2010年1月20日水曜日

結婚式メッセージ(下) ゴットホルド・ベック


 私たちが毎日本当に喜ぶことができ、たとえ苦しみや悩みあるいは病気の状態においても喜ぶことができ、たとえ死ななければならないとしても喜ぶことができるようになるには一体どうしたらいいのでしょうか。

 この問いに対する答えは一言で言うと、「悔い改めて、信じなさい。」ということになります。つまり「悔い改め」と「信仰」こそが、問題解決の鍵のようなものです。

  すなわち、先ず第一に自分のわがまま、自分が盲目であったことをすなおに認め、今まで、生けるまことの神なしに自分の力で生きてきたところに問題があったこ とを告白する必要があります。次に、イエス様が自分の罪の問題を解決してくださった事実を、理解しようとするのでなく、わかろうと努力することでもなく、そのまま、ただ信ずることで す。イエス・キリストの死は、われわれのわがままに対する聖なるお方のさばきでした。イエス様の犠牲の死に対してイエス様に感謝し、自分の人生をイエス様に 明け渡す者は、決して後悔しません。

 主なる神から離れた者としてイエス様に祈り、自分のわがままを告白し、イエス様の贖いのみわざを感 謝する者は救われます。すなわち、その人は永遠のいのちを持ち、死後さばかれることはありません。イエス・キリストの死こそが、われわれ一人一人がどれほ ど愛されているかを示しています。愛するお二人の選んだみことばは強調していますね。すなわち、

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

  そして主の愛の表れとはイエス様です。ですから、私たちは「愛」ということばのかわりに「イエス様」ということばを置き換えることができ、また「神」とい うことばの代わりに「愛」ということばを置き換えることができます。

 愛のうちにいるとは一体何を意味するのでしょうか?

主イエス様に愛されている幸せ を、大いに喜び味わいなさい、ということです。

愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 主なる神に愛されているということは最大の幸せです。主の測り知れない愛のうちに置かれている、いつも主の愛に守られていることは、何という幸せでありましょうか。

  今まで私たちは永遠なる事実をあらわす証について考えて参りました。すなわち、神は愛です。神は昔自分の愛を明らかにされただけではなく、主は将来自分の 愛を示すようになるだけでなく、主なる神は、今日、今この瞬間、愛そのものです。これこそまことの救いの提供でもあります。すなわち

神の愛を受けなさい。
神の愛を味わいなさい。
自分のものにしなさい。
主なる神の与えたいと思っておられるものを受けなさい。
罪の赦し、神との平和、永遠のいのちを受けなさい。

  大切なことは、キリスト教という宗教に入ることや教会員になることや洗礼でもなければ、私たちがより良い人間になるための努力でもなく、私たちが主なる神の愛を 経験すること、すなわち、私たちが罪と債務を担う罪人としてイエス様のみもとに行き、罪を赦していただくことです。人間が必要としているものは単なる道徳 でもないし、単なる教えでもありません。人間の求めているのは理解されること、愛されることです。

 愛するお二人の選ばれたことばの中に前に言いましたように二種類の証しがふくまれています。すなわち、永遠なる事実をあらわす証し、そしてもう一つは何であるかと言いますと、次のことであります。

 自分の経験をあらわす証であります。すなわち、私たちは私たちに対する神の愛を知り、また信じています。本当の意味で、知ることと信ずることとは大切です。愛するN兄弟また愛するM姉妹も告白することができる。「私たちはわれわれに対する神の愛を知り、また信じています。すなわち、私たちは勉強した、そして理解するようになった、ピンと来るようになったのではない。あるいは、私たちはキリスト教という宗教に入ったのでもない。私たちは知るようになったのです。」

 どうしてでしょうか。それは決して研究した結果ではありません。主なる神の働きの結果です。すなわち主なる神の啓示の結果です。

 長い間、イエス・キリストを信ずる人を迫害した男は次のように書いたのです。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。※1

