2014年11月5日水曜日

あなたのみことばは真理です(下)

100年目の近江鉄道高宮駅(手前から奥へ、一番二番三番ホームと続く)

 主のことばは主ご自身を啓示するのです。みことばを食べることはいのちを得ることを意味します。生けるみことばがわれわれのうちに入るなら、その必然的な結果としていのちがやって来ます。理解力をもってしては決していのちは訪れて参りません。もし、聖書が私たちにとって単なる掟であり、単なる真理であるならば、それはわれわれにとって重荷であり、不自由なものです。けれども、いのちならば自由と喜びをもたらすのです。

 もう一回言いましょうか。聖書は学問のために書かれたものではない、新しい真理を打ち立てるために書かれたものでもありません。聖書は主の呼吸、すなわち主なる神の息です。すなわち主なる神は、ご自身をこのみことばによって、みことばで包んで、みことばにご自身をふくんで、あらわされているのですから、私たちはそのみことばを、イエス様を、いのちのパンとして受け入れ、食べなければなりません。古い聖書の読み方を捨てなければなりません。何かある先入観をもって聖書に接することをやめ、イエス様ご自身を、すなわちいのちのパンを食べるように、心がけなければいけない。食べるなら味がするはずです。

 何年か前に、私たちはとってもすばらしい支那料理を食べたことがあります。今まで食べたことのない料理が次から次へとたくさん出てきましたが、私はどんな味がするのかと隣の人に聞くようにしませんでした。すぐそれをちょうだいしました。あれやこれを理解したり、他の人に訊ねてみたり、聖書の註解書を見たりする必要はない。ただ、いのちのパンを食べ、満腹することはたいせつです。心の目がいったん開かれるなら、真理を理解することなど問題ではなくなります。ただ、自分が主のみこころに叶っているかどうか、また、いかにしてみことばによって満腹するかどうかだけが問題になります。満腹させないものは役に立たない。そのようなものはすべて(捨て)、満腹させるいのちのパンとイエス様ご自身を食べましょう。食べたら消化して、その結果、力があたえられるのです。食べるなら、それは体の一部分となり、そうすることによって、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて参ります。

一日の静慮の時をこのいのちのことばを食べるために用いましょうか。

 前に誰が書いたのかわからないけれど、「ある聖書の日記 」と言う本題なのです。聖書は話します。

1月15日 静かな一週間を過ごした。新年の数日間の晩、私の持ち主は私を規則正しく読んだ。しかし、今は私を忘れているらしい。
2月2日 今日整頓されて、ほかのものと一緒にほこりを払われた。そして元の場所に戻された。
2月8日 持ち主が朝飯を終わってから少しの間用いられた。持ち主は二三ヵ所読んだ。持ち主と一緒に教会へ行った。(今度)
3月7日 整頓され、ほこり払われ、もとの場所へ置かれた。教会に行ってから玄関に置きっ放しになっていたから、(今度)
4月2日 今日、私は忙しかった。持ち主は司会をやったので、私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所になるのに、その聖句を長い間持ち主は見つけることができなかった。(今度)
5月5日 午後一杯、おばあちゃんのひざの上にいた。おばあちゃんは僕を訪ねたのだ。コロサイ書2章5節から7節を読んでおばあちゃんは涙を流した。
5月9日 今、毎日午後おばあちゃんのひざの上にいる。私はそこを居心地の良く感ずる。おばあちゃんはしばしば読み、私に語りかける。
5月10日 おばあちゃんは出かけた。私はもとの場所に戻された。お別れの時に接吻してもらった。
6月3日 今日誰かが私の頁の間にクローバーの葉を二三枚挿んだ。
7月1日 着物や他のものと一緒にトランクに詰められた。休みにどこかへ出かけるらしい。
7月7日 まだトランクの中にいる。
7月10日 ほかのものはほとんど皆取り出されたのに、私はまだトランクの中にいる。
7月14日 再び家に帰ってもとの場所にいる。かなり長い旅行だった。しかし私は読まれなかったなのに、なぜ一緒に行かなければならなかったのか、理解に苦しむ。
8月1日 ひどく息苦しく暑い。二冊の雑誌と小説が一冊、それに古い帽子が私の上に乗っかっている。取り除かれば、うれしいのだがなあー
9月5日 整頓され、ほこりを払われキチンと納めた。
9月10日 今日、花子が私を少しの間使った。花子はお兄さんを亡くした友だちに手紙を書いた。それで適当な聖句を用いたのだ。
9月30日 またほこりが払われた。

