知るようになっただけではなく、彼は主の恵みによって聖められ、用いられる器となったのです。エレミヤもまた同じことを経験しました。主のみことばが彼に臨んだのです。しかも、全く直接、臨んだのです。すなわち次のとおりです。エレミヤ記1章9節。
そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。

と。私たちは普通イザヤからマラキまでの預言者たちを文字どおり預言者と呼びますが、聖書は主なる神が直接お語りになられたすべての人たちを預言者と呼びます。彼らはただ単に将来起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは過去のことをも宣べ伝えます。彼らは神から受け取ったことばを宣べ伝えます。ですから、モーセは自分のことを預言者と呼んだのです。申命記18章15節に
あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

と、あります。同じようにダビデは預言者と呼ばれ、そして大部分ダビデによって書かれた詩篇は神の直接のことばと呼ばれます。使徒行伝2章30節と31節に
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

と、あります。

 聖書が旧約聖書全体をまとめようとすると、モーセと預言者たちということが一般に言われているわけですが、したがってまた歴史的な書物も預言者によって書かれたものであるゆえに神のみことばとなるわけです。ルカ伝16章29節に
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

また24章の27節に
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

とあります。神は預言者たちの口を通して語られました。これは聖書のハッキリとした証言です。使徒行伝から三ヵ所見てみたいと思います。使徒行伝1章16節
「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

と、あります。 3章18節
しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。

4章25節
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

と。この証言は何と力強いものでしょうか。旧約聖書の統一された証言は神のみことばです。これはまことに神が預言者たちに語られたみことばです。預言者たちのことば、すなわち旧約聖書が神のみことばであるということが歴然とした事実であるとすると、そのみことばを聞く者が真剣に聞く耳を持つべきであり、主なる神のみことばとしてそれを絶対に肯定することが要求されます。したがって、旧約聖書全体の誤解されない要求は「聞け、従え」というものです。申命記18章19節に
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。

とあります。また詩篇95篇7節と8節をお読み致します。
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

そして、エレミヤ記7章23節24節に
ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

と、あります。預言者たちが宣べ伝えた神のみことばに対して従順であるということは、旧約聖書の道徳のすべての土台です。

引用者註:有名人の聖書観を披露するに当たって最後に日本人に敬意を表するために山室軍平氏を登場させられた。残念ながら聞き書きではもう一つ意味が取れない文章になってしまった。今日また山室氏を知る人は少ないだろう。救世軍の司令官であった人。しかし、今日のこの件[くだり]は、ベック兄がいかに聖書を大切にしておられたかが、旧約聖書の預言者がどういう者であるかを紹介される中で明らかにされる。真剣に旧約聖書を神のみことばとして読み、決しておろそかにしてならないことを教えられた。)

2016年12月11日日曜日

愛によって引き寄せられて

永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31:3)

 今、ちょっと自分の心を探って見てください。主の愛はそうでなかったのでしょうか。主があなたを引き寄せられたのは誠実以外の何かほかのものがありましたか。主があなたを導かれた方法を思い出してごらんなさい。その道はとげでもって囲われていたかも知れません、しかし愛が敷き詰められていなかったですか。まさしく石は美しい色で敷かれていませんでしたか。あなたは初めからずっと主の誠実を見ることにお役にたっていますか。そして、それらは何のために与えられたのですか。あなたを引き寄せるためでしょう。

 そのことが理解されるならば、次にはどんなことが言えるのでしょうか。誠実は永遠の愛の実であり、表現であり、絶対的な証拠であります。この堂々とした結論「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した[個人的にあなたを]。それゆえ、わたしはあなたに[個人的にあなたに]、誠実を尽くし続けた。」から逃れるものは何もありません。

 近づくことは人格的であり、個人的でありました。確かに「押し迫って(マルコ5:27)」であったかも知れません。しかし、私たちには押し迫る群衆の人たちとは何の関係もなかったのです。私たちは、私たちが、つまりあなたも私も個人個人として来たことをよく知っています。その人格をとおして伝わってきたことは、神様である父なる方の人格により引き寄せられる愛のゆえんでした。

