姨捨駅から眼下に遠く蛇行する千曲川を見る |
日曜日正午、長野県御代田町の西軽井沢国際福音センターをあとにし、滋賀県の実家に着いたのは10時だった。青春18切符を利用しての今夏初の長旅となった。
途中、ハプニングが三度ほどあった。しなの鉄道で御代田から小諸、小諸から篠ノ井と途中の停車時間を利用して、駅そばを掻き込む。終点の篠ノ井でJRに乗り換える。いよいよ青春18切符の使用開始だ。ところが、終点と思いきや長野行きだった。慌てて飛び降りた。これがいけなかった。カバンにおさめたばかりのメガネがスルスルっとケースをすり抜け電車とホームの隙間を縫って線路内に落ちてしまった。一巻の終わりである。けれどもあきらめがつかなかった。電車が発車したあと、急いで線路に飛び降りて拾い上げた。さぞかしグニャグニャか、壊れているかと思いきや、幸い無傷だった。
こうして、篠ノ井線に乗り換え、松本まで行き、松本からは中津川へとさらに列車を乗り継ぎ、延々と旅を続けた。中央線の両側の山が疲れている目、からだを休ませてくれる。列車は遅れ気味で終点の中津川へは5、6分遅れ6時過ぎに到着した。問題は接続である。名古屋行きは一番ホームで発車直前である。乗客は我先に移動する。私たちもその渦の中に巻き込まれながら自然に名古屋行きの車両にたどりつくことができた。
次は座席確保である。ここで第二のハプニングに遭遇した。目の前に6時間前に名残惜しく別れたばかりのO夫妻がおられたのである。びっくりさせられた。聞いてみると彼らは御代田を3時ごろ車に乗せてもらって名古屋にまで連れて行ってもらうところ、車の渋滞が激しく、中津川で降ろしてもらったという次第だった。
こうして、私たちは夫婦してたっぷり電車の中で話し続けることができた。大変なプレゼントであり、お互いに喜んだことは言うまでもない。名古屋に着き私はO夫人に「大変な奇遇でしたね」と申し上げた。彼女は真顔で「イエス様がそうさせてくださったのです」とニッコリ微笑み返した。私たちにも異論があろうはずがない。私たちそれぞれがもう少し話し足りなかったという思いを持っていたからである。
名古屋で新幹線に乗る彼らと別れ、私たちはまたもや在来線を利用して米原を経由して彦根まで帰ってきた。時間は9時近かった。ところが、ここで第三のハプニングに遭遇した。エレベーターに乗ろうと待ち構えていたら、一人の帽子をかぶった男性が側を通りかかった。顔を確かめるまでもなく、「きょうちゃん!」ということばが口の端に上った。傍にいた家内は何のことかわからず、一瞬、キョトンとしていた。それもそのはず家内は一度も会ったことのない私のいとこだったからである。私は何ヶ月か前に震災見舞いに贈り物をいただいたお礼を申し上げた。賀状などの交換はあったが会うのは10年ぶりくらいだった。いとこもびっくりして、「奇遇だね」と言った。当方も帽子をかぶっていた。いとこはこれから大阪方面に帰るところ、私たちは彦根でおりたばかりのほんの一二分の間での出来事だった。
「奇遇だね」と言われた時、まさしく奇遇だと思わざるを得なかった。それにしても、このいとこが家内の父に小学生の時に教わったことが、私が家内と結婚前知り合う第一要因であった。
偶然のごとく起こったこの三つのハプニングを通して、改めて、神様の尊い摂理を思わされた。
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手を支えておられるからだ。(詩篇37:24)
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。(使徒8:29)
0 件のコメント:
コメントを投稿