 まあ、霊的いのちにも食べ物が必要です。この霊的な食べ物を私たちはいったいどこで見つけるのでしょうか。聖書、すなわち主なる神のみことばの中に見つけるのです。聖書はイエス様の啓示そのものであります。そして、イエス様こそがわれわれの渇ける魂にとっていのちの糧です。みことばを読んで深く考えて心にとどめましょう。イエス様を知る者として経験する難しい問題の99パーセントは聖書を読まないからです。聖書を読まない怠慢と言う罪を主に告白しましょう。もし私たちが飢え渇きをもって聖書に接しなければ、またみことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからと言って不思議ではありません。みことばを読まない罪を言い表わすなら、主はわれわれにみことばに対する飢え渇きを新しく与えてくださり、また主が新しい御声をもって語りかけてくださるのです。申命記の17章の19節を見ると、次のように書かれています。旧約聖書の306頁になります。

自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

もう少し後になります。338頁です。ヨシュア記の1章8節です。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。

最後にもう一ヵ所読みます。今度は詩篇の119篇です。全部じゃないよ、72節。

あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

97節。

どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

140節

あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

われわれもダビデのような態度を取ることができれば祝福されます。

(何年か前、この話をしておられるベック兄と一緒にスイスの山並みを前にした時のことを思い出す。私ともう一人は一生懸命になって、説明ガイドに首っ引きになって、アルプスの山と説明ガイドを交互に見ることに熱中し、いつの間にか周囲の皆さんの歓声をよそに血眼になってガイドを二人して覗き込んでいた。その様子をそばで見ておられたのであろう、ベック兄は笑いながら私たちに「(目の前に)アルプスがあるのに 」と言われた。その一瞬私たちも自らの愚かさにハッと気づきベック兄とともに大笑いしたことだった。ユーモアを常に絶やさないベック兄だが、何となく支那料理云々の話と共通するので、あえて書いてみた。)

2014年11月4日火曜日

あなたのみことばは真理です(中)

喜びの集い会場にかかげられた三枚のみことばの一つ

 主のみことばを聞き、それに従う者はロマ書10章の17節のみことばを体験できます。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

とあります。聖書に書かれていることがらを絶対的な権威を持った神のみことばとして受け入れ、それに耳を傾けない者は、決して生き生きとした信仰を持ち得ないのです。聖書は確かに世界のいわゆるベストセラーですけれど、聖書を読むことによって、教養を身につけ、足りないところを補っていこうとするのでしょうか。それとも、別にはっきりとした目標を持たずに、気の向くままにあっちを読んだりこっちを読んだりすれば良いのでしょうか。決してそうではありません。みことばを読む場合、ほんとうの目的はイエス様を体験的に知り、イエス様に出会い、そしてイエス様を受け入れること、また主イエス様をより良く知ることであるべきです。

 イエス様は言いました、告白として。わたしはいのちのパンです。それだけじゃなくて、わたしを食べる者は永遠に生きる、と言われたのです。ヨハネ伝6章51節、54節です。

パンは見て驚くために博物館の中に飾られているものではありませんし、またそうしても良いものではありません。食べなければ何の価値もないものです。イエス様を信ずる兄弟姉妹の霊的ないのちは、このいのちのパンを食べる量りにしたがって、程度にしたがって成長して参ります。いのちのパンであるイエス様ご自身がわれわれの食べ物とならなければいけませんし、またイエス様ご自身はそうなりたいと思っておられ、願っておられます。

 エレミヤという男は悩んだ男でした。誤解されてしまったし、刑務所に入ってしまったこともあるし、けれども彼は悩みながら元気になった。どうして?エレミヤ記15章16節を見ると次のように書かれています。ほんとうに素晴らしい証です。1166頁ですね。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

エレミヤは何と言いたかったか、と言いますと、「喜ぼうと思えばみことばを食べなさい」みことばは人間にとって最大の宝物です。ダビデもみことばのたいせつさ、すばらしさが分かったから、一番長い詩篇ですけれど、119篇(を書きました)。全部読みません。心配しないで。詩篇119篇の105節だけ。皆さん、暗記している言葉ですけれど。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