 私はどのようにして主があなたを引き寄せられたか知りません。あなたも主がどのようにして私を引き寄せられたか知らないでしょう。しかし、それなしにはほとんど確実にあなたも私も決して主のところに来ることは出来なかったでしょう。なぜなら、私たちは自ら進んで来るはずがなかったからです。

まことの泉からそのような流れはもたらされる
どんな他の根もそんな美しい花を生み出すことは出来ないだろう

主は愛してくださらなかっただろうか 
主は私たちをそんなふうには引き寄せられなかった

主は本当に引き寄せてくださらなかっただろうか 

私たちには意欲も力もなかった
立ち上がらせ近づけさせるために 
救い主はそばを通られた
目の見えない私たちが  
いたわりもされず叫びもなく座っていたところを

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-11-drawn-by-love/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97510です。ハヴァガルはこのエレミヤをとおして流れる主の福音を、福音書を通して私たちが知ることの出来るイエス様の類いない様々な愛を思い、感謝の思いで筆を走らせている。そして、まさしくベック兄が『神のみことばは神のみことばである』と父なる神様、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神様をとおして、「債務」しか持ち得ない私たち罪人に主が語られる聖書の神髄を明らかにされてきた大きな例証の一つであると私は思う。

※Godhold Beck(111)

『神のみことばは神のみことばである』[5]

 今まで私たちは「神が語られた」ということ、次に「主イエスが語られた」ということについて聖書から見て来ましたが、次に「聖霊が語られた」ということについて聖書から見てみることにしましょう。

 主イエス様はこの地上を去る少し前に、もう一人の「慰め主」、すなわち「聖霊」を紹介して、聖霊について、今や聖霊がイエス様の代わりに語られるようになるとおっしゃいました。ヨハネ伝16章の13節14節に次のように書いてあります。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

と。聖霊は五旬節の時からイエス様の代わりに語ってくださるものとなってくださいました。ヨハネ伝15章26節27節に
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。

と、あります。聖霊は、教えて下さるお方であり、思い起こさせて下さる方でもあります。14章26節に
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

と、あります。主イエス様は昇天され、高く引き上げられて、天にもどられてから、これからは聖霊が語り手であるということを重ねておっしゃってくださいました。黙示録2章7節に
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

と、あります。

 新約聖書の多くの作者たちは、聖霊が自分たちをとおして語っておられるということを常に意識していました。彼らは自分たちが考え出したことではなく、上から与えられた神の啓示を宣べ伝えなければなりませんでした。そして、彼らは旧約聖書に書かれている事柄だけではなく、自分たちを通して聖霊が語られたみことばも同じ権威を持っていると要求しました。ペテロはイエス・キリストの霊が預言者たちを通して語られたこと、そしてまた、同じ霊が自分たちを通しても語っておられると私たちに証しています。ペテロ第一の手紙1章10節から13節までお読み致します。
この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

と、あります。パウロもまたその福音の発生について、それが自分の考えではなく、主なる神によって上から与えられたものであることを強調しています。コリント第一の手紙2章4節から7節までお読み致します。
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

そして、12節に
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

と、あります。パウロはここで書いたこと、語ったことは、とりもなおさず神のみことばであるに他ならないと断言しています。もしも自分の考えに過ぎないのであれば、パウロの言っていることはとんでもないことになってしまいますが、ほんとうに神のことばが語られているのであれば、それを明らかにしないことは大変大きな債務になってしまうわけです。主イエス様の語られたことばが神のみことばであるのと同じように、聖霊が語られることばもまた神のみことばなのです。新約聖書のたくさんの手紙の中に、明らかにされている神の啓示は聖霊の証しに他なりません。すなわち、それは上から与えられた神のことばなのです。

 聖書の最後の書である黙示録について、もう一言だけ申し上げたいと思います。ヨハネ黙示録、また上からの要求、したがって、神のみことばであるという要求を知っているのでしょうか。黙示録1章1節に
これは、神がキリストにお与えになったものである。

