2014年9月29日月曜日

天城山荘

「いらっしゃいませ」 玄関口にある飾り 東京Kさん宅
土曜日、日曜日と静岡県天城山に出かけた。一泊二日の聖書を土台にした「喜びの集い」に出席するためであった。言い出しっぺは家内であった。結婚する前、私がイエス様を信じていない時に、何とか信仰を持ってもらいたい一心で、天城山荘で持たれたある教派の教会主催の集会に彼女が私を誘って参加するためであった。結婚前、彼女は関西、私は関東にいた。だからどこかで待ち合わせて天城山荘まで出かけたことと思う。

その集いの時に、私はもっぱら彼女のあとをついて行くばかりで、他の人とはしゃべろうとはせず、ましてや信仰を持っていない人々のための集まり(「初心者クラス」と教会用語で言ったが、そのようなクラス)には絶対参加しないと言い張るし、信仰は持っていないのに、彼女と同じ信者の集まりに参加すると言うので大弱りであったと追憶談よろしく聞かされた。そう言われてみると、そういう時もあったっけ、とこちらはすまし顔を決め込むしかなかった。

ところが、面白いことにそんなに事柄を鮮明に覚えている彼女もどのようにして落ち合って、どこから天城山荘へ向かったか記憶がないようだった。せめて今回のコース、三島駅からバスで天城山に入った道路や風景に遭遇すればきっと思い出せると期待して出かけた。ところが途中どころか、会場に着いても二人とも確と思い出せないのだ。そんな一世一代の思いで出かけたのに、こんなに簡単に忘れるものかとしばし暗然とせざるを得なかった。

ところが、ところが、である。大チャペルと称する会堂に入った途端、私に鮮明にその時のことがよみがえってきた。真ん中の高い演壇に一人の牧師が立ち、そのまわりに三、四人のこれまた牧師が立ち、会場に入る私たちに向かって語り出した(それは私と同年代と思われる若い20代の牧師が紹介され、それぞれの牧師がその抱負を語ったものだった)その時の「熱気」のようなものを思い出したのだ。1968年か、1969年のことだと思うから、今から45、6年前のことだ。念のため彼女に確かめると、彼女もそうだと言う。それ以外のことは二人とも思い出せなかった。

その会堂を使って、土曜日の午後から日曜日の朝まで都合三回の集いがあった。集いの特徴は45、6年前の、「人間的な熱情」に浮かされた雰囲気とまるでちがうことに気づかされた。それは極めて「静かな」集いであった。参加者は200名程度であったろうか。そこに人間的熱情に燃えた持ち主がいなかったわけではない。けれどもそれは大勢とはならなかった。私はそのことの不思議さに圧倒される思いであった。

それは極言した言い方になるかもしれないが、45、6年前の集いには、人間的なカオスの感情がキリストを利用して渦巻いていた教会の集いでなかったのかという思いがするからである(私はその時信仰を持っていなかったが、その次の年には信仰が与えられた。そしてその若い牧師とともに教会の成長のために懸命に働いた。しかし今や残念なことにそれらの牧師は皆バラバラになっている、当の私は「キリスト教会」を出て、キリストのからだとしての教会を大切にする「集会」に導かれた)。

それにくらべて、今回私が敢えて「静かな」集いというのは、参加者一人一人が主イエス様に自己のあり方を問うて互いに行動し、お互いの自由を尊重する集いだと受けとめられたからである。だから集会後、楽しく団欒する人もいれば、疲れて眠る人もいる。お風呂に入る人もいる。人々の活動が人間の思いで一色に染められることがなく、信仰を持つ者も持たない者も各自が自己の責任において行動するいう自由さ、闊達さに満ちていたのでないか。

その主たる原因は日曜日に語られたメッセージにあるのではないかと私は思う。そこには人間(的熱情)に焦点が当てられているのでなく、あくまでも人間の罪をあがなわれた主イエス様が中心とされているからである。次回から、何回かに分けて、そのメッセージの聞き書きを載せたい。その前に、「静けさ」にちなんだ聖句を掲げておく。

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。(イザヤ書30・15)

2014年9月17日水曜日

板につかない我らが信仰、されど我らが日々

今日は家庭集会であった。敬愛する主イエス様を信ずるお二人の方がメッセージ・証をしてくださった。それぞれ遠方からお出で願った。もちろん、やはり遠くから聖書のみことばを求めて人々は集まってくださる。会の終了後、一人の友をお見舞いした。日曜日胆管炎のため急遽入院されたからである。この方も本来なら、今日の家庭集会に来られる予定であったからである。

病院は真っ暗な闇の中にひっそりと沈んでいるようだった。病室内に滑り込むようにして入った。哀れであった。友人はベッドに眠り込んでいるようであった。起こすのも悪いのでしばらくじっとしていた。そのうち、看護師さんに様子をお聞きして、「夕食が終わったばかりです、起こして大丈夫ですよ」と言われたので、声をかけた。