 このパウロは、長い間、確かにイエス様を憎んだのです。イエス様を信ずる者をいのちがけで迫害しました。いかなる人も彼を間違った道から引き戻すように納得させることはできなかったのです。けれど彼は世界一の伝道者になってしまったのです。イエス様に仕えるようになったのです。イエス様を心から愛するようになったのです。どうしてでしょうか。

 彼の説明は、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子キリストと、言うようになったのです。生けるまことの神は、人間のかたちを取り、この世に来てくださった。生けるまことの神は、私が受けるべき罰をご自身の身に受けてくださった。生けるまことの神は、愛のあらわれとして自分自身をささげてくださった。この愛そのものは、パウロを圧倒しました。この愛は、彼の人生を根底から変えてしまったのです。この愛は、彼に迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求したのです。彼は、愛なる神を体験的に知るようになり、そして主なる神の愛を知るようになって信ずるようになったのです。

 愛するN兄弟も愛するM姉妹も主の愛を知るようになったから、信ずるようになりました。けれど、それは決して自分の努力の結果ではない。主の啓示の結果であり、主の恵みのあらわれです。M姉妹はその名前の通り、主の恵みにあずかるようになった。主なる神が人間の心の目を開くこととは素晴らしい贈り物であり、そして信ずることも主の贈り物である、と聖書ははっきり言っています。

 愛するN兄弟と愛するM姉妹は、一体何を知るようになり、何を信ずるようになったのでしょうか、自分に対する主の愛です。主の愛のあらわれであるイエス様です。ロマ書の中で書かれています。

私たちすべてのために、(私たち二人のために)ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。※2

 どうしてイエス様がわれわれの罪を贖うために十字架でご自身のいのちを投げ出してくださるほどわれわれを愛してくださったのでしょうか。これはわれわれに理解できないことです。しかし、私たちはこの事実を信ずることができ、体験することができ、そしてこの事実のために、感謝することができるのです。主イエス様の愛は昨日も今日もとこしえに変わりません。主なる神の約束は次のようなものです。

私たちは真実でなくても、主イエスは常に真実である。主イエスにはご自身を否むことができないからである。※3

もう一つ

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」、とあなたをあわれむ主は仰せられる。※4

 愛する二人の選ばれたことばをもう一度最後にお読みします。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。

 唯一の生けるまことの神に愛されている幸いを大いに喜び、味わいなさい。どれほど愛されているか一瞬たりとも忘れてはなりません。

(昨年の12月23日の結婚式のメッセージを引用者の責任でまとめたもので、一部ベック氏の表現を変えたところがあります。今日の写真は畏友Tさんの提供なるものです。※引用聖句箇所はそれぞれ1〔ガラテヤ1・12〕、2〔ローマ8・32〕、3〔2テモテ2・13〕、4〔イザヤ54・10〕である。)

2010年1月18日月曜日

結婚式メッセージ(中) ゴットホルド・ベック


 聖書は、神が愛を製造するとか、神は愛を贈るとか、言っていません。主なる神ご自身が愛そのものです。主なる神は、われわれ人間に、単にわたしはあなたがたを愛すると保証をお与えになっただけでなく、主なる神は、その愛を明らかにしてくださった。ご自身を明らかにしてくださったのであります。すなわち、次のように書いてあります。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(ヨハネ第一の手紙3章16節)

 私たちは、体験的に知るようになったのです。主なる神は愛そのものです。
 神の敵である悪魔はこれだけは絶対に認めたくないのであります。悪魔は自分のことだけしか考えようとしない。悪魔は要求するものであり、人間を束縛し、その結果、人間は縛られてしまいます。主なる神は人間から何も要求なさらないし、人間を自由にしようと望んでおられます。

 一人の方は自分の経験したことについていろいろなことを話してくださったのですが、結論として次のように言いました。わたくしたちの家(うち)は愛のない家(うち)です。これは悪魔の仕業です。聖書は次のように言っています。