162節

私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

 私たちが何かを表現しようとするなら、ことばをもってしなければいけない。もし私(たち)が何も話さないでいるなら、皆さんは私の心の奥底を知ることができないでしょう。いったいどうしたらイエス様をもっと知ることができ、理解することができるのでしょうか。みことばによってです。

 聖書は主なる神のことばです。みことばは主ご自身の啓示そのものです。すなわち、単なる教理 、単なる学説ではなく、主のあらわれ、主の啓示そのものです。だから、聖書を読むことはたいせつですけれど、聖書を研究し、また、いわゆるキリスト教の教えを知るためではなくて、聖書を読むことにより、イエス様を知ること、より親しい交わりを得るために読むべきです。

 誤った聖書の読み方もあるでしょう。ある人は聖書の中の主の愛について書かれたところだけを好きでいつもその箇所だけを見ます。そして、主の愛だけを口にします。また少し謙遜な人は主なる神は柔和であるとの箇所を好んで読み、主の柔和だけを云々します。これに対し、少し激しい気質の人は主の裁きだけを口にするようになります。これは皆自分の考えを入れた聖書を読む結果です。それは、あたかもいろいろな色のセロファン紙を聖書の上に置いて読むようなものです。そのようなことをすれば、聖書がいろいろな色に見えるのは当たり前なことです。その色のセロファン紙を取り除き、すべての考えを除くなら、イエス様はご自分を啓示なさることができます。また理解力を持って聖書を理解しようと思えば、もちろんうまく行きません。パリサイ人たちは、よーく聖書を読んだ学者たちは、結局その読み方をしました。イエス様は彼らに厳しく言われました。ヨハネ伝5章39節。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 聖書の単なる教理が問題ではありません。イエス様ご自身が問題です。なぜなら、イエス様は聖書がわたしについて証言していると言われたがゆえに、たいせつです。わたしのことばは永遠に残るとイエス様は約束してくださいました。聖書を読むことといのちを得ることは一つのことがらであり、決して二つのものではありません。旧約聖書の申命記になりますけれども、次のように書かれています。333頁です。覚えやすい、333です。申命記32章の47節

これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちである(からだ。)

内容としてパウロの愛弟子テモテにも同じことを書いたのです。今度は新約聖書の382頁、テモテ第二の手紙3章の16節。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です

とあります。聖書全体は主なる神の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主なる神の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。だから聖書は主なる神の教えではなくして、主なる神の啓示と言わなければなりません。主のみことばをもって自身をお現わしになりました。主のみことばはわれわれにとっていのちのパンとならなければなりません。なぜなら、聖書は教理や真理の原則を語っているのでなく、いのちのパンそのものであるからです。イエス様は言われました。マタイ伝4章の4節です。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と

イエス様はご自身、わたしがそれによって生きる、自分がいのちのパンとなりたく思っておられる。私たちはイエス様によって生きているなのでしょうか。私たちは主のみことばによって生きているなのでしょうか。ヨハネ伝6章63節を見ると、イエス様はまた次のように言われました。171頁ですね。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

(書は畏友の書である。それぞれ筆も半紙もちがうそうである。明治の三筆の一人と言われる彦根藩士日下部鳴鶴の書を理想とされるようである)

2014年11月3日月曜日

あなたのみことばは真理です(上)

生憎の琵琶湖湖岸風景 2014.11.2朝

 このヨハネ伝17章はすばらしい祈りです(※)。毎日読んでもいいじゃないかなあーと思います。結局「あなたのみことばは真理です」。これはイエス様の確信であり、喜びの源でした。(※註 引用聖句はヨハネ17・1〜17)

 私の悩みの一つは何でしょうかね。まあ、悩んでいない人はいない。信仰があってもなくても人間は悩む者です。私の悩みの一つは、イエス様にとって、からだなる教会はいかに大切なものであるかと分かっていない人は多いということです。