と、黙示録の最初に書かれていることから明らかなように、ここに書かれていることばも全て神のみことばなのです。このようにして、聖書は最後のところでも再び、それらのみことばが神のみことばに他ならないことを強調しています。黙示録22章6節に
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と、あります。そして16節
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

と、あります。

一言(ひとことば)で言いますと、聖書は統一を持った神のみことばです。 

引用者註:結論は極めて簡単に見えます。しかし、一つ一つの推論は私たちに一点の弁解の余地も許さないものではないでしょうか。神様に対して債務を持つ人間存在がこれほど明快に語られるメッセージを私は知りません。ベック兄はなおも聖書について語り続けます。明日もその続きを載せましょうか。シリーズ「聖書とは何か」の第二部です)

2016年12月10日土曜日

無知と知


彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。(ヨハネ16:3) 
あなたがたが御父を知ったからです。(1ヨハネ2:14)

 「もし彼らが知ってさえいたら」私たちは彼らが私たちが知っていることを知らないゆえに、人、立場、あるいは行動を誤解したり間違って判断する時、どれだけしばしばこのようにも言いもし、考えもすることでしょうか。私たちは彼らが知らないことを悪く話していたり、とりわけ彼らが知っているのにはるかにまさって私たちが知っている人を悪し様にまた価値がないと話している時にどんなにイライラすることでしょうか。

 ああ、彼らが知ってさえいてくれたら!この無知に対する不公正を悲嘆する感覚は私たちが誤解され誤審される神様ご自身を見る時、信仰と忍耐の和らぎを必要とする感情に達します。おお、彼らはどのように日ごとに主のことば、主の御人格を誤解し、どのように私たちを傷つけるでしょう!なかんずく、私たちが主を知る特権にあずかっている限り、どのように私たちは彼らが主がどなたであるかを知って欲しいのでしょう!

 あらゆる目が主を見る日、主、私たちの父なる神様はついにご自身であることが明らかにされ、イエス様、私たちの主であるお方がご自身の栄光のうちに見られ、もはや決して決して見誤られることのない日を待ち望むに際して、どんなに付加される壮大さが与えられることでしょうか。

おお 何たる喜び あなたの統治を見るとは
あなたを 私自身の愛する主を
あらゆる舌が あなたのお名前を 告白する 
あなたに 喜びの和音を 共に連れ来たりて
あなたは 私の主 そして私の友である方は
疑念を晴らし 王位につき
もっとも遠い地の果てまで 
栄光を受けられ 賛美され  ご自分のものとされる

Oh, the joy to see Thee reigning,
Thee, my own beloved Lord!
Every tongue Thy name confessing,
Brought to Thee with glad accord!
Thee, my Master and my Friend,
Vindicated and enthroned,
Unto earth's remotest end
Glorified, adored, and owned!

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-10-ignorance-and-knowledge/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97509です。なお、今日の詩の訳について、読者の方から素晴らしい訳をいただいた。残念ながら、当方が英文翻訳に関して、いかに「無知」であるかを暴露しています。コメント欄を是非ご参照ください。

※Godhold Beck(110)

『神のみことばは神のみことばである』[4]

 出エジプト記の中には同じように何度も何度も「主は仰せられた」特に「主はモーセに語られた」という表現が出てきます。ほとんどすべての書がこのことばで始まっています。たとえば、3章の4節、7節、12節、14節です。そして4章の2節と11節です。6章の1節です。7章の1節です。8章の1節です。9章の1節です。

 レビ記の場合も同じように「主はモーセに語られた」ということばで、新しい章が始められています。旧約聖書の中で「主は語られた」という表現にアンダーラインを引いてみるとその数がいかに多いか驚くことです。次の箇所をお読みになればわかると思います。申命記1章の6節、3章2節、4章の12節、5章の5節です。それから、イザヤ書の1章1節と10節と11節と18節、また24節です。それから6章の8節です。また8章の11節です。13章の1節です。そして40章の1節です。