誰もみな自分自身のことを求めるだけで、イエス・キリストのことを求めてはいない、不法がはびこるので多くの人々の愛は冷たくなります。

 愛が冷たくなってしまったのは否定できない事実です。そのために多くの現代人は冷たい存在となり、孤独な存在になってしまったのです。一番恐ろしい病気は孤独病なのではないでしょうか。相互理解、すなわち愛が欠如しているために、今日の主な病気はやっぱり孤独病です。多くの人は失望し相互間で愛された経験を持たない者になってしまいます。

 確かに世界中で「愛」ということばほど良く知られていることばはないでしょう。けれど、その反面、まことの愛ほど、まれなものもないのではないでしょうか。

 ある80歳になったおじいちゃんは私に告白して、また尋ねたのです。

 私はひどいものでした。
 女性は人間ではない。
 物に過ぎない。
 家内を大切にしようと思ったことがない。

 私は救われ得るのでしょうか。

 何と多くの人々は愛された経験がない、大切にされた覚えがない。悲劇的なのではないでしょうか。人間皆が求めるものは愛であり、信頼であり、相互理解です。ですから、人間が一つになることは、主なる神の啓示された愛以外の何ものによっても可能ではありません。必要としているのはイエス様です。なぜならば、イエス・キリストこそが主なる神が明らかにされた愛そのものだからです。お二人の選ばれたことばの中で書いていますね。

神は愛です。

 聖書を一度も読んだことのない人々さえもこのみことばを知っているかもしれない。そしてまことの神を知らないすべての人々は、神は愛であるから、私のわがままや失敗や債務や罪をすべて赦してくれるだろうと考えています。けれども、これはとんでもない考え方です。恐ろしい過ちです。贖いなく、さばきなくして、罪を赦すような神は本当の神ではなく、それは単なる想像や偶像に過ぎません。

 30年前でしょうかね、八王子の初めてのドイツのケーキの作り方を家内が教えたのですが、そのとき初めてだったのですが、ある婦人はみんなの前に次のように尋ねたのです。「私は神様がただ一人しかいないとか、それともたくさんいるのか知りたい。なぜなら、私はそれをどうしても知るべきであるからです。」

 彼女は結局心の支えを必要であるとわかったから、こういうふうに言えたのではないでしょうか。もちろん、これは本当に大切な問いです。主なる神はただ一人なのか、それともたくさんいるのか、この問いに対して宗教も科学も哲学も何の答えも与えられません。ただ主なる神のみことばである聖書だけが真理は何であるかを明らかにできるのです。

 すなわち、まことの神はただ一人しかいらっしゃいません。そしてこの方とは聖なるお方です。このまことの神は罪を罰することをせず、好い加減にするようなことなどおできにならない。人間のわがままは死をもって支払わなければなりません。これこそ、まことの神のご判断です。

 イエス様は本当なら私たちが担わなければならなかった罰をご自身の上に担ってくださり十字架で死んでくださったのです。したがってイエス様の死は私たち一人一人の罪の結果です。私たちのわがままのゆえにイエス様は死ななければならなかったのです。

 しかし、ただおひとり罪なきお方、すなわちイエス様の身代わりの死は、全人類の債務を贖うのに十分でした。イエス・キリストの復活は、贖いのみわざが成就されたことを意味しています。人間は自分の救いのために何もすることができないし、もちろん何もする必要がない、人間が自分の力ですることは、すべて例外なくまことの救いが成就されるための妨げに過ぎません。

 愛するお二人の結婚式がきっかけとなって、私たちが次の問いについて深く考えることこそ私たちの祈りです。すなわち、私たちの罪と債務はいかにすれば赦され得るのでしょうか。私たちの人生は本当の意味と内容を持つことができるのでしょうか。(続く)

(※ピリピ2・21、マタイ24・12)

2010年1月15日金曜日

結婚式メッセージ(上) ゴットホルド・ベック


私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。(新約聖書1ヨハネ4・16)

