2014年11月4日火曜日

あなたのみことばは真理です(中)

喜びの集い会場にかかげられた三枚のみことばの一つ

 主のみことばを聞き、それに従う者はロマ書10章の17節のみことばを体験できます。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

とあります。聖書に書かれていることがらを絶対的な権威を持った神のみことばとして受け入れ、それに耳を傾けない者は、決して生き生きとした信仰を持ち得ないのです。聖書は確かに世界のいわゆるベストセラーですけれど、聖書を読むことによって、教養を身につけ、足りないところを補っていこうとするのでしょうか。それとも、別にはっきりとした目標を持たずに、気の向くままにあっちを読んだりこっちを読んだりすれば良いのでしょうか。決してそうではありません。みことばを読む場合、ほんとうの目的はイエス様を体験的に知り、イエス様に出会い、そしてイエス様を受け入れること、また主イエス様をより良く知ることであるべきです。

 イエス様は言いました、告白として。わたしはいのちのパンです。それだけじゃなくて、わたしを食べる者は永遠に生きる、と言われたのです。ヨハネ伝6章51節、54節です。

パンは見て驚くために博物館の中に飾られているものではありませんし、またそうしても良いものではありません。食べなければ何の価値もないものです。イエス様を信ずる兄弟姉妹の霊的ないのちは、このいのちのパンを食べる量りにしたがって、程度にしたがって成長して参ります。いのちのパンであるイエス様ご自身がわれわれの食べ物とならなければいけませんし、またイエス様ご自身はそうなりたいと思っておられ、願っておられます。

 エレミヤという男は悩んだ男でした。誤解されてしまったし、刑務所に入ってしまったこともあるし、けれども彼は悩みながら元気になった。どうして?エレミヤ記15章16節を見ると次のように書かれています。ほんとうに素晴らしい証です。1166頁ですね。

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

エレミヤは何と言いたかったか、と言いますと、「喜ぼうと思えばみことばを食べなさい」みことばは人間にとって最大の宝物です。ダビデもみことばのたいせつさ、すばらしさが分かったから、一番長い詩篇ですけれど、119篇(を書きました)。全部読みません。心配しないで。詩篇119篇の105節だけ。皆さん、暗記している言葉ですけれど。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

162節

私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

 私たちが何かを表現しようとするなら、ことばをもってしなければいけない。もし私(たち)が何も話さないでいるなら、皆さんは私の心の奥底を知ることができないでしょう。いったいどうしたらイエス様をもっと知ることができ、理解することができるのでしょうか。みことばによってです。

 聖書は主なる神のことばです。みことばは主ご自身の啓示そのものです。すなわち、単なる教理 、単なる学説ではなく、主のあらわれ、主の啓示そのものです。だから、聖書を読むことはたいせつですけれど、聖書を研究し、また、いわゆるキリスト教の教えを知るためではなくて、聖書を読むことにより、イエス様を知ること、より親しい交わりを得るために読むべきです。

 誤った聖書の読み方もあるでしょう。ある人は聖書の中の主の愛について書かれたところだけを好きでいつもその箇所だけを見ます。そして、主の愛だけを口にします。また少し謙遜な人は主なる神は柔和であるとの箇所を好んで読み、主の柔和だけを云々します。これに対し、少し激しい気質の人は主の裁きだけを口にするようになります。これは皆自分の考えを入れた聖書を読む結果です。それは、あたかもいろいろな色のセロファン紙を聖書の上に置いて読むようなものです。そのようなことをすれば、聖書がいろいろな色に見えるのは当たり前なことです。その色のセロファン紙を取り除き、すべての考えを除くなら、イエス様はご自分を啓示なさることができます。また理解力を持って聖書を理解しようと思えば、もちろんうまく行きません。パリサイ人たちは、よーく聖書を読んだ学者たちは、結局その読み方をしました。イエス様は彼らに厳しく言われました。ヨハネ伝5章39節。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 聖書の単なる教理が問題ではありません。イエス様ご自身が問題です。なぜなら、イエス様は聖書がわたしについて証言していると言われたがゆえに、たいせつです。わたしのことばは永遠に残るとイエス様は約束してくださいました。聖書を読むことといのちを得ることは一つのことがらであり、決して二つのものではありません。旧約聖書の申命記になりますけれども、次のように書かれています。333頁です。覚えやすい、333です。申命記32章の47節

これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちである(からだ。)

内容としてパウロの愛弟子テモテにも同じことを書いたのです。今度は新約聖書の382頁、テモテ第二の手紙3章の16節。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です

とあります。聖書全体は主なる神の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主なる神の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。だから聖書は主なる神の教えではなくして、主なる神の啓示と言わなければなりません。主のみことばをもって自身をお現わしになりました。主のみことばはわれわれにとっていのちのパンとならなければなりません。なぜなら、聖書は教理や真理の原則を語っているのでなく、いのちのパンそのものであるからです。イエス様は言われました。マタイ伝4章の4節です。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と

イエス様はご自身、わたしがそれによって生きる、自分がいのちのパンとなりたく思っておられる。私たちはイエス様によって生きているなのでしょうか。私たちは主のみことばによって生きているなのでしょうか。ヨハネ伝6章63節を見ると、イエス様はまた次のように言われました。171頁ですね。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

(書は畏友の書である。それぞれ筆も半紙もちがうそうである。明治の三筆の一人と言われる彦根藩士日下部鳴鶴の書を理想とされるようである)

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