 また、エレミヤ記の7章1節、11章1節、18章1節、21章1節、26章1節、27章1節、30章1節を読むと、いつも「主は仰せられた」「主は語られた」と書いています。エレミヤ記の中だけでも500回以上この表現が出てきます。あるいはミカ書4章4節、エレミヤ記9章12節、13章15節、30章4節、50章1節にも同じ表現が出てきますし、またサムエル下23章2節、それからエレミヤ記の9章20節、10章1節、それから列王紀上12章22節、17章2節。ルカ伝3章2節。それからダニエル書2章23節、8章28節です。

 また、エゼキエル書1章3節、3章22節、8章2節、2章1節、4章7節、3章の1節と4節と16節、また22節です。そして45章の9節と18節です。またホセア書1章の1節です。アモス書3章1節です。ヨナ書1章の1節と3章の1節です。ゼパニア書1章1節です。ハガイ書1章1節です。ゼカリヤ書4章1節と5章5節、8章1節であります。またマラキ書1章1節にも同じ表現が出て来るのです。

 このように旧約聖書における預言者の章を見ると私たちはほんとうに主が語られたことを認めざるを得ません。

 そして預言者が書き記したことばは確かに神のみことばであると言わざるを得ません。

 たとえば、エレミヤ書の中だけでも「主が語られた」とか「主からエレミヤにあったみことばはこうである」という箇所にアンダーラインを引くならば、その数もまた前に言いましたように驚くほど多いことがわかります。そして、神がみことばを書くようにと命令して下さいました。出エジプト記17章14節、24章4節、34章27節にそう書いてあります。またサムエル上10章25節、またエレミヤ記30章2節、36章2節にみことばを書くようにと命令されたことが分かります。

 旧約聖書の中では「神が語」られた」という表現が象徴的に書かれたのに対して、新約聖書では「主イエスが語られたということばで表現されているのが特徴的です。いたるところで「イエスが語られた」、「イエスが語られた」という箇所を見出すことができます。ヘブル書1章1節に

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

「神は、御子によって語られた」とあります。主イエス様のみことばは神のみことばです。それは、ちょうど預言者たちのことばが神のみことばであるのと同じように確かなことです。主イエスが語られたことばは、上から、すなわち父なる神から与えられたみことばです。それですから、それらのみことばは霊といのちなのです。ヨハネ伝6章63節にイエス様が次のように言われたのです。

わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

と。主のみことばによって生かされた者は永遠のいのちを持っています。そして、そのような永遠のいのちを持っている人にとっては、主イエス様のみことばは単なる教えではなく、力であり、喜びです。

 ヨハネ伝7章46節を見ると分かりますが、当時の人たち、そして役人たちでさえもイエス様のみことばに接した時「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」と言わざるを得ませんでした。そして、今日までイエス様のみことばを越えるものは何もありません。すなわち、主は神の完全な認識を持っておられ、常に愛に満ちて語られます。主のみことばは少しの疑いもない明確な真理なのです。今日に至るまで主のみことばは時代遅れの古くさいものとはならず、何一つ変えるべきものもなく、削除すべきところもなく、撤退するところもありません。主のみことばの一つ一つがいのちそのものであり、いのちを造るものであり、心開いて主のみことばを聞く者は誰でも測り知れない神の力を経験致します。主イエス様が地上で語られたことは父なる神ご自身が御子を通して語られたことでした。主イエスの声は神の声に他なりませんでした。

引用者註:最初の何章何節という言い方は聞く方も大変かもしれないが、ドイツ人がまわらぬ舌を使いながら日本語で繰り返しておられることに注意したい。旧約聖書の引用と言いながら一ヵ所新約聖書のルカの福音書が登場するがバプテスマのヨハネに下った神のことばはやはり旧約聖書の預言者の範疇だと考えておられたのだろう。マタイ11:11〜13を参照のこと。) 

2016年12月9日金曜日

住んだところで仕事をする

薄明に パリに戻りし 子見送り

彼らは(陶器師で、ネタイムとゲデラの住民であり、)王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。(1歴代誌4:23)

