100年目の近江鉄道高宮駅(手前から奥へ、一番二番三番ホームと続く) |
主のことばは主ご自身を啓示するのです。みことばを食べることはいのちを得ることを意味します。生けるみことばがわれわれのうちに入るなら、その必然的な結果としていのちがやって来ます。理解力をもってしては決していのちは訪れて参りません。もし、聖書が私たちにとって単なる掟であり、単なる真理であるならば、それはわれわれにとって重荷であり、不自由なものです。けれども、いのちならば自由と喜びをもたらすのです。
もう一回言いましょうか。聖書は学問のために書かれたものではない、新しい真理を打ち立てるために書かれたものでもありません。聖書は主の呼吸、すなわち主なる神の息です。すなわち主なる神は、ご自身をこのみことばによって、みことばで包んで、みことばにご自身をふくんで、あらわされているのですから、私たちはそのみことばを、イエス様を、いのちのパンとして受け入れ、食べなければなりません。古い聖書の読み方を捨てなければなりません。何かある先入観をもって聖書に接することをやめ、イエス様ご自身を、すなわちいのちのパンを食べるように、心がけなければいけない。食べるなら味がするはずです。
何年か前に、私たちはとってもすばらしい支那料理を食べたことがあります。今まで食べたことのない料理が次から次へとたくさん出てきましたが、私はどんな味がするのかと隣の人に聞くようにしませんでした。すぐそれをちょうだいしました。あれやこれを理解したり、他の人に訊ねてみたり、聖書の註解書を見たりする必要はない。ただ、いのちのパンを食べ、満腹することはたいせつです。心の目がいったん開かれるなら、真理を理解することなど問題ではなくなります。ただ、自分が主のみこころに叶っているかどうか、また、いかにしてみことばによって満腹するかどうかだけが問題になります。満腹させないものは役に立たない。そのようなものはすべて(捨て)、満腹させるいのちのパンとイエス様ご自身を食べましょう。食べたら消化して、その結果、力があたえられるのです。食べるなら、それは体の一部分となり、そうすることによって、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて参ります。
一日の静慮の時をこのいのちのことばを食べるために用いましょうか。
前に誰が書いたのかわからないけれど、「ある聖書の日記 」と言う本題なのです。聖書は話します。
1月15日 静かな一週間を過ごした。新年の数日間の晩、私の持ち主は私を規則正しく読んだ。しかし、今は私を忘れているらしい。
2月2日 今日整頓されて、ほかのものと一緒にほこりを払われた。そして元の場所に戻された。
2月8日 持ち主が朝飯を終わってから少しの間用いられた。持ち主は二三ヵ所読んだ。持ち主と一緒に教会へ行った。(今度)
3月7日 整頓され、ほこり払われ、もとの場所へ置かれた。教会に行ってから玄関に置きっ放しになっていたから、(今度)
4月2日 今日、私は忙しかった。持ち主は司会をやったので、私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所になるのに、その聖句を長い間持ち主は見つけることができなかった。(今度)
5月5日 午後一杯、おばあちゃんのひざの上にいた。おばあちゃんは僕を訪ねたのだ。コロサイ書2章5節から7節を読んでおばあちゃんは涙を流した。
5月9日 今、毎日午後おばあちゃんのひざの上にいる。私はそこを居心地の良く感ずる。おばあちゃんはしばしば読み、私に語りかける。
5月10日 おばあちゃんは出かけた。私はもとの場所に戻された。お別れの時に接吻してもらった。
6月3日 今日誰かが私の頁の間にクローバーの葉を二三枚挿んだ。
7月1日 着物や他のものと一緒にトランクに詰められた。休みにどこかへ出かけるらしい。
7月7日 まだトランクの中にいる。
7月10日 ほかのものはほとんど皆取り出されたのに、私はまだトランクの中にいる。
7月14日 再び家に帰ってもとの場所にいる。かなり長い旅行だった。しかし私は読まれなかったなのに、なぜ一緒に行かなければならなかったのか、理解に苦しむ。
8月1日 ひどく息苦しく暑い。二冊の雑誌と小説が一冊、それに古い帽子が私の上に乗っかっている。取り除かれば、うれしいのだがなあー
9月5日 整頓され、ほこりを払われキチンと納めた。
9月10日 今日、花子が私を少しの間使った。花子はお兄さんを亡くした友だちに手紙を書いた。それで適当な聖句を用いたのだ。
9月30日 またほこりが払われた。
まあ、霊的いのちにも食べ物が必要です。この霊的な食べ物を私たちはいったいどこで見つけるのでしょうか。聖書、すなわち主なる神のみことばの中に見つけるのです。聖書はイエス様の啓示そのものであります。そして、イエス様こそがわれわれの渇ける魂にとっていのちの糧です。みことばを読んで深く考えて心にとどめましょう。イエス様を知る者として経験する難しい問題の99パーセントは聖書を読まないからです。聖書を読まない怠慢と言う罪を主に告白しましょう。もし私たちが飢え渇きをもって聖書に接しなければ、またみことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからと言って不思議ではありません。みことばを読まない罪を言い表わすなら、主はわれわれにみことばに対する飢え渇きを新しく与えてくださり、また主が新しい御声をもって語りかけてくださるのです。申命記の17章の19節を見ると、次のように書かれています。旧約聖書の306頁になります。
自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。
もう少し後になります。338頁です。ヨシュア記の1章8節です。
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。
最後にもう一ヵ所読みます。今度は詩篇の119篇です。全部じゃないよ、72節。
あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
97節。
どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。
140節
あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。
われわれもダビデのような態度を取ることができれば祝福されます。
(何年か前、この話をしておられるベック兄と一緒にスイスの山並みを前にした時のことを思い出す。私ともう一人は一生懸命になって、説明ガイドに首っ引きになって、アルプスの山と説明ガイドを交互に見ることに熱中し、いつの間にか周囲の皆さんの歓声をよそに血眼になってガイドを二人して覗き込んでいた。その様子をそばで見ておられたのであろう、ベック兄は笑いながら私たちに「(目の前に)アルプスがあるのに 」と言われた。その一瞬私たちも自らの愚かさにハッと気づきベック兄とともに大笑いしたことだった。ユーモアを常に絶やさないベック兄だが、何となく支那料理云々の話と共通するので、あえて書いてみた。)