今日※は聖霊降臨祭、ペンテコステです。確かに日本のカレンダーには書いていないかもしれないが、外国のカレンダーでは必ず書いています。もちろん今日だけでなく、明日も必ずどこでも休みです。アイドリンゲンでも今日は8000人以上の若い人々が集まるようになりましたし、前に入っていた団体リーベンゼラー・ミッションでも恐らく8000人くらい集まるようになるのではないでしょうか、と思います。
御霊が来られた、約束どうりに。イエス様は「わたしがあなたがたから離れたのは、あなたがたにとってしあわせです、御霊を送るからです」(と言われました)
けれども、「御霊」とはいったいどのようなお方なのでしょうか。
今より百数十年前の地図を見ると、アジア・アフリカ・オーストラリアの一部分は白いままで残されており、地図の傍注にはまだこの地方は調べ尽くされていないと、書かれており、河川も実線で示されておらず、点線で示されていました。また地図によっては都市の所在地もまちまちという有様でした。イエス様を信ずる兄弟姉妹の経験におきましても、その地図のように白いままで残されている未知の世界があるのではないでしょうか。とりわけ御霊についての知識に乏しい人が多いのではないでしょうか。
今読んでくださった箇所を見るとわかります。エペソの信者たちがやはりそうだった。もう一回読みましょうか。使徒行伝19章1節から
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。
とあります。パウロが彼らに、「信者になったとき、あなたがたは御霊を受けたのか」と聞いたとき、彼らは御霊なるものがあることさえ聞いたことがなかった、とあります。御霊の世界はエペソの信ずる者たちにとって、結局、未知の世界でした。父なる神のことはよく知っていて、主なる神は全宇宙の創造者であり、われわれの父であり、全能にして愛に満ちておられるお方であると、心から言うことができました。またイエス様のことも身近に覚えて、イエス様はわれわれの救い主であり、私たちの持てるただ一つの富です、と言うことができたんですけど、御霊は尋ねられますと、御霊についての知識は持っていても、実際には不確かなぼんやりしたものにしか感じていないようです。
御霊と私たちの間の関係はわれわれの霊的生活、霊的信仰に欠くことのできない関係です。 新約聖書によると初代教会の兄弟姉妹にとっては御霊はほんとうに現実的なお方だったことがわかります。初代教会の兄弟姉妹は「御霊」に教えられ、「御霊」に満たされ、「御霊」に導かれたのです。彼らが御霊に語りかけられたということは使徒行伝に書かれています。たとえば、8章29節
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
御霊が言われた。10章19節。
ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
結局、御霊が言われた、とあります。13章の2節
彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
結局、聖霊は話された、命令した、とあります。それだけではなく、初代教会の兄弟姉妹が、御霊に満たされたということは、やっぱり使徒行伝をとおして知ることができます。2章の4節
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
4章31節。
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
13章52節
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
と、あります。初代教会の兄弟姉妹が、聖霊によって導かれたということも使徒行伝をとおして知ることができます。15章の28節。
聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
云々とあります。もう一ヵ所。16章の6節。
それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
と、あります。
各集会に親しく臨在なさる御霊は、まだ主を信じない者にとっては非常な恐れを抱かせ、すでに救いにあずかっている人々には勝利と喜びを無限に与えたのでした。
旧約聖書においては、御霊を内に宿していた人々はちょっと少なかったようです。限られていました。すなわち、主に特別に選び取られた祭司たち、王たち、士師、預言者たちだけだったんです。新約聖書の今では、聖霊の賜物はすべての救われた人々が持つことのできる特権です。神の友であるモーセ、神のみこころにかなったダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨んだと同じ御霊が今日信ずる一人一人に内住しておられます。御霊の賜物により、現代のすべてのほんとうのキリスト者は、旧約聖書において、主に特別に選び別たれた主の器と同じ水準に、立場に置かれています。ローマ書5章の5節。よく知っているすばらしい箇所です。5章5節。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた(過去形ね)聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
8章、同じくローマ書8章9節。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
われわれに与えられるすべての賜物は、キリストにあって私たちに与えられます。
(※6月8日、この日曜日に吉祥寺集会で語られたベック兄のメッセージの聞き書きである。)
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