 「そこに!」全然あつらえ向きの場所でなく、王宮でも、王都でもなく、人が「植物と生け垣がある(1歴代誌4:23)」と期待していた最後の土地のあたりだ。なぜ彼らがそこにいたのかさえ明快でないように見える。なぜなら彼らは陶工であり、園丁ではなかったからである。このように私たちには単純な手労働の組み合わせが与えられ、人里離れたところで作業を続けた。しかし、彼らは王とともに住む住人であり、王のもとで仕事をしたのだ。

 私たちもまた、いかなるところであろうと、いたるところで王なる方とともにその方の仕事のために住んでいるのだ。私たちはこのために非常に不釣り合いな、また気に入らない場所にいることになるかもしれない。まわりには王なる方のお出ましが見られる機会がわずかしかない、文字どおり田舎の生活かもしれない。間には様々な垣があり、至る方向に障害があるかもしれない。その上、毎日の仕事のために手はあらゆる陶芸作りで目一杯であるかもしれない。

 どうでもいいことだ! 私たちをそこに置かれた王なる方はそこで私たちのところに来てともに住まわれるからだ。垣根は申し分ない。さもなければ王なる方は垣根をすぐに排除され、当然の結果として、私たちの道を隠すように見えるものは全く防御にならないといことにはならない。陶器に関して言えば、その理由は、まさしく正確には、王なる方が私たちの手に置くのがふさわしいと見られたことだ、それゆえ、今ではそれが「王なる方の仕事」なのだ。

今 私は 私の国に帰ります
そして あなた様に まみえ 
あなた様から 聞いたことを
伝えましょう。

そして 「来て 見てごらんなさい 」との 
あなた様の やさしい 呼びかけを 届けましょう

しかし 私の心 私の思いは とこしえに 
平和の君 あなた様のおそばで
王の安息のうちに住まわせていただきます。
あなた様のいます祝福された美しいやかたのうちに

 
Now I will turn to my own land, and tell
What I myself have seen and heard of Thee,
And give Thine own sweet message, "Come and see!”
And yet in heart and mind forever dwell
With Thee, my King of Peace, in loyal rest,
Within the fair pavilion of Thy presence blest.

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-9-dwelling-and-working/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97508です。「among plants and hedges[1歴代誌4:23]」は欽定訳のみで、現行聖書はこれに対して地名を具体的に当てている。最後の詩の部分は訳し方が正しくないと思うので原文も併記した。追記 読者より改訳をいただいたのでほぼ、それに置き換えた。

※Godhold Beck(109)

『神のみことばは神のみことばである』[3]

 それではこれから霊感のこれら三つの構造について、聖書に語ってもらいましょう。

 先ず、主なる神はみことばの発起人、すなわち著者です。このことについて、私たちは三つに分けて考えてみたいと思います。すなわち第一に、神が、父なる神が語られたこと。第二に、主イエスが語られたこと。第三に、聖霊が語られたことです。なぜならば、主なる神は唯一の神ですが、三つの異なった人格、すなわち父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊を持っているお方であるからです。

 「神のみことばは神のみことばである」という命題は何と当たり前のことでありましょう。しかし、今まで長い歴史の中でどれだけ多くの人たちが、この当たり前のこと、すなわち 「神のみことばは神のみことばである」という命題を否定するために、がんばったことでしょう。しかし、結局神のみことばの否定を徹底的に証明することはできませんでした。たとえば、ドイツで始まった聖書批判はA=Cではない、すなわち、神の語られたみことばと聖書に書かれたみことばは等しくないということを証明しようとしたのです。しかし、神はみことばの発起人、すなわち著者です。「神が語られた」これこそ、聖書が全く当然のこととして行う要求なのです。「神が語られた」と聖書が伝えている時、語っている者が本当に神であるかどうかを証明する必要は全然ありません。聖書は神が語られたことをそのまま私たちに伝えています。

 ですから、神のみことばは本当に神のみことばであるということを証明してもらいたいということは何という侮辱でしょうか。聖書は事実だけを宣べ伝えている書物です。「神が語られた」と聖書が言っていることはそのまま事実として妥当します。それを私たち人間が認めようが認めまいが、事実は事実なのです。神が語られたことは神の啓示です。それは上から与えられたものです。人間のことばは下から来たものであり、神のみことばは上から来たものです。一つのことばが同時に上からと下からと両方から来ることはあり得ません。神のことばと人間のことばとはその本質上全く違った性質のものです。