 今日、このようにして愛するN兄弟と愛するM姉妹の結婚をお祝いすることができるのは喜びです。結婚とはイエス様によって導かれた、という確信を、またお互いに愛があるという、確信を、持つようになったからです。そのための証しなのではないでしょうか。お二人の切なる願いは主イエス様をまだご存じない方々が、主なる神との和解を受け、イエス様の提供されている赦しを受け取り、主なる神との平和を自分のものとされ永遠のいのちを持っていると確信を持つまで、まことの救いを与えられるお方を切に求めていただきたい(ということ)。これこそが、お二人の切なる願いです。すなわち、今日の結婚(式)の目的とは一つの儀式よりも二人の信ずるようになったイエス様を紹介するための集いです。

 お二人は口をそろえて言えます。すなわち、イエス様は何でもできるお方であるから、私たちはこの主に頼ろうと決めた、と。

 イエス・キリストのない人生は無価値であり、無意味です。なぜならばイエス・キリストのみが永遠のいのちをお与えになり、本当の満足を与えられるお方であり、すべての問題を解決する力を持つお方であるからです。

 今日は本当に喜びの集いです。なぜならば、「イエス様が導いてくださった」と、結婚する、愛するお二人は告白することができるからです。お二人が勝手に考えたり、決めたりすることよりも、すべてを支配したもう主なる神ご自身が恵んでくださった、導いてくださったからであります。
 
 また今日はイエス様の忠実さをほめたたえるお祝いでもあります。イエス様はN兄弟とまたM姉妹に「わたしは決してあなたがたを離れず、あなたがたを捨てない」と約束してくださったのですから。お二人は本気になってイエス様の約束を信じ、すべてをゆだねることができたから、イエス様はご自分の約束を守ってくださり二人を導いてくださったのです。お二人の願いとは自分の人生において最優先されるべきであるのはイエス様です、と。二人の選んだことばをもう一回読みましょうか。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。

 結婚とは人間の幸せのためであるべきです。人間は幸せになりたいのであり、なぜならば、もし幸せにならなければ、すべては面白くない、意味のないものとなってしまうからです。聖書は良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主から恵みをいただく※、と書いてあります。良い妻を見つけたN兄弟はしあわせを見つけた。主からM姉妹をいただいたからです。お二人の選ばれたことばについてちょっと一緒に考えてみたいと思います。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

とあります。

 このお二人の選ばれたことばは愛するお二人の将来のご一緒に歩む人生にとっての大切な指標となるに違いない。選ばれたことばの中に二種類の証しが含まれています。第一番目、お二人の経験をあらわす証しであり、それから第二番目に永遠なる事実をあらわす証しです。

 お二人の経験をあらわす証とは初代教会の告白でもあります。すなわち私たちは私たちに対する主なる神の愛を知り、また信じています。だからこそ、私たちは心のよりどころ、また、よろこびを持つ者となった。
 それから、永遠なる事実をあらわす証とは、神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。動かすことのできない事実とは、すなわち、唯一の存在する、まことの主なる神は愛に満ちたお方である、ということです。そして愛のうちにいる者は主なる神のうちにおり、そして主もその人のうちにおられるという事実も、永遠なる事実であり、ことばで言い表すことのできないすばらしい宝物です。

 万物の造り主である神は生きておられる。これは被造物であるちっぽけな人間が信じても信じなくても事実です。聖書を通して主なる神は自分自身を明らかにし、啓示してくださったのです。つまり黙示録1・8を見ると

神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 人間は決して偶然の産物ではありません。常にいます、永遠なる神は、私たちをお造りになったのです。そして、すべての背後に支配者なる神は、はっきりとした目的をもって、人間一人一人の最善を考えておられ、導いてくださるのです。偶然は一つも有りません。確かに造り主なる神の偉大さを理解できる人間はいません。私たちの理解できる神は神ではなく人間らしいものになります。したがって主なる神の導きも同じように全く理解できないものです。理解できる人間は一人もいません。しかし主なる神は愛そのものであると聖書は言っています。これはもっとも素晴らしい事実です。(続く)
※箴言18・22