 イエス様の教会とは仲良し会ではない。イエス様は、「わたしはわたしの教会を建てる」と約束してくださいました。どうせ人間はできないからです。けれどもイエス様はその約束を必ず守って下さいます。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信ずる者がこのからだなる教会の大切さを知らないように昼夜攻撃し、めくらにしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えますけれども、この勝利はもちろん本物ではない。偽物です。イエス様はご自分の教会を、自分のからだなる教会を建てる。このからだなる教会とは言うまでもなく、かしらはイエス様です。主のからだなる教会はイエス様にとってすべてです。

 コリント第一の手紙の中で次のような大切な箇所が書かれています。307頁です。コリント第一の手紙12章の27節です。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

と。そうなってもらいたいのでなく、そうなんです。事実(が)述べられています。上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を心の目で見ていることのできる人は幸いです。それによって、すべての疑問、また疑いが飛んで行ってしまいます。今も歌いましたように、「いつまでも、いつまでも、主と生きる」(※)喜び。何があっても、もうちょっと、イエス様は近いうちに来られます。いろいろな問題がある。どうしたらいいかわかりません。けれども、確実なのはイエス様は近いうちに来る、それによって問題はいっぺんに解決されます。(※註 多分、日々の歌182番「よみがえりの朝に」をともに賛美したように記憶する)

 人間の祈りはたいせつです。もっとたいせつなのはイエス様の祈りでしょうね。イエス様は祈りの中で、今の読んでもらいました箇所を読むとわかります。ヨハネ伝17章の17節

(真理によって彼らを聖め別ってください。)あなたのみことばは真理です。

 聖書を学ぶ場合に一番たいせつなことは、次のようなことではないでしょうか。すなわち、聖書自身が自らを明らかにするということです。したがって、みことばを学ぼうとする時には、聖書全体が何を言っているかを正しく理解しなければなりません。たとえば新約聖書の中の福音書、あるいは手紙を学ぼうとする時には、絶えず新約聖書と旧約聖書の関係の中でそのところを読まなければなりません。それですから、聖書の中の一部分を読む場合などには、それが聖書全体の中でどのように位置づけられているかに注意し、そのところだけでなく、ある場合には前の方に遡り、ある場合には後の方を見なければなりません。

 また、みことばを読む目的はたいせつです。単なる知識を得るためではなく、心から真剣に真理を求めて行くという飢え渇きを持つことがたいせつです。聖書は神のみことばですから私たちはみことばを主なる神のみことばとして学び、主のみことばとして素直に受け入れることがたいせつです。

 私は聖書を読んでいる人の絵を四枚持っています。一枚目の絵を見ると、大きな人が小ちゃな聖書を読んでいます。二枚目の絵になると、その大きな人は前よりも少し小ちゃくなり、その代わりに聖書は前よりも少し大きくなりました。三枚目の絵を見ると、その人は前よりもさらに小さくなり、聖書はその人と同じくらいに大きくなっているのです。そして四枚目の絵を見ると、その人は非常に小さくなり、それとは反対に聖書は比較にならない程、大きなものとなりました。

 これからわかることは、始めは自分の考えによって聖書を解釈していた人は、聖書を読むうちに聖書が絶対的な権威を持つに至ったということです。つまりその人は聖書を主なる神のみことばとして真剣に読み、このみことばに耳を傾け注意してきましたからみことばがその人の血となり、肉となり、自分の思いが消えて行ってしまったのです。その結果、みことばがすべてとなり、主イエス様がますます大きくなったということです。

 今日、多くの人はみこころを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、 みことばに対して耳を傾けることをしなくなってしまいました。けれども、正しくみことばを学ぶ時、聖書のみことばこそ絶対的な権威を持たなければなりません。聖書というものは決して研究のためのものではない、それをとおして主なる神ご自身がわれわれに語りかけてくださるみことばです。ですから私たちは注意深く聞かなければなりません。

(日曜日、ラフォーレ琵琶湖で開かれた喜びの集いでベック兄が語られたメッセージの聞き書きである。私は先週の月曜日、電車の中で一人の教会に集っておられる方と初対面だったが一緒になり、私が牧師のいない集会に出席していると言ったら、そのような集会では聖書がそれぞれ思い思いに解釈され、危険ではないかと言われた。私はもちろんその恐れはあるが、御霊なる神様のみことばは不動だから大丈夫だとその方にお話した。それから一週間もせずにこのメッセージに接するとは! 実にタイムリーな主の導きだと思う。主は確かに生きておられる!)