半睡の状態だった。睡眠薬の投与を受けておられる感じもしたが、半目を開けた彼に、以前いただいていた北海道の風景(?)を大写しにしたものを下地にしたみことばの絵を見せた。友人は半目を開けた状態で顔をくしゃくしゃにするかのように泣いた。このところ何回かその友人は私との交わりで泣かれることがあるので、そんなにはびっくりはしなかったが、友人は何を思って泣いておられるのか想像できなかった。きっとその風景を見て何かを思い出されたのだろう。問い質すことも慮(おもんぱか)られた。

思わず、祈りましょうと言って、友人の手を取った。友人は目をつむったまま、私のあとにオーム返しに祈られた。「愛するイエス様、病院に入院してしまいました。少しでもよくしてください、どうぞよろしくお願いします。主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

祈り終え、後ろ髪を引かれるように、病室をそっと出て、暗闇の中を自転車でひた走りに走った。再びその友人を想うて、あわれであわれで仕方なかったからである。それにしても私の祈りって何なのだ、もっとましな祈り方があったのでないかと自問自答しながら家に帰った。

早速、友人の様子とその祈りについて家内に話した。家内もその祈りの貧弱さに同感であった。昼間、メッセンジャーはみことばをもって主イエス様とともに味わう幸い、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を負って来るでしょう」(詩篇23・6)と語ってくださり、証者は証者でその真摯なひたむきな求道の思いが主に受け入れらている幸いを感謝されていたと言うのに・・・。いざ、目の前に瀕死の思いでいるこの友人にその程度の祈りしか出来なかった己が信仰の腑甲斐なさを思い知らされた。

それだけでない。今日の恒例の看板聖句は上掲のものであった。このみことばそのものは今整理中の一連の小林儀八郎さんの1944年8月10日の手紙に記されていた、マニラ行きを目前に、新妻に今後の一切を託して書いた文章の中にあったことばである。

「今度は何時帰れるか判らず、しかも一人で一切やって貰わなくてはならぬ。宅渡金は精一杯らしいから此の内で、不時の費用も一切やって行くつもりでいて下さい。考えるとなかなか大変ではあるが、クヨクヨ考えても「思い煩いて身の丈一尺を加え得んや」です。

そのみことばがどうしても頭から離れず、いつもは新改訳で清書する看板聖句も今日は文語訳で書かせていただいた。それなのに、私の祈りったら、何だと思った。さらに20有余年前のことを思い出させられた。私は宇都宮に癌末期の若い病友を訪ねた。その時、その病友にこのみことばを読んで差し上げた。ところがそれまでがっくり来ていたその病友はやおら布団をはねのけ正座し、彼は私に祈るかのように言ったのだ。

「ああ、私は何と罪深いものでしょう。何でも出来る神様に信頼しないなんて。ごめんなさい。あなたにすべてをお任せします。愛するイエス様。」

それから数日してその友は召された。友は再び苦しんだと聞くが、葬儀は主にある聖書にもとづく葬儀となった。今もその病室の光景が脳裏に焼きついて離れないである。私は今自分を責めると同時に、全能の御手に完全に病友をゆだね、赤子のように信頼して、友のために祈り続けたいと新たに思わされている。

2014年9月11日木曜日

昭和天皇実録

花魁草 (御代田Sさんの別荘 2014.8.9)
『昭和天皇実録』が9月9日付けで公表された。私は東京新聞の購読者で、その見出しは「開戦回避できず苦悩」と連日の東京新聞の姿勢〈集団的自衛権に異議を唱える〉を裏打ちするものであった。一面に明治学院の原武史さんのコメントが載っていたが、その内容を見て、「あれっ、そんなこともあるんだ」と思い、本当なのかと考えざるを得なかった。それはコメントの最後の部分であった。同氏は次のように言ったと東京新聞は書いている。

A級戦犯が処刑された48(昭和23)年ごろには昭和天皇の精神的危機が最も高まったが、この時期、数多くのキリスト教徒と接近し、定期的に聖書の講義も受けていることが確認できる。良心の呵責(かしゃく)にさいなまれる一方、退位して責任を取ることもできず、救いを求めて改宗を考えていたとも解釈できる。

私にとって「定期的に聖書の講義も受けていることが確認できる」と言われていることが全く初耳で、自分の耳を疑った。それで図書館に行って他紙の報道を確かめることになった。確かめている過程で、中々どうして各社とも今日の記事は横並びでなく、それぞれが社の命運をかけて報道しているように見えて頼もしかった。そして朝日が三人の鼎談記事という中で天皇と「キリスト教との関係」という形で触れていることもわかった。

三笠宮が聖書にくわしいのは知っていたが、天皇に聖書の講義がなされていたと正面切って言われて見て、はじめて戦後のその皇室や政権中枢部をめぐる部署にキリスト者が今とは想像できないほど深く関わっていたことを思い出すことができて、最初の違和感はなくなり、今後そう言う視点でも、昭和天皇の事跡を見て行きたいと思わされた。

