こんもりと 入道雲 天高し 2014.6.8 |
イエス様の召天された日のことを考えてください。イエス様は、地上における33年の間、罪と汚れのこの世に住み続けられ、十字架の上で救いを成し遂げられ、よみがえり、召天され、天に昇られたとき、天では口では言い表わすことのできないほどの喜びがあったことにちがいない。イエス様は、すべてのものにまさる名を与えられ、高く引き上げられました。イエス様は、今天の父なる神様の御座におられます。そこから聖い御霊をわれわれに注いでくださったのです。ですから、私たちは御霊の注ぎのために祈る必要はない。二千年前に、一部の人々ではなく、全教会に降り注いでくださり、今すでにわれわれのうちにおられる御霊を心からお受けし、感謝すれば十分です。
われわれのところに、まだ御救いにあずかっていない方がいて救いを求めるとき、私たちは、その人の身代わりにすでに救いを成し終えたイエス様を示し、ともに祈ります。そのとき、その求める人が、「イエス様、あなたは私の罪をお赦しになるでしょう。私を赦したいのでしょう。」と祈るなら、私たちは、その人が御救いにあずかったとはもちろん信じられません。けど、その人が「イエス様、あなたは私の身代わりに死に、私の罪を赦してくださいました、感謝いたします。」と祈るなら、その方の救いの確かさを私たちは認めるのではないでしょうか。
御霊様についても同じです。われわれが「御霊を下さい」と何十年間祈っても同じです。けど、「イエス様、高く引き上げられ御霊をお下しくださいましたことを感謝いたします。」と言って御霊を心にお迎えするなら、私たちはその力を自らのものとすることができます。イエス様は、あとになってから、主となられるのでしょうか。そうではなく、イエス様は今すでに主の主としておられます。ですから、御霊を待ち望む必要はなく、われわれはすでに聖い神の霊を信ずる者としていただいています。心の目で主なる神の事実を見て、そこから湧き出る「信仰」が大切です。すでにイエス様が高められ、われわれの上に御霊をお注ぎくださったことを心の目で見るなら、私たちはこのすばらしい賜物を感謝しないではいられません。御霊を受けるために必要な条件が使徒行伝の2章38節に書いてありますね。2章38節。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
二つの条件と、それにともない二つの賜物について書かれています。二つの条件とは「悔い改め」と「洗礼」すなわち信仰の証(です)。二つの賜物は「赦し」と「聖霊」です。
「悔い改め」とはどういうことかと言いますと、一口で言いますと、趣味が変わる、全く変わるということです。以前には罪を愛していたけれど、今はそれを嫌うようになった。以前にはこの世は自分にとって魅力だった、しかし今はこの世の快楽は自分の費(ひ)ではない。以前にはイエス様のものとなるということが恐れであった。けど今はイエス様のものであるということが無上の喜びです。以前はあれこれを努力して自分のものとしようとしたが、今は追い求めるのはイエス様だけです。以前には恥としまた軽べつしていたものが一番尊いものとなったのです。このように全く趣味の変化を経験した者が、はじめてまことの悔い改めをした者と言うことができるのです。
二番目の条件とはこの箇所を見ると「洗礼」です。洗礼は心の信仰のあらわれであり、一つの告白です。一つの証です。イエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえらされたことを信ずる者は洗礼を受けることを求めます。この箇所を見ると、罪の赦しと聖霊の賜物を受ける条件が、これまで述べた悔い改めと洗礼であることをはっきり言っています。私たちは悔い改めてほかの人に信仰告白したことがあるのでしょうか。もしそうなら、罪の赦しと御霊の賜物をいただいているのです。罪の赦しは受けているが、二番目の賜物である御霊は受けていないと言うかもしれないけれど、聖書は、「悔い改め」と「洗礼」すなわち信仰の告白という二つの条件を満たすと、それにともなって、必ず二つの賜物が与えられるとはっきり言っています。
もしかすると今日まで罪の赦しというひとつの賜物だけを考えて感謝したかも知れません。けれどそれだけでは結局十分ではない。
イエス様は高く引き上げられた方です。父の右に座しておられるお方です。コリント第一の手紙3章の16節、293頁になりますが、3章16節。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
このコリントの信者たちは御霊の現われを重んじて異言や奇跡を追い求めていましたが、主のものとしての実際生活は実に乱れていました。御霊の力が彼らの上に働いていたが、彼らの内に全く働きをなすことができませんでした。これがコリントの信者の実情でした。彼らはもちろん聖霊を受けたが成長していなかったのです。主のものとなった兄弟姉妹は神の宮であり、御霊が内に宿っているという知識は今日の主のものにもどうしても必要なことです。御霊によって、主なる神はご自身われわれの内に住むようになったのです。もしも御霊が確かにわれわれの心に宿っておられるなら、父ならびに御子イエス様は私たちの内に宿っておられます。これは単なる理論ではなく確かな事実です。想像できないけれどほんとうなんです。
もう一つ言えます。われわれの持っている宝はわれわれの歩みを定めるのではないでしょうか。一つの問題があります。いったいどうして聖霊の力を体験することができないのでしょうか。それは内に住んでおられる内住の御霊を恐れ畏(かしこ)んでいないからです。いったいどうして多くの人々の間にはそんなに差があるのでしょうか。ある兄弟姉妹は勝利の生活を送り、ある兄弟姉妹はいつも打ちのめされています。主の御臨在の多い少ないがその結果をもたらすのでしょうか。決してそうではありません。すべての主のものとなった兄弟姉妹の内に御霊を宿しています。内住の主を心の目で見ると生活の内容が全く変わっています。ある兄弟姉妹は御霊の支配に自分をゆだね、ある兄弟姉妹は自分が自分の主となっている。これは大変な問題です。
われわれが、私たち自身は主のものですという事実を認め、主にあって喜ぶことができれば、ほんとうに幸せなのではないでしょうか。