(文章は昨年の12月23日の結婚式のメッセージの聞き書きです。写真は新婦Mさんの友人の方の撮影になるものです。)

2010年1月5日火曜日

謹賀新年


 今年は新年第一日を長野県の御代田で迎えました。近くまで中仙道が入って来ているところです。滋賀の実家も、中仙道の街道沿いに位置しています。40年前に結婚したおり、新婚旅行の行き先地はなぜか信州にしました。けれどその時にはこうして中仙道の宿場小田井の近くで新年を迎えるなんて想像もしていませんでした。現在の地に縁ができたのはただ「福音」ゆえです。実は年末の次男の結婚式も御代田で行なわせていただきました。

 さて、新年第一日は午前は6名の方が聖書からメッセージを取り次ぐ元旦集会が行なわれました。また午後は毎年恒例になっている「新春喜びのコンサート」が持たれました。また夜は夜でもう一度聖書のメッセージを聞く集会があり、そのあと洗礼式がありました。3名の方が洗礼の恵みにあずかられました。3名の方はそれぞれ日頃は接することのない方々ですが、いずれも既知の方で喜びをともにしました。

 それらの各集会の中で、ここでは午後の喜びのコンサートのごく一部を紹介しておきます。コンサートですからバイオリン独奏、合唱、独唱など音楽の演奏が盛りだくさんあるのは当然ですが、その他聖書からのメッセージ、証しもなされました。

 メッセージはイエス様のご人格7つが紹介されました。その一つに「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11・25)がありました。そしてお二人のお証がありました。そのうちのお一人は、つい一月前に42歳の御主人を亡くしたばかりの35歳の未亡人の方のものでした。まさしく上記の聖書のみことばどおりに御主人が主イエス様を信ずる信仰を通して天国で永遠に生きておられることを確信する証しでした。

 小さなお子さんが二人遺されました。お子さん方もまた天国のお父様と会うことを楽しみにしておられるということでした。「私は今平安な思いに包まれています」とは人知を超えた「神の愛」を体験なさった方のお証しでした。その方が話を終え、壇を降りられた後、司会者の方はしばし涙され、静まり返った会場は主イエス様が与えて下さる永遠のいのちのすばらしさに浸ったことでした。

 考えてみると、私の母もまた44歳の若さで亡くなっているのです。後に夫と一人子である私を遺して。その母はイエス様のよみがえりのいのちを知らないままで召されたのですが・・。(でも、私の今の確信は彼女が人知れず流した涙を必ず全知全能の主は受け入れて天国に入れてくださったという思いです。)

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7・10)

 若くして未亡人になられた方も召された御主人も結婚当時イエス様をお知りではありませんでした。むしろ奥様は主イエス様の愛を退け、生みの家庭からも逃亡しておられたということです。その彼らが様々な人生の蹉跌の中で出会い、結婚に導かれ、育児の中で主イエス様の愛に立ち返られ救われなさったのです。一年前に不意に襲って来た御主人の癌発病も死も、辛い経験でしたが、主の愛から来ている故に耐えられたのであります。

イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13・7)

 夜の最後の集会で司会をなさった方はこの感動を伝えて、神の御計画は生まれる前から、死の向こうまで、即ち天国まであることを教えられた、と言われました。私もまたこうしてこの地で新年を迎えたことも深い主の御計画のうちにあることを覚えました。「めでたさも 中くらいなり おらが春」(小林一茶)「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」」(一休)とは古人の(主のよみがえりを知らない方の)歌です。

 最後に新年に与えられたみことばと駄句をご紹介します。

あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。(詩篇65・9、11)

「亡き母の 思い運び 中仙道」
「天国を 指し示しあぶら 豊かに」

(写真は元旦の御代田の朝です。生憎、曇り空でした。関東には雪がありませんが、山国信州は雪積もる新年でした。)