ただ問題は実録と典拠のちがいだ。再び原氏のコメントをお借りする。

実録と典拠を比べると、ニュアンスが違うケースがある。例えば原典には、退位をめぐる昭和天皇の思いが描かれているのに、実録では中立的な書き方になっている。天皇の戦争責任を感じさせないようにしたのだろう。

どうして、このようになるのだろう。天皇がお気の毒になる。ありのままの天皇の思いが「象徴天皇制」の名の下でその人間性が吐露されにくいシステムになっているからである。私は象徴天皇制より強化された天皇制に賛成ではないが、これが日本政治をある意味で曖昧にすることの元凶かもしれないと思わされた。

聖書の民は一貫して、王であろうと市井の者であろうと罪は罪と認めて、まことの神に謝罪、悔い改めの道が用意されていることを知っている。

ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。・・・ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。(2サムエル12・7〜9、13)

2014年9月5日金曜日

いちじくの味わい

「姉さんは、幸せ者だ」と私の母は私に良く言っていた。それは母の義兄がいつも姉のことを褒めていたからである。母の言外には、私もそんな家庭を持ちたかった、それにくらべてお父さんは私のことを大切にしてくれないと言わんばかりであった。北海道で米屋さんを営む家に嫁ぎ、そこでは男衆がいて、何不自由もない生活を送っていたようだ。ところが、その最愛の夫を戦争で失くし、それまで留守宅であった内地の婚家先に帰り、古い家を壊して家を新築した。昭和15年(1940年)のことである。そして婚家先の家系が途絶えないようにと養子を迎えた。その間に生まれたのが私である。母は再婚であったが、父は職業軍人で初婚であった。二人は中々の恋愛結婚だったと聞いている。

その母が冒頭のようなぼやきを息子の私に漏らすのだった。それは、誰しもが苦労した戦後のタケノコ生活であったが、母は母で慣れない先祖伝来の田圃の耕作に勤しまざるを得ず、良くやるねと周囲の人から言われたが体を酷使した。そのためか神経痛を患い、片足はびっこで、びっこを引きながら、戦後職業転換をしなければならなかった夫の安月給と家計をにらみ母は懸命の農作業を続けた。その上、小地主であったが小作人との関係がうまく行かず、人知れず悩んだ。勢い夫に対する不満が内訌し、時にはそれがきっかけで夫婦喧嘩が始まることがあった。ひとり息子の私はオロオロするばかりであった。

そんな両親を前にして、自分は絶対円満な家庭を持ちたいと思っていた。両親はそれぞれ懸命に生きていたから、今となっては申し分のない教育を私に施してくれたことがわかるし、夫婦としても特段悪い夫婦関係とは思えぬが、若気の至りと言うか、当時両親は私にとって家庭建設の反面教師になった感があった。

そのような私にとって母の死は大きかった。それだけでなく、父の再婚は私が勧めたものだったが、それはそれでまた新たなやっかいな問題を招いてしまった。運命を呪う気持ちだった。もちろん合理論者としてそれを乗り越えようとした。そのような時に一人の女性を通してイエス・キリストの十字架による罪の赦しを知った。その彼女と結婚した。今の家内である。この家内は何をおいても私を立ててくれる。

昨日、食卓に小さな小ぶりのいちじくがのっかっていた。ほとんど皮は厚くなく、はがすのも面倒だった。そのいちじくを家内が皮を丁寧に剥がし、私に食べてみろと勧める。一口、口に食む。とろけるような甘さと触覚だった。とてもひとりで食べるにはもったいない。半分っこにしようと家内に差し出した。家内はいい(いらない)と言う。どうして?食べればいいのに、と言ったら、「私は今まで十分食べて来たからいい、あなたに最高のものをあげたいのよ」とサラリと言った。

これが彼女の結婚以来の生き方だと思った。どんな出来の悪い亭主でも立てることを心得ている。唯一例外はイエス・キリストに私が従わないときは、私を立てることはしない。前日の夜の家庭集会でベック兄は家庭を第一にする者は、主イエス様を第一にはしない、しかし、主イエス様を第一にする者は家庭をもっとも大切にすると言われた。家庭円満の秘訣は主イエスを家族の中心に迎えることである。運命だと呪った私に素晴らしい主の祝福ある家庭が与えられている。

40年前(1974年)の今日、家内と早朝、団地の芝生の上を急ぎ足で産院へと急いだ。出勤前にはもう生まれていたのではないか。私たちにとっての初めての女の子であった。ためらわず、私は「結実子」と命名した。「結実子」は入学以来、教室で自分の名前が正しく読んでもらえないので悩んだようだが、今ではすっかり自分の名前が気に入っているのではないか(※)。1980年に『実を結ぶいのち』という一冊の本が出版された。まさしく「結実子」の本であった。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1・13)

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15・5) 

(※と、書いたら当の本人から、そんなこと〈悩んだ〉はない、むしろ誇りこそ覚えたくらいで、自分の名前が最初から好きで今も大好きだ、ありがとうと言う旨のメールがあった。「ハハー、ノンキだね」とは幾つになっても抜けていてお目出度い当方のことにちがいない。)