 「神が語られた」と聖書が言う時、それは聖書が私たちに伝えるみことばがその本質上人間のことばとは全く違っていることを私たちに証しています。「神が語られた」と聖書は言っていますが、その実例を幾つか聖書の中から見てみましょう。

 創世記から1章3節 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。6節 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。9節 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。11節 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。14節 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。24節ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。 26節 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。29節 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

 何回も何回も「神が仰せられた」「神は仰せられた」「神は仰せられた」「神は仰せられるとそのようになった」と書いてあります。2章から少し読みましょうか。

2章16節 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」18節 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」3章14節 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。22節 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

4章6節 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。9節 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。

6章13節 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。7章1節 主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。8章の15節 そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。21節 主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。9章1節 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。8節 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。

11章6節 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。12章7節 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。

引用者註:何と根気強い聖書の章節とみことばの引用であろうか。しかし、聖書が主体で、私たち人間は客体であると第二回のところで語られていたことを思い起こす時に私たちが徹底的な主の仰せを厳粛に聞かされる思いがする。読者はこれだけですでに創世記の1章から12章のアウトラインを十分つかむことができるであろう。なお、明日もベック兄による聖書の引用は続く。録音の中にはドアの開閉らしき音も聞こえる。新改訳聖書は1970年に陽の目を見る。したがって書斎で懸命に日本語を会得しながらこの話がなされたのはそれとほぼ同時期、40代のころのものであろうと推定する。)

2016年12月8日木曜日

自己のほんとうの喜びとは?

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てなさい。」(マタイ16:24) 
私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てました(ピリピ3:8)
 
 「自己否定とは何でしょうか」と、読者の方は問われることでしょう。献身は自己否定に取って代わるものではありません。むしろ、その姿を変えたものであります。文字どおり献身の生涯は自己否定の生活であり、そうでなければなりません。しかしその努力や痛みのすべては大変な喜びに変えられるのです。

 私たちは私たちの主を愛しています。つまり、主が私たちのすべてのことばを聞き、道を見つめておられること、そして主が私たちを「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる(コロサイ1:10)」特権を有するように招かれたことを確かなこと絶対的なこととして知っています。そしてこのことが私たちにとって本当である限り、ある意味で自己否定であることとそっくりなことは他面において実際に自らの喜びとなります。持っていて便利でもあり楽しみでもある私たちの財布を手の届く範囲内に置かず、目を背けることは私たちにとって自己否定となるかも知れません。

 しかし、もし主がベールを上げ、私たちの側に立っておられるご自身を啓示され、私たちに主の声を聞かせられ、主のささげるもののために犠牲を蓄えておくように要請されるなら、その時、私たちは自己否定について語るべきなのでしょうか。私たちはそのことについて考えると全く恥じ入らないでしょうか。それとも、むしろ私たちは即座に自己についてあるいは自己否定についてそもそも考えねばならないのでしょうか。主が私たちにそのお金でなすように求められたことをすることは考えられない喜びとはならないのでしょうか。

 しかし、主ご自身の変わらざる約束が「見よ。わたしは、いつも、あなたがたとともにいます(マタイ28:20)。」と私たちのために主が書かれているみことばに立っている限り、私たちは主が私たちとともにおられることを確信できます。そして主が献金箱に向かって座り、二枚のレプタ銅貨が投げ込まれるのをご覧になる時、主の目は献金箱に向いているのと同様に私たちの全開しているあるいは半開きになっている財布の上にもあることを確信します。だから「目に見えない方を見るようにして(ヘブル11:27)」買い物もしましょう。

与えるべきただ一つの心
用いるべきただ一つの声
生きるべきただ一つの小さないのち
失うべきただ一つ
貧しさは私の最善
そして小さきことも
どのようにして私はあえて分けることができるでしょうか
確かに私の主はそれをすべてお持ちなのだ
主は拒まれないだろう

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/december-8-delight-of-self/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97507です。ハヴァガルの念頭にあるのは、マルコ12:41〜44があるような気がする。最後の数シラブルのところが訳せていないで誤訳だと思うが・・・

※Godhold Beck(108)

『神のみことばは神のみことばである』[2]

 信者はみことばをとおして語ってくださる聖霊により、「聖書とは何か」そして「聖書はいかなる要求をするか」について宣べ伝える責任を持っています。どうしても必要なことは聖書をとおして、主のみことばを聞くことです。キリスト者として、人間の理性の力で聖書を理解し把握しようとすることは罪である、と言っても言い過ぎではありません。

 どんな外科医の名人でも、生きている人のからだを切り刻んで解剖することはできません。その外科医はまず患者さんが死んで初めて解剖することができるのであって、死体にはいのちがないと言っても、それは当然のことです。ちょうど外科医が人間を先ず殺してから死体解剖をするのと同じように、人間の理解力で聖書を理解しようとする者は、聖書を先ずいのちのない書物にしてしまい、それから小さく切り刻んだ一部分を顕微鏡で調べるのと変わりないわけですが、そこにいのちがないというのは当然のことです。

 私たちは聖書を死んだものにしたいとは思いません。聖書はいのちであり、生きる言葉として、私たちに語りかけてくれるはずです。そうすると、聖書が主体で、私たちが客体、すなわち、聖書が中心で私たちが対象物になるわけです。私たちが聖書を判断するのではなく、聖書が私たちを判断するのです。

 聖書の絶対無比な性質は「霊感」ということばで表現されます。それでは「霊感」とは一体何でしょうか。「霊感」とは、「神が吹き込む」という意味です。テモテ第二の手紙3章16節に

聖書はすべて、神の霊感によるものです

と、書いてありますが、ここで神の霊感と言われるものは、「神が吹き込んだ」という意味です。ペテロ第二の手紙1章21節に次のように書いてあります。

なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

と。これら二つのみことばは次のような三つの事実をふくんでいます。先ず第一に「主なる神は聖書の発起人」すなわち、著者そのものです。第二に神のみことばは人間に与えられ、吹き込まれました。第三に彼らは与えられ、受け取ったものをさらに伝えて来ました。すなわち宣べ伝え、書き伝えました。

 霊感としての聖書は、これら三つの事実を特徴として持っています。これら三つの面は実際は一つの統一的なものを形成しています。すなわち第一は遣わすこと、第二は受け取ること、第三はさらに伝えることです。あるいは同じことを次のように言うこともできるでしょう。第一は語られたみことば。第二は受け取られたみことば。第三は書かれたみことばです。私たちはこの構造を次のように図解することもできるでしょう。Aはすなわち差出人。Bはその受取人。Cは宣べ伝え、書き伝えられたこと、すなわち「聖書」です。

 聖書は旧約聖書と新約聖書の中で次のような要求をしています。すなわちA=Cつまり、語られたみことばは書かれたみことばに等しい、という要求です。私たちはこういう聖書の要求を聖書の完全な霊感と呼びます。部分的ではなく、聖書の全体こそが主なる神のみことばなのです。神によって語られたみことばは、少しも変わることなく人間によって書かれたみことばに等しいものとなっています。ヘブル書1章1節に

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました

と書いてあります。「神は語られたのです」と。このみことばの中に霊感の三つの構造が要求されています。すなわち、第一に神が語られたということ、第二に預言者を通して語られたということ、第三に先祖たちに語られたということです。はっきりしていることは預言者たちを通して、主は語られました。すなわち、すべての預言者たちを通して語られ、しかも、すべての預言の全体によって語られたということです。すなわち、聖書は間違いのない主なる神のみことばそのものなのです。

引用者註:このメッセージがいかに周到に考えられ、日本語の語彙を選んでなされたかを思うとびっくりさせられる。唯一お愛嬌とも言えるベック兄の日本語の発音があった。「構造」を「こうどう」と言っておられるからである。おそらくドイツ人にとってkouzouというシラブルの組み合わせの発音が難しかったのであろう。それにしても完全な